前回は、高永根による禹範善殺害事件について記した。
再び話を本筋に戻そう。

1907年(明治40年)9月2日付『往電第36号』より。


第17号に関する貴電の趣、委曲敬承。
然るに其の後、当時の事実を取調べたる処に依るに、李斗璜・李範来に命令を下したる時の軍部大臣は、安駉寿にして趙羲淵にあらず。
故に、趙羲淵の特赦を以て之に律すべからず。
併し高永根特赦に関する閣下の御意見は、内大臣を以て言上せしむべきも、若し尚ほ韓皇に於て同意せられざる場合には、李斗璜・李範来をして平理院に自首せしむるか、若くは閣下の御帰任を待ちて解決の事に致すべきか、重ねて御回示を請ふ。



確かに安駉寿は、事件の起きた際の軍部大臣である。
事件の当日の1895年(明治28年)10月8日に、責任をとる形で軍部大臣を辞している。

ここで思い出した事がある。
李泰鎮教授が内田第1次報告書と勝手に名付けた事で知られる(笑)、1895年(明治28年)11月5日付『機密第36号 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件』の一節である。


其関係者は、朝鮮人中にも現軍部大臣趙義淵、訓練隊大隊長禹範善、李斗璜を始め、其他大小の人員数多有之


事件当時軍部大臣ではなかった趙義淵も、関係者として報告されているのである。
つまり、軍部大臣の命令云々はともかく、趙義淵はこの事件に何らかの形で係わっていたのではないだろうか。
では何故趙義淵の特赦は許され、李斗璜・李範来は禹範善のとばっちりを受けたかのように許されなかったのか。
様々憶測は可能であるが、ここでは止めておこう。

純宗

続いて、『往電第36号』と同日付けの『来電第18号』によって、伊藤は自らが帰任してから解決する旨を伝える。

しかしながら、長谷川好道は伊藤の帰任前に内大臣と面会。
1907年(明治40年)9月5日付『往電第38号』より。


昨朝、内大臣を招き貴電第17号の旨を伝へ、此の上は直接陛下に言上する外無之に付き、明日を以て謁見を賜はる様、取計ひありたしと稍強硬に (現状維持に関係なし) 申入れたる処、本日午前兪吉濬以下8名は固より、其の当時の内閣員金宏集外数名も特赦の詔勅、内閣に下れり。


長谷川、強引すぎ。(笑)
この謁見の後韓国政府から詔勅案が出され、それに長谷川が承認を与える形となる。
1907年(明治40年)9月6日付『往電第48号』より。


本日左の詔勅案に対し、承認を与へたり。
詔に曰く、開国五百四年八月の事変は、朕に於て提言するに忍びざる所なり。
然れども実犯は曩に既に戮に就き、余外の諸人は実に犯す所無きを朕は確知せり。
而も尚暗昧の中に在り一、ニ勿問に任ずるに、趙羲淵、兪吉濬、張博、李斗璜、李範来、李軫鎬、趙羲聞、権東鎭等の罪名を、一体蕩滌せり。



趙羲淵、兪吉濬、張博、李軫鎬は露館播遷(俄館播遷)の際に逆賊認定を受け、日本へ亡命。
ちなみに張博は李周會、尹錫禹、朴銑の「裁判宣告書」において、高等裁判所裁判長とされている。
李軫鎬は、李斗璜と同じく元訓練隊大隊長であり、2月11日のエントリーで少しだけ記載した親露派・親米派のクーデター、所謂「春生門事件」において内通し、それを未遂に終わらせた人物である。
趙羲聞はどのような人物か不明。
権東鎮は、後に万歳事件(3.1独立運動)で独立宣言書に名を連ねる事になる人物である。
権東鎮は、「春生門事件」直前に趙羲淵と共に排斥運動を受けた、当時警務使の権濚鎮の誤記の可能性が高い。
李斗璜は閔妃殺害事件の際の訓練隊大隊長、李範来は副隊長。

以上の8名が特赦を受けることとなった。
結局、李斗璜、李範来は禹範善のとばっちりを受けずに済んだのである。
以上で、今回の史料紹介を終わる。
見てきたとおり、閔妃殺害の実犯が禹範善であることを思わせるに、充分な史料があった。

さて、閔妃殺害事件については、角田房子氏の小説「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」によって日本人に虐殺されたというイメージが、日本はおろか韓国にまで広がっている。
小説を信じるのもあまりに愚かな話ではある。

さて、角田房子氏はこの小説の後に「わが祖国―禹博士の運命の種」という、禹範善の息子を題材とした小説を著している。

何かの予防線にしか見えないのは、気のせいですか?


ひとまず(完)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)


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乙未事件(閔妃殺害事件)で、「陛下」が目撃した国母の仇であるとされた禹範善。
彼を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとの『往電第31号』の続きから。

1907年(明治40年)9月1日付『来電第17号』


貴電第31号に関し、本官が李斗璜・李範来を他の六名と共に特赦すべしと主張するは、彼等に命令を下したる時の軍部大臣、趙羲淵すら証拠不充分の廉を以て、特赦の恩典に浴するに拘はらず、彼等にして之に浴せざれば事理一貫せず、聖徳洽ねからざるを慮るに由る。
我が帝国の版図内に於て殺人罪を犯し、我が国法の下に処罰せられたる高永根を特赦するに至りては、必ず我が国法の定むる条件を具備せざるべからず。
決して茫漠たる復仇説・忠臣論を以て、交換的に特赦を為し得べきものにあらず。
何となれば、帝国官憲の高永根を処罰したるは、単に我が国法を犯したるに由るものにして、決して乙未事件を眼中に措きたるものに非ざればなり。
故に本官は、本件に関する陛下の御沙汰に、同意を表するを得ず。



高永根が禹範善を殺害した事件は、広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日に起きた。
その前後の模様は、アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』に見る事が出来る。
それによれば、高永根による殺害前から禹範善の殺害計画があった。
以下、上記一件のうち『1 明治36年9月16日から明治36年12月2日(レファレンスコード:B03030222700)』から見てみよう。

この禹範善殺害計画が漏れたのは、9月16日のようである。
首謀者は尹孝定。
事件の発端は、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」である。【4画像目より】


尹孝定はその後、時の皇太子つまり純宗から令旨(皇太子以下の皇族が発する命令文。皇帝の場合は綸旨)と千円を受け取っている。
但しこの令旨の草案は、尹孝定が作ったものとされる。【手写画像】
しかしながらこの際の計画は、高永根が禹範善に密告したことにより発覚。
そしてこの密告から、禹範善と高永根は付き合うようになったようである。

恐らくは機会を狙っていたのであろう。
11月14日になって魯允明と共に禹範善を殺害する。
尚、高永根は魯允明以外の共犯者、命令者、教唆者は居ないと供述。
一方で、魯允明は皇太子(純宗)から、王妃の復讐を為すべき旨の依嘱を受けた事があったが、今回の事はその依嘱を果たす為ではないとの供述をしている。

結局、広島地方裁判所における一審では、高永根は死刑、魯允明は無期徒刑。
その後1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期徒刑、魯允明に有期徒刑12年の刑が言い渡され、同6日判決が確定した。

思いの外長くなってしまったが、上記のような過程を経て、高永根は日本国内で事件を起こし、日本の裁判によって無期徒刑の確定判決を受け、刑に服していたのである。
日本国内の慶事によって特赦を得るならともかく、韓国での慶事で日本国内の犯罪者に特赦というのは、些か虫が良すぎるであろう。


さて、今回の史料において、禹が自ら王妃を殺したと言ったとされる事については、昨日の「現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」が係わってくる。
本当に目撃したのか、それともこの事件の際にそう思い込んだのか。
純宗の恨み具合等から見ても、「目撃せし」は本当であろうと考えるのが普通であろうが、さて・・・。
論集 朝鮮近現代史には「乙未事件と禹範善」が収載されているが、どのような中身なのか非常に興味が出てきてしまった。


三回くらいで終わるはずだったのに、今日はこれまで。


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)


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昨日に引き続き、趙羲淵等八名の特赦の話。
特に、「陛下」に恨みを買っているらしい李斗璜・李範来についてである。
それでは早速つづきから。

1907年(明治40年)8月25日付『来電第9号』。


貴電第18号に関し、李斗璜・李範来の両人は、王妃事件の際、軍部大臣の命に由り其の部下を率ひて宮中に入りしものにして、凶行下手者に非ず。
且つ、已に軍部大臣たりし趙羲淵にして特赦の典に浴するものなれば、彼等両人も亦、勿論特赦に与かるべきものと思考す。
乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず、若し事情の已を得ざるものありとせば、彼等両人を其の筋へ自白せしめて、罪を待たしめ、出来得べくんば近々即位式挙行の機会に、大赦の恩典に浴せしむるを良策と認む。



陛下が、「前記両名は、現に証跡の顯然たるものあり」と言っているのに、伊藤が擁護している。(笑)

「凶行下手者に非ず」という伊藤の言葉は、当時対外的に朴銑が下手人として処刑されている事を受けての言葉であると、素直に解釈した方が良いだろう。
注目に値するのは、「軍部大臣の命に由り」である。
以前から、大院君と朝鮮の訓練隊が参加していた事は知っていたが、軍部大臣ねぇ。

相変わらず伊藤統監は、「乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず(しかし韓国の事だから、理屈通じねぇかも)」等と、本当の事を言っちゃってますな。(笑)


続いて、8月31日付『往電第31号』。


過日の御電訓に依り、李斗璜・李範來の特赦事件に関し、再応侍従院卿をして陛下に転奏せしめたるに、今夕同院卿旨を奉じ、来邸し、左の要求を為したり。

趙羲淵以下六名の特赦に関し、統監代理の懇切なる勧告に依り、特赦することに決定したるも、李斗璜・李範来をも特に其の罪を赦すに於ては、朕は国母の仇、何に依て報ずるを得ん。
乍去、統監代理に於て証拠を挙げ、無罪を主張するに拘はらず、疑問中の両人を強ひて罪に問ふは、公の許さざる所なれば、乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善一人に当時の罪を負はしむるときは、一切を解決するに至るべし。
然れども、禹範善既に高永根の為め殺害せられ、今更ら犯人を罪するを得ずと雖、朕に代り逆賊禹範善を殺し仇を報ひたる高永根は、朕が為めに忠臣なり。
此の忠臣、今日本に在り罪科服役中なりといえば、之に特赦を与へ其の罪を赦さるるに於ては賞罰明白となり、乙未事件の始末、茲に始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解し、益々厚誼親交の実を見るを得べし。
故に、特に高永根を許されなば、趙義淵等一切の形式上一応の審問を為し、必ず特赦すべしとの御沙汰なり。

陛下聖慮のある所、本官に於ては至極御尤の儀と思考す。
就ては、右に対する閣下の御高見、折返し御回示を請ふ。



「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」ですか。
この「国母の仇」が何を指すのかは、読者の想像に任せる。(笑)
但し、「今更犯人を罪するを得ず」であり、禹範善を殺した高永根を特赦すれば「乙未事件の始末、茲に始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解し」である。

さて、何を目撃したのだろうねぇ・・・。


今日はここまで。


閔妃殺害事件史料(一)


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えーっと、尻切れトンボ気味だった昨日 までの連載から、気分を一新してお送りします。
今回は、閔妃殺害事件史料について。
閔妃殺害事件史料とは言っても、事件後の経過報告の類ではない。

まずは、これから扱う史料の前提から。
それが、露館播遷(俄館播遷)である。
当ブログでも、2月11日のエントリーで一度取り上げた。

この時金弘周、鄭秉夏らが惨殺された事は書いたが、その他にも高宗の詔勅と称し、市街各所に逆賊趙義淵外数名を斬殺すべしというような掲示物が貼られたようである。
【画像】

これにより、趙義淵らは逃亡。
仁川から小樽丸に乗って広島(宇品)に向かい、そのまま亡命した形となった。
【画像】

(以上の二画像は、『1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)』(レファレンスコード:B03050313400)より)


さて、これらの理由により亡命した者のうち、8名の帰国及び特赦を巡る話が、今回の史料である。


1907年(明治40年)8月24日『往電第18号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。


今回帰韓したる、趙羲淵等八名の亡命者特赦の件、李総理大臣に協議したるに、右は他の亡命者と異なり、王妃事件に関係せる者にて、臣子の分として之を特赦の奏請を為すを憚かるのみならず、之が為、皇帝と内閣との間に疎隔を生ずるの虞あるに付、寧ロ日本側より直接陛下へ申入れられたき旨、懇望せり。
本官に於ても、事情尤なることと思慮し、更に内大臣を招きて、今日は既に、他の亡命者も悉く特赦の恩命を蒙りたること故、此の際、同人等も同様の殊恩に浴せしめられ度旨、懇々奏上せしめたるに、陛下は、李斗璜・李範来の両人を除き、他の六名は十分の証拠も無きこと故、本官の希望を容れ、内閣大臣に命じて、特赦の方法を講ぜしむべきも、前記両名は、現に証跡の顯然たるものあり。
断じて之を許容し難き旨、仰せられたる由なり。
就ては、右李斗璜及李範来の両人は、此際再び日本に逃れしむるか、或は其筋へ自首して、相当の処分を受けしむるの外なかるべしと思考す。
右に関する御意見、至急御回示を請ふ。



この特赦は、時期的に、恐らく純宗の即位に関係した特赦であろう。
という事で、ここにおける皇帝は、7月19日に退位した高宗ではなく、純宗の事であると解釈して話を進める。
「王妃事件」とは、勿論「閔妃(明成皇后)殺害事件」である。

李斗璜・李範来は、現に証跡の顯然たるものありとの事。
今回は、この一連の件について追ってみたい。

つうか、露館播遷の際の親露派政権に名を連ねていた李完用に、趙羲淵らの特赦の奏請をさせるって、酷だなぁ。
そりゃあ、拒否するって。(笑)


土曜日はお客さんが少ないので、今日はここまで。(笑)



第六回、第七回と史料を見てきた。
ここまで上げてきた史料は、主として発見された条約関係書類に関する取り扱いに関してである。
そして、これまでの電文を纏めた形として、基本史料【2頁目画像】【3頁目画像】が提出されるのである。


過般韓人趙南昇なる者、太皇帝より米人 「コルブラン、ボストウヰク」 に与へられたりと称する電気会社株券売渡委任状偽造の嫌疑を以て、韓国警視庁に於て取調を為したる結果、其の自白に依り、太皇帝より発せられたる外国元首に対する親書原本並に趙南昇に下されたる密書等、別紙甲号目録の通り発見したるに付、調査上之を押収致置候。
又去明治三十九年中、韓国と各国との条約本書引渡方、統監府より照会に及置候処、当時焼失せりとの理由に依り、其の引渡を為さざりしに、今回右趙南昇の自白に拠れば、太皇帝(当時の皇帝)の命に依り、同人より京城仏蘭西教会監督 「ミユーテル」 に、其の保管を委託したる趣に付、一先韓国政府に於て之を回収し、曩に其の引渡を為す能はざりし理由及今回発見の事実を具し、別紙乙号目録の通り、更に統監府に引継手続を了せしめ候。
尚ほ、詳細の事実判明したる上、本件の処分を決定可致筈に有之候。
右及通牒候也。



さて、本日の記事を含めて『条約書類発見と玉璽偽造事件』として8回、『印綬濫用』として4回をお送りしてきた。
しかしながら、文書・印綬とそれに絡む利権、大韓帝国の混沌とした状態を確かめただけであった。
困った。(笑)

一応推測される事を掲載しておこう。

まずは、5月24日のエントリーで偽造とされたように、趙南昇が犯人であるという説である。
しかしながらこの場合、1906年の焼失したとされた条約文の話との整合性を図らねばなるまい。

次に、高宗が犯人であるとする説となろう。
これは、最も常識的な推察になるだろう。
条約文にも株券の譲渡にも関与できる立場だからである。

次が、韓国政府、特に宮内府の主犯説である。
これは、印綬の管理及び文書管理として見た場合、可能性が高くなる。

あるいは、これらの組み合わせ及び全部の場合。

そして最後に、想像も出来ない斜め上な場合。(笑)

文書や印綬の管理が、マジでいい加減過ぎ。
新たな史料が見つかるまで、推察はおろか絞り込みさえできないなぁ・・・。
連載第一回で触れた、『米国人「コールブラン」「ボストウイック」ノ韓国ニ於ケル獲得利権関係雑件』が公開されるか、ずっと気になってた、基本史料の【4画像目】冒頭で見られる、「4月27日清国人より領置の分索引目録」が、どのような経路で入手されたのか調べて見る以外あるまい。
恐らく、そのものズバリを書いた史料の発見は期待できないだろう。

そういった理由により、残念だが今回の連載は、斯くの如き消化不良のまま仮終了とさせてもらう事をお許し願いたい。
新たな発見をしたときに、再び続きを書きます。
では。


条約書類発見と玉璽偽造事件(一)
条約書類発見と玉璽偽造事件(二)
条約書類発見と玉璽偽造事件(三)
条約書類発見と玉璽偽造事件(四)
条約書類発見と玉璽偽造事件(五)
条約書類発見と玉璽偽造事件(六)
条約書類発見と玉璽偽造事件(七)

印綬濫用(一)
印綬濫用(二)
印綬濫用(三)
印綬濫用(四)



前回は、『来電142号』→『往電198号』→『来電第143号』→『往電第199号』と史料を見てきた。
その続きとなる、1910年(明治43年)5月18日付『来電第147号』より。


貴電199号に関し、其の匣中の物件にして、普通条約書のみなれば、去る39年7月中統監府に引渡したる条約書と共に、当時右の引渡を為す能はざりし理由を明かにし、今日之を受領せられたることに御取計ひ相成差支なきも、若し普通条約以外の物件あるときは、他の方法を執るの必要あるべきに依り、先ず以て、右匣の内容を点検せられたる上、其の物件の種類と共に、之に対する処分案を電報ありたし。
尤も右点検は、大臣会議席上の如き公けの場所を避け、極秘密に執行せられたし。
(偽造事件取調と関連し、警視庁をして点検報告せしむる形式を執らるるも一方法ならん)
右命に依る。



5月19日付『往電第204号』。


貴電第147号に関し、匣中の物件は、内部大臣、松井警務局長、若林警視総監立合の上点検せるに、何れも普通条約書類のみなりし。
但し之は、統監府としては未だ与り知らざる訳合なり。
故に、過日電報せる通り、大臣会議席上に於て公然之を点検し、事理を正して受領する考なりしなり。
然しとも貴電第143号の次第もありて、已に中上したるにより、此上は寧ロ若林をして玉璽偽造事件の全局を統監に報告せしめたる上、処分案を定むる方得等と考ふ。
此義は、前以て貴官より統監に言上し置かるべし。



普通条約以外の物件とは何なのか。
何を想定して極秘扱いとしたのか。
密約等が為されていたとき、日本としてどう対処するかという問題から来ると思われるが、この時点では詳細不明である。

とりあえず、前回は華麗にスルーした(笑)『往電198号』の「詳細は、不日上京の若林より承知ありたし。」が、若林警視総監を指しているらしい事、この点検に、当時内部大臣であった朴斉純が立ち会っている事が分かった。

ここまでの電文は全て、『来電』の発信者が小松緑、宛先は石塚英蔵。
『往電』が、発信者石塚英蔵、宛先小松緑であった。
次が、少し日付が飛んで、1910年(明治43年)5月22日付『往電第208号』。
発信者は石塚英蔵、宛先がこの時まだ韓国統監であった曽禰荒助である。


当地一、二の通信員は、玉璽偽造事件に関し新なる事実を其地に打電せるも、右は事の真相を誤れるものなれば、各方面誤解なき様致したく存ず。
委細は、明後二十三日出発上京の若林より申し上ぐる筈。

宮内府又は警察に関する機密事項の往々外間に洩るるは、皆、其部内より出づるものの如し。
目下厳重に取調中。



んー、間違いとされた電文も見てみたい。(笑)
この電文後、5月30日に統監は寺内正毅に代わる。
6月4日付『往電第222号』では、石塚から寺内宛の電文となっている。


貴電第9号に対し、韓国政府より曾て条約書原本は、宮中失火の際焼失し、捜索し能はざる旨回答し置きたるに、今回詐偽取財被告事件にて、警視庁に於て取調中の被告人趙南昇、太皇帝の命と称し、仏蘭西教会堂主「ミユウテル」に保管を托しあることを発見したる旨、公文並に本日朴署理総理大臣本府に来り、口頭にて申出で、双方立合の上原本引渡を了せり。


何故総理大臣の李完用ではなく、代理の国務大臣朴斉純なのだろう・・・。
李在明に肩胛骨内側上部、腎臓部、腰部を刺された後遺症なのだろうか?

この『往電第222号』と同日に、『機密統発第177号』が出されている。
これは、石塚から小松への電文である。


本日、朴内閣総理大臣署理立会の上、韓国政府より引継を受けたる、韓国と列国との条約正文其の他、別紙目録の通に有之候条。
右統監閣下へ上申せられ度此段申進候也。



この後、別紙として基本史料の【9頁目画像】【10頁目画像】【11頁目画像】【12頁目画像】と同じ物が載せられている。


何か、史料紹介のみになってしまった・・・。
一応このシリーズは、次回を以て仮終了の予定。
それでは、今日はここまで。


条約書類発見と玉璽偽造事件(一)
条約書類発見と玉璽偽造事件(二)
条約書類発見と玉璽偽造事件(三)
条約書類発見と玉璽偽造事件(四)
条約書類発見と玉璽偽造事件(五)
条約書類発見と玉璽偽造事件(六)

印綬濫用(一)
印綬濫用(二)
印綬濫用(三)
印綬濫用(四)


 
5月19日以来の「条約書類発見と玉璽偽造事件」。

これまで四回にわたって印綬の濫用状態に触れたのは、「条約書類発見と玉璽偽造事件」の捜査資料等が無い(あるいは見つけられない)事から、その状態の調査を通じて、少しでもこの事件の真相に迫ろうという試みだった。
ところが、史料を調べてるうちに、大韓帝国の状態は、真相どころかとんでもない状態であることが分かっただけ・・・。

という事で、真相については放棄し(笑)、本筋に戻って事件の発覚についての史料を見てみよう。
日韓併合を3ヶ月後に控えた、1910年(明治43年)5月14日付『来電第142号』。
報告者は、この時外務部長であった小松緑、宛先は臨時統監府総務長官事務取扱の石塚英蔵である。



右皇帝の委任状偽造に関し、逮捕せられたる趙南昇の取調より端なく、韓国と外国及外人との条約原書(多分太皇帝が、焼け失せたりと伊藤公に言明せるもの) 仏国人某の家に預けあることを発見したる趣、或方面より内密に伝聞せり。
右事実、並に之に関する閣下の処分御意見承知致したし。



この電文の返信が、『往電198号』となる。


貴電第142号の件は、警視庁に於て趙南昇取調の結果、条約文原書一切は、箱入として、加特力(dreamtale注:カトリック)教会堂 「ミユウテル」 僧正に其保管を依頼しあることを発見し(太皇帝の命)、趙をして其返換を求めしめ、之を本府に受領せり。
但し右受領の形式は、去る三十九年七月中、当方より条約文原書引渡を韓内閣に請求したる照会に対し、回答書を請取ることに取計はしめんとし、目下其手続中。

詳細は、不日上京の若林より承知ありたし。



この 「ミユウテル」 僧正が、4月27日のエントリーの「ミューテル(Mutel)主教」である。
「加特力教会」はフランス教会とも呼ばれ、現在の明洞聖堂にあたる。

1900年前後の明洞聖堂の姿

そして再び小松から石塚へ電信が送られる。
5月16日付『来電第143号』である。


貴電第198号条約原書発見の件は、事重大にして、今日に於て引渡を受けたる形式を取るは正当ならず。
別に善後の処分を要すべきものなるが故、統監より何分の訓令あるまで、引渡を受くるが如き手続を為すことは、総て御差控ありたし。



この辺り、電文のやりとりは、毎日行われているようである。
次が17日付『往電第199号』。


条約書に関する貴電の件、承せり。
実は本日、大臣会議の席上に於て始めて其匣を開き、内容点検の上、筋道を正しうして受領する考なりし。
右の匣は、内部若くは警視庁に置くは危険なるにつき、不取敢本府の倉庫中に預けたるも、鍵は現に警視庁保管中なれば、統監の御意見通り実行するに何等支障なし。

前電中受領せりとありしは、保管の誤。



本当に間違いか、石塚?(笑)
この大臣会議とは、例の協議会なのかどうか、伊藤以降のものが見つからないので何とも言えない。
うーん。本当に史料不足だなぁ・・・。(´・ω・`)


とりあえず、ショボーンとしながら、今日はこれまで。


条約書類発見と玉璽偽造事件(一)
条約書類発見と玉璽偽造事件(二)
条約書類発見と玉璽偽造事件(三)
条約書類発見と玉璽偽造事件(四)
条約書類発見と玉璽偽造事件(五)

印綬濫用(一)
印綬濫用(二)
印綬濫用(三)
印綬濫用(四)



昨日の『北関大捷碑』の記事が、WEB版にも掲載されたので、取り上げておく。


■靖国神社・秀吉軍撃退の碑 韓国、反日利用か 「返還」要請波紋

この記事のポイントは、『国立公文書館アジア歴史資料センターにも「建立者の子孫に諮って承諾を得て運んだ」との史料が残っている。』である。
アジア歴史資料センターとは、国立公文書館、外交資料館、防衛庁防衛研究所にある史料を、WEBにおいて閲覧出来る場所に過ぎない。
私が4月1日のエントリーで取り上げた史料も、現物は防衛庁防衛研究所にある。
つまり、アジア歴史資料センターの史料として紹介している、私のブログを見た可能性が非常に高い。


それでは、昨日触れた、「別のハンコ」について。

普通に考えれば、「玉璽・国璽」というものは皇帝の使用する印であって、電気会社株券の売渡が行われた1908年~1909年には既に譲位し、太皇帝となっていた高宗が、「玉璽・国璽」を使用できる筈が無い。
また、売渡の委任状などに「玉璽・国璽」を使用する筈もない。
故に「玉璽偽造」というのは、比喩的表現であろうと推察できるのだが、そうとは言い切れないのが大韓帝国の辛いところ・・・。
基本史料の【4頁目画像】【5頁目画像】【6頁目画像】が全部偽造だったら、歴史変わっちゃうなぁ。(笑)

とりあえず、この事件が明るみになって以降、宮内府大臣等が処罰された形跡が見られない事と、上記の常識的な類推によりこの「玉璽」は比喩的表現であると考えて、昨日までの三日に渡り「啓字の御印」の濫用実態を書いた。

そして、「啓字の御印」以外に、もう一つ「玉璽」と表現されそうな「別のハンコ」がある。
「花押」である。


実は私もこの一件を調べる前までは、大韓帝国において「花押」が使われているとは知らなかった。
いや、中国が花押の起源であるので、李朝において使用されていても何の不思議も無いのだが、そこまで頭が回らなかったのである。

この「花押」に気付いた史料が、1911年(明治44年)11月21日付『李王職機発第12号』である。
これは何に関する史料かと言うと、基本史料の【7頁目画像】の6番目「膠州湾ニ買収ノ家屋事件」と恐らく同じ家屋が、趙南昇に下賜されたとされる事件についての報告書である。

膠州湾周辺地図

また「趙南昇」・・・。
今取り上げている「条約書類発見と玉璽偽造事件」の僅か一年後で、「趙南昇」がそれによってどのような罰を受けたか不明であり、且つ「条約書類発見と玉璽偽造事件」との関連性を指摘する部分も一連の「下賜事件」史料に無いため、同一人物とは断じ得ない。
そのため、ここでは限りなく黒に近い灰色の別人という事にして、話を進めていく。

さて、基本史料にも「事件」とあるとおり、この膠州湾の家屋とは元々胡散臭い物件であった。
この経緯は別の機会に譲る。

その胡散臭い物件について、「青島近地買得德國人家屋特為賜給爾知悉 丙午二月 日 朕自畫押」という書面により、自らに下賜された物であると申し出たのが、趙南昇であった。
この書面の真偽についての報告が、上記『李王職機発第12号』という事になる。

この報告書における李太王(併合後の高宗の称号)の発言を纏めると、以下の通りである。

下賜する約束はしたが、書面は交付していない。
花押は、多くの場合に自畫せずに判を用い、もし自畫する場合は、筆尖に針一本を挿している。
この書面にはそれがない。
また、この家屋はとっくに売却するか、処分したと思っていたので、この度の申し出は意外である。

この報告者である李太王所属事務官の津軽英磨は、当該家屋を趙南昇が下賜されたのは事実であろう。
そして殿下(高宗)は、従来約束を為す場合、なるべく口約束に止め、証書を与えるのを避け、やむを得ず証書を与える場合は、なるべく之を不完全な物とするのを習慣としていたようである、と述べている。


つか、伊達政宗の鶺鴒の目の逸話かよ・・・。

しかも証書を不完全な物にするのを習慣って・・・。

だから色々とややこしくなるんだよ!


この経緯からすると、電気会社株券売渡委任状の「玉璽」とは、「花押」の事である可能性も高いように思えた。
しかし・・・。

1911年(明治44年)11月22日付『機密第1783号』より。


本件家屋は、別紙明治44年11月22日『機第20号』小宮李王職次官の回答に拠れば、李太王より趙南昇父趙鼎九に譲与せられたるものと認めらるに由り、警務総監府に於て押収したる本件関係趙南昇所持別封書類は、本人に還付 (但し李太王啓字判文書と称する書類は、本人面前に於て破棄) 相成可然哉。


結局、更に混乱したりして・・・。
嗚呼、捜査関係の史料が見たい。
そう思っていたら、以下の記事が。

3・1運動直後の日本検察の捜査記録が公開

捜査記録等の半島に残されたままの史料、俺にも寄越せ。(笑)

こういう史料が残っているから、『史料利権』目当てに韓国に阿るエセ学者が出てくるわけで。

ま、この記事の3・1独立宣言関係は、別の機会に取り上げよう・・・。


さて、次回からは、今度こそ(笑)『条約書類発見と玉璽偽造事件』に戻る。
この連載がどこに行くのか、非常に不安になりつつ、今日はここまで。


印綬濫用(一)
印綬濫用(二)
印綬濫用(三)



本題に入る前に。
今日の産経新聞に、『北関大捷碑』に関する記事が掲載された。
ようやく記事になりましたか・・・。

このブログにおいて、4月1日の『北関大捷碑』及び5月7日の『北関大捷碑と加藤清正征韓記念碑』、そして5月9日の『半島系文化財』と、三度に渡って取り上げてきたこの問題。
当ブログで紹介していた史料が、そのまま用いられており、主張もほぼ私の主張どおりである。
識者って、私の事・・・ではないよな。(笑)



さて、実は産経がサンケイであった時代に、「東京韓国研究所の崔書勉院長」のコメントまで引いて、『北関大捷碑』についての記事が書かれている。
こうして産経自身がオチを付けるのは、良いことだろうと思う。
兎も角、『北関大捷碑』について、こうした視点で記事になった事は、素直に嬉しい。

一方、この史料が引用された事について、アジア歴史センターは、4月2日のエントリーにおける私の指摘通り、目録を直しておいて良かったですね。(笑)

この問題についてはいずれにしても、下駄を預けられているのが、外務省なのか靖国神社なのか確認の必要があるのだろう。
特に外務省の認識なのだろうなぁ・・・。


さて、本編。
え?
印綬濫用についてはこれで終了と書いた?
次回からは、再び『条約書類発見と玉璽偽造事件』に戻る事としようと書いた?
フハハハ。ケンチャナヨ~♪
蛇足ながら、もう一つ書いておきたい史料を見つけたので、許して下さい。_| ̄|○

今回の史料は、1907年4月5日の毎度お馴染み『韓国施政改善ニ関スル協議会』第十三回会議録。


伊藤統監
国際条約の履行に関して、日本と韓国は大に其の趣を異にせり。
土地所有権の如き、特許権の如き、裁判権の如き、苟も条約上承認せざるものは、決して外国人に対して譲歩許容したることなく、条約を厳正に実施し来れり。
然るに、韓国に在りては、外人が居留地以外に土地を所有することを黙認し、外国人関係の訴訟事件にして韓人の被告なる場合に於ては、韓国法廷に於て裁判するの権利あるに拘はらず、裁判所の設備及適用すべき法律の不完全なる為めに、裁判の上より見れば全く無権利となり、些細なる損害賠償も外交談判の種となるに至れり。
特許の如きは、政府も之を許し、皇室も亦之を許すが如き不始末にて、其の紊乱、実に名状すべからざるものあり加之宮内府に於ける
啓字判の濫用の如き、外人に対する特許売買貸借の証書に、之を押捺交付するに至り、先方は、歴然たる証拠書類あるに拘はらず、宮内府には写もなく、原議もなきが如き状態なり。
斯の如き事項は、日本に於ては治外法権の存在せる時代に於ても、最も厳格に注意したる所なれども、韓国は全く之と異なり、宮内府の紊乱、裁判権の抛棄、土地所有の黙認、特許の濫発は、韓国政府の四大弊害なり。
此の四点を愼まざれば、到底韓国を救ふに由なし。
過日も李学均が、啓字判を押したる証書を以て、上海の仏国実業家より借り入れたる二万円の返済方に関し、仏国総領事より統監府に交渉あり。
李学均は、現に借りたりと明言するに拘はらず、宮内府は聞知せずと主張すれども、単に知らずと称して本件は落着するものと思ふは、甚しき謬見なり。
宮内府に於て飽くまで知らずと主張すれば、已むを得ず李学均を、証書偽造罪に問はざるべからず。
之を要するに、皇室が外人関係事項を、政府を経由せずして直接に取扱かふ故に、斯の如き物議を惹起するなり。
若し政府を経由すれば、政府と統監府と共に注意して、法律に適合する様努むべきを以て、斯かる不都合は生ぜざるべし。
殊に特許の如き之を許す場合に於ては、鉱山法の鉱区・税鉱・産税・危険ノ予防方法等の如き条件を履行せしめ、之に隨はざるものは、政庁に於て特許を取消し得る様、為し置かざるべからず。
然るに、従来の特許は勝手次第に為したるものなるが故に、之を取消すことを得ず。



特許の如きは、政府も之を許し?
皇室も亦之を許すが如き?
宮内府に於ける啓字判の濫用の如き、外人に対する特許売買貸借の証書に、之を押捺交付するに至り?
宮内府には写もなく、原議もなきが如き状態?
皇室が外人関係事項を、政府を経由せずして直接に取扱う?

つうか、秩序乱れすぎだろ・・・。_| ̄|○

「啓字判を押したる証書を以て、上海の仏国実業家より借り入れたる二万円の返済方に関し、仏国総領事より統監府に交渉」のように、結局尻ぬぐいは日本。

こんな状況なので、益々誰が真犯人か分からなくなってきたり。(笑)


「啓字の御印」に関する件は、今度こそ此処まで。
代わりに、次回は別のハンコについて。(笑)
それでは、今日はここまで。


印綬濫用(一)
印綬濫用(二)



昨日のエントリーについて、polalis氏から疑問が呈された。
要約すると、「啓字の御印」が何であるかによって、この会話の意味が変わる、と。
少し説明が必要だろう。

冊封体制下において、「上奏」は「皇帝」への呈上であり、「上啓」は「王」へ呈上することを意味する。
日清戦争後に冊封体制から脱し、独立国となった事から考えると、甲午乙未 (明治27、8年)頃から「啓字の御印」が使用されていないと言っている事と符号する。
「上啓」に関係する印であるとするなら、高宗が朝鮮王であった時のものであり、その場合この印を押すのは宮内(府)である。
これを宮内府が再利用して、勝手に「上奏済」という書類を作り、処理していた可能性がある、と。
この場合、偽文書を作っていたのは宮内府あるいは大韓帝国政府という事になる。

一方で、清代に皇帝がよく書いた「知道了」と同様、「見た」という意味の印であるとするなら、偽文書を作っていたのは高宗という事になる。

うーん。
勉強することは、まだまだありますねぇ・・・。
どちらにしても、決裁過程はボロボロなのではあるが・・・。
どちらを意味する印であるかについては、「啓字の御印」の押された現物を収集する必要があるだろう。
さすがにその作業は、一般人の出来る範囲を超えているので、どちらの場合もあり得るという前提で、話を進めていこう。

それでは昨日の続き。


伊藤統監
何とか速に、防遏方法を講ぜざるべからず。


参政大臣朴斉純
陛下が、今後之を使用せられずとの勅令を渙発せらるれば可なり。


伊藤統監
然り。
爾せざるべからず。
事若茲に出でられざるに於ては、今後、絶えず日本政府よりも韓国に対して、種々なる難問題を提出するの已むを得ざるに至るべし。
而して一と度此等難問題起らば、貴国政府に於て御印之を引受けざるべからず。
故に是非共、速に此の弊を改むるの策を講ずるを要す。
而して、右封印の勅令渙発せらるると同時に、政府よりも之を公布、統監府も亦之を公布すべし。
斯の如き手続を取り置けば、将来、縦ひ啓字御印を押捺したる特許証を提供するものありとも、何等顧慮する所なきなり。


法部大臣李夏栄
今日と雖、既に偽物あり。



法部大臣が、堂々とそのような事を言ってのけるとは・・・。
もう偽物が出回ってるのが分かっているのならば、何か手をうてよ。
しかも、勅令を出せばよい事を分かっていながら、それを上奏することもない。
真面目に、polalis氏の言うとおり韓国政府自ら偽造していた可能性もあるなぁ。
単純に、無能なだけかも知れないが。


伊藤統監
啓字御印は、頗る簡単なるものなれば、容易に之を偽造し得べし。
然れども、偽物を以て韓国の政治を紊乱せしむるに至ては、之を容赦すべきにあらず。
諸君の常に論ずる所を聞くに、如何なる悪事も如何なる弊害も、陛下の為さるる事とし云へば、最早如何とも致方なきものと考へ居らるるものの如し。
韓国は、古より果して左様なる国柄なりしにや。



「如何なる悪事も如何なる弊害も、陛下の為さるる事」。
本当にそうである。
単なる言い訳である。
どちらであるのか分からないが、如何なる悪事も如何なる弊害も、それを自ら正そうともしない事だけは確実なのだろう。(笑)
そしてこれは、古よりというか、現在も・・・。


参政大臣朴斉純
稀に諌奏することなきに非ずと雖、十中八九は皇帝の意の如く、之を遵守奉行せり。
是れ無上君権の然らしむる所にして、如何ともするに由なきなり。


度支部大臣閔泳綺
今日は、勅任官以上は悉く陛下自ら之を任命せらるも、昔時は、総て三大臣の推薦に依られたるものなり。


伊藤統監
君主と雖決して完全なるものに非ざれば、輔弼の臣たるものは、場合に依りては充分に諌奏し、之にして過なからしむることに力めざるべからず。
諸君は、漢籍の素養あれば蓋し仲山甫之を補ふの故事を知らるるならん。


各大臣
然り。



仲山甫の故事というのは、『史記』周本紀か漢詩の中のどれかなのだろうが、少々そちらは疎いので、誰かフォロー宜しく。(笑)

それにしても伊藤も酷な事を要求するなぁ。
党争は結局大韓帝国の消滅まで続くのに・・・。


伊藤統監
自分は、陛下の御前に於て自分の確信する所を奏上する決心なり。
諸君、若自分の説にして国家の為有害なりと認めらるれば、諸君は陛下に対し之に同意せられざる様、奏請せらるるも可なり。
又、其の不可なる所以を極論せらるるも可なり。
然れども、国家に取りて有益なりと信ぜらるる事をも、徒に陛下の意を迎へんが為、伊藤の説は不可なりと奏請せられては困却の至なり。


法部大臣李夏栄
否。
吾々も、閣下と心を一にし、国家の為に盡力致すべし。


伊藤統監
例へば、啓宇御印の如きも、法律上使用せられざることになり居るにも拘はらず、実際に於ては、之を使用し居らるる実証あり。
此の如き事は、縦ひ陛下なりとて、決して之を寛恕すべきに非ず。



治外法権の撤廃を目途とするなら、その前提段階としては当然の事であろう。
しかしながら、現在に至るまで法治国家を作る事の出来ていない人達に、何て無茶な事を・・・。(笑)


各大臣
然り。


伊藤統監
一方には礦業法の如き綿密なる法律を発布しつつあるに反し、一方には宮内府に於て、単に啓字御印を以て、特許を与ふるが如きは、決して之を等閑に付すは能はざるなり。


参政大臣朴斉純
元来啓字御印は、全く宮内府内部のものにて、特許の如き外部に出すものに対して、押捺すべき御印に非ず。



いや、だから問題なんですが・・・。_| ̄|○


伊藤統監
然らば之を復旧したきものなり。
此の件に関しては、自分よりも、直接陛下に対し、陛下が非法の行為に出てらるる為、外国人及日本人の間に種々なる紛議を釀し、延て韓国に損害を及ぼすが如きことあり。
是れ、君主たるものの大に愼まざるべからざる旨を諌奏する積なり。
諸君も自分と志を一にし、此の弊害を矯正することに盡力せられたし。


参政大臣朴斉純
閣下をして、斯の如き上奏を為さしむるに至りたるは、是れ皆自分等の罪なれば、自分等も亦、共に諌奏致すべし。


伊藤統監
啓字御印の問題は此に止め、次の問題に移るべし。(以下略)



「閣下をして、斯の如き上奏を為さしむるに至りたるは、是れ皆自分等の罪なれば、自分等も亦、共に諌奏致すべし。」という言い訳、正直聞き飽きた。(笑)

さて、これで印綬に関する混乱の状況はお分かり頂けた事と思う。
例え「啓字御印」が廃止されたとしても、運用の基準や管理方法等が確立されない限り、根本的解決にはならない事は、容易に想像できる。
宮内府が原因であろうと皇帝が原因であろうと、そういった流れの中から、趙南昇の偽造事件が生まれてきたのだろう。


さて、印綬濫用についてはこれで終了である。
次回からは、再び『条約書類発見と玉璽偽造事件』に戻る事としよう。
では。


印綬濫用(一)