これまでの分のリンクは、最後尾に書く事にしました。
よしなに。

それにしても、読みやすいように短く区切っていたら、思いもかけず長期化・・・。
いや、元の分量が分量だから、予想して然るべきであっただろうか。
飽きてきた読者の方が居れば、別なネタも挟みますので、コメントして下さい。(笑)

さて、前回は区切りの良いところで、伊藤の奏聞をぶった切った。
伊藤、話長すぎ。(笑)
今回はその続きから。


然るに宮内府に於ては、其の後何等肅清の実を挙げられんや。
将た、文明国の模範に隨て、何の改革を加へられたるや。
勿論、日韓議定書に拠り、韓国皇室の尊厳を維持し、康寧を保障するは自分の責任なりと雖、常に皇室に対して干渉を為すは妥当ならずと信じたるが故に、今日迄は之を放任したり。
然れども、此の儘に打棄て置かんが、肅清は愚か、日韓両国の交誼を妨礙せんとする雑輩の出入、日に頻繁を加へ、自分の職責上、最早之を傍観するを得ざるに依り、最も陛下に対し最忠誠なる心を以て、此の事を陳奏す。



前回、高宗が宮内府大臣李載克を通して述べた希望について記した。
これは、その時の5番目の項目に関する話である。
曰く「宮中の肅清を為し、文明国の模範に拠り、将来の弊害を防がんとすること」であった。
しかし、自分で述べた事にも係わらず、高宗は相変わらず守旧派政治家・儒者を出入りさせ、旧態依然とした上訴による政治を変えようとしない。
当然、朝鮮における儒教的価値観で改革など出来るはずもない。
寧ろ、日本を含めた改革を進める勢力を非難していたであろう事は、想像に難くない。

自ら述べた事であるにも係わらず、全く改革への意欲を見せない高宗。
これまでも、何度も散見されてきた光景である。


陛下は現に、金叔旼(日+文)なるものを御使用あらせられたるが如し。
同人を我が憲兵に於て拘留審問せる際、同人の有する書類に「島夷敵臣伊藤長谷川」云々とあり。
是れ、陛下の語なりやと詰問せしに、同人は然りと答へたる由。
此れ、果して日韓両国の交際を敦睦親密ならしむる所以なりや。
然りと雖、自分は陛下の御為を虞り、日本政府に報告することは、之れを見合はせたり。
何となれば、之を日本政府に報告せば、事重大に至るの虞あればなり。
又自分は、宮中と暴徒との関係を熟知し、現に暴徒に対して宮中より資金を供給せられたるの証拠を有す。
且つ、宮中と暴徒と暗に連絡を保てることも、宮中と上海浦潮地方に在る韓人の間に密使密電の往来することも、亦能く之を知れり。
而して、今日迄之を放任したるは、全く寛に失せるものにして、既に紊乱其の極に逹し、尚ほ此の儘に打棄て置かんが、自分は職責を執るの責に任ぜらるべからず。
輙ち、此の場合に於て、陛下を御助け申上ぐるの誠意を以て、宮中取締の方法を講ぜんと欲す。
希くは、陛下能く自分の誠意の存する所を御諒解あらんことを請ふと奏上し、更に進て宮中に卜筮巫女等の出入頻繁なることは、決して文明国に在るまじき失態なれば、先づ以て斯かる輩を遠ざけられざるべからざることを陳奏せり。



面従腹背、ここに極まれり。
敢えて「宮中」として言葉を濁しているが、明らかに高宗自身を意識した発言である。
しかしながら、仮に伊藤本人が述べているとおりだとすれば、これらは重大な外交問題である。
この報告を見合わせたのは、伊藤がこの時、韓国のことを真摯に独立させようと考えていた事を表すと同時に、日本に対する重大な背信行為であろう。
この報告を基に宣戦布告し、条約などと迂遠な手段を執らず、軍事占拠してしまえば良かったのである。
そして、併合等と言わずに、真の植民地とし、搾取し、略奪し、現在の半島の人々や『良心的日本人』の言うとおり、世界で最も過酷な支配を為してやれば良かったのである。
事実に基づく批難であれば、甘んじて受けるであろう。

話が逸れた。

そこで伊藤は、宮中の取り締まりを行うこととしたのである。
そもそも、普通に占い師や巫女が出入りするなど、伊藤の言うとおり近代国家ではあるまい。
これらを呼んだ理由が、伊藤を呪い殺すためであったとの記述を見た事があるが、あながち間違いでも無い気がしてくる。(笑)

今日はこれまで。


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(一)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(二)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(三)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(四)


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第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(一)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(二)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(三)


今日は、前置き無しで前回からの続きは、伊藤の発言によって再び始まる。


此の奏聞長きに亘り、一段落を告げたる後、自分は、皇室の尊厳及康寧を維持することに付き、陛下に奏聞せり。
其の要旨は、下の如し。

過日、自分の斎したる日本皇帝陛下の宸翰中にも「統監を信任して、其の奏請する所を聴納せられんことを望む。」の言辞あり。
是れ、自分が常に赤心を披瀝して、必ず陛下に忠実なるべきことを、日本皇帝陛下に於て御信用あらせらるるが故に、如上の御忠告に出でられたるものなり。
依て自分は、是より韓国皇帝陛下に対して、最も忠実なりと信ずる事を陳奏致すべし。

顧れば昨年十一月、日韓協約の調印了せり。
同月二十九日、自分の出発帰国せんとするに際し、陛下は宮内府大臣李載克氏を自分の許に遣はされ、五箇條の御希望を伝示せられたり。

其の第一は、皇室の経費増加に関することにして、臨時経常を合して一となし、之を全く国庫の財政と区分して、王室に一任せよとのことなり。
此の件は、自分に於ても直ちに御同意申上げ、目賀田顧問にも之を諮り、竟に五十万円の増額を為すことにせり。

第二は、皇室財産に関することにして、此の点に付ては、他日愼重なる調査を為したる上ならでは、直ちに自分の意見を言上し難き旨を覆奏せり。

第三は、皇室所有財産に対しては、財政顧問をして干渉せしめざること。

第四は、皇室の財政は、宮内府自から之を整理し、一般財政の整理とを区別すること。

第五は、宮中の肅清を為し、文明国の模範に拠り、将来の弊害を防がんとすること等なりし。

此の五箇案に対し、第二條を除くの外、自分は悉く御同意申上げ、且其の言責を重んじて之を実行せしめたり。



11月29日といえば第二次日韓協約(乙巳条約)の調印の12日後である。
4月25日のエントリーで高宗が裁可した事を述べた。
ここではその後、さらに宮内府大臣李載克を通して、希望を述べさせている。
しかも、ほとんどが自分の財産について。(笑)

希望内容を見ると、この頃には既に第一次日韓協約によって顧問となった目賀田種太郎によって、次年度予算案が策定されていたと考えられる。
今まで好き勝手に金を使っていた身分としては、かなり面白くなかったのは想像に難くない。
となれば、第二次日韓協約(乙巳条約)に、「皇帝の安寧と尊厳」の保証事項が韓国側の要求によって追加されたのは、金目の問題が絡んでいるからであり、さらに具体的な言質を得るため、11月29日に詳細な要望を伝えたのではないだろうか。

いづれにしても、良く言われる「強迫されて締結した協約」「高宗は承認していない」が事実であるとすれば、そのわずか12日後にこのような申し出をするとは、随分と恥知らずな話ではある。(笑)


今日はここまで。


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朝令暮改

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■盧大統領「韓日基本条約は政府に道義的責任ある」

盧武鉉大統領は1965年に締結した韓日基本条約による被害者への補償問題について、政府の道義的責任はまぬがれないと述べました。
盧大統領は27日午後、政府の韓日修交文書公開対策委員会のメンバーと会合し、「今後文書が公開されて事実関係がはっきりすれば、法的責任に移っていくこともあるが、政府としては道義的責任はまぬがれない。
長い間、この問題を放置していたことは国民に対して申し訳ない。
被害補償案を国民が受け入れるかどうかによってこの問題が解決できるかどうかがかかっている」と強調し、韓日修交文書公開対策委員会で知恵を出し合って政府も国民も受け入れられる被害補償案をまとめてほしいと述べました。
政府は1965年に結んだ韓日基本条約関連の外交文書161件のうち、今年1月に5件を公開しており、韓国の独立記念日の8月15日までにすべての文書を一般公開することにしています。


 (在りし日 若き日の盧武鉉大統領)

というか、1月25日のエントリーにも書いたとおり、条約法に関するウィーン条約の31条、32条の規程により、法的拘束力を有するのは、日韓基本条約の関係諸協定,日韓請求権並びに経済協力協定(以下、日韓協定)、日韓請求権並びに経済協力協定,合意議事録(1)日韓請求権並びに経済協力協定,合意議事録(2)だけであって、未公開の外交文書は法的責任、関係ありませんから。
つまり、道義的責任のみならず、法的責任も韓国政府にあるのは明白なのである。

今回の発言は、ヤバイと分かっているが故の『布石』だろうか?
それとも、何かの選挙が近いのだろうか。

とりあえず、今まで茶番に付き合わされてきた、日本に対する『道義的責任』もよろしく。


さて、3月1日のエントリーの中で、「丁重に無視すれば良い。一人で勝手に踊らせておけばいいのである。」と述べた。
図らずも、中国の反日暴動によって、敢えて無視する必要もなく、韓国の存在感が皆無になってしまった。
さらに、アジアアフリカ会議から、空気を読んだのか中国が事態収束へ。
北東アジアの『バランサー(国民と共に考えてみるべき盧大統領の同盟観 3/22)』は、人気のない公園のシーソーのようになってしまった。

『外交戦争(対日強硬姿勢の国民談話 盧大統領、外交戦の全面に 3/24)』は何処へやら、慌てて事大。(盧大統領の韓日関係発言が「慎重」に 4/27)

しかし、失った関係は中々取り戻せませんよ?

■外務省首脳、韓国の外交手法に不快感

竹島利用の新法は遺憾 政府、韓国に抗議

まぁ、取り戻してもらう必要性も無いわけですが。(笑)


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第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(一)
第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(二)


大韓帝国の条約書や外交文書、無くしちゃった。
もしかしたら燃えちゃったかも。アハ♪

な、なんだってぇ~!

以上、前回の概略。(笑)
さて、前回の奏上の内容について、伊藤から質問を受けた内部大臣李址鎔は、次の通り答える。


日韓議定書締結の際、従来の條約書を閲読するの必要起り、江華より取寄せ一見したることあるも、其の後更に原本を見ず。
然れども、自分は如何にして紛失したるものなるやを承知せず。
但し当国に於ては、重要文書は其の写を政府又は宮中に止め、原本を北漢山又は江華に保存するの例は、従来之れなきにあらざるなり。



李址鎔といえば、外部大臣臨時署理陸軍参将として、1904年2月23日に日韓議定書の調印をした者である。
日韓議定書といえば、良く「ソウルの占領によって無理矢理締結させた」事になっているが、李址鎔のこの時の言を信じれば、従来の条約書を取り寄せ、検討する程度の余裕はあった事になろう。

さて、内部大臣すら紛失経緯が分からないと言う。
そこで伊藤は、次のように述べる。


果して、実際に焼失したるや否は、近日之確むるを要す。
法律は既に之を公布し、新聞にも記載せられ、人民も之を承知し居るが故に、仮令原本の消滅するが如きことあるも、其の効力には、何等の影響を及ぼすことなし。
條約も亦然り。
仮令、当方に於て之を知らずと云ふも、先方に於て熟知し居るが故に、其の義務を兔るることを得ず。
然れども焼失の事実は、之を証明し置くこと必要なり。



条約書の行方を調べ、紛失、あるいは焼失したのか確認し、失われたのであればその事実を証明しておかなければならない。
当然の話である。

当時の朝鮮総督府が、朝鮮を文明国とすべく法整備を進めるつもりであった事は、梅謙次郎の項において既に述べたとおりである。
その為に諸外国との密約、外国人の治外法権、利権(特許)の売り渡し状況等の調査が必須なのは明かであろう。

これに対して、李址鎔は次のとおり述べた。


了承。
調査の上果して見当らざれば、其の事を通知するの必要あるべしと存ず。



さて、前回「後にこの文書は、ある意外な場所から発見されるのである。」と書いた。
これらの文書が発見されたのは、この協議会から4年後、日韓併合の3ヶ月前である1910年(明治43年)5月のことである。
詳細は、これで一ネタ出来るため(笑)改めて記述するが、安重根の最後に当たって、「告白」「病者の塗油」「許しの秘跡」を拒否した事で一部の方々に有名な、ミューテル主教の元に隠されていたのである。
その際の目録によれば、その文書の数は実に86点にものぼるものであった。

なお、発見されるまでの4年間に、諸外国に対する文書喪失の宣言、あるいは通知がなされたかどうかは、残念ながら史料を見つけるに至っていない。


続く。



第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(一)


高宗が6月に送った密使は、伊藤が日本へ帰国している時に出されたのだろうかと、今のところハッキリとした帰国日が不明であるため、妄想しながらの第二弾。
前回は、伊藤と高宗との謁見において、第二次日韓協約の裁可と統監の承認に関して高宗の言質を得ているところまでを記載した。
その続きである。


次に自分は、陛下に対して統監の職務を畧述し、統監は日本国を代表して韓国に駐箚するものなれば、日本国の韓国に対して取るべき責任、即ち皇室の尊厳康寧の維持・外交の管理・施政の改善・国土の防禦等は、皆統監の職責となり居れり。
故に統監の職務は、一にして足らず。
就中、韓国の外交を管理する上は、名義は兎に角、事実は韓国外務大臣同様の職務を執るものなり。
左れば外交に関しては、陛下は統監の進言する処を、一々御採納あらせられざるべからず。
隨て又外国人に謁見を仰付けらるる場合の如きも、統監其の席に列せざるべからざることを言上せるに、何れも御承諾の意を表せられたり。
然れども、今一々茲に之を細述せば、長時間に亘るを以て、其の中必要と認むる一事を除くの外、之を省畧することとすべし。



これは、第二次日韓協約(乙巳条約)の内容確認の形になるであろう。
この時、開始時間に少し遅れた宮内府大臣李載克が来て、そのまま列席した。


外交に関する奏聞の詳細は、前陳の如く一々諸君に説述するの暇なしと雖、其の中の一事は、茲に之を陳述するの必要あり。
即ち、日本が韓国の外交に関する責任を取りたる上は、條約書及外交文書は、総て之を引継ぐべき筈なり。
故に曩に統監府より韓国政府に対し條約書の引渡しを要求したるに、右は宮中に存置せらるとの事。
然れども條約書類の如きは、元来之を宮中に保管すべきものにあらざるを以て、速に之を統監府に引渡し、調査の後は、更に韓国政府をして保管せしむるも可なり。
兎に角、一応引継ぐの手続を取らんことを望む旨奏上せるに、陛下は、條約書は重要文書なるが故に、北漢山に之を保管せしめた後江華に遷し、一昨年二月更に宮中に遷したるも、其の後見当らざるを以て、或は宮闕炎上の際焼失したるやも知れず、其の顛末は、沈相薫・李址鎔之を承知し居る筈なりと答へられたるを以て、自分は、條約は法律と同じきものなれば、原書なければ効力を有せざるものに非ず。
故に、果して焼失したるものなれば、其の事実を各條約国に宣言致すべしと上奏せるに、陛下は暫く其の宣言を猶予せられんことを望ませられたり。
條約の原本は仮令焼失するとも、之に規定せる権利義務には何等の変化を及ぼすものにあらず。
又條約国も、宮中炎上の際烏有に帰したりと云へば、決して韓国に対して苦情を提起する筈はなけれども、只此の儘に放任するは不可なるを以て、自分は宣言のことを言上したる次第なるに、陛下は、之が猶予を望ませられたり。
此の点は、聊か曖昧なりと認めざるを得ず。
内部大臣は此の事実を記憶せざるべからず。



どうやら1904年に慶運宮で大火があったようである。
残念ながらそれに関する史料は発見できていないため、この火災原因や状況等については不明である。
しかしながら、韓国の観光サイトなどを見ても「日本により」とは書かれていないため、恐らくは普通の失火だったのであろう。(笑)
承政院日記あたりに書いているのだろうか?
暇があれば、調べてみたいものである。

さて、本題。
ほとんどの条文を、外交に関する事で占められた第二次日韓協約(乙巳条約)をうけて、まずは韓国の現在の外交関係に関する調査として、條約書及外交文書の提示を求めたわけである。
しかしながら高宗曰く、條約書及外交文書は紛失し、或いは焼失したかも知れないとの事。

外交文書の管理・保管もできないとは、やはり前近代国家。
しかも、後にこの文書は、ある意外な場所から発見されるのである。


続く。



連載を始めたばかりで、時事ネタに流れるのもどうかとは思うのだが、タイミングを逃すと、散歩道さんのところ等に、美味しい所を持って行かれてしまうので(笑)、息抜きにもなる事だし、その都度取り上げていきたい。
乞うご容赦。

それにしても、散歩道さんのところといい、zeong氏のところといい、他人の解釈や主観が入り込む「余地」のある出版物ではなく、原史料による情報の共有が出来るというのは、便利な世の中になったものである。
これだけ原史料に簡単にアクセス出来る世の中だと、学者の皆さんや、扇動家の皆さんも大変だろうなぁと、つくづく思ったりするわけである。

以上、雑感。


明成皇后の初の埋葬地「洪陵」を確認

乙未事変(1895年10月8日、明成皇后(閔妃)暗殺事件)で暗殺された明成(ミョンソン)皇后が当初埋葬される予定だった、東九陵(トングヌン、史跡193号 / 京畿(キョンギ)道・九里(クリ)市・仁倉(インチャン)洞)内に作られていた元の洪陵(ホンヌン / 明成皇后の墓陵)が初めて確認された。

ファン・ピョンウ韓国文化遺産政策研究所長は25日、「崇陵の右側の丘で石物(ソクムル、墓の前のに置かれた石の飾り物)が発見されたという通報があり、現場と各種文献を照らし合わせた結果、位置が確認された」とした。

この場所からは封墳の周りに並べるために使ったと見られる欄干石柱(ナンガンソクジュ)や童子石(トンジャソク)など石物3点が発見された。
この石物は地中に埋まっていたが、雨水などにより土が流れ落ち、姿を現した。

しかし明成皇后陵はこの場所に建立されなかった。急変していた当時の政治状況のためだ。
乙未事変で執権した金弘集(キム・ホンジプ)内閣は、暗殺事件の2日後、暗殺の事実さえ発表しないまま、「王妃が人民を搾取した」として皇后を庶民へと廃位させ、50日間後に暗殺の事実を公式発表した。

しかし陵を建立する工事の真っ最中だった1896年2月11日、俄館播遷(アグァンパチョン、乙未事変の後、身辺に危険を感じた高宗(コジョン)と王子が1896年2月11日から約1年間、王宮を捨てロシア公館に避難した事件)により、高宗は金弘集らを“乙未4敵”に定め逮捕令を発令、内閣は崩壊した。

明成皇后陵は高宗が大韓(テハン)帝国皇帝に即位(1897年10月12日)した後の1897年11月22日、現在の洪陵樹木園(ソウル市・東大門(トンデムン)区・清涼里(チョンリャンリ)2洞)にに建立され、明成皇后はここに葬られた。
この後、高宗が1919年1月21日に死去すると、同年2月16日、京畿道・南楊州(ナムヤンジュ)市の現在の洪陵に移された。

韓永愚(ハン・ヨンウ)、 李泰鎭(イ・テジン)ソウル大学教授(国史学)は「明成皇后陵の建立と改葬という史実は紆余曲折の多かった朝鮮末期の歴史を体現している」とし、「東九陵内の洪陵を近代史教育の場として保存すべきだ」と指摘した。



最近、ソウル大学国史学科の李泰鎭教授が少しでも絡む報道を見つけると、つい、その発表内容に目を凝らしてしまう自分がいる。
一時、明智大学教授の授崔書勉教授に浮気してみたものの、全く喰い足りない。
ある意味私は、李泰鎭教授を愛しているのかも知れない。(笑)
残念ながら、今回の記事における李泰鎭教授は、コメントを寄せただけで、活躍の場は無いのだが。

記事の内容も、大した事がない。
明成皇后の墓と比定した根拠について、報道内容ではさっぱり不明だからである。

そんな中で金弘集の名は出ても、大院君の名が出てこない事は、非常に興味深い。
そして、俄館播遷(露館播遷)についても【こちら】で述べたとおり、簡単に言えば内部抗争の結果である。

そういった意味においては、朝鮮末期や近代史に限らず、昔から現在まで連綿と続いている、『党争の歴史』を体現しているのだろう。
それに日本を含む外国勢力が絡んだ事自体によって、その人物の評価基準が別れるとすれば、実に愚かな事ではある。


さて、去る4月19日付けで、李泰鎭教授に、バファリン作戦の最後を飾る『解説』が送付された。【こちらから】
当該NAVERのスレッドでも述べられているが、私のブログにおいても、日米韓の協力者に改めて謝意を表し、同時に本作戦を見守って頂いた各位に、御礼申し上げたい。

これで、一連のバファリン作戦は、本当の終わりを告げるだろう。
李泰鎭教授が、再返答を行わなければ、という条件付きではあるのだが。(笑)



これまでちょくちょく引用してきた、『韓国施政改善ニ関スル協議会』。
その中でも、第七回の協議会は非常に興味深い。
従って、ここで独立して取り上げてみたい。

開催されたのは、1906年(明治39年)7月3日。
場所は統監官舎。
日本に一時帰国していた伊藤博文が、前日の7月2日に、日本からの親翰を捧呈した状況を、各大臣に話す所より始まる。

謁見の際の伊藤の奏上は、


「陛下は、博文の統監として当地に来任せるを御承認相成らざる由に承る。抑も昨年十一月の協約中には、統監に関する明文あり。該協約は、其の調印に先だち、陛下の思召に依り修正を加えて御裁可相成りたるものなり。然るに今日に至るも尚統監を承認せられざるは、博文了解に苦しまざるを得ず、故に東京滞在中、之を我が天皇に奏聞したるに、陛下も亦博文と御同感にて、今回帰任せば、本件に関する韓国皇帝陛下の確答を承はんとの勅命を蒙りたり。仍て本日は勅答を拜承せんことを望む。」


この昨年十一月の協約とは、李泰鎮教授が不成立論を展開している第二次日韓協約の事である。
陛下の思召に依り修正を加えてとあるのは、恐らくは李夏栄法相からの第一条の字句の修正と、権重顕農商工相からの第五条として「皇帝の安寧と尊厳」の保証事項の追加等の事であろうと思われる。【LINK
そして、伊藤博文を統監として承認していないとは、李泰鎮教授、ストライクか!?
ところが、である。(笑)


自分(伊藤)が斯の如き上奏を為したるは、陛下の統監を承認せられざる明証を有するが故なれども、陛下は「決して然ることなし。昨年の協約は、確に裁可せり。卿に宛てたる文書に伊藤侯爵と記せるは、居常伊藤侯爵なる語を慣用せるが故に、臣僚或は誤て斯く書したるならん」と弁解せられたるを以て、自は陛下より直接其の勅諚を承れば足ると奉答せり。


決して統監を承認していないなどということはないとした上で、乙巳條約(第二次日韓協約)について無効宣言が為されたとの各種報道があるが、 1907年7月2日時点で、日本側に対しては裁可したと言明しているのである。
それとも外交においてすら、『広義の強制性』を言うのだろうか?(笑)


今日はここまで。



崔益鉉の断食死説(一)

さて、俗説でいくと90日以上も断食して死亡した崔益鉉。
真相はどうであったのだろう?

昨日も引用した『物語 韓国人』では、林炳讚の「対馬島日記」を基にして記載している。
それによれば、上陸直後に日本側とのトラブルによって、日本の食は摂らぬと宣言し、8月28日の夕食から断食を行ったのは事実である。
上記「遺疏」は、この時に書かれたものである。
「対馬島日記」によれば、崔益鉉の説得にやって来た警備隊の大隊長が、収容者の飲食費は大韓から出ていることなどを挙げ、「だからこれは日本食ではない」と説明したり、他の収容者たちも崔に翻意を促したので、断食は8月30日の昼食までで中止になったのだという。
食を断ったのは、結局6食分という事になる。
「遺疏」の項においても、「附」として「林炳讚疏」という文章がついており、そのなかで林は、断食が三日目に終わったことをはっきり記しているのである。

さて、林炳讚の「対馬島日記」によれば、彼等の収容されていたのは「氏族授産所」である。
「氏族授産所」は、明治維新で職を失った武士に、養蚕等の技術を習わせるところであった。
「そこでの待遇は悪くない」(其待不薄)と林炳讚は書いている。
食事について言えば、軍の主食が米六分麦四分であるのに対して、米だけの飯が供された。
アジア歴史史料センターでは、『対馬に監置する韓国暴徒に係る給与及経費支弁方に付御達の件(レファレンスコード:C03027237900)』において、その待遇をどのようにするかの、費用面での日本側の考えの一端を見ることが出来る。

食事以外にも、外部との連絡をとるのも自由。
面会も許され、実際に長男に会い、また商用で来島した韓国人とも会えている。
必要に応じて、市中での買い物まで許されている。
町に買い物に行った収容者の一人は、町の者に「公らは韓国忠義の士だ。新聞で見て知っている」と言われ「一時の困厄は意に介するな。必ずや帰ることができる」などと励まされている。
収容者の健康管理にも、警備隊は配慮していたようで、崔益鉉が老弱であり、林炳讚が腫瘍の切開をしたこともあって、軍医がしばしば診察や治療に来ている。

そんな中、崔益鉉の健康は12月4日から悪化した。
収容所側は、牛乳を毎日二合を支給し医師を派遣している。
さらに収容所側は、家族に対し電報を打ち、家族を呼び寄せ、看病の為の隊内での居住も許可された。

しかしながら、崔益鉉は粥も薬も吐いて受けつけなくなっており、1907年1月1日午前3時、永眠するのである。

遺骸は警備隊内の陸軍病院前の霊安室に安置され、子供らが通夜。
翌2日、大隊長は林炳讚を呼び、崔益鉉の死を政府に報告したこと、政府の指示により遺骸は子供に与え、喪中の実費は警備隊から支給するむね通告したのである。

これらについては、1月4日に『国事犯ニテ対馬ニ監禁中ノ韓国人崔益弦病死ノ件(レファレンスコード:A04010135700)』という、そのものズバリのタイトルでの報告により、陸軍大臣寺内正毅から内閣総理大臣西園寺公望にあてて、報告がなされているのである。


さて、お笑いの館こと独立記念館では、このことについて何と記載しているだろう?

日本人警備隊長から酷い侮辱をうけ、勉菴は断食で自決しようとした。そして林炳チャンに皇帝への遺疏を書かせた。日本人がこれに驚いて自分たちは警備の責任のみあると、飲食は韓国政府が送ったものであると辨明した。共に流配されてきた義士らが泣きながら食事を勧めようやく断食は中断された。しかし、74歳の老齢から義兵生活と監禁、流配そして断食などによる精神的、肉体的な苦痛と衝撃のため、1個月足らずで流配地にてこの世を去ることになる。それは1907年1月1日(旧暦1906年11月17日)のことであった。


苦しい。苦しいよ、ママン!(笑)



2月24日のエントリーで少しだけ触れた崔益鉉。
今回は、彼の死についての俗説について触れてみたい。
検索すれば分かるとおり、彼の死は断食により死亡したと解説されている場合が、非常に多い。
日本に抵抗した者の最後として、美化された俗説が信じられているのである。
ところが、事実はそうではない。

崔益鉉

崔益鉉は、閔一族派の論客として大院君や、政府要路の失政を強硬な論調で弾劾し、大院君の10年の勢道に終止符を打った人物である。
1905年乙巳條約が締結されると、「倡義討賊疏」をあげて8度布告文を出し反日運動を訴えた。
2月24日のエントリーにおける、第二期の義兵闘争である。
さらに崔益鉉は、弟子であり前全羅南道楽安郡主でもある林炳賛と共に、1906年(明治39年)6月に400人余りの義兵を集めて淳昌で挙兵。
彼は、義兵解散の皇勅をも拒否して戦いに臨もうとしたが、鎮圧に来た軍隊が日本軍でなく朝鮮軍だと知ると、戦うことなく投降したのである。

身柄は日本軍に移され、軍律違反の罪名で監禁三年、その執行は対馬で行われることとなった。
ちなみに『韓国統監府 韓国暴徒処刑に関する件(レファレンスコード:C03022853800)』によれば、林炳賛は監禁二年で、同様に対馬での執行であった。【画像1】【画像2】

対馬の日本警備隊の収容所に拘留されることになった崔益鉉は、そこで生涯を終える。
しかし、その死に関して事実とは違う「伝説」ができ上がったのである。
<崔益鉉は日本の処遇に抗議し、その提供する食事を拒否して餓死した>というものである。

物語 韓国人(ISBN 4-16-660188-1)』の中で、「崔益鉉”断食死”説の誤り」としてこの件を取り上げている田中明氏によれば、その根拠として崔益鉉が死を覚悟して書き綴り、林炳讚に託した国王への上疏文が挙げられているそうである。
崔益鉉の文集『勉菴集』に「遺疏」として収録されているものであり、そのなかの次の句節が伝説を作り上げたとされている。

「伏して念いますのに、臣がこの地(対馬)に入ってからは、一匙[し]の米も、一呷[こう](すすり)の水も、みな賊の手より出るものでありますから、たとえ賊が臣を殺さぬとしても、臣はそれらを摂って自らをおとしめることはできませぬ。そこで意を決して食を拒否することにしました。そうして古人の靖献の義(臣たる者の忠義の道)にならうつもりであります。臣は齢七十四歳、死を惜しむものではありません。」

一瞥しただけでは「断食=抗議の死」は間違いないように見える。
しかし、この断食宣言が書かれたのは、1906年の8月30日である。
そして彼が死んだのは1907年1月1日。
人間、90日以上も断食して、生きていけるものだろうか?(笑)


勿体ぶって、今日はこれまで。(笑)


崔書勉教授

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<インタビュー>「日本自ら独島領有権を数回否定」崔書勉教授

(前略)

-日本の政治家らが独島問題を国際司法裁判所で解決しようと主張しているが。

「4年前のあるパーティーで、駐日ロシア大使が私を見て、『韓国人の話が分かるようになった』と話した。 日本人とクリル列島4島の問題を討論している途中、『合意できなければ国際司法裁判所で解決しよう』と話したところ、日本人が『なぜわれわれ固有の領土なのにそうするのか。話にならない』と答えたということだ。 ところが、独島については日本はずっと国際司法裁判所を主張している。 これは自らの立場が弱いという反証だ。個人と個人の紛争でも、裁判所に行こうと最初に言うのは弱者の方だ。 日本がこの主張を始めたのは1950年代だが、当時提示した根拠は後続研究によって完全に崩れた。日本学者らも否定しているのだ。政府としては、日本政府に新たな根拠があるのなら提示してみろと要求するのが賢明な対応策だ」

裏付けの採りようのない、「日本人」と駐日ロシア大使云々の話はともかく、外務省HPにおいて、

7.国際社会への働きかけについて

(1) 北方領土問題を国際司法裁判所に何故提訴しないのか。
(1) 国際司法裁判所への付託については、昭和47年、当時の大平外相からグロムイコ外相に対し打診をし、これに対し、グロムイコ外相はこれに応ずる考えはないということを明確に述べたという経緯があります。
なお、御承知のように国際司法裁判所は強制管轄権を持っているわけではなく、この問題を国際司法裁判所に付託するためには、当該付託について日露間で合意する必要があります。


とあるように、国際司法裁判所への付託を拒否したのは、ロシア(当時ソ連)側である。

「裁判所に行こうと最初に言うのは弱者の方だ。」-当然ですね。
日本が武力行使を出来ない事を良いことに、好き勝手しているわけですからね。

「日本がこの主張を始めたのは1950年代」-当然ですね。
韓国が竹島の不法占拠を始めたのが、1950年代ですから。

「当時提示した根拠は後続研究によって完全に崩れた。」
脳内論破に興味はありません。

「日本学者らも否定しているのだ。」
一部の学者の異説を一般化するのが、韓国人の悪い癖ですね。
日本は、言論弾圧国家の韓国とは違いますので、当然色々な学説が出てきますから。

「日本政府に新たな根拠があるのなら提示してみろと要求するのが賢明な対応策だ」
脳内論破に基づく、随分と空虚な勝利宣言ですな。


-日本が独島を固有の領土と主張する根拠が、でたらめということか。

「日本政府の固有領土論のバイブルに該当する本は、1966年に川上健三氏が編纂した『竹島の歴史地理学的研究』だ。 外務省の協調を得て、ぼう大な文献を調べて集大成した本だ。 そこには、朝鮮時代の空島政策で人がいなくなった鬱陵島(ウルルンド)と無人島の独島に、日本人が行き来しながら漁業をしたという古文献記録がたくさん提示されている。 それは事実だ。 しかしもっと重要なのは、日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ」


あの、既に論理矛盾してますが、分かってます?
「空島政策で人がいなくなった」-韓国も領有権を放棄してますが?

ちなみに「鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。」とある通り、江戸幕府が禁じていたのは、現鬱陵島への渡航であり、裁判記録に「松島(現竹島)へ渡海の名目をもって竹島(現鬱陵島)に渡り」という浜田家老の言葉のとおり、現竹島への渡航は禁じられておりません。
残念!


-日本も古地図を根拠に独島領有権を主張することが多いが。

「私がこれまで収集したり確認した日本の古地図は1000点を超える。 その中にはもちろん、日本領と表示しているものもある。 しかし地図自体がでたらめなら、その意味もなくなる。 測量技術がなかった時代に誤った地図を写し、でたらめな地図が拡大再生産されたケースも多い。 領有権争いに最も大きな権威を持つのは政府が編纂した官撰地図だ。 日本の徳川幕府は官撰地図を計4回作成したが、このうち独島と鬱陵島(ウルルンド)が出てくる地図は1枚もない。 最後の官撰地図は、正確さでは今でも日本が世界に誇る地図だが、それも同じだ」


地図を以て領有権を主張できるとは、初耳です。
「認知していた証拠としての地図」を、歪曲解釈ですか?
そして、ここでも論理矛盾をおこしてますね。
韓国の古地図の中で、竹島が記載された地図、一枚もありませんから。
韓国では、一般人ですら竹島を認知してませんね。( ゚,_・・゚) プッ
残念!


-歴史教科書問題は4年ごとに繰り返されるが、こうした現象の根本原因は。

「日本の戦犯裁判は連合国が行い、日本人が自らしたものではなかった。 このため日本国民の戦争犯罪に対する認識が不十分な状態だったが、国際情勢に沿って日本と米国が急速に近づき、反省の余地がなくなってしまった。 こうした現象が現在まで続いている根本的な原因は教育にある。 左派は戦争に対する責任を強調して反省するが、非左派は反省をしないという様相が、教育の混乱をもたらしてきた。 教科書に日本の反省が入らなければ、過去の問題はいつでも再燃する混乱の要因となる」


また自爆ですか?
148人のB級・C級戦犯が居る自国の過去をお忘れですか?
ああ、失礼。
罪刑法定主義を無視して、全部纏めて親日派として遡及法作って財産も没収する予定でしたね。

それ以上に、朝鮮半島絡みで裁かれた戦犯を知らないのですが、誰ですか?
そして、「戦争に対する責任」とは何ですか?
大韓帝国とは戦争しておりませんが?
おっしゃるとおり、「戦争に対する責任」については、中国と話し合う事にしますね。
残念!


-日本側には、すでに何度も謝罪をしたのに、またしろというのは不快だという反応もあるが。

「そういう質問を日本人からたくさん受けるが、私はその度にはっきりと言う。 なぜあなたたちは一度で終えられないのか。あなたは謝罪した回数を数えているが、私は総理の謝罪が他の閣僚の妄言によって打ち消される回数を数えていると。過去には閣僚の妄言があれば、総理が閣僚を代えて克服していたが、最近の政府にはそういった誠意が見られない。 靖国神社参拝も総理に問題がある。 日本には戦争犠牲者に弔意を表す機関が2カ所あるが、一つはA級戦犯を合祀した靖国神社で、もう一つは千鳥淵の無名勇士墓地だ。 この2カ所のうち天皇は絶対に靖国には行かず、千鳥淵に行く。 これが何を言っているのか。 われわれは日本人にこうした点を強調しなければならない」


韓国人にかかると、正当な発言でも妄言と言われてしまいますからね。
その度にリセットされてはたまりません。
ましてや「歴史認識の違い」ではなく、「事実に基づかない願望と史実の違い」では、一生溝は埋まりません。
少なくとも、私の子供世代に対してまで、そういった態度をとり続けるのであれば、日韓関係など無い方が良いでしょう。

そして、何度も言いますが、A級戦犯の罪である「平和に対する罪」。
朝鮮半島には全く関係ありませんから。
残念!


-望ましい韓日関係のためにはどんな努力が必要か。

「もちろん日本はもっと反省しなければならない。 しかしわれわれも彼らを悟らせる努力をしなければならない。 彼らがまだ分かっていないものもあると私は思う。何もせずにとにかく怒るというのは健康な方法ではない。 韓国人にはいまだに残る恨(ハン)がある、これが解消されなければ和合もなく未来志向もない、このように説得しなければならない。 われわれが日本に侵略は過ちだと知らせるのに40年かかった」


日本はもっと反省しなければならない?
われわれも彼らを悟らせる努力をしなければならない?
甘えるな。

「何もせずにとにかく怒るというのは健康な方法ではない。」
・・・自分の胸に手を当てて、よ~く考えてみようね。

「韓国人にはいまだに残る恨(ハン)」という理由付けがあるのは知っています。
自らが不利な状況になると、突然「日本人は反省していない」と言うのも知っています。
直接体験をしていない戦後世代に至っても解消されないのを見ると、多分一生改善されないでしょう。
相手をするだけ無駄ですね。


-韓国と日本は宿命的に常に争うしかないという見解もあるが。

「私は日本に長く住みながら、韓日両国の衝突の瞬間を数多く見てきた。 その度にどう解決されるかというと、日本国内で韓国を重視する勢力がある。 韓国でも、われわれが我慢して言い聞かせると、世論が形成されながら問題が解決する。 重要なのは、争っても未来志向という大前提のもとで争わなければならないということだ。 必ず記憶すべきことは、韓国との友好を重視し、韓国文化を尊重する日本人がいるという事実だ。 一人の妄言が国民全体を代弁したかのように考えがちだが、長い目で見なければならない。 沈黙する良心が、声が大きい非良心勢力よりも多いというのは、はっきりしている。 私は日本で安重根(アン・ジュングン)研究会を作って講演していた。 安重根は、日本人が最も尊敬するといわれる政治家、伊藤博文を暗殺した。 何もなければ教育者として人生を終えた人がなぜそうなったのか、その動機はあなたたちが提供したのではないのか、だからあなたたちが安重根をもう一度研究して理解しなければならないと話した。 最近は安重根を欽慕して評価する日本人が増えた。 私はこういうことが韓日間のあつれきを解消するきっかけになると見ている」


日本人の中にも馬鹿が居るのは認めますが、基本的に争いになっているつもりなのは、韓国人だけのようですが?

安重根が、何もなければ教育者として人生を終えたとは珍説ですね。
何もなければ、父親と共に田舎に引っ込んで、ただの両班で人生を終えたと思いますが。

その動機はあなたたちが提供したのではないのか
いえ、このブログで連載したとおり、全くの無知と勘違いにより、一国の指導者を暗殺したのですが?

最近は安重根を欽慕して評価する日本人が増えた?
ああ、「歴史」を学ばない人は、天皇を大好きだった安重根の事を、そう思うかも知れませんね。


-韓日関係に教訓となる事例はあるのか。

「文世光(ムン・セグァン)事件が代表例といえる。 国交断絶の主張まで韓国から出た。 日本も自分たちの何が間違っているのかと反発した。 しかしその時、椎名悦三郎外相が極端な方向へ向かってはならないとして決断した。 韓国に行って朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領に謝罪した。それがきっかけになって韓日関係は回復した。 椎名外相の勇気が今のこの難局を解決するのに必要だと思う」


朴正熙狙撃事件
大阪在住の韓国人文世光によって、大阪の交番から拳銃が盗まれ、朴大統領がそ撃され、陪席していた陸英修同大統領夫人が射殺された事件である。
当初より北朝鮮の関与を疑う韓国に対し、この時「北朝鮮大好き」だった日本マスコミは「自作自演」「自業自得」等と報道した。
また、当然として日本政府も日本の責任を否定した。
ところが、8月20日に金鐘泌が全国放送で、日本の道義的責任に言及し、反日デモが起きたのである。
この時、日本大使館までもが襲撃される結果となっている。
ちなみに、「指切り」はこの時も行われている。
そして、「北朝鮮の脅威はない」「韓国政府の管轄権は休戦戦以南」という『木村外相発言』で、反日デモはさらに加速したのである。
そして「私の政治家史上、最大の屈辱」と椎名悦三郎本人をして言わしめた、、「両国間の永い歴史の中に、不幸な期間があったことは、誠に遺感な次第でありまして、深く反省するものであります」と朝鮮統治について公式に謝罪した件に繋がるのである。

・・・在日韓国人が韓国の大統領を暗殺未遂したことまで、日本の責任ですか。
そうですか。
日本の政治家が安重根に暗殺されたのは、日本の責任ですか。
そうですか。
椎名外相の勇気が今のこの難局を解決するのに必要だと思うのですか。
そうですか。



勝手にやってろ!