ダイナミック・コリア

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このアメーバブログが、4月1日からリニューアルするそうである。
それに伴って、本日午後9時頃から4月1日の午前9時頃までメンテナンスに入るとのこと。
次にブログを書くのは、4月1日の深夜になると思う。
取り急ぎご連絡。


と言うことで、あまり気合いを入れたエントリーを書いても、誰も読んでくれないであろうため、今日は簡単に。(笑)


盧大統領「植民地残滓の清算活動、強化すべき」

盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、最近の韓日問題に関する政府の基本方針および対処策と関連し、「全世界に存在する各種の知識情報資料、文献や記録に残っている植民地の残滓(ざんし)を整理し、きれいに洗い出さなければならない」と強調した。


これ、真面目にやったら愕然とすると思いますが、正面から受け止められますか?
それとも洗い出された文献や記録を、焼却するつもりですか?


盧大統領は同日午前、大統領府で国務会議(閣僚会議)を主宰し、このように述べ、「国家が積極的に乗り出し、植民地の残滓を清算する活動を強化すべき」と強調したと大統領府の金晩洙(キム・マンス)スポークスマンが伝えた。

盧大統領はまた、「(こうした努力は)知識情報分野で韓国の主権を回復する意味合いを持っている」と強調した。


こんなのが権威である国に、知識情報分野で韓国の主権を回復できると思ってますか?
『読めない』情報を集めても、宝の持ち腐れだと思いますが?
というより、回復するような『何か』がありましたっけ?


金スポークスマンはブリーフィングで、「国際文献やインターネット、学術資料に記録されている表記の問題や、過去の日帝植民地支配と関連した事実が歪曲されたまま記述されている部分が相当多く存在しているだけに、これを政府が積極的に乗り出して是正すべきだという意味」と説明した。


本当に言論弾圧が好きですね。
あ、もしかして「過去の日帝植民地支配と関連した事実が歪曲されたまま記述されている部分が相当多く存在している」とは、李泰鎮教授の発表の事ですか?(笑)

それとも「日本語の『竹島』は『独島』に由来」という記事において、普通に考えれば獨島・石島より先に文献に登場する、竹島の呼称の方が当然古く、記事の論法からいけば「タケ→トケ→トク」に転訛する事でしょうか?(笑)

自慰の為の是正要求なら、私のところにも来るかなぁ・・・。
非常に楽しみだ。
まさか国家の行う是正とは、DOS攻撃ではないですよね?(笑)
よし、今後は日帝統治時代について、更にエントリーを増やしてみよう。


また、金スポークスマンは「盧大統領が韓日間の懸案対処への基本立場について繰り返し述べたことを、国務委員に再度強調したと見ればいい」とし、「なかでも、国際文献資料、情報に残っている植民地の残滓清算を特に強調した」と説明した。


という事は、実質的に何も出来ずに終了するわけですな。
つまらないねぇ。
まあ、先の見えた韓国政権の行き着く先は、反日(だけ)ですからね。
いつもの事、或いは季節の風物詩ってところでしょう。

これぞ「ダイナミック・コリア」。


金スポークスマンは「先日、外交通商部が発表した国際地名大使がこの業務に中心となって取り組むことに期待をかけるという意味もある」と述べた。

一方、盧大統領は最近の売春街火災と関連し、「事故直後、女性部長官が直ちに現場に赴き対処したことは非常に適切な措置だった」と指摘した。


はっきり言ってしまおう。
こんな馬鹿な事してないで、経済の建て直しでもしてろよ。
いや、まじで。
 
 
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梁起鐸事件(一)


昨日のエントリーで、尹雄烈を初めとする「国債報償総合所」に、義捐金の流用が知られてしまったベセル。
当然、折角集めた金を使い込まれた韓国人は、激怒した。

1908年8月12日付け『機密号外 (機密受第2142号)』によれば、8月10日に開会された国債報償会韓人委員会において、李康鎬という者がベセルの暗殺を宣言したと報告されている。


また、1908年8月30日付けの『国民新聞』には、次のような記事が掲載されている。

1908年8月28日、国債報償委員会が開かれ、そこにベセルを強制的に出席させた。
委員がベセルに募集金の所在を詰問すると、ベセルは消費したことを認める。
しかしながら、彼は飽くまで不遜な態度であったため委員一同は激昂し、「謝罪と賠償」を求め、ベセルは一言も反論できずに、面目を失った。


この記事を見て、日本はその内容の調査をしている。
何故なら、韓国人の行為ではあるが、その為に事件が起きれば日本の責任となる事が、明らかだったのである。


実は英国から、昨日書いた「往電116号(1908年7月13日)」を初めとして、抗議が続いていた。

7月22日付「来電第4号」では、東京英国大使から寺内外務大臣に対する、「梁起鐸の保釈を許し、なるべく速やかに裁判する事を希望し、且つ、もし梁起鐸を裁判すること無く、いつまでも獄中に留置するような事があれば、将来、英国の法廷に韓国人を証人として召喚することができず、裁判できない状態になってしまう」という抗議が報告されている。

これに対して、8月1日付「来電第11号」で、英国大使と石井外務次官の対談の様子として、次のように報告されている。

1.韓国には法律上まだ保釈制度が無いので、梁起鐸の保釈は出来ない。
2.梁起鐸は、官吏の立ち会いの上、親戚及び内外の朋友に面会できる。
但し韓国人弁護士以外とは、事件に関する話は許可されない。
3.裁判は公開する。
4.公判はなるべく速やかに行う。

そして、これを受けて各官憲に上記を厳訓するよう、韓国統監府に求めているというような状況だったのである。


これに関係して、英国総領事コックバーン(Cockburn)の態度は、ベセル及び梁起鐸を擁護する形で一貫しており、その為に色々と問題を起こし、英国本国から勧告されたりもするのだが、それはまた別の話。


さて、紆余曲折を経ながら、梁起鐸の裁判は1908年8月31日開廷した。
罪状は横領である。

1908年9月25日第四回の公判。
ベセル及びマルタンが証人として呼ばれた。

この公判においてベセルは、報償金の3参万円を コールブラン銀行部から引き出し、之をホームリンガー商会に預け、さらにこれを引き出して、2万5,000円で金鉱会社の株券を買入。
残金5,000円をマルタンに貸し付けたが、担保は何も取らず、且つ500円の月賦返金は、2回程払われたが、利子は受け取っていないと陳述。

マルタンも概ねそれを認めたが、利子は1907年末に数度支払い、その額は3~400円になる筈であると陳述した。

また、ベセルは単に銀行預金高を新聞に広告し、これらの事実を隠蔽したのは何故かと聞かれ、自分の不注意であったと供述。
そして、梁起鐸は単に受け入れた募集金をベセルに交付したに過ぎず、その処分には何も関係していないことを声明した。

このベセルの自白により、横領の共同謀議、あるいは従犯と目されていた梁起鐸は、証拠不十分となったため、検事は公訴の主張を放棄したのであった。


1908年9月29日京城地方裁判所刑事部は、被告梁起鐸に対し、無罪を宣告した。


これにより、梁起鐸事件は一応の解決を見る。

報償金の使途が明らかとなったため、韓人が返還請求の民事訴訟を起こすなら兎も角、刑事被告人としては手続きをしない方針であったようだ。


さて、おなじみの独立記念館を見てみよう。
1907年1月、大邱で国債報償運動が始まった時、梁起鐸は、国債報償運動を積極的に支持しながら全国的な運動に拡大するめに『大韓毎日申報』社内に国債報償支援金総合所を開設し、総務を引き受けた。日本は『大韓毎日申報』が国権回復運動を支持している事実を注目していたが、国債報償運動まで支援すると、梁起鐸に弾圧を加え始めた。日本は根拠もない国債報償年金横領の罪名で梁起鐸を拘束した。その後、『大韓毎日申報』のベッセル社長が法廷で、梁起鐸の無罪を証明することで釈放された。

ベセルが単独犯だと自白したのだから、当たり前だろう。
ちなみに、取調べを請願したのは、李東輝等だから。
残念!



(了)


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バファリン作戦の関連記事も一段落。
本日より平常営業に戻ります。
多分、来客数も元に戻るのでしょうが。(笑)


今日お届けするのは、3月15日のエントリーにおいて少々触れた、大韓毎日申報と国債報償運動についてである。

この時逮捕されたのが、梁起鐸であることから梁起鐸事件。
或いは国債報償金義捐金費消事件とも呼ばれる。

国債報償運動と一口に言っても、受け皿となる窓口は当然一ヶ所ではない。
hitkot氏の調査にある、大邱から起こった「民議所」のように、各地に受け皿が出来ていたようだ。

当然、新聞によってそれら運動を推進していた大韓毎日申報内においても、窓口として「国債報償総合所」が設置されたのである。


義捐金の募集状況は、申報にて順次広報されていたが、そのうちに、梁起鐸が国債報償金を使い込んだ形跡があるので、取調べしてくれと言う者が少なくない数出てきた。
後の調査報告には、李東輝・鄭永沢・李星鎬の三名が連署し、内部大臣に調査を請願した事が記されている。
もしこれが本当だとすれば、身内からの告発という事になるであろう。

(李東輝)

そこで1908年7月12日夜、丸山警視総監が警視庁に出頭を求め、取調べを始めるのである。

ところが梁起鐸が先のベセルの裁判において証言し、ベセルに有利な陳述をしていたため、英国総領事から「裁判陳述によって、将来逮捕するような事が無いように保証を与えたのに、梁起鐸の今回の逮捕は世間の誤解を招く。」という理由により、放免を請求されるのである。

それに対して日本は、「ベセル裁判事件とは全く関係ないため、之に応じる事ができない。殊に梁は罪人として逮捕したのではなく、単に取調べのために出頭を命じ、それに応じて来たのをそのまま留め置いているに過ぎない。」と回答している。(1908年7月13日 往電116号を意訳)


7月15日「国債報償総合所」の所長であり、元軍部大臣であった尹雄烈を取調べた処、総合所に収められたうち3万円は仁川淮豊銀行に、尹雄烈・梁起鐸・朴容圭・ベセルの名で預けている事を供述。

梁起鐸は、毎日申報社に集まった義捐金総額6万余円は、全て一旦電気会社内銀行に預入れ、内3万弍2,300円は総合所に移し、4万2,800余円の内、3万円を仁川淮豊銀行に預け、1万円は1907年7月頃「アストルハウス」主人、仏国人マルタンに貸与したと陳述。

(梁起鐸)

仁川淮豊銀行支配人は営業上の秘密であるとして公表を憚ったが、事実は1908年2月7日、国債報償金総合代理ベセルの名義で金3万円を預け、この預金は2月下旬2万5,000円、4月初め4,000円、4月29日1,000円を引き出し、残金が無い事を明言

これによって、3万円はベセル・財務監督朴容来・梁起鐸の共謀で費消したものとされ、7月18日に漢城裁判所に押送された。


次に仏国総領事がマルタンを取調べた処、1907年9月に、2万7,500円を9朱の利子で、月500円の返済という契約で借入している事を明言。


「国債報償総合所」の所長尹雄烈は、息子である尹致昊に、ベセルに対して淮豊銀行に預けた3万円の所在を聞かせたところ、ベセルは既に引出し、そのうち2万5,000円は電気会社内銀行に預け、5,000円は自分で保管していると答え、米国人コールブランから1908年1月16日付米国砿業会社の株券購入のため、2万5,000円を受け取ったとの証書を提示したが、その日付は淮豊銀行に預ける前であり、その金では無いことは明らかであった。

これら事実により、隆煕2年(1908年)8月17日、尹雄烈は内務大臣に対して3万円をベセルに詐取されたとして、その返還を英国領事に照会するように請願している。


長くなったので、今日はここまで。


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李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)
李泰鎮氏の回答(三)
李泰鎮氏の回答(四)
李泰鎮氏の回答(五)
李泰鎮氏の回答(最終回)


今日のお話は、学術的でもなく、確定証拠も無いお話。
まぁ、余談である。
本来であれば、そういった証拠の無い話はしない。
しかし、面白すぎるこの疑惑を、NAVER総督府内だけで収めておくのも惜しい気がして、公開してみよう。

その「お話」とは、例の『機密第51号』の話である。
しかし、中身の話では無い。
物体としての史料そのものの話。


我々は、朝鮮日報の記事の写真を見た際、李泰鎮教授が『機密第51号』を持って居ないと予測していた。

それは勿論、新聞に掲載された【画像】のせいである。
新聞報道で取り扱うなら、この誤字・脱字だらけの拙劣なメモではなく、原文史料のまま掲載すれば済む話だからである。
そうでなければ、ハングルで説明文を掲載すれば良いだけなのだ。
また、「示セル」の振り仮名も気になった。


しかし、ご承知のとおり回答は、教授自らの手写とのことであった。

そして、その回答の際に、『機密第51号』の一ページ目の写しが添付されていたのである。



李泰鎮教授から送られた『機密第51号』(クリックで拡大)

polalis氏を始めとするグループが、この画像を精査して気付いた点が二個所あった。
それが、今回の疑惑をさらに強いものにしたのである。

まずは、『機密第51号』について説明したい。

従来このブログでは、便宜を図るために下記の画像によって、説明を行ってきた。


公開用『機密第51号』(クリックで拡大)

しかし、外交史料館に複写を申請すると、下記のような状態で送付される。



外交史料館から複写された『機密第51号』(それぞれクリックで拡大)

上のページの左側と下のページの右側である。
外交史料館の複写は、マイクロフィルムからの焼き付けであるため、他の複写物においても、微妙な位置の差異以外ほぼ同様となる。

さて、この前提で次の画像を見てみよう。



左側が教授の複写物、右側が我々の複写物である。
本来有るべきハズの場所に、「中田」の印影が無いのである。
前述のとおり、外交史料館の複写は、マイクロフィルムからの焼き付けである。
無いハズが無い。

他にも教授の複写物には、「号」「メ」「及」「ノ」「聞」のラインにノイズが入っている。
これもマイクロフィルムの傷とは思えない。


次の疑問点は、教授の複写物に透けて見える次ページである。

(クリックで拡大)

これにうっすらと透けて見えるのが、お分かりだろうか?
分かりやすいように、二値化してみよう。

(クリックで拡大)

何が言いたいか。
それは、外交史料館から複写された『機密第51号』をそのまま綴っているのであれば、あり得ない写り方なのである。
一ページ目の右側を複写したときに、次のページの左側がうつりこむ事は無い。

複写史料を、真ん中で切って、それを重ねて保存し、わざわざ透けて見える程薄い紙でファイリングしているとしか考えられないのである。

そのような事をする史家は、日本には居ないであろう。
原形を保つために写真複写したのに、態々原形を崩してしまうからである。
また、業者の使う焼き付け紙は、透けて見えるほど薄くは無い。

ノイズ、印影、透けて見える次のページ、その写り方、朱書された(1)が分からなかった事、そして回答5における「原文書の伝達過程において問題があった」との言。

全てが一定の方向を向いている。

先生、これFAXだろ?
質問状もらうまで、持ってなかっただろ?


我々の質問状が送られてから、回答までに一ヶ月も要したのは、日本の協力者が外交史料館に複写申請して複写してもらうまでに時間がかかり、それを慌ててFAX送信して回答に添付したのではないか、という疑惑である。



もう一つの疑惑は、回答中で李泰鎮教授が幾度も言及されている、市川編纂史料である。

先生、市川史料も読んでないよな?


市川史料の当該部分と李泰鎮メモ(クリックで拡大)

読んでれば、こんな間違いあり得ないから!


協力者にも、もっと勉強しろと言っておけよ(ゲラゲラ



李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
 
 
 
李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)
李泰鎮氏の回答(三)
李泰鎮氏の回答(四)
李泰鎮氏の回答(五)


約一週間にわたる解説も、今日で最終回。
さぁ、盛大に門火を焚いて、埋葬しよう。


質問12

【報告書の作成された日時が、乙未事変の犯人たちに対して開かれた、広島裁判(1896年1月20日)より一ヶ月も前だった点に注目しなければならない。広島裁判法廷には、内田文献と同じ内容はまったく提出されていなかった。結局日本政府は、この報告書で見るように、真相を把握しつつもこれまで徹底して隠してきたということになる。】との記述について。
 
英語版記事に【and sent back to Japan on January 4, 1896.】とあり、ご承知と信ずるが、当該文書の接受日は明治29年1月4日である。
如何なる意図を以て裁判日から、より離れた付日を強調するのか、その意図と学術的意義をご説明願いたい。
 
また、【広島裁判法廷には内田文献同じ内容はまったく提出されていなかった。】と断ずる根拠をお教え頂きたい。提出した記録が無い、というような「悪魔の証明」を用いられないことを切望する。
 
更に、既に繰り返しお尋ねしているとおり、当該文書は【由】字を以て伝聞であることを明示している。
如何なる理由を以て明確な証拠の如く扱い、【結局日本政府は、この報告書で見るように、真相を把握し】と断じ得るのか、その根拠をお教えいただきたい。
 
そして最後に、【徹底して隠してきたということになる】と断ずる根拠をお教え願いたい。この件に関しても、「悪魔の証明」を用いられないよう希望する。  


回答12

第2次報告書は明治28年12月21日字に作成され、本国の外務次官の先に送られました。
明治29年1月4日には外務省政務局が受付し、次官(原敬)と大臣(西園寺、文部大臣代理)が決裁した後に、1月11日には宮内省の侍従長を経て天皇に上奏されました。
廣島裁判所の最終判決はその後の1月20日に成りました。
『朝鮮日報』の記事に29年1月4日字が択ばれていなかったのは故意ではないと思います。
ただ、日本政府の役人がこの文書の事實を公式的に取り扱った時点を、28年12月21日字と提示したこととして理解されます。
今度、第2次報告書が1月11日に天皇に上がったという事實を知るようになったから、私は次のような解釈も可能であると考えています。
すなわち、1月11日にその事件に関して天皇に上げた報告を、日本政府の判断の終決点として見たから、9日後の1月20日に廣島裁判所の「朝鮮事件豫審終決決定書」ができたという推論も可能です。
そうすると、その事件の真相は明治政府の首脳部のみならず、天皇までの皆が知っていたという話になります。


この【報告書の作成された日時が、乙未事変の犯人たちに対して開かれた、広島裁判(1896年1月20日)より一ヶ月も前だった点に注目しなければならない。】は、インタビュー記事における李泰鎮教授自身の言葉である。

【『朝鮮日報』の記事に29年1月4日字が択ばれていなかったのは故意ではないと思います。】などと、わざわざ朝鮮日報を引き合いに出す必要はあるまい。

朝鮮日報の故意ではなく、教授の故意だからね。(笑)

しかも【注目しなければならない】と言っているではないか。

韓国では「受け取ってもいない文書」の内容で、政府内において話が進むらしい。
そのケが無いとは言えないのがキツイ所だが。(笑)


次に、【西園寺、文部大臣代理】とは、真面目に言っているのだろうか?
この時は、西園寺外務大臣臨時代理であろう。
打ち間違いでない証拠に、回答5においても同様の間違いをしている。

これで良く外交史研究が出来るものだ。


そして、質問状において「その意図と学術的意義」、「根拠」の提示を求めているのに対して、「次のような解釈も可能」、「推論も可能」との回答。
そして推論に推論を重ねて、発表した事とは異なる結論。

逃亡した上に恥の上塗りをして、何が楽しい?


ここで再び指摘しておくが、『機密第51号』が何の真相を明らかにしているか、という点である。
質問状の解説にも書いたとおり、当該史料には、誰が殺害し誰が焼いたのか等、実行犯については全く触れられていない。
はっきり言ってしまえば、『機密第51号』は地図に関する説明書にすぎない。

「犯人」すら書かれていない「地図」及び「説明書」を、徹底して隠す必要性など微塵も無いとは考えないのだろうか?

そして最後に、【今度、第2次報告書が1月11日に天皇に上がったという事實を知るようになった】とは、もしかして質問状が届いてから、初めて知ったのであろうか?

もしそうなら、実にお目出度い話だな。(笑)



質問13

【全部で4巻からなる文書集の一部だ】

『朝鮮王妃殺害一件』は全3冊よりなる。
外交史料館で調査を行えば、自ずから明らかである。
如何なる理由から、自ら調査を行った事柄について不正確な発言を行ったのか、ご説明いただきたい。
仮に朝鮮日報側のミスであるならば、その訂正を未だに要求していない理由をお示しいただきたい。


回答13

全3冊ではなく、全4巻として間違えて報道されたのは全的に私の誤りです。
私が日本外交史料館から受けた『朝鮮王妃殺害一件』コピー本はすべて6冊でおり、I-1・2、II-1・2、III-1・2として分冊されています。
因みに、私が記者に「見取図」を見せる時に、このコピー本全体を確認することができなかったのです。
それ大部分が自宅に保管されていたが、その時大学の研究所の仕事で忙しかったため、記憶によって4冊ぐらいと言ったのがそのまま記事に載せられるようになりました。
記事の完了前に正しい冊数を確認して教えていなかったのは失策です。
また、
外交史料館で調査する時に私のノートに記録したものが、原文のコピー本に代って記事に載せられたことも同じ訳からです。
ここに添附したような原文コピー本が新聞社に着いたのは記事作成から6時間も過ぎた後でした。



「外交史料館で調査する時に私のノートに記録したものが、原文のコピー本に代って記事に載せられた」との言葉については、次の項目でも取り上げるので覚えておいて欲しい。
 

 
つまり、史料を取り扱う学者のような身分の方や、学問の徒の行った物にしては酷すぎる手写物は、李泰鎮教授自身のものであったと言っているのだ。

回答8の二回目の解説で述べたとおり、我々は、これは李泰鎮教授の手によるものではないと思っている。

しかし、本人の言を借りるなら、



回答5の解説における「由」を書いたのもご自身。



「示」に「しめ」と振り仮名を振ったのも教授だそうである。
誠に謎な作業工程をしていらっしゃるようだ。

しかし最も驚くべき事は、このいい加減なメモを、記事に掲載する許可を出したということであろう。


次に、確認もしないで適当な事を言い、それが記事になったと。
その程度の準備もなく、記者会見したと。

大学の研究所の仕事で忙しかった?
記者会見を開いて発表し、その日のうちにKBSYTNにテレビ出演したのに?(笑)

知らないとでも思いましたか?(ゲラゲラ



質問14

朝鮮日報掲載史料画像について

朝鮮日報に掲載された史料画像は手写であり、機密第51号の原型を留めていない。
くわえて、原史料の【御】字が失われ、更に【ニ】を【三】と誤写するなど、専門家の作業したものとも思われない。何者が手写したものか、お教え願いたい。
また、斯様に信憑性の欠ける史料画像を掲載することを阻止しなかった理由を、お教え願いたい。
自らの主張の根拠たる史料が、誤った形で朝鮮日報に掲載されるのを看過なさるのは、如何なものか。
同時に、今般の貴下の説が、影印史料に基づくのか、それとも朝鮮日報掲載の画像と同様の手写物に基づくのかも、併せてお教えいただきたい。


回答14

‘御'はもとは私のノート記録にはあったが、新聞のインターネト画像では切られそうです。
22日を23日に書いたのは私の誤りです。


前出の手写メモに関してである。
22日と23日の書き間違いを認めている。
然るに、「御」はノートには記録してあったのに、インターネット画像では切られたそうである。

まずは原史料を見てみよう。




我々の言っているのは、この「王太子妃ノ【御】居間ナリ」の【御】である。
朝鮮日報の画像においては、下記の場所に【御】が入る。



嫌味に拡大してみよう。



もとは私のノート記録にあった?
新聞のインターネット画像では切られた?
随分と器用な編集ですな。(笑)

それとも、欠落した【御】が、どの場所なのか分からなかったという事はないだろうね?

日本では、ここまで拙劣な嘘は小学生でもしないだろう。



さて、ここまで6回に渡り、李泰鎮教授の稚拙な言い訳を解説してきた。

李泰鎮教授が、いかに「結果」から「論」を、「史料」によらず「妄想」によって導き出しているか、明らかになったであろう。

第一、遅くとも1998年には入手した(と言っている)史料の発表を、何故この時期(2005年1月13日)に行ったのであろうか。

国史学に限らず、昨今の韓国学者の「マスコミ発表」は、政治目的、あるいは韓国民の欲求に希求されている。

そう。

今回の発表は、「学問」ではなく「煽動」なのである。

それでは我々はレベルを低くして、史料の取扱いや史料批判等の話から、逐一基礎事項を教えながら再質問しなければならないだろうか?

否である。

我々は、この程度の低い発表と、それに対する質問状、笑える回答、経緯の全てを取り纏め、あちこちに頒布するだけである。
当然その中には、別な「権威」も含まれているだろう。

李教授がそれに気付いたとき、学問の世界において、『裸の王様』となっていようがどうなろうが、我々は関知しない。

我々は、『思い遣り』など既に捨て去ったのだから。


(了)




李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
 
 
 
李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)
李泰鎮氏の回答(三)
李泰鎮氏の回答(四)


毎日、李泰鎮教授の言い訳ともつかない、学者とは思えないレベルの回答の解説をしていると、何だかわけの分からない徒労感に襲われる昨今、皆様如何お過ごしでしょうか。(笑)
さて、解説も本日を入れて後二回。
気合いを入れ直していきます。


質問9

【遺体を燃やしたと記録されている。】との記述について。
 
既に繰り返し指摘しているとおり、当該文書は【由】字を以て伝聞であることを明示している。
如何なる理由を以て明確な証拠の如く扱うのか、その根拠をお教え頂きたい。  


回答9

上の5の答弁を参考してください。
天皇にまで上がった文書なら、関係者たちがそれを事実として認めたことと見なしてもよいと考えられます。


では私も回答5の解説をどうぞ。
と終わってしまっても良いのだが、それではつまらない。

一言だけ言っておこう。

関係者たちが認めた「事実」は、「内田が『誰か(この誰かは、別な史料から明らかであるが、勿論李泰鎮教授はご存じであろう)』から『(4)点ニ於テ焼棄テラレタ』と聞いた事」ですね、と言われたらどうしますか?



質問10

【李泰鎭教授は「室内ではなく、宮廷の庭先で多くの人が見守る中、殺害されたということは、当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」とし、「日本が殺害場所を長い間隠蔽したという点から、彼ら自らこの事件が明らかな蛮行であったことを認めたと言える」と話した。】との記述について。
 
【多くの人が見守る中、殺害された】と【軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する】の間に、何ら論理的な整合が見受けられない。
いかなる規範を以て述べているのか、お教えいただきたい。
 
また、【日本が殺害場所を長い間隠蔽した】と断ずる理由について、【隠蔽】を明示する史料を以て、回答いただきたい。
 
更に、繰り返すまでも無く、当該文書は伝聞を記したものに過ぎないのであり、【隠蔽】の語とは大いに齟齬を来すと当方には思われるが、如何。


回答10

内田第1次報告書によると、日本人たちが景福宮の正門の光化門を通過する時に、日本守備隊の助けによって門を壊して入ったとされています。
記者は、これは軍事作戦と似ていることで見なしてもよいではないか、と質問してきました。
第1次報告書と他の目撃記によると、当時乾清宮の一帯が騒乱の場になったというのは事実です。
小早川などの日本人の弑害加擔者たちの目撃記が、一様に王后を弑害した場所が、坤寧閣の室内だとし、今まではそのように知られてきました。
第2次報告書は『日本外交文書』に収録されておらず、市川の『日韓外交史料』にようやく公開されました。
しかして上に指摘したように、その実状についてはきちんと知られてない状態だので、既存の見解が修正されなかったのです。
何れにせよ市川以前までは隠蔽の意図があったと判断する余地があると考えられます。


【多くの人が見守る中、殺害された】の解釈については、何ら説明が無い。
室内で殺されたとされていた過去の史料は当然として、『機密第51号』にもその記載は無い。
どうやら韓国史学では、脳内ソースで確定できる事項であるらしい。

また、李泰鎮教授が勝手に名付けた内田第1次報告書とは、『機密第36号 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件』であると思われる。
しかしながら、「日本人たちが景福宮の正門の光化門を通過する時に、日本守備隊の助けによって門を壊して入った」などとは、どこにも書かれていない。

書かれているのは、
光化門前二於ケル我守備隊ノ兵営ヨリ、予ネテ用意セル梯子及斧等ヲ領収シ、之レヲ用ヰテ、該門ノ近傍ヨリ高壁ヲ乗リ越シ、門内ニ入リテ番兵ヲ追ヒ払ヒ、内部ヨリ鎖錠ヲ解キ、之レヲ引明ケシカバ」(読点補記。以下引用同)
である。

ここでも李泰鎮せんせいは、史料を読めていない。

残念なことに、今度は新聞記者は居ないのである。(笑)



記事は「宮廷の庭先で多くの人が見守る中、殺害されたということは、当時の状況が刺客による暗殺ではなく軍事作戦同様の宮城占領事件だったことを意味する」であり、門云々が軍事作戦などとは、何処にも書いていない。

つまり、前段部と後段部の繋がりに、論理的整合性が見られないとの指摘には、全く答えていないのである。

ちなみに、「引明ケシカバ」の直後の文言はこうだ。
門外ニ到着セル大院君一行ノ者ハ、俄カニ吶喊シテ門内ニ突入セシガ

なるほど。
大院君主体の軍事作戦だったわけですね?
(ゲラゲラ



次に、李泰鎮教授が勝手に名付けた第2次報告書とは、文脈上『機密第51号』を指すようである。
しかし『機密第51号』の前に、『機密第40号 京城事件顛末報告ノ件』という報告書がある。
もしかして李泰鎮教授は知らないのであろうか。
そのような状態で「新発見」など、烏滸がましいにも程がある。

『日本外交文書』の当該時期(明治 第28巻 第1冊)は昭和28年出版である。
外交史料館は昭和46年開館である。
(この時には『韓国王妃殺害一件』が公開されているのは、これまで書いてきたとおり。)
市川編の『韓国王妃殺害事件』は昭和56年出版であって、外交史料館の公開史料も用いていることが明記してある。

時系列順に並べれば一目瞭然である。
当該文書は、『日韓外交史料』に載ると載らずと、既に外交史料館において公開されていたのである。

そもそも、『日韓外交史料』に『機密第51号』が収載されている事自体、その史料が既に公開されている証ではないか。
よくもまあ「市川の『日韓外交史料』にようやく公開されました。」などと言えるものである。

もしかして李泰鎮教授は、解題すら読まずに資料集を使うのだろうか?
そして、市川資料集を見ていれば、機密第51号が「第2次」では無い事を理解している筈だ。

君、市川資料集、読んでないだろ?


さらに、「隠蔽の意図があったと判断する余地がある」とのことである。
韓国史学界では、裏付けが無くとも、「余地」があれば、あたかも確定事項のように発言できるようだ。

嗚呼、成る程。
納得した。

これが、珍妙な歴史解釈をみせる韓国史学の源泉なのだ。(笑)




質問11

【12月21日に作った今度の文献は、初め明かされたのだ】との記述について。
 
当該文書(機密第51号)は、市川正明編『(明治百年史叢書 第288巻)日韓外交史料 第5巻 韓国王妃殺害事件』(原書房、1981年)に、既に排印の上収録されており、既知のものである。
同書は、日本の80以上の大学図書館や、その他多くの公立図書館にも収蔵されている、いわば基本書である。
にもかかわらず【初めて明らかになったものだ】と主張なさったのは、如何なる根拠に基づいたのか、また如何なる目的によるのか、更に学術上如何なる意義を有するのか、御説明願いたい。


回答11

上の1と5の答弁を参考させたいです。
市川正明の編纂作業は全体的に素晴らしいものであるが、残念ながら内田の第2次報告書の場合は上のような重大な瑕疵があります。


市川正明氏と李泰鎮教授のどちらに瑕疵があるかは、賢明な読者にはお分かりだろう。

質問でわざわざ「排印」と述べたように、市川資料集は編纂資料であり、初めから史料性が制限されているのが当然である。

李泰鎮教授が「もし」、市川資料集について過去に知っていたのなら、1997年まで原本確認をしなかったのは、李泰鎮教授自身の怠慢であろう。

そして、回答10の解説で指摘したとおり、そもそも、市川資料集を見ていれば、機密第51号が「第2次」では無い事を理解している筈であり、少なくとも市川資料集を熟読しているとは言い難い。

市川資料集では正しく読まれている「セル」「御」等々を読めず、「もっとも重要なものである『見取図』」と主張しながら、朱筆で書かれた(1)も見つけられず、解説文に恣意的な主語を勝手に書き加え、誤字・脱字だらけのノートを、史料として新聞に掲載されるのを容認し、公開史料を【初めて明らかになったものだ】と報道機関に発表させ、質問状を受ければ、自らの怠慢による調査不足を棚にあげて、編纂史料に「重大な瑕疵」があると言い逃れに徹する。

君、学者として、恥ずかしくないのかね?



李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
 
 
 
李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)
李泰鎮氏の回答(三) 


今日もさっさと解説していく。


質問6

【報告書は1895年10月8日未明、景福宮に乱入した日本人たちが高宗と明成皇后の寝所のあった乾清宮に侵入した経路と、皇后殺害の地点、皇后の遺体をしばらく安置した場所と遺体を燃やした地点を記している。】との記述について。
 
当該文書に記されている上記に相当する内容は、【由】字から明らかなとおり伝聞であり、【地点を記している】のではなく、地点であると某人から聞いたことを示すものである。
如何なる理由を以て明確な証拠の如く扱うのか、その根拠を、史料を以て回答いただきたい。
 
くわえて、当該文書には【1895年10月8日未明】【景福宮に乱入した日本人たち】を示す記述は存在しない。
何故、存在しない記述を【記している】と捏造したか、お教えいただきたい。
 
以下の【日本人】との記述についても、同様に回答いただきたい。


回答6

「見取図」には侵入経路が線を以て表示されています。
よって、記事に大きな誤りはないと考えます。
“由”字と“伝聞”の問題については上の質問5の答弁に代ります。
また、"景福宮に乱入した日本人たち“に関しては内田の第1次報告書に詳しく述べられています。
記者はこの文書だけではなく、他の1次文書や日本人の目撃記までいろいろ参考したと知っています。
貴下の質問のなかでこの問題について“捏造”という表現を度々用いたのは適切ではないと思われます。



質問状の解説でも述べたとおり、地図の脇に「・・・・・・は光化門より乾清宮に至る順路」という記載があるのみで、『機密第51号』においても何等説明されていない。
何故か。

ここで、質問状の解説の12を思い出して頂きたい。
この時保留してあった、広島地方裁判所検事正の草野宣隆から内田定槌への電信の内容は、以下のとおりである。

「光化門ヨリ国王陛下ノ常殿及ヒ王妃ノ常殿ヘ至ル道筋就中事変ニ関係ノ位置間取距離等貴官等ニ於テ知リ得ラルヽ丈ノ略図ヲ作リ至急送付ヲ乞フ」(明治28年11月11日付)

要するに純粋な意味での「順路」なのである。
そもそも、「進入経路」であれば犯人に尋問するのが普通だろう。

回答2で李泰鎮教授自身が述べられたとおり、日本語にあまり詳しくない事に起因するのであれば、日本語の史料を読めもしないのに、妄想だけでこのような発表を行うな、と言いたい。


次に、朝鮮日報における日・韓・英・中の全ての記事の文責者、兪碩在(Yoo Seok-jae)記者は、李泰鎮教授の「新発見」した史料に全く存在しない言葉を、勉強熱心なあまり「錯誤」又は「誇張」した。

ここで述べられている「他の一次史料や日本人の目撃記」は、勿論今回の『機密第51号』と『附属地図』に、整合する内容なのであろう。

勿論、この後の回答で李泰鎮教授が評価する、「引出サレ」たのが宮女となっている内田の一次報告と、閔妃である『機密第51号』との決定的な内容矛盾をも解決する史料なのであろう。
そこには、必ずや、内田の一次報告に書かれた、日本人と行動を共にした「大院君」や「朝鮮訓練隊」を、無視する事の出来る事項も記載されているに違いない。

これら史料については、当然に李泰鎮教授も知っており、故に記者に訂正も求めず、回答もこのような内容なのであろう。

その、『新発見した史料』と整合する他の史料を提示しろと言っているのだ、大馬鹿者め!

記者に責任転嫁して終了とは何事か。

整合する史料を提示できない以上、やはり「捏造」であると断ぜざるを得ないのである。



質問7

【景福宮内部の細密な平面図】との記述について。
 
当該文書には【固ヨリ精確ヲ保シ難ク候得共概略ニ於テハ格別ノ誤謬無之モノト相信候】と記されている。
にもかかわらず、この地図を【細密】と評して殊更に重視する理由は何か、お教えいただきたい。


回答7

日本外交史料館に収蔵されている「見取図」の原本は細密であるという評価を受けることができる、と思っています。


全く以て回答になってない。
「思っています」とは何であるか。
主観だけで決めつけているとすれば、呆れて声も出ない。


さて、本日は回答8までの説明を以て終了したい。
しかしながら回答8については、既に3月18日のエントリーにて解説済みである。

ならば何故今回、殊更にこれを取り上げるのか。

それは、昨日指摘した致命的なエラーに関係しているからである。



この、(1)の場所。
今まで述べていなかったが、実は我々は、いとも簡単にこれを見つけた。
何故か。

地図原本では、この数字は朱書されているからである。

回答4において、史料原本を見れば分かる2枚あるいは3ページを、5ページとしていた事を併せて考えると、李泰鎮教授は史料原本を見ていない可能性が極めて高い。

また、この後説明する質問13において、外交史料館で教授自らが手写したとしている[朝鮮日報掲載画像]



この『示セル』に、韓国人に不要であるフリガナが為されている事についても、教授が直接見て書き写したのではなく、別の『誰か』によって書かれたとすれば、合点がいくのである。

せんせい。
「新発見」の史料、誰から教えてもらいましたか?


NAVER総督府日報に書かれたように、利権なのか何なのかは分からないが、韓国に阿るかの如き方の言うことを真に受けてるとすれば、足下を掬われるであろう。

連携するにしても、もう少しレベルの高い人と行うべきだと忠告しておこう。

さて、回答1についても思い出して貰おう。

私は関連資料を1997年8月に日本外交史料館で、自ら閲覧してから複写を申し込みし、何ヵ月後にソウルでそれを受けてみました。

(1)の場所が本当に分からないとすれば、この回答1と回答13は嘘である。

逆に李泰鎮教授が、(1)の場所を知っていて意図的にこのような回答をしている場合、回答5は嘘である。
この場合、(1)の場所が長安堂であることを隠蔽しているのであり、日本の隠蔽云々を指摘するなど、片腹痛い。

嘘の上に築かれた楼閣。
それが、韓国史学の権威の正体なのだろう。


李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
 
 
着信アリ 
李泰鎮氏の回答(一)
李泰鎮氏の回答(二)


今日は前置き無しで。


質問4

【The five-page report, written by the Japanese consul in Seoul at the time.】との記述について。
 
当該文書は、本文1枚、地図1枚の計2枚である。
縦しんば本文を2ページと換算しても、計3ページに過ぎない。
どのような換算方法を用いられたのか、お教えいただきたい。


回答4

私が1997年8月に日本外交史料館で複写を申し込みし、後に送らせてもっらた資料が5ページだったから、記者はそのページをそのまま述べそうです。


どうも、送ってもらった資料は5ページに間違い無いようである。
しかしながら、『機密第51号』が折り畳まれて収載されているので、2ページ。
地図で1ページ。



李泰鎮教授の添付してきた『機密第51号』は、このうちの②の部分である。
故に、おかしな複写の仕方をしているわけでも無いようだ。

もしかすると、各新聞に掲載されている、『韓国王妃殺害一件』の表紙も含んでいるのか?



【report】に含めるのもどうかとは思うが、それを含めても4ページである。
全く謎である。

しかし、これによって李泰鎮教授は、原文の『機密第51号』と『附属地図』を見ていないであろう事が予測される。
いや、断定してもよい。
何故ならこの後、そのせいで致命的なエラーを犯すからである。
まあ、それはその際に指摘しよう。



質問5

【1895年12月21日、本国に真相を報告した内容】との記述について。
 
当該文書では【由】字を用い、伝聞を記したことを明示している。
貴下は、如何なる根拠に基づいて【真相を報告した内容】と断じたか、史料を以て回答いただきたい。
なお、先行する通説が十分な根拠に基づかぬ事は貴下自身が既に示されているのであるから、これら言説に依存しての回答はご遠慮願いたい。


回答5

貴下が指摘した‘由’字がどんな意味なのか教えてください。
私は本文書の中でその文字を見つけることができなかったです。
ただ、この文書が単純に他の人の伝言によって作成されたものではないという傍証はあります。
この文書は原本の形で日本天皇に直接に報告されたということが確認されます。
他の人からの伝言による信憑性の低い報告書を天皇にまで報告するほどの無責任な日本政府ではなかったと考えられます。
別に添附した原文書の複写本から見られるように、この文書は ‘再朝鮮國日本領事館’ という表記が刷られている用紙を使え、文書の上段に決裁の過程が表示されています。
それによると、この報告書は1896年1月4日に外務省の政務局が受付し、すぐに次官(原敬)と大臣(西園寺、文部大臣代理)の決裁処理を受けました。
次に1月11日に宮内省の侍從長を経て天皇に上奏されている過程が表示されています。
弑害事件の経緯が日本天皇にまで報告されたというのが文書上に確認されていることは初めてです。
このような事実は資料集として刊行された市川正明の『日韓外交史料』のなかには全然表示されていません。
これが朝鮮日報の記事に反映されていなかったのは、原文書の伝達過程において問題があったからです。
この点は私も非常に惜しがっています。


まずは、上奏に関して。
上奏だから事実で、事実だから上奏されたという循環論法は、とりあえず笑っておこう。(笑)

さて、上奏された文書に信憑性があるという事である。

『機密第51号』と同時に接受され、上奏された『機密第53号』は事実。
上海で発行された新聞に関する報告も上奏されている。
これには「主犯は大院君」と書いており、これも事実。

実は、上奏に関して李泰鎮教授の論法をとると、閔妃暗殺事件に限らず、日本有利な物が多々あり、いっその事その論法を認めても良いかと思うほどである。(笑)

要するに、何によって信憑性を確保するのか、あるいは史料批判はどのように行われているのか、とういう問題である。
馬鹿な循環論法など、必要としていない。


そして、「由」である。
某所において突っ込みがあった部分である。

さて、事件の当事者である三浦を含む日本人等は、10月18日に既に帰朝命令を受け、裁判中。
日本軍守備隊は、第五軍団軍法会議。
朝鮮訓練隊のうち李周會、尹錫禹、朴銑は既に死刑。
ロシア人sabatinは、事件直後に逃亡。
アメリカ人daiは、『十一月廿八日ノ王城事変(レファレンスコード:A04010020500)』所謂「春生門事件」に関与して、証言どころではない。
朝鮮侍衛隊は攻められた時に逃げ散り、目撃どころではない。
では誰の証言であるのか?
何によって、その信憑性が担保されるのか?
どのように史料批判した上で、この文書が【真相を報告した内容】という結論を導き出したのか。

既知の史料と相反する内容であるが故に、当然、色々と疑問が出てくるわけであり、従って質問状において、『如何なる根拠に基づいて【真相を報告した内容】と断じたか、史料を以て回答いただきたい。』と問うているのである。


・・・という解説を用意していたのだが、李泰鎮教授は流石であった。

1.「由」って何?
2.「由」って何処?
3.上奏されたから真相。


嗚呼・・・。



「由」はここにある。



そして、教授自身も書いてる。




そして「由」は、伝聞の意味である。
李泰鎮せんせい、お分かりいただけましたか?


今日はここまで。

李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
  
 
着信アリ
李泰鎮氏の回答(一)


このように回答を解説している間にも、李泰鎮教授の妄想は続く。

「高宗のロシア公館避難」写真、徳寿宮惇德殿と判明

元の資料を確認しなければ断言できないが、記事を見る限り、キャプションも無い写真のようだ。
キャプションも無い写真資料を元に、推測に推測を重ねて、何が判断できるだろう?

我々を釣りたいのか?(笑)
推測だけで成り立っている馬鹿な話に、突っ込むとでも思ったか?
それでなくとも、もう我々の李泰鎮教授への評価は定まっている。
後は、この経緯を粛々とあちこちに晒すだけである。
残念。


さて、妄想は放置して、回答の解説を急ごう。
今回も前段に質問、後段に回答、その後解説という形式で行っていく。


質問2

【この資料は(中略)寝殿の外の庭に引きずり出され、刀に刺され死亡したと記録しており】との記述について。

当該文書には【刀に刺され死亡した】との記述は存在しない。
何故、存在しない記述を【記録しており】と捏造したか、また捏造を行ったのは誰なのか明らかにしていただきたい。
 
更に、当該文書の【引出サレ】に【引きずり出され】の意は無い。
何故斯かる訳語を選択したかも、学術的な意義と意図とをご説明いただきたい。


回答2

『朝鮮日報』記事の資料は主に私が提供したが、記事の叙述は全的に取材記者が担当したのです。
詳しい描写は記者が他の資料まで参照して自分なりに書いたのです。
"刀に刺され死亡した"というのは、記者が前後状況及び他の目撃記に基づいて作成した表現でおり、私が直接説き及ぶ文章ではないです。
提供した文書には"此の處で殺害に遭った後"という記述があり、それに基づいて作られた表現のようです。
私は日本語にあまり詳しくないので、“引出”に関する日本語と韓国語との叙述上の相違、またそれにある程度の問題点があるのか、判りません。
しかし、これぐらいの表現上の問題点を“捏造”と指摘するのは度が過ぎる批判ではないかと思います。
韓国ではこのような場合に、“錯誤”または“誇張”という用語を用いるのが一般的です。


成る程、「記事の叙述は全的に取材記者が担当した」、と。

そして、記者が「他の資料まで参照して」書いたことを知っている、と。
「記者が前後状況及び他の目撃記に基づいて作成した表現」である、と。

何度も言うが、今回の発表の元となった史料を評価しているのは、李泰鎮教授自身である。
そこには、従来の憶測や目撃証言とは違った状況が記載されており、故に従来の史料が信用に値しないことを、自ら示している。

それを、記者が勝手に「他の資料まで参照して」、当該史料『機密第51号』に書かれていない事を書き、その過程を李泰鎮教授は知っていながら、黙認するどころか、記事の資料は主に李泰鎮教授が提供している。

日本では、之を普通『責任逃れ』と言う。


そして、発表した史料に記載されていない事を【記録しており】と書くことは、韓国では「捏造」と言わずに、「錯誤」又は「誇張」と言うらしい。
(苦笑)

敢えて記載しておくが、「捏造」を指摘しているのは、史料に無い【刀に刺され死亡した】の記述であって、【引出サレ】の訳語選択の話では無い。

その【引出サレ】の訳語選択であるが、日本語にあまり詳しくなく、問題点が分からない事を吐露しているので、私的には許してやっても良いと思うのだが、他の総督府メンバーはどうなのだろうか?

また、質問状においては、敢えて朝鮮日報のみを取り上げているが、他の報道も見ているのは知らないらしい。

[動画(字幕付き)wmvファイル 4,745KB]

1分28秒あたりで、ご自身の口から「乱暴な方法で殺し」と言っているのは、恐らくKBSの音声編集の賜物なのであろう。

質問状に記載されていないからと言って、我々を甘く見てもらっては困る。



質問3

【機密文件「韓国王妃殺害一件第2冊」】との記述について。

『韓国王妃殺害一件』は機密ではない。
何故【機密文件】と主張なさったのか、その根拠をお教えいただきたい。


回答3

機密文件『韓國王妃殺害一件第2冊』とはそれが現在の機密文件だという意味ではない。
内田文書が元々“機密第51号”とされているので、記者がそのまま載せたのです。
また、文書の公開以前には機密級として捉えられていたのも事実です。


朝鮮日報の記者、大活躍。(笑)

機密級というか、文書公開前に、その文書が公開されないのは当たり前の話である。

ちなみにこの段階において、李泰鎮教授すら『簿冊』と、そこに綴じ込まれている『文書』の区別がついていない。

簿冊に関しては、外交史料館レファレンス情報(2.省外からの照会 ③)[PDFファイル]でも公開されている。
そして、回答1の解説でも書いたとおり、昭和46年の開館当初から公開されているとの、外交史料館の担当官の言があり、既知の史料である。

また、この簿冊、『韓国王妃殺害一件』に綴られた『機密第51号』の後には、『機密第53号』が。
その後には、李周會他2名(尹錫禹、朴銑)の処刑を伝える『公信第212号』が一緒に綴られている。

「文書の公開以前には機密級として捉えられていた」の公開日を、李泰鎮教授は把握しているのか?


今日はここまで。

李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
 
 
 
李泰鎭の回答も無いので(一)
李泰鎭の回答も無いので(二)
李泰鎭の回答も無いので(三)
さよなら、李泰鎭
着信アリ


3月18日のエントリーに書いたとおり、李泰鎮教授から回答があった。
これに対して、突っ込みを入れていきたい。
恐らく長期戦になると思うが、安重根で10日も書いた私に、怖い物はない。(笑)

まず、メールの本文は、以下のとおり。

Dear kimura sensei,
I attach here two files of answers to your questions regarding Chosun Ilbo article.
Thanks,
Yi Tae-jin


そして、添付ファイルの一部は機密第51号であった。
ここで、李泰鎮教授が機密第51号の原本を、持っていないのではないかという疑念は、完全にではないが払拭された。
というのも、質問状の後に、国内協力者等からそれを得た可能性があるからである。
まぁ、その辺は邪推してもしょうがないので、先に進む事にする。

もう一つの添付ファイルは、docファイルによる回答文であった。
回答にあたっての前文は、下のとおり。

木村○○ 先生 殿

約束した通り、答弁の手紙を送ります。
韓国では三月から春学期が始まり、また私が仕事のため忙しくて返書が遅くなりました。
この点、了解してください。
何よりも詳しい質問を送らせて頂いて、本当に有り難うございます。
ただ、質問内容の一部が私の立場について激しく攻め立てるというか、また“捏造”という言葉があまりにも使えられすぎる、と感じました。
私は貴下の質問の趣旨について先に尋ねましたが、まだその返事を頂くことができません。
しかし、時間的に遅れる恐れがありまして、とりあえず質問について私の理解した範囲から答弁します。
次のように、質問の順序によって答えます。

2005年 3月 14日
ソウル大学 国史学科 教授
李泰鎭


質問の趣旨については、最初の質問状にもあるとおり、『貴下が「明成皇后」に関して新発見をなさったとの報道に接し、興味を抱くと同時に種々の疑問を得ました。』である。
さらに言えば、別途送られた英文では、『I am only a devotee of historical studies.』である。

警戒せずとも、我々に背後など無い。
伊達と酔狂で集まった、物好きの集団に過ぎないのだから。(笑)

そして、次が噂の日付である。
3月18日のエントリーでも書いたとおり、当該docファイルのプロパティは、作成日時3月16日であり、前回保存日時3月18日である。
もし、バレンタインデーに貰った質問状を、ホワイトデーに返す意味合いであるとすれば、本当にJOKEの分かる、面白い方である。
まぁ、これも真実は分からない。


それでは、いよいよ回答文書の中身に入っていきたい。
回答文章は原文ままとし、韓国フォント・旧字体・句読点等は、適宜修正して掲載することとする。
実際に現物を確認したい方は、oneearth氏のブログ、散歩道で確認して頂きたい。

また、前段に質問をあげ、後段に回答という形式をとりたい。
少し冗長になるかもしれないが、ご容赦願いたい。



質問1

【日本側の資料が初めて公開された】との記述について

以下の記事に従えば、ここで云う資料とは内田文書(機密第51号)が該当すると思われる。
しかし当該文書は夙に公開されている。
如何なる理由で【初めて公開】と解されたのか、お教えいただきたい。


回答1

内田文書(機密第51号)が、すでに市川正明の『日韓外交史料』に収録されているのは知っています。
しかし、その文書の中でもっとも重要なものである「見取図」が、その文字が解読されない状態で『日韓外交史料』に載せられています。
よって、その文書の説明している事実が、その意味を読者に伝えることができないです。
私も報道の後に、初めての公開ではないという反論の提起を予想し、それについて記者に意見を問いました。
彼は、この形としては内容を捉えることができないので、私が提示した原本サイズの地図が、韓国では初めて公開されるものとして見なしても良いという意見を出しました。
従って、"初公開"として報道されるようになりました。

私は関連資料を1997年8月に日本外交史料館で、自ら閲覧してから複写を申し込みし、何ヵ月後にソウルでそれを受けてみました。


まず、外交史料館の複写申請に数ヶ月を要するという事は無い。
現に、我々は2週間で原本の複写を得ている。
国外である事や量を勘案したとしても、数ヶ月を要するという事は考えにくい。
しかし、重要な事はそれではない。

ここで読者諸氏に記憶しておいて頂きたいのは、李泰鎮教授が1997年、或いは遅くとも1998年には原史料の複写を入手したと、自白している事である。

次に、回答から明らかなように、教授は市川正明氏の『日韓外交史料 第5巻 韓国王妃殺害事件』の存在を把握している。
しかし、同書においてはpp.68~pp.69にあるように、『本巻所収の資料は、逐一註書する労を省いているが、外務省外交史料館・防衛庁防衛研修所戦史部・国立国会図書館憲政資料室に所蔵されているものであり、一部の資料は米国・韓国からの提供によるものであるが、その性質を究明しえなかったものを附録二・三として便宜上収録した』と、入手可能な資料から収集された旨書かれている。

また、その元となった『韓国王妃殺害一件』については、当該質問の解説にもあるとおり、昭和46年の開館当初から公開されているとの、外交史料館の担当官の言がある。

つまり、当該文書は『日韓外交史料』に載ると載らずと、既に外交史料館において公開されていたのであり、その調査及び原本確認もせずにいたのは、韓国学者自身であろう。


尚、「その文書の中でもっとも重要なものである『見取図』」との主張については、別の回答項目と関連するため、説明は後日とする。
まあ、上記のとおり、公開文書である事に変わりは無いのだが。


次に、新聞記者の言を容れたとしても、それを採用した以上は李泰鎮教授の責任である。
また、それを唯々諾々と受け入れた理由も記載されていない。

それとも、韓国においては、最高学府の教授よりも一新聞記者の意見の方が、権威を持つのであろうか。


質問状の解説に書いた、

韓国国史学の権威ともあろう方が、先行研究の調査・検討も行わずに発表するはずが無い。
必ずや学術的意義を持った「初めて発見」発言だろう。

という見解は、図らずも裏切られたのである。


今日は、ここまで。
嗚呼、本当に長くなりそうだ。(笑)