安重根(七)

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いよいよ安重根が暗殺に向かうまでのお話である。


1909年正月、炯秋(けいしゅう)方面へいき、同志12人と会合して話をした。

「よく考えてみると、特別の団体がなければ何事もできず、目的を達することが困難である。今日、我々は指を切って同盟を誓い、目的を達することを期したいがどうか」と相談した。

全員賛成したので、12人はおのおのその左手の薬指を断って、その血で太極旗(韓国の国旗)の前面に大韓独立という4字を大書し、大韓独立万歳を一斉に三唱して散会した。
これが断指同盟である。

その後、各地に行き教育を勧め、有志を結合し、新聞を購読することを日課とした。

1909年9月、ウラジオストックに到着すると、伊藤博文がまさにこの地に到着しようとしているとの噂で持ちきりになっていた。そこで、真実を確かめるべく各種の新聞を購読してみると、彼のハルビン到着は真実で、疑いのないことがわかった。
これを見て多年の目的を達する時期が到来したと判断。
伊藤暗殺に向けて安重根は動き出した。



これは、安重根が旅順監獄で書いたとされる、遺墨の一つである。
これを見ると実際に薬指が短い事が分かる。
 
しかし、私は大韓独立の血書を為した太極旗を見たことがない。
もし、見たことがあるという方が居たら、教えて頂きたいと思う。
 
他に断指同盟に参加していた11名とは、誰なのだろうか?
興味は尽きない。

独立記念館を再び見てみよう。


その後、露領のウラジオストク、煙秋などを往来しながら同志らと救国の道を探り、1909年には金基烈・白楽吉・禹徳淳など同志達と指を切るといういわゆる「断指同盟」を結成、一死報国を誓っては機会を待った。
1909年9月ウラジオストクから日本帝国主義(以下日帝と略す)侵略の元兇である伊藤博文がハルビンに来ると言う情報を入手、この機会を利用して伊藤博文を殺すことにした。


金基烈、白楽吉は、指まで切って同盟を為したのに、伊藤の暗殺に関与しなかったのだろうか?
名が全く伝わっていないばかりか、当時の逮捕者、容疑者としてすら上がっていないのである。


体調不良により、今日はここまで。
 
 
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安重根(六)

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昨日は、当時の社会背景に力を入れすぎて、安重根の話がほとんどありませんでした。
申し訳ない。

気を取り直して、続きの安重根の演説より。


安重根の演説

「現在、わが祖国の惨状を君等は果してどの程度知っているのか、日本が露国と開戦したとき、その宣戦布告書に、東洋平和の維持、韓国の独立の堅持を謳いながら、今日に至るもそのような信義は守られず、かえって韓国を侵略し、5ヶ条の条約、7ヶ条の条約を結んだ後、政権を掌撞し、皇帝を廃位し、軍隊を解散し、鉄道、鉱山、森林、河川などみんな掠奪してしまった。



独立の堅持を成し遂げるためには、高宗を始めとする、宮中の勢力を取り除かない事にはどうにもならない。
 
現に、鉄道、鉱山、森林、河川などは略奪したのではなく、高宗と閔妃が諸外国に売り払ったのである。
 
挙げ句、その場限りの思いつきによって誠意の無い外交を繰り返し、諸外国にすら呆れられる状況を作ったのが宮中ではないか。
 
情報の不足や歪曲による妄想というものは、なんとも恐ろしいもので、現在の韓国に通じるものがある。


さらにまた、官衙の各庁や、民間の邸宅を兵鈷の必要と称して奪居し、肥沃な田や、昔からの墳墓を軍用地と称してこれを抜掘している。
その禍いは生きているものだけではなく、先祖にまで及んでいる。

その国民たる者、その子孫たる者で、誰がその怒りを忍び、辱しめに耐え得る者があるだろうか。
したがって2千万の民族が一斉に憤起し、国内全体で義兵が各地に蜂起している。
ところが彼の強賊どもは、かえってこれを暴徒とみなして兵を出動させて討伐し、極めて悲惨な殺戮をしている。ここ1両年の間、韓国人の害をこうむるものは10万余に及んでいる。
国土を掠奪し、生霊をはずかしめる者が暴徒なのか、みずから自国を守り、外敵から防禦する者が暴徒なのか。
これはいわゆる賊は武力で討伐しなければならぬとする韓国の法に反するものである。


この辺り、思いこみとプロパガンダが入り交じり、何を示しているのかちょっと想像がつかない。
 
東洋拓殖株式会社法の公布は1908年8月27日、東洋拓殖会社の成立は1908年12月18日であり、1908年6月以前のこの募兵に関係があるとは思えない。
 
一つだけ言えるのは、「韓国の法」など無かった事である。
そして、「韓国の法」が「賊は武力で討伐しなければならぬ」であれば、当然義兵は討伐される。
現に韓国人の警察も義兵の討伐に参加しているのである。
安重根自らが討伐に参加した東学党の乱と、この時期の義兵について、何が違うのだろうか。


日本の対韓国の政略がこのように残虐である根本をなすものは、すべていわゆる日本の大政治家、老賊である伊藤博文の暴行であって、韓民族2千万が日本の保護を受け、現在太平無事で平和が日ましに進むことを願うといつわり、上は天皇を欺き、外は列強を欺き、その耳目を掩うてみだりに自ら奸策を弄して俳道の限りを尽している。
何となげかわしいことではないか。わが韓民族がもしこの賊(伊藤)を処罰しなければ、韓国は必ず滅亡し、東洋はまさに亡びるであろう。


「上は天皇を欺き、外は列強を欺き」というが、天皇も列強も馬鹿ではない。
それでいて文句がつかないのは何故かを、少しは考えたらどうであろうか?


今日、わが韓国人は、この危急の時にあたってどうしたらよいのかと右顧左べんしても仕方がない。
一たび義兵を挙げ、賊を討つほか、他に方法がないのである。

何となれば、現在韓国の内地13道の山河の至るところに義兵の起こらないところはない。
もし義兵が敗北するならば、彼の奸賊どもは、善悪を論ずることなく、すべて暴徒と称して殺戮し、家々は放火されるであろう。
このような事態になって後に、韓民族たる者は、何の面目があって世に行動していけるであろうか。
だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗を顧みることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。


治安を乱すものは、須く暴徒であろう。
残念ながら、この第三期の義兵に至っても、知識人からは否定的見解で見られている。
ただし、一般国民が排日傾向にあったのは事実である。
それは、積極的な義兵支援には向かわず、愛国啓蒙運動の方へ向いていたのではあるが。


もし戦いが不利となっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。
いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の3国と戦いを開くだろう。
これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。
その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。
だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の撥会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。
つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。
したがって、自ら助くるものは天も助くという。
諸君よ、坐して死を待つべきであろうか、それとも瞭起して力を振るうべきであろうか」


安重根の考えによれば、義兵さえ成り立っていれば、独立は保証されるようである。
 
ここに至って、安重根は郭神父の言をすっかり忘れているらしい。
曰く「1に教育の発達、2に社会の拡張、3に民衆の意志の団合、4に実力の養成」である。
これらの理念は、義兵運動ではなく愛国啓蒙運動にこそ通ずる。
故に国債報償期成会や、愛国啓蒙運動に参加したとの話が、どこからともなく出てくるのであろう。
 
ただ、安重根自身、石炭鉱の採掘が日本人の妨害で失敗した事に触れているにもかかわらず、愛国啓蒙運動を行った事を『安応七歴史』に書かないということは、やはり眉唾物の話であると思うのである。
それでなければ、hitkot氏の調査結果の如く、触れてはならぬ事なのであろう。(笑)
 
最も、安重根の書いたことを、全て本物と仮定しての話だが。。。

尚、これによって安重根は300人の義兵を募ることに成功し、「参謀中将」に選ばれたそうである。
のちの公判でも、安重根は「義兵の参謀中将」として伊藤博文を撃ったことを強調している。


1908年6月、安は義兵を率いて豆満江を渡った。昼は伏して夜に行軍して咸境北道に到着し、日本兵と数回衝突した。
その際、日本兵数人を捕虜としたが、釈放したことがある。
これを知った義兵将校の間から不満の声があがり、「苦労しながら生け捕りにした者を釈放するのであれば、我らは何のために戦っているのかわからないではないか」と難詰した。
それに対して安重根は言う。
「賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行ってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我等が劣勢で、彼らは優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠行義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱少な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である」

その後、日本兵の襲撃を被り、戦闘4、5時間におよび、将卒みな分散し、生死の判断もつかなくなり、数10人と林間で野営した。
2、3日食事もとれない状態での中で飢えと寒さをしのぐ内、舞台は烏合の衆となって四散した。
さらに安重根は、12日間にただの2回食事を取っただけという中で山野をさまよい、ようやく豆満江にたどり着いた。


残念ながら、どの戦闘が安重根のグループの物であったか、定かではない。
アジア歴史資料センターの『韓駐軍 賊徒討伐行動畧図並死傷表の件』の6月・7月の分(レファレンスコード:C03022933700:C03022933800:C03022934300)において、咸境北道における戦闘が一度だけある。
7月11日の戦闘である。
 
但し、この7月11日の戦闘が、安重根率いる義兵のものであるのかは不明であり、まして日本軍が捕虜にされた記録は無い。


さて、この時代について、笑いの宝庫独立記念館にはどう書かれているかを見てみよう。


しかし、光武皇帝(高宗)の廃位と軍隊の解散など、国が植民地の状態に陥ると、再び海外に出て李範允・金斗星らと義兵を起こした。
隆煕2年(1908年)義軍中将になり、義兵部隊を連れて咸鏡北道に進撃して、慶興・会寧などで対日抗戦を展開した。


アジア歴史資料センターに、面白い史料が二つあるので紹介して、今回は終了しておく。

『第6号 韓駐軍 図們江の暴徒に関する渡過参謀の報告の件(レファレンスコード:C03022934000)』

これは、当時最大と思われる3,000人以上の勢力を有していた李範允の、図們江(朝鮮名:豆満江)渡河襲撃を行ってきた時の概要である。
残念ながら、安の名は見えない。

『第8号 韓駐軍 豆満江対岸暴徒中主なる者の姓名偵察の件(レファレンスコード:C03022926000)』

標題のとおり、図們江(朝鮮名:豆満江)の有力な暴徒の姓名の記録である。
 
名簿のある2ページ目から見てみよう。

安重根の名は無い。

3ページ目

無い。

4ページ目

・・・。

恐らく、日本軍の情報収集は甘かったのであろう・・・。
 
 
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安重根(五)

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連載化している、安重根シリーズの第五弾。w
前回は、第三期義兵闘争までの経緯を書いた。


(韓服を着た当時の韓国統監 伊藤博文)

それでは、第三期の義兵闘争の内容とは、いったい何であっただろう?

防衛庁からの戦史 義兵闘争 日韓併合直前期韓国抗日武力闘争を見てみよう。
 
それによると、日本軍と義兵の衝突回数は多い月には100回を超しているが、初期段階においては、電信線破壊等後方擾乱行為以外にも、日本軍の輸送隊を襲撃して物資を奪うなど、義兵側が日本軍に対して攻撃を仕掛けている戦闘事例が2割程度あり、義兵の積極的攻勢が観察される。
 
一方、日本側の攻撃により開始された戦闘及びいわゆる遭遇戦はそれぞれ約4割であるとされている。

また、その後の情報収集と態勢構築、帰順者を免罪し生業を斡旋するなど柔軟な施策により、さらに義兵の旗色は一層悪くなっていく。

事実、1907年末から1908年前半にかけて義兵の戦闘犠牲者数はピークを迎え、追いつめられた義兵は山間僻地に身を潜め、日本軍との直接の戦闘を回避する傾向がいっそう強まったそうである。

実際、戦闘詳報を見てみよう。
アジア歴史資料センターにおいて、「韓国駐剳軍 戦闘詳報」あるいは「韓駐軍 戦闘詳報」で1907年~1910年を検索すれば分かるが、1907年末から1908年前半における報告数は非常に多い。
 
人数的には30~100人規模の集団がほとんどであるが、それなりに苛烈な抵抗があった事が窺える。
但し、1908年後半から戦闘詳報の数は激減しているのは、記述にあるとおりである。

それら戦闘詳報のうち、前述の防衛庁からの戦史 義兵闘争にある、1907年9月19日の日本軍3名が約300名の義兵の攻撃に耐えた戦闘は、リファレンスコード:C03022894600(8画像目9画像目)で。
1908年2月28日の義兵の火縄銃が、雨で発火しなかった戦闘は、レファレンスコード:C03022911300(20画像目21画像目)において確認できる。

1907年10月を過ぎる頃になると、レファレンスコード:C03022895000[画像]で見られるように、日韓併合を推進した事で有名な一進会による通報による出動も目立ってくる。
 
11月前後には土地の人間による通報も、散見されるようになってくる。
また、同じ頃から徐々に義兵による略奪も出てくる。
 
これらは、防衛庁からの戦史 義兵闘争によれば、「義兵と称しながら、実際は盗賊団・犯罪者集団に過ぎなかったものも少なくない」と好意的解釈をしている。
普通の解釈をすれば、「補給を受ける事の出来ない義兵は、略奪するしかなかった」であろうし、悪意的な解釈をすれば、「最初から略奪は行われていたが、初期は義兵の積極的攻勢による拠点防衛が主であり、略奪には気付かなかった。日本軍が攻勢に転ずるに当たって、それら略奪行為が露見した」となるであろう。

人的被害については、義兵による民間人の被害者600名、義兵の戦死者は約17,000名、他方日本軍のそれは百数十名と書かれているが、これに該当する史料は発見できなかった。
 
代わりに、1907年7月から1908年5月までの被害が、レファレンスコード:C03022933600に見ることが出来る。[画像]
 
それによれば、日本側死亡者は、将校3、準士官1、下士卒52、憲兵4、警務局と警視庁を併せた日本警察28、韓国警察27、日本人居留民が75人であった。
一方、義兵のそれは、13,445名であった。
韓国人民間人の被害についても当然あるわけで、レファレンスコード:C03022919100において警務局の1908年4月分の調査結果を見ることが出来る。

このような武力による抵抗があった一方で、より合法的に保護国からの脱出を図る動きも出てきた。
 
愛国啓蒙運動である。
 
国権回復のため、言論・出版・教育・学会(啓蒙団体)活動等を通じた実力養成(=自強)を目標とした運動であり、1906年前後からその活動は始まっていたようである。

韓国忠南大学校人文大学の朴賛勝教授による『韓国近代政治思想史研究 民族主義右派の実力養成運動論』の言を借りれば、その運動は大きく分けて四つに分類されるという。

伊藤博文の暗殺後に来た韓国謝罪使と共に、伊藤博文の墓参りを行った事。
及び、李完用から合邦反対運動費として、金一万円を受け取った事(レファレンスコード:B03050610400 20画像目29画像目)で一部の人に有名な、大垣丈夫を顧問とする、保護国下での自強をめざす「先実力養成・後独立論」の立場より、義兵闘争は民族を滅ぼすものと激しく非難した「大韓協会系列」

日朝両国が独立を維持しつつ同盟を結ぶ事には賛成、保護国化には反対。
しかし、保護国化の一次的責任は自らにあるとして「先実力養成・後独立論」の立場をとり、義兵闘争にも批判的な主張を展開した、張志淵・朴殷植らを中心とした「皇城新聞系列」

アジア連帯論自体に批判的であり、保護政治は征服者の収奪のための政治にほかならないと断じ、当初の「先実力養成・後独立論」の立場から1909年ごろ「先独立論」に転向した、梁起鐸・申采浩等が分類される「大韓毎日申報系列」

主張はほぼ「皇城新聞系列」と同様であるが、指導者の団結と国民の実力培養のための人格修養を、国権回復運動における優先課題とした、安昌浩・尹致昊らを中心とした「青年学友会系列」である。

年代的には、1898年9月5日刊行の「皇城新聞」の系列が最初になるのであろうか?
いずれにしても、愛国啓蒙運動については知識不足であり、そのうち書く機会を得たいとは思う。

ここから派生し、具体的に広がった運動の一つが「国債報償運動」であろう。
韓国においては、日本が強制的に巨額の借款をさせたため、国民の力で国債を返そうと、国債報償運動が広がったが、日本の弾圧によって挫折させられたという運動とされている。
この国債報償運動については、hitkot氏が詳細に調査されているので、紹介したい。

・韓国の歴史教育に学ぶ、記録の取捨選択と歴史の建て直し [PART-1]
・韓国の歴史教育に学ぶ、記録の取捨選択と歴史の建て直し [PART-2]
・韓国の歴史教育に学ぶ、記録の取捨選択と歴史の建て直し [PART-3]
・韓国の歴史教育に学ぶ、記録の取捨選択と歴史の建て直し [PART-4]

要は言いがかりであって、肝心の資金は国債報償期成会の幹部が使ってしまっていたのである。
安重根は、ある韓国人の主張では国債報償期成会関西支部長にされている。
もちろん、それを示すような史・資料は、私はついぞお目に掛かった事がない。

武力による義兵運動。
文筆による国民の啓蒙を目指した愛国啓蒙運動。
二つの独立への流れが、この時期の朝鮮半島には確かにあったのである。
惜しむらくは、ほとんどの場合「独立後どうするか」という展望が欠けている部分であろう。

さて、随分と長くなってしまったが、安重根の話に戻ろう。
この時期の安重根は、何をしていただろう。


1907年、伊藤博文が韓国に来て7ヶ条の条約を約定し、光武皇帝を廃し、軍隊を解散したので、韓国人2千万人の怒りが一斉に吹き出し、義兵が方々に蜂起して、砲火が各地に広がった。

安重根は早々に旅支度をととのえ、家族一統に別れをつげて、北間島に到着した。
来てみると、ここも日本兵が来て駐屯し、足の踏み場もない有様なので、やむなく3ヶ月間各地方を視察後、ロシア領に入ってウラジオストックに到着した。
ここには4、5千人の韓国人が居留し、学校が数校あり、また青年会もあった。
安は同志を募り、義兵をあげるべく各地を演説して回った。


具体的行動は、ここに至ってもまだ出てこない。
次回は、この演説に突っ込んでみたい。

・・・って今回は、安重根の話じゃないね。(笑)
 
 
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「慰安婦」報道 朝日に訂正記事要求 有識者ら300人シンポ

戦時中の慰安婦をめぐるNHKの番組が政治家の圧力で改変されたと朝日新聞が報じた問題で、NHKと朝日双方の責任を問う有識者のシンポジウムが24日、東京・本郷の文京区民センターで開かれた。パネリストたちは「そもそも『慰安婦の強制連行』というこれまでの報道が誤報だ」として、朝日新聞に訂正記事の掲載を求める運動を行うことを確認した。

約300人が参加。冒頭、藤岡信勝拓殖大教授は昭和天皇を「強姦(ごうかん)と性奴隷制」の罪で裁いた政治集会「女性国際戦犯法廷」の不当性を指摘。番組のビデオやカットされた部分を検証しながら、偏向した集会を取り上げたNHKを批判した。

一方の朝日新聞も平成3年以降、「慰安婦は強制連行された」「強制性があった」との報道を続けてきた。同年8月、「女子挺身隊の名で連行された元慰安婦が重い口を開いた」とする記事を掲載したが、この女性が連行ではなく人身売買されたことが西岡力東京基督教大教授の指摘で判明。翌年1月には「朝鮮・済州島(現韓国)で『慰安婦狩り』が行われた」とする証言をコラムで紹介したが、作り話だったことが秦郁彦・元日大教授の現地調査で明らかになっている。朝日新聞はいずれも明確な訂正記事を掲載していない。

シンポには、西岡、秦両氏のほか、元朝日新聞記者の評論家、稲垣武氏が出席。それぞれ「慰安婦問題ではなく朝日の誤報問題だ」「朝日の誤報がなければNHKも偏向した番組を制作しなかった」などと述べ、朝日新聞に訂正記事の掲載を求めていくことで一致した。



ようやく識者によって問題提起が為されようとしている。
重畳。
 
1月24日のエントリーにも書いたが、「挺身隊」=industory wokerを、従軍慰安婦=comfort womenと混同させる原因を作ったのは、千田夏光である。
 
そして、昭和58(1983)年、吉田清治著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」が刊行された。
この本の中の、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」として、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」が、朝日新聞によって報道された。

これに韓国が飛びつく。
そしてそれは、「女子挺身勤労令」1944年(昭和19年)勅令第519号のみならず、「国家総動員法」 1938年(昭和13年)法律第55号まで混同させているのである。
 
「慰安婦」と「挺身隊」、「女子挺身勤労令」と「国家総動員法」の混同と曲解に基づく、妄信。
 
これは、日本人の勉強不足な輩も同様の傾向を持っている。

故に、このような裁判が起きるのである。



勤労挺身隊員の訴え棄却 名古屋地裁 「日韓協定で賠償解決」

第二次大戦中、勤労挺身(ていしん)隊員として、三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場(名古屋市南区)で働かされた韓国人女性と遺族の計七人が、国と三菱重工業(本社・東京都港区)を相手取り、総額2億4000万円の損害賠償と公式謝罪を求めた「名古屋・三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟」の判決が二十四日、名古屋地裁であった。佐久間邦夫裁判長は「日韓協定の締結により、損害賠償は請求できない」として、原告の請求をいずれも棄却した。

原告らは日本の植民地だった朝鮮半島の国民学校に通い、十二歳から十五歳だったころ、日本人校長らから「日本の女学校で勉強しながら、働いて給料がもらえる」などと勧誘されて来日した。しかし、実際には通学できず、給料ももらえずに労働を強いられたとして、賠償を求めた。

判決は、「日本で厳しい労働に従事し、給料も払われず、
韓国では勤労挺身隊員は慰安婦と同視されていた」と原告の主張をほぼ認めた。しかし、一九六五年六月に締結された日韓協定について、「日韓両国と両国民の財産や請求権に関する問題は、完全かつ最終的に解決された」と認定したうえで、「協定締結以前のことへの請求権については、何ら主張することができない」とした。

判決言い渡し後、原告の女性は法廷に座り込んだり、原告席のいすをたたいたりして、「これだけ待ったのに、ひどい判決だ」と日本語で泣き叫んだ。弁護団らは「すべての請求が排斥されたことに強い憤りを禁じ得ない。原告らが生きているうちに、国、三菱重工の謝罪と賠償を勝ち取るべく、今後も全力を挙げる決意だ」との声明を出した。



さて、韓国の虚飾に彩られた「歴史」が、このような悲劇を招いている。
と言うより、ハッキリ言わせて貰えれば、日韓協定に基づく請求権の完全なる解決・慰安婦と挺身隊の同一視、いずれも韓国の国内問題である。
日本を相手に訴訟をして自慰行為に耽るかの如き所行は、もういい加減にして欲しい。

戦後60年。
日本人は、いつまで過大な「優しさ」や「思い遣り」によって、近隣諸国の自慰行為の手伝いをするつもりなのであろうか?


「韓日友情の年」なのに、ネチズン「独島妄言」を糾弾


駐韓日本大使の独島(ドクト、日本名・竹島)関連の発言が伝えられた後、ネチズンが憤怒している。外交通商部(外交部)のホームページには24日、およそ200件の抗議文が殺到した。とりわけ、韓日国交正常化40周年であり、両国政府が合意した「韓日友情の年」に、こうした突出発言があったことについて、ネチズンは激しく非難した。

あるネチズンは「今年が『韓日友情の年』だというが、果たしてこれが友情か」とし「主権国家のプライドがかかっているだけに、厳しく対応すべき」だと強調した。一部のネチズンは、駐日韓国大使の召還と駐韓日本大使の追放まで求めている。あるネチズンは「韓国の首都で起きた日本大使の妄言に接した後、うっ憤のため眠れなかった」とし「外交的損害を甘受してでも駐日韓国大使の召還など厳しい対応を取るべき」と主張した。

だが、憤怒するよりは実利のため慎重な姿勢を示すべきだとの見方もある。あるネチズンは「いくら悔しくても日本大使を追放したりしてはだめ」とし「そうする場合、独島問題が国際社会の懸案になり紛争地域化する可能性が大きく、そうなれば、むしろ日本を助ける結果になる」と話した。



この記事にも見られるとおり、韓国人の求める友好とは、彼等の妄想に基づく自慰行為を、無批判に手伝い、彼等の故無き被害者意識と自尊心を、「優しさ」や「思い遣り」を以て満足させてやる事なのである。

そろそろ決着をつけよう。

ウリ党院内代表「駐日大使の召還検討すべき」


望むところである。
願わくば、歴史教科書問題によって召還するも、全く効果が無かったため、10日余りですごすごと帰ってきた前回を忘却しておらず、不退転の決意で行って欲しいものである。
 
 

安重根(四)

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昨日は、日韓議定書の締結日。

高宗の中立宣言と共に、非常に疑問の残る話ではあるのだが、アジア歴史資料センターにも、その過程は皆無。

WEB上でも、従来の通説「高宗の中立宣言を無視し、京城を占領。日韓議定書を無理矢理締結させた。」ばかりで、根拠が何であるのか、誰が誰とどんな交渉を行ったのか、さっぱり分からない。

こちらの大韓帝国の項目で、
「1904. 1月日韓議定書案がまとまる中、 1.23の調印を前に1.21戦時局外中立を宣言、調印は声明承認を条件にする。 2. 4御前会議で対露開戦を決定した日本は、仁川に臨時派遣隊を上陸させ、日本軍の韓国駐屯と韓国の協力を規定する 2.23日韓議定書を調印。」
との記述を発見したが、これも何等根拠が不明である。
よって、もう暫く調査してみたい。


さて、安重根である。
先日は、安の父である泰勲の「山東、上海等に一族で移住し、その後善後策を図ろう」という言に従い、山東、上海に向かった安が、またもフランス人神父の言に従い、「使命」の実現を決意した所までであった。

このことについて、独立記念館はどのように書いているだろうか?

中国の上海に渡り国権回復の道を探した

素晴らしい。
民族の英雄を守るためなら、トリミング&歪曲も辞さずのようだ。

それでは、復習も済んだ所で、一昨日の続きといこう。


1905年12月、安重根が上海から故郷に帰ると、父は亡くなっていた。
安はこれを聴いて痛哭し、気絶すること数回に及んだという。
このときから安は日常の酒を断ち、その期限を大韓独立の日までとした。



これが本物の火病というものか。
実は、身の振り方について相談した当時、泰勲は心身ともに疲労し、病気も極めて悪い状態にあった。
それを知りつつ長旅をしたにも係わらず「何故火病?」とは、恐らく聞いてはいけないのだろう。


明けて春3月、資財をなげうって学校を2ヶ所設立して青年たちの教育にあたった。
また平壌に行き、石炭鉱の採掘を始めたが、日本人の妨害によって損害を被ること数千元に及んだ。



この辺り、全く資料が無い。
学校の設立については、「三興学校と敦義学校を設立」とされている。
恐らくはカソリック系の宗教学校か、書堂の類の私塾だったのであろうが、詳細は調査不足である。

いずれにしても、安の家が相当な資産家であったことが伺える。
さすがは両班。
北朝鮮において安重根が評価されない原因の一つに、このようにブルジョアであった事があるのかも知れない。


1907年、伊藤博文が韓国に来て7ヶ条の条約を約定し、光武皇帝を廃し、軍隊を解散したので、韓国人2千万人の怒りが一斉に吹き出し、義兵が方々に蜂起して、砲火が各地に広がった。


韓国併合までの義兵闘争は、大きくわけて三つに分類される。

第一は、1895年11月頃から儒者らを中心に、東学農民軍の残党が加わった義兵である。

閔妃殺害事件、断髪令などがその理由とされているが、露館播遷の際に書いたとおり、切っ掛けは親ロシア派による策謀である。
もちろん、安重根同様に韓国の民族的英雄とされている殺人鬼の金九が、1896年2月に何の関係も無い陸軍中尉の土田譲亮を、閔妃の敵討ちとして殺害したとされるように、閔妃殺害事件の影響が無かったとは言えない。

しかし、『朝鮮ニ於ケル電線関係雑件 第一巻(レファレンスコード:B04011011500 96画像目~)』にも見られるように徐々に品位が堕落し、金銭での馴致が計画され、逆に金欲しさに暴徒に加わる者さえいるだろうと予想される始末。

一方、儒林の巨頭崔益鉉が、「吾頭は可断だが、此傍は不可断」と断固断髪を拒否したように、儒者は儒教の教えに基づき、断髪にこそ反対したのであった。

第二期は、安重根が上海に行っていた頃、1905年11月の第二次日韓協約以降に本格化する義兵運動である。

この頃も守旧派政治家・儒者が主であるのだが、西洋文明に一度触れてしまった民衆は、儒教的価値観の時代には戻れない事が明白になっていた。
そこで、儒教価値観の固守から、国家の独立は守るが西洋文明は受け入れるというように、運動の方向転換をするのである。

後日、詳細を記す事になると思うが、この時期の義兵闘争はほとんどが閔宗植と崔益鉉の運動に集約される。

そして1907年。
当時、日本の目指していたのは、日本と同様の立憲君主国家の樹立であったと思われる。
甲申政変、甲午改革と同様、そのまますんなり改革のレールに乗っていれば、恐らく併合は無かったであろう。
ところが・・・である。

財政改革で、王室費と国庫が分けられたからかも知れない。
予算制によって、好き勝手に使えなくなったからかもしれない。
喫煙までして協力した国債償還運動の寄付金が、誰かによって使い込まれたからかも知れない。

ハーグ密使事件という、国際社会にも完全に無視された愚行によって、高宗がそれをぶち壊したのである。
協約を破られた日本も激怒したが、当然、改革を進めていた李完用内閣も激怒した。
高宗の責任を追及し、退位に追い込んだのである。

これによって純宗が皇位に就き、さらに厳しい第三次日韓協約の締結となった。

第三次日韓協約には不公表の覚書があった。
その覚書の第三により、皇宮守衛の一大隊を除いて、韓国軍は解体されてしまうのである。
これにより、職を失った軍人が義兵部隊に合流し、全国に拡大した。
これが第三期義兵闘争である。

・・・長くなったので、今日はここまで。


竹島に関する近代年表

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昨日は、竹島が島根県に編入されて100年の日だったのですね。
2月6日のエントリーに、トラックバック貰って気付きました・・・。_| ̄|○

ということで、本日は安重根をお休みして、竹島問題に関する年表を掲載。
もちろん、茶々を入れながら。

1849(嘉永2年)
フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見

1900年(明治33年)4月
大韓帝国政府は、禹用鼎を鬱陵島周辺の調査へ/6月に報告書を提出

1900年(明治33年)10月25日
この禹用鼎らの報告を受けて、大韓帝国、勅令41号を発布

大韓帝国官報より勅令41号
(韓国が竹島編入としている勅令41号の「石島」は、緯度・経度等の位置も不明であり、この時一度しか出てこない)

1904年(明治37年)9月29日
中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出

1905年(明治38年)
閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とする
2月22日
島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかにする

(1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。つまり、竹島編入についても、この時期韓国は抗議可能であった。)

5月17日
島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
6月5日
島根県知事、中井養三郎外3名に対しアシカ漁業の許可をする
7月22日
海軍人夫38名竹島に上陸し、仮設望標を建てる
8月19日
島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察

1906年(明治39年)3月
竹島(独島)視察 島根県第3部長神西由太郎外43名

1939年(昭和14年)4月24日
島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
 
1940年(昭和15年)8月17日
島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ

1943年11月27日
カイロ宣言

1945年7月26日
ポツダム宣言

1946年1月29日付
連合軍総司令部覚書SCAPIN第667号
6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.

Potsdam Declaration(ポツダム宣言)より
(8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu,Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.


Cairo Declaration(カイロ宣言)より
Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914.


領土規定ではないことは明確である。

1946年6月22日
マッカーサー・ライン

SCAPIN1033より
5.The present authorization is not an expression of allied policy relative to ultimate determination of national jurisdiction, international boundaries or fishing rights in the area concerned or in any other area.


1951年3月アメリカ最終草案を韓国へ提示
7月、韓国は竹島も列挙するよう要求

(ワシントン)1951年7月19日
秘密
主題 対日平和条約

出席者 ユーチャン・ヤン博士、韓国大使
ピョーウーク・ハン氏、韓国大使館一等書記官
ジョージフォレスター・ダレス大使
アーサー・B・エモンズ氏、朝鮮担当第三事務官

韓国大使は、本日午後二時、事前の面会約束によってダレス氏を訪問した。
ヤン博士は、会談の開始に際し、韓国政府が対日平和条約に組み入れることを考慮して欲しいと希望するいくつかの点を掲げる国務長官あての公文(添付資料)をダレス氏に提出した。
(中略)
ダレス氏は韓国大使の伝達文第一項が対馬島に言及していないことを指摘し、韓国大使はこれが落とされたことに同意した。
次いでダレス氏はドク島、パラン島二島の位置について尋ねた。
ハン氏は、これらは日本海にある小島であり、大体鬱陵島の近くだと思うと述べた。
(注 場所も知らない馬鹿が、領土の主張をしています。)
ダレス氏はこれらの島が日本の朝鮮併合前に朝鮮のものであったかどうかを尋ね、大使は肯定した。
ダレス氏は、もしそうであれば条約中の日本による韓国領土の領土権放棄に関する適当な箇所に、これらの島を入れることについて、特に問題はないとした。


8月、米国、上記要求を拒否

国務次官補(ラスク)から韓国大使への書簡より
書簡をもって啓上いたします。
 
本官は、対日平和条約草案に関し若干の点について合衆国政府の検討を要請する1951年7月19日付け及び8月2日付けの閣下の書簡を受領したことを確認する光栄を有します。
 
草案第2条(a)を日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。
 
合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する、日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を、条約がとるべきだとは思いません。
 
ドク島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。
 
この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。
(中略)
本官は、以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かって敬意を表します。


その後、講和条約発効まで上記文言は修正されず

1952年(昭和27年)1月18日
サンフランシスコ平和条約の発効直前の3ヶ月前のこの日、韓国政府が突然に李ラインを宣言し竹島を含める。
李承晩大統領の海洋主権宣言により、朝鮮半島周囲の水域に設定したラインに含まれていたのである。

日本政府は2月8日に抗議。
それは、日本が外交権を欠いていた空白の時代を突いたモノでもあった
これが、1953年の武力占拠に繋がっていく。

1952年(昭和27年)4月28日
サンフランシスコ平和条約発効

1953年(昭和28年)6月27日
島根県、海上保安庁共同で竹島を調査し、韓国人6名に対し退去命令をし、領土標識(木柱)を建てる

1953年(昭和28年)7月
海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける
韓国政府は、竹島に領土標識を建設する

1954年(昭和29年)2月10日
日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号

1954年(昭和29年)7月頃から
竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐。
宿舎、燈台、監視所、アンテナ等が設置され、年々強化されている模様。

1954年(昭和29年)9月25日
日本政府は、竹島紛争について、国際司法裁判所に付託して、公平な第三者の裁判による解決を韓国に提案

1954年10月28日
韓国が付託の拒否の覚書を提出

1965年(昭和40年)6月22日
東京で日韓基本条約の調印、竹島問題は紛争処理事項とされる

1996年2月8日
韓国外務部は竹島に接岸施設の建設を行う旨発表。

2002年8月12日
韓国環境部が、鬱陵島・独島を国立公園に指定を決める。


2003年4月24日
独島に郵便箱を設置


2004年1月16日
日本の中止要請にもかかわらず、韓国は独島切手を発行


2004年12月26日
韓国環境部が、鬱陵島・独島の国立公園指定を保留にする


寒流もいい加減にして、さっさと国際裁判所で解決しましょうね。
 
 

安重根(三)

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第三話である。

『東洋平和論』においては、日露戦争の日本の勝利を賞賛している安重根であるが、『安応七歴史』においては、昨日のエントリーのように洪神父から「露国が勝利すれば露国が韓国の主人となり、逆に日本が勝利すれば日本は韓国を管轄するだろう」と言われていたのである。
話を『安応七歴史』に戻そう。


洪神父から「露国が勝利すれば露国が韓国の主人となり、逆に日本が勝利すれば日本は韓国を管轄するだろう」と言われた安は、日々新聞・雑誌および各国の歴史などを読んで、過去、現在、未来の展望を推測した。 日露戦争講和締結の後、伊藤博文が韓国に来て政府を脅迫し、5ヶ条の条約を締結し、韓国の全土2千万におよぶ韓国民の心も騒然として、針のむしろに座るような状態になった。


5ヶ条の条約とは1905年11月17日の『第二次日韓協約』である。
事、ここに至って韓国人が騒然としているが、1904年2月23日の『日韓議定書』の時点で既に軍事・外交を制限され、1904年8月22日の『第一次日韓協約』の時点では、外交の他に財務に関する事項まで制限されていたのである。

 伊藤博文

そもそも当時の大韓帝国は、1894年の洪範14条の改革理念すら全うすることが出来ず、『第一次日韓協約』によって目賀田種太郎が財政顧問に就任するまで、予算・決算制度すら確立していなかったのである。

一方で、1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権
豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権など、高宗と閔妃によって、利権は次々に売り渡されていた。

これらの利権を失い、且つ税の整備、金融・商工業の発達をなしえなかったため、1906年の日本の改革による予算編成時には、3,000万円前後必要であった歳入は、748万円しか無かったのである。
つまり、国家として完全に破綻していたのだ。

韓国統監の設置という目に見える形になるまで、あるいは目に見えてからさえ、大韓帝国の人民はその内情を理解できなかったのであろう。


この後、安重根は父とひそかに相談する。
それは、「日露開戦の時、日本が宣戦布告書の中に、東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にするとあったにもかかわらず、いま日本はその大義を守らずに野心的侵略をほしいままにしている。これはすべて日本の大政治家伊藤の政略であった。先に条約を定め、次いで有志党を滅ぼし、最後に国土を併合し、これまでの政府を減ぼして法を新たにした。若し速やかに手を打たなければ、禍いはいよいよ大きくなるだろう。手を束ねて策もなく、ただ坐して死を待っていることがどうしてできようか。しかし現在、義兵を挙げ、伊藤の政策に反対しようとすれば、彼我の力関係からして無駄死にするだけである。聞くところによると、清国の山東、上海等の地に韓国人が多数居留しているということなので、われわれ一族もそれらの地域に移住し、その後で善後の方策を図ったらどうだろうか」というものであった。



安親子は、もう当時の大韓帝国が、政治的にも経済的にも軍事的にも自立できない国である事に気付いていない。
まして、この時点では併合もされておらず、政府も滅ぼしてなどいない。
法を新たにするのは、旧泰然としたシステムの改革を行うには必然である。


父との話し合いに従って安重根は旅に出、山東等の地を歴遊し上海に到着。
そこで偶然、旧知のフランス人宣教師郭神父に遭遇した。

郭神父の「お前はここへどうして来ているのか」との問いに、安は韓国の惨状を示し「現状がこのとおりで、どうすることもできないので、やむをえず、家族を伴って外国に移住し、しかる後、在外の同胞と連絡し、あまねく列国に現状を説明して、賛同を得た後、時期の至るのを待って事を挙げ、目的を達成しようと思う」とうち明ける。

郭神父は、「家族を外国に移住させるというのは間違いである。2千万の韓民族がみんなお前のようにしたならば、国内はまさに無人になってしまい、これは、相手の望んでいる通りにすることになる。フランスがドイツと戦争をした際に領土(アルサス・ロ-レン地方)を割譲したことはお前も知っているところである。以後、現在にいたるまで40年問、その地を回復する撥会はしばしばあったが、この地の有志党が去って外国に退避してしまったので、いまだにその目的を達することができないでいる。これを以て前車の轍と為すべきである。(略)古書にも、天は自ら助くるものを助くと述べられている。お前は速やかに国に帰り、先ずお前の使命の実現に努めなさい。1に教育の発達、2に社会の拡張、3に民衆の意志の団合、4に実力の養成である。この4件が確実に実現するならは、すなわち2千万同胞の決意は盤石のものとなり、千万門の大砲で攻撃されても破壊することができない。これ、いわゆる匹夫の心奪うべからずと言うものであり、いわんや2千万人の決意を奪うことはできない。そうだとするならば、奪われるところの領土は形式のみであって、約定されたところの条約は紙上の空文にすぎず、全く実質がなくなってしまう。このようにした上で事を成せば必ず目約を達することができるだろう。この策は万国普遍の例である。よく自分でこの間の事情を考慮してあたれ」と説いたのである。
安重根はこれを聴いて、「先生の言うことはもっともであり、これに従って進む」と答えた。



奇しくも安重根の父が20年前に外国留学を不意にされたように、甲申政変、甲午改革において、教育、社会の拡張、実力の養成については試みられて来たのである。
それを叩きつぶしたのは、閔妃であり、高宗であり、両班階層であり、儒者であった。
本質的問題として「抗日義兵」ではなく「革命」が必要だったのであり、郭神父の説諭は、20年遅れたものだったのである。

既に国家破綻してしまったこの時期、時既に遅しと言わざるを得まい。


安重根(二)

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昨日のエントリーに引き続き、テロリスト安重根のお話を「安応七歴史」より。


東学党の乱の征伐を行った安は、その後キリスト教へ入信する。
安重根もフランス人宣教師洪神父から洗礼を受けた。
洗礼名は多黙といった。



フランス人なのに、何故に「洪」?と思ってはいけない。
中国でも日本でも韓国でも、良く外国人名は漢字による当て字がされる。
基本的には漢字の発音に相当するようなものが多いが、今のところ「洪」の本名は不明である。


1904年、仁川港湾において日露両国が戦火を交えたという手紙が来た。
洪神父が嘆いて、韓国の将来は本当に危いと言っていた。
安がそのわけを聞くと、洪神父は、「露国が勝利すれば露国が韓国の主人となり、逆に日本が勝利すれば日本は韓国を管轄するだろう」という。



日露戦争である。
洪神父はかなり正確な情勢判断をしている。
最も、裏返せばこの頃には既に諸外国によって、朝鮮王朝自体に統治能力は無いと思われていたのである。
いや、寧ろ開国以降、朝鮮王朝を所謂「文明国」として見ていたのは、日本だけであったのかも知れない。

安重根自身は、「安応七歴史」同様に、旅順の獄中で書かれた「東洋平和論」の中で、日露戦争についてこのように記載している。


日本の天皇の宣誓書には、東洋平和を維持し大韓独立を強固にすると書かれていた。
そのような大義は青天白日の光線より勝っていたのであり、韓・清の人々の智恩を論ずる事無く、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。
もう一つは、日露の開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日までの日本に対する仇敵の心情がたちまち消え、かえって、一大愛種党となるにいたったのであり、これまた人情の順序であり、理に合うものであった。



韓国の民衆はそう思ったかもしれないが、宮中は以前のエントリーのとおり仏館播遷計画、ロシアへの保護請求、日露戦争に日本が勝てないと思っての再度の露館播遷計画、戦争直前の中立宣言など、「黄白両人種の競争」とも思わず、ただ自らの保身に汲々としていた。


快なるかな、壮なるかな。
数百年来、悪を行い続けてきた白人種の先鋒が、鼓を一打しただけで大破してしまったのである。
日露戦争の勝利は一千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。
だからこのとき、韓・清両国の有志は、はからずも同じように、自分達が勝ったように喜んだ。



日露戦争に、日本が勝った事は、韓国民衆にとっても快事だったのであろう。


安重根(一)

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安重根。
明治の元勲、伊藤博文を暗殺したテロリスト。
韓国では、勲章まで授かっている民族独立の英雄である。

安重根


安重根が、旅順獄中において書いた自伝「安応七歴史」を参考に、話を進めたい。


安重根は1879年7月16日、黄海道海州府首揚山麓に、安泰勲の三男一女の長男として生まれた。

父親の泰勲は俊才のほまれ高く、8、9歳の時にはすでに四書三経
(朝鮮では、四書五経ではない)に通達し、13、4歳の時にはあらゆる書物を読破してしまったという、所謂神童であった。

1884年頃、泰勲が京城に滞留していた際、朴泳孝が、政府を革新し国民を開明に導こうとして、優秀な資質の青年70人を選んで外国に派遣し、遊学させようとした際、泰勲もこの一人に選ばれた。

ところが、政府の奸臣たちが朴を、反逆を企てるものであると無実の汚名をきせて逮捕しようとした。
朴は日本に逃がれ、その他の同志は、学生達とともにあるいは殺戮され、あるいは遠隔地に流刑に処せられた。


所謂「甲申政変」と、その後の閔妃の要請に基づいた、清による王宮奪回の件であろう。
 
但し、これでは『政府の奸臣』が閔妃になってしまう点、『反逆を企てるものであると無実の汚名をきせて逮捕』ではなく、実際にクーデターを起こしている点を知らなかった、あるいは気付いていないことが分かる。


1894年、安重根は16歳で金氏の子女を娶って、二男一女を生んだ。

この頃、韓国の各地方ではいわゆる東学党が蜂起し、外国人排斥を名目にして郡県を横行、役人を殺害し、民衆の財物を掠奪した。
官軍はこれを鎮圧することができず、そのために清国が出兵し、日本も出兵して、日清両国の問に武力衝突が起き、大戦争になった。
(日清戦争)
泰勲は東学党の暴行に耐えがたく、同志と団結して、檄を飛ばして義兵を挙げ、狩猟者を招集し、その妻子たちまでも隊伍に編入し、70余人の兵力で清渓山の中腹に陣どり、東学党に抵抗した。
このとき、東学の首魁元容日が徒党2万余名を率いて長躯して押し寄せてきた。
安重根はこれに夜襲をかけて撃破した。


東学党の乱である。
韓国においては、「甲午農民運動」あるいは「東学革命」とまで言われている。
一部の韓国人の間では、抗日運動の一部として理解されているようだが、実際は李朝後期の政治の紊乱、貪官・汚吏の不道徳、税金の過重、そして特に外国勢力の浸透に対して、社会改革・外国勢力の排斥をうたった運動である。
 
『外国人排斥を名目にして郡県を横行、役人を殺害し、民衆の財物を掠奪』、この時代の朝鮮民衆は、壬午事変を見ても分かるとおり、いつもこの様である。
もちろん、この傾向は、3.1運動にもその後の独立運動にも引き継がれてた。
この東学党の暴行に怒った安重根の父は、70余人の兵力を率いて抵抗、安重根は、2万人という人数は過剰としても、これを撃破するのである。

・・・あれ?
民族独立の英雄が、「社会変革・反侵略に対する朝鮮民衆の意志と闘争力量を示した民族運動の一大転換点とされる運動」を、叩きつぶしてしまいました。
どうしましょう?

韓国の独立記念館を見てみよう。


1894年甲午農民運動の時、父親と一緒に銃を持ち、東学革命に乗じて道内で民間人に被害を与える群れの討伐に出たこともある。



・・・( ゚,_・・゚) プッ
 
 
 
2月14日のエントリーで書いた、李泰鎮(イ・テジン)教授への質問状
一週間を過ぎようとしている本日、今度は英文にて同様の内容を送付した。
すると、直ぐに返事が返ってきた。

日本語による質問に対する返事が一通。
英文による質問に対する返事が一通。
全て、拙い英語による返答であった。

当然、我々は韓国の学者は矜持など無く、逃亡すると思っていたため、これには驚愕した。
返事を頂けたことに対して、まずは李泰鎮(イ・テジン)教授に敬意と謝意を表する。

さて、返事の中身を見てみよう。
要約すると、以下の四点である。

1.三月中旬に回答する予定である。
2.回答の際の参考にしたいので、貴下の身分を知りたい。
3.回答はNAVER(日韓翻訳掲示板)上で公開されるのか?
4.NAVER(日韓翻訳掲示板)に公開するか否の返答があれば、回答を作製する助けとなる。


・・・・・・。
・・・・・。
・・・・。
・・・。

質問状の内容は見て貰えば分かるとおり、基礎的な内容に過ぎない。
史料を発見し、それを以て記者会見まで行っているのである。
回答に一ヶ月もかかると言うのは、どういった了見であろう。
そこまで史料批判も吟味もせずに、記者会見で公表したということであろうか?

次に、相手の身分に何の関係があるのであろうか?
こちらが学者であれば回答し、そうでないならば適当に「右翼」認定してあしらうという事か?
それとも、相手が学者であれば、之に泣きつくつもりであろうか?
日韓関係において、常に日本人が引き下がると思っているのであれば、大間違いである。

もちろん回答は公表する。
それは、NAVER(日韓翻訳掲示板)に止まらない。
無論、メールアドレス等、李教授の個人情報に関わる事は公開しないのは、勿論ではあるが、ありとあらゆる方法で、返答に関しては公開するであろう。
記者会見を開いて公表したにも係わらず、それに対する質問は闇に封じ込めるということであろうか?
それとも、何か公開されると困ることでもあるのだろうか?
これを以て、回答を拒否するのであれば、同教授は今後「日帝の隠蔽」を指弾する資格が無い人物に成り下がるであろう。

最も今現在においても、私は李泰鎮(イ・テジン)教授が質問に対する回答をするとは、夢にも思っていないのだが。(笑)