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『原爆に一矢報いた回天多門隊』 ――伊五八潜のあげた奇しき大戦果


 鳥巣建之助 (元海軍中佐・第六艦隊水雷参謀)



 米海軍史上最悪の一ページ

 「長い激しい戦争は終わった」――ワシントンでは一九四五年八月十四日午後七時、トルーマン大統領が新聞記者会見をし、夫人および閣僚たちとともに大きなテーブルを前にして、この重大発表を行った。午後八時、大統領はホワイト・ハウスの南側玄関に現れ、待ちかまえていた大群衆に戦勝の挨拶を行った。

 この戦勝の報にアメリカ全土がわき返っているちょうどそのとき、米海軍はコミュニケ第六二二号を発表した。

 「インディアナポリスはフィリピン海面にて敵と交戦し沈没した。家族には連絡ずみ」

 この短い文章に米海軍史上最大の悲劇がつつまれている。終戦ぎりぎりアメリカ海軍が、回天特別攻撃隊多門隊の一艦、伊五八潜から受けたこのパンチは、アメリカ海軍史上最大の悲劇になったばかりでなく、海軍首脳部を徹底的に苦しめ、深刻な衝撃をアメリカ全国民に与えた。

 ニューヨーク・タイムスがその三日後、八月十七日にかかげた次の社説は、これを端的に物語っている。

 「……インディアナポリスの沈没は、わが海軍史上最悪の一ページである。……その悲惨な物語は、われわれが勝利を得た今日、もっとも悲しい記録である」

 戦争中はもちろん、多くの大被害があった。

 空母フランクリンは一九四五年三月、沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、乗組員七百七十二名を一挙に失った。しかし空母は助かり、乗員の消火作業や応急処置は輝かしい功績として海軍史に光っている。

 巡洋艦ジュノーは一九四二年(昭和十七年)十一月十三日ガダルカナルの夜戦中、伊二六潜(艦長横田稔中佐)に雷撃されて六百七十六人を失った。そのとき付近にいた味方の艦が、生存者を救助しないで現場を去ったために、助かったのはたったの七人きりであった。次に戦死者の多かったのは、一九四三年十一月二十四日、伊七五潜(艦長田畑直海軍中佐、戦死)に雷撃された空母リスコムベイである。同艦の火薬庫は一瞬にして爆発し六百四十四人が戦死したが、千五百メートル以上離れた戦艦ニュー・メキシコの艦上へ人間の肉片や鉄のかけら、衣類のきれっぱしが雨のように降ってきた。

 しかしこれらは皆な激戦中のことであって、敵(日本海軍)の方にも手ひどい損害を与えている。ところがインディアナポリスの場合は、相手にかすり傷一つ負わせていないのである。

 戦勝の日の夜、戦死した九百人の家族には、深刻な悲劇がもたらされた。「戦闘中行方不明」という恐ろしい言葉を記した電報が、海軍人事局から次々に発信され、なかには大統領の劇的な戦勝発表のあと、祝杯をあげているところへ悲報が届いた家もあった。

 この悲劇は、日本がこうむった原爆のそれとはくらぶべくもないが、少なくとも、その原爆を運搬した軍艦がたどった悲惨な末路には、何か深い因縁のようなものを感ぜずにはおられない。

 私は、当時のことをまざまざと思い起こすのであるが、同年七月三十日朝、伊五八潜から「……アイダホ型戦艦に対し魚雷六本発射、三本命中、撃沈確実」という電報が届いた。「やった!」と第六艦隊司令部に快哉の声が湧いた。だがそれが、われわれの顔に笑みが浮かんだ最後であった。

 戦後、伊五八潜の撃沈した軍艦が重巡インディアナポリスであり、広島と長崎に投下した原爆を米西岸からテニアンまで運搬したのち、レイテに向かう途中で撃沈されたものらしいことがわかった。ところが、この軍艦を撃沈した伊五八潜艦長橋本以行中佐が、アメリカ海軍軍法会議の証人として、わざわざワシントンまで召喚されたと聞いて、これは唯事ではないと思った。


 見えない運命の糸に引かれて…

 昭和二十七年ごろ、私はたまたまアメリカ陸軍情報部に戦時中勤務していたという二世のアメリカ士官に会った。彼は終戦ごろ、サイパンにいたらしいが、当時インディアナポリスの沈没をめぐって異常な空気が察せられたこと、そして、第三の原爆を積んでいたのではないかとの噂、その原爆は札幌か新潟に投下される予定だったらしいなどの風評が流れていたことを話してくれた。もちろん半信半疑であったが、異例の軍法会議を第三の原爆と結びつけ、或いはそうだったかも知れぬと考えていたのである。

 ところが、三十四年、リチャード・ニューカム著、亀田正訳の『総員退艦せよ』(米重巡インディアナポリスの最後)という本が刊行され、初めてその真相を知ることができた。

 第三の原爆はデマだったらしい。だが、それにもまして奇々怪々な事情が、軍法会議を開くことを余儀なくし、敗戦国の潜水艦長を証人に呼ぶという、きわめて稀有な結果になったことがわかった。

 そこで、インディアナポリスが撃沈された経緯を綴ってみよう。

 昭和二十年七月十六日の午前、伊五八潜は呉軍港を出港して行った。岩壁を離れて行くこの潜水艦に対する見送りは、まことに盛んであった。いやそれ以上に熱誠あふれるものであった。軍人たちはもちろんだが、呉工廠に働く工員や女事務員、女子挺身隊の人々が、熱心に帽子やハンカチを振った。

 当時、呉工廠の大半はB二九の爆撃で破壊され、呉の市街も中心部はほとんど焼きつくされていた。かつて港内に所せまいまでに碇泊していた戦艦、空母はじめ大小無数の軍艦は、もう見ることができなくなっていた。遠く外洋に出て、敵に一矢を報い得るものは潜水艦だけである。見送るものの気持ちが、出撃して行く潜水艦乗員に電波のように伝わって行った。

 ちょうど、この同じ日に、広島と長崎に投下する予定の原爆を搭載した重巡インディアナポリスが、奇しくもサンフランシスコ港から西へ向かって出港した。運命の糸が、いまや、伊五八潜とインディアナポリスを不思議な力で一点に引き寄せはじめたのである。

 伊五八潜は十六日午後、平生の回天基地に入泊して、作戦用回天の搭載をはじめた。

 十七日朝、出陣式を終えた伴修二中尉、水井淑夫少尉、林義明、小森一之、中井昭、白木一郎の四人の一飛曹は、六名の整備員とともに伊五八潜に乗り込んできた。平生基地を出港し、豊後水道入り口で深々度潜航をやってみると回天の潜望鏡に水滴が発生して、見通しがきかない。そこで直ちに反転して平生に帰り、換装を行って十八日朝改めて出撃した。

 水井少尉は形見の扇に筆を走らせ、林一飛曹はさらに一日、花壇に水をやることができた。

 十八日夕刻、豊後水道を抜け、高速之字運動をやりながら、敵潜水艦が伏在するかも知れぬ海面を突き抜ける。やがて伊五八潜は広い洋上へ出た。


 橋本艦長は、昼は対空レーダー、夜は対空および対水上レーダーを極度に活用しながら、艦隊命令に示された目的地点に向かって進撃を続けた。


書籍『回天』(回天刊行会発行)より



  その一  その二  その三  その四  その五

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