パンドラの箱が開いてしまったかもしれない2014年



ガザ侵攻の記事についての追記

昨日の記事、

「大量の犠牲」の時代に呆然としながら
 2014年07月21日

を書いた後に、イスラエルに住んでいる日本人のお知り合いからメールをいただきました。


その方はイスラエルに住んでいますけれど、特にイスラエルを擁護する立場でもなく、もちろん非難する立場でもないということを記しておきたいと思います。

昨日の記事で私の書いたことは、ともすれば、まるでイスラエル側だけの非で、一方的にガザの民間人を殺戮しているような印象を与えてしまっています。

しかし、実は私自身、昨日の記事を書きながら、「どうもおかしいな」と感じていたことがいくつかありしまた。それはたとえば、下の写真です。

gaza-babies-350.jpg
Daily Mail


爆撃で亡くなった赤ちゃんを抱いて歩いている「父親」たちと書いたのですが、

ふつう、爆撃の真っ只中で、子ども、特に小さな赤ちゃんがいる父や母が「その赤ちゃんを別の場所に置いたままにする?」


とは思ったのです。

私は自分の子どもの赤ん坊時代は奥さんと交代で育てていたのですが、普通の「自分の子どもに対しての感覚」だと、危険時には何が何でも「絶対に子どもから離れない」という意志が、戦争ではなくとも、何かの危険な状態の場合の親の態度ではないのかな、と。

まして赤ちゃんなら抱きしめたまま、少しも自分の側から離したりしないはずです。

つまり・・・。

子どもが爆撃で死亡したのなら、「親も死亡している」のが普通なのではないだろうかと。

なのに、デイリーメールには、他にも多くの写真があり、そこには亡くなった子どもや赤ちゃんたちを抱きながら大勢で歩いたり、亡くなった赤ちゃんを前に泣いている「大人」たちの多くの姿があります。


何だか遠回しな書き方になっていますが、今回のガザ侵攻で「子どもの大量死が発生している理由」は、冷静に考えてみれば、そして、それをハッキリと書けば、

イスラエルも、そし


て、ハマスも、どちら


も、子どもの命に対し


ての残虐性を提示す


る結果を導いてい


る。


と思われるフシが数多くあります。

しかし、それは単に私の推測でしかないのですし、何より、そんなことがどうであるとしても、とにかく毎日、「子どもの大量死」が発生し続けている。

すべての初子を撃つ」と旧約聖書「出エジプト記」に記されて以来、数多く起きている子どもの大量死の中でも、最大クラスの地獄が進行していることだけが事実で、どちらが良い悪いという意見は私は持ち合わせません。


ところで、そのイスラエルのお知り合いが言うには、実際のイスラエルの攻撃からガザ地区で民間人の被害が出るまでの流れとしては、以下のようなものらしいです。


・イスラエル軍は爆撃の前に攻撃対象となっている施設(学校・病院など)から出るように通告する。

・しかし、ハマスは、攻撃される際に住民が建物から出ることを許していない。

・攻撃前に施設や建物から住民が逃げる場合、ハマスは罰する(殺害する)ので住民は留まる。




その後にイスラエルによる攻撃が始まり、結果として、建物に残った子どもたちを含む大量の民間人の犠牲者が出るということになっています。

昨日の記事で書きました、2009年のガザへの攻撃の際の、

兵士の死者  235人
・民間人の死者 960人(うち、子どもが288人)


という「いびつな構造の理由」も、ここにあります。

なぜなら、ハマスの兵士本人たちは「爆撃される建物から離れている」はずですので、爆撃の犠牲になる確率が低くなるからです。しかし、彼らは、

「民間人は建物から出てはいけない」

としている。

そのため、攻撃しているのはイスラエルでありながら「民間人や子どもの被害者の数を大きくしている」という意味では、ハマス側も死亡した民間人に対して同じ罪を持っていると感じます。

私 のような平和ボケした考えでは、少なくとも、「子どもたちだけでも攻撃される可能性のほとんどない、つまり、軍事的に攻撃される意味のない野っ原かどこか の場所に移動させる」だけで、ずいぶんと子どもの死者は減るはずだと思うのですけれど、そういうことを試みているという報道もない。


突然、映画の話で恐縮ですけど、二十代の終わり頃に見た、クリストファー・ウォーケン主演の『ウォーゾーン/虐殺報道』(1987年 / 原題: Deadline )という映画を見て、私は、はじめて、中東の問題の深刻さと「憎しみの歴史」を知ったというような、世界情勢を全然知らない人ではありました。

この映画のラストのほうで、イスラエルの諜報から「大規模な爆撃がある」ことを知ったアメリカ人記者の主人公が、攻撃のターゲットになっている地区へ行き、

「ここからみんな逃げろ。子どもを連れて逃げろ」

と伝えに行きます。

zone1.jpg
・映画「ウォーゾーン/虐殺報道」より。


しかし、地区を牛耳っている人物は、その土地の住民たちに「ここから出ていってはいけない。みんな家に戻り、この土地を守るんだ」というようなことを言い、攻撃を受けたとしても、逃げずに全員がここに留まるように人々に言います。

deadline.jpg


その晩、イスラエルによる攻撃が始まり、翌朝には村は瓦礫と死体の山となっています。

これは映画ですが、同じようなことが繰り返されていたであろうことも想像できます。

このウォーゾーンという映画は、中東の対立の「感情的な部分」について、私にいろいろと感じさせてくれたものがあった映画ですが、日本語字幕のものは多分 DVD にもなっていないんですよ。なので、レンタルなどでも存在しないと思います。ビデオの VHS の中古なら Amazon に中古で1円からたくさん出品されています。


ところで、そのイスラエルのお知り合いは、下のようなことを書かれていました。


ガザは地獄です。

戦争がなくても地獄だったところです。

パンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。


と書かれていました。

いずれにしても、現地では、陣営は関係なく、「子どもたちの地獄の国」を作りだしているというのが多分正しくて、誰もかれもが「大量死に荷担している」という気がしてなりません。


そういえば、訂正といいますか、昨日の記事で攻撃弾だとして載せました下の写真、

gaza-fires-350.jpg

これは、攻撃ではなく、照明弾(フレア)です。

実際の爆撃は夜間だと下のような感じです。

blast-right.jpg
Daily Mail





イスラエルの人々の感情と、そして今後の私たちのあるべき感情の姿

ところで、昨日の記事で5年ほど前のウェブボットのイスラエルに関しての記述について抜粋しました。その中に以下のような部分がありました。


・ イスラエル国民は、イスラエルは生存をかけた戦いをしているというプロパガンダを完全に信じ込んでしまっている。しかしながら、その裏でイスラエルのシオニストは、民族浄化と大虐殺を遂行している。

・次第に、イスラエル国民はこれに強く反応するようになり、シオニストの行動を難しくさせる。そして、イスラエル国内でも反乱が発生する。




この部分に関して、イスラエルのお知り合いが言うには、これは「ある意味で真実です」と書かれていました。

実際にイスラエル国内で起きている具体的なことに関しては、書いていいものかどうかわかりませんので、ふれられませんが、しかし、考えてみれば、イスラエルの人口は Wikipedia によると、推定 800万人です。

その 800万人全員が同じ思想性、同じ考え方を持っているわけはないと考えるのが普通ですが、少なくとも、今回のガザ侵攻のようなことに関しては「違う考えは認められない」という部分があるようです。

知り合いの方も「言論の自由がなくなってきている」と書かれていました。

この

言論や行動の自由度が小さくなってきている

あるいは、

思想や考え方の自由度が小さくなってきている

ということについては、全世界同時的に進行しているようにも見えます。

ここには日本も含まれます。


私は In Deep を書かせていただいているせいもあり、比較的海外のニュースを読む機会が多いほうですが、

気になった海外のニュースの日本語報道を検索すると「ゼロ」だった


ということはよくあります。

あるいは、日本語で報じられているとしても、それは、ロシアの声の日本語版 とか、中国国営の新華社の日本語版 だったりすることも多いです。

いずれにしても、「特定のニュースに関して日本の報道機関からの報道はひとつもない」というのは今ではわりと日常的でもあります。





最も必要なことは「扇動されないこと」と感情の冷静さ

ところで、上のほうに、亡くなった赤ちゃんを抱いて歩く男性たちの写真などを載せていますが、それでなくとも、紛争地域での写真は悲惨なものが多く、特に子どもたちが被害に遭っている状況の写真は感情的に大変に苦しいものがあります。

実際、今現在、ガザ地区での「子どもの犠牲者」の多くの写真がインターネット上にあります。

あまりにもひどい写真の数々で、リンクなどをするつもりもないですが、これらの「写真」に「文章」などが加わりますと、多くの人たちが「怒り」とか「反××」というような感情を持ちやすくなると思われます。

場合によっては、それが世界中に伝播してしまうこともあります。
現に、今、世界中でガザで起きていることに対してのデモや抗議活動がおこなわれています。

しかし、私たちは、

この世の誰か(たち)は常に「インターネットを使って人々の精神をコントロールする」という試みを、実際におこなっている

ということを再認識する必要があるように思います。

これは、「無意識に扇動されている可能性」についての話となります。

s-war.jpg

▲ ロンドンで行われたガザ侵攻に対しての抗議デモ。デイリーメール より。


ここから書かせていただくことは、今回のガザ地区のこととは関係ない話ですが、今後も、「世界のいろいろな場所で、多くの人々が似たような感情に動かされるような報道」などがなされる可能性はいつでもあると思われます。

過去記事の、

イギリス政府の機密作戦の結果が教えてくれる「私たちのいる現実の世界」
 2014年02月28日

という記事ではイギリスの諜報機関である政府通信本部( GCHQ )のプレゼンテーション書類の一部を載せましたけれど、そこには、インターネットを使って人々の感情を動かすための多くの試みが示されます。

gchq-01.gif

▲ 英政府通信本部の「合同脅威研究情報班」( JTRIG )という部署がプレゼンテーション用に作成したスライドより。日本語はこちらで入れています。


上のプレゼンテーション資料には、「4つのD」として、

・否定
・崩壊
・失脚
・欺く


というような意味を持つ英語の単語が記されていますが、この資料を作成した部署(合同脅威研究情報班)の最終的な目的は、

このような概念の実際の出来事を「現実世界とインターネットの世界での情報操作によって作り出す技術を確立させる」


ことのようです。

そういう中には、多分、

「特定の対象(国、人、企業など)に対して憎しみの感情を持たせる」

という方法論もあるかもしれないですし、もちろん逆(称賛する)もあるかもしれないです。

その具体的な対象や作戦がなんであれ、これらには「扇動」という日本語の言葉があてはまるかもしれません。

この「扇動」ということに関係して、過去記事の、

殺され続ける詩人シナ
 2012年09月12日

という記事に山本七平さんの『ある異常体験者の偏見 』(1973年)という著作の中にある「アントニーの詐術」という部分から抜粋したことがあります。

お時間があれば、上のリンクからお読みいただけると幸いですが、「人を扇動する原則」が、

・第二次大戦後の戦犯収容所

・シェークスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』


のそれぞれの例で述べられています。

時代も場所も方法も違いますが、「基本原理」は同じだと思います。
抜粋した部分の一部分を載せます。

最初に出てくる「集団ヒステリー」などは 2001年の「 911の後の感情」などを思い出すとわかりやすいと思います。


山本七平『ある異常体験者の偏見』(1973年)より

(人 を扇動する)原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギー が、ある対象に向かうように誘導するのである。これがいわば基本的な原則である。ということは、まず集団ヒステリーを起こす必要があるわけで、従ってこの ヒステリーを自由自在に起こす方法が、その方法論である。(中略)

扇動というと人は「ヤッチマエー」、「タタキノメセー」という言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは、「扇動された者の叫び」であって、「扇動する側の理論」ではない。(中略)

従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。




この最後の、

> 扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。

の部分などでおわかりかと思いますが、自分たちが扇動されないためには、自分たちが「扇動する側と同じ精神的状況でいること」が大事だと思われます。

扇動する側と同じ精神的状況とは、つまり、「」です。

冷静という意味での「静」です。

淡々と冷静に作り上げられる事柄には、同じく淡々と冷静な感情での対処しか方法がないように思われます。

・怒り
・憎しみ
・あるいはすべての突発的な激情型の行動


からは、むしろ悪い作用と結果しか発生しないはすです。





ひとりの感情は世界に影響を及ぼす

この「平静さを保つ」ことに関しては、特に、シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか 』を読んで以来、このことの重要性を特に感じます。

霊学とか、そういうものに関心がないにしても、人間が(精神的に)気高く生きていくために必要なことの最も重要なひとつが、

自分自身の思考の流れを自分で支配する

ことだとシュタイナーは述べます。

つまり、たとえば、何か「怒りを誘発するような事件や出来事」が起きた時に、「その事件に対して怒りを感じる」というのは、その時点ですでに、「外部で起きていることに自分の思考や感情が支配されているということになります。

外部で何が起きても、あるいは起きなくても、自分の思考は自分で支配する。

私はもともとがあまり怒りを感じることがない人で、今回のガザの子どもの犠牲についても、怒りはないのですが、ただ、「漠然と絶望した」というのはあります。

これはこれでやはり外部の出来事が自分の感情に影響していることになるのですけれど、それだけに、いつまでも漠然と絶望し続けていてはダメで、そこでまた平静な思考へと立ち戻り、

「では、今、私はどうすればいいのか」

ということを考えることが大事なのだと思います。

シュタイナーは以下のように書いています。


『いかにして高次の意識を認識するか』より

魂的な事象は少なくとも外界に見出される事象と同じくらい現実的である、という考えに立ちながら、魂的な事象と関わりあうとき、私たちはようやく、自己の内面や魂の重要性について正しい確信を抱くことができるようになります。

私たちは、「私の感情は、手をとおして行う行為に匹敵するくらい大きな影響を世界に対して及ぼす」ということを認めなくてはなりません。




神秘主義で世界の悲惨を解消することはできないでしょうが、それでも、上のような考え方と、「冷静さ」を学ぶことで、世界全体としての人間の感情の流れは変化していくかもしれないですし、あるいは、それによって、「未来の悲惨」は回避できるかもしれないとは思っています。

無理なら無理でそれでよろしいとも思いますが。

つまり、それが今生の私たちの生きている時代の限界だということですから。

http://oka-jp.seesaa.net/article/402325369.html