『わたしたちに許された特別な時間の終わり』というドキュメンタリー映画の試写会へ行ってきました。


友人の死に直面し、それに向き合う監督の物語である。


映画はフィクションパートとドキュメンタリーパートが入り混じり、

虚実の狭間を彷徨うように進行する。


実は冒頭、私はフィクションパートを観ていて、何だか居た堪れない気持ちになった。

ドキュメンタリー映画において、フィクショナルな表現方法が出てくることは珍しくない。

全編に渡ってフェイクである作品もある。


しかし、その場合、その表現の強度がとても重要で、

実は本作のフィクションパートの冒頭部分において、

私はどこか監督の独りよがりを感じずには居られなかった。


土屋豊監督がプロデューサーをつとめていることを知っていたからかもしれない。


何か冒頭のセットは、PEEP TV SHOWを想起させるし、

Siriを使った表現や、謎の美大生のモノローグが監督への反逆に出るという二重、三重の構造を持った構成は、「タリウム少女の毒殺日記」を想起させる。


もちろん、太田監督は土屋監督の助監督でもあったわけだし、その影響は強いだろう。


総ての表現は模倣から始まると思ってはいるし、もしかしたら、そんなのは僕の勝手な思い込みで、太田監督にとっては、何の影響も受けていないのかもしれない。


それに、そもそも、土屋監督の作品に似ていると感じたからといって、

だから何だ?と問われれば、何ら悪いことではないのである。


しかし、それでもそういうことがとても気になってしまったのは、

自分の友人の死を描く上でのフィクションパートだからこそ、

そこには、もっと切実とした強度が欲しかったということかもしれない。


それでも、前半に感じたフィクションへの違和感は、

物語が進むにつれ、まったく気にならなくなり、

最後には、どんどんと作品の世界へと引きずり込まれた。


特に主人公である増田壮太氏、そして富永蔵人氏の魅力は素晴らしかった。

亡くなった人のことをとやかく言うのは憚られるが、

本作の主人公として、という意味においてお話をさせて頂くと、

ミュージシャンである増田氏は、頑固で生真面目なタイプである。何かに常に苛立っているし、その苛立ちを隠さず、他者へとガンガンぶつけるタイプだ。

その傍らに居る蔵人氏は、マイペースで割りと温厚であり、その反面鋭い批評眼を持ち合わせた人である。


この2人が、まるで現代のドン・キホーテとサンチョ・パンサなのである。


音楽シーンという風車に戦いを挑み続ける彼らは、玉砕してもなお、旅を続けていた。


私自身、映画監督という夢を抱いてしまったタイプの人間である。

この30年、様々な葛藤や焦燥を抱き続け、今尚、その感情と戦い続けている。その意味において、増田氏への共感は半端無かった。


しかし、それと同時に、

私も、多くの友人・知人を亡くしてきた側の人間でもある。


それは別段、私に限った話ではないのではないだろうか。

きっと、多くの人が生きる上で大切な誰かを亡くし、その過程でもがき苦しみながら、

今を生きているのだろう。


そんなすべての人たちに観てもらいたい映画である。


きっと、この物語を必要としている人たちはたくさんいる。



8月、ポレポレ東中野ほか全国順次公開だそうです。


下記、予告編。

https://www.youtube.com/watch?v=iqLvvIwohrI

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