浅葉圭一ブログ Clockwork Green

小説家 浅葉圭一のブログです。1984年宮崎県生まれの純文学作家。


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 ある社会学者によれば、90年代後半以降の日本は虚構の中にしか真実を見出せない時代にあるという。オウムのサリン事件を一つの転換点として、以降物語においては、主人公が抱える個人的な事情が社会という媒体を経由することなく世界全体の命運と直接リンクするという、いわゆる「セカイ系」のムーヴメントが発生した。そしてゼロ年代の中盤、やがて現実世界の小さなコミュニティを主題とする「日常系」へと収斂していった。

 「セカイ系」から「日常系」という流れは、物語の役割が「ここではないどこか」を渇望することから「今、ここ」の価値を再発見することに変容したと言い換えることができる。それは冷戦という社会背景のもと発生した「大きな物語」の終息を、より強固にするものであった。そして、2011年に現実で起きた出来事により、終息はもはや決定的になった。3.11である。

 また別の社会学者は、90年代前半までの日本を形容するのに「終わりなき日常」というキーワードを用いた。ハルマゲドン、最終戦争、「すべてを終わりにしてくれるデカイ一発」をぼんやり待ち望む平穏なる日常と緩慢なる自殺。その時代の少年少女が抱いていた非日常のヴィジョンが、現実になってしまったのが現在だ。

 瓦礫の山と原発事故が日本に与えたのは「すべてを終わりにしてくれるデカイ一発」が永遠に来ないことの実感である。「世界の終り」という共同幻想が崩れ、次にわれわれが相対しなければならないのは「世界の終りの終り」ともいうべき新しいイメージである。

 そこでは、やはり同じように「虚構の中にしか真実は見出せない」のであろうか? その虚構を物語に求めるとすれば、それは戦争やSFなのだろうか、それとも徹底した同質性と平穏さにくるまれた青春時代なのだろうか?

 まず日常に目を転じてみると、現代の特徴としては大衆の増長化、価値の混乱を挙げることができる。政治やエネルギー問題、グルメや音楽、あらゆる分野で素人が大きな顔をして、一流と二流の判断基準がどんどん曖昧になりつつある。無論これは2013年の日本に特有の現象ではなく、オルテガやニーチェなどが昔から指摘していた、近代につきものの現象ではある。これらの現象の行きつく先は、暴力を伴った大きな社会システムの変革、すなわち革命である。(宇野常寛「リトル・ピープルの時代」によれば、革命ではなくハッキング、だが)

 革命の是非については、物語の問うところではない。また、古典に立ち返れという主張を新しく紡がれる物語に担わせることは矛盾でしかない。一つだけ言えるのは、現在の日本、「世界の終りの終り」のイメージが蔓延した2013年の日本は、革命に適しているということだけである。

 次に、日常と物語を重ね合わせてみよう。「絶望の国の幸福な若者たち」の表現を借りれば“なんとなく幸せでなんとなく不安”なムードが漂っている。また、サリン事件直前のバブル時代と比べると、あらゆる欲望は内向きになっている。そんな傾向が、ゼロ年代中盤、物語が「今、ここ」の価値を再発見することに変容していった過程と重なるのは、単なる偶然ではないはずだ。「日常系」という虚構の物語は、目に見える現実よりも現実を如実に表していたと言える。

 では「日常系」以降、物語の分野ではどのような作品が人気を博しているのだろうか? それは端的に言えば「非日常系」であると言える。たとえば漫画「テラフォーマーズ」は、近未来を舞台に火星で進化したゴキブリと人間の対決を描く物語であるが、その主題には本来駆除する側であるはずの人間が、逆に駆除される対象でもあるというアンチノミーが含まれている。

 また、同様にヒット中の「東京喰種」は、人間とひそかに共存していた「喰種」(=普段の外見は人間と同じだが、普通の食事は受け付けず人間を食べなければ生きていけない)とこれを駆除する人類の対立を描く物語であるが、その主人公として設定されているのはひょんなことから人と「喰種」の中間的存在になってしまった平凡な大学生であり、人に仇成す存在であるはずの「喰種」を人間的に描写することで、かえって人間の醜悪な面を露呈させることが主題の一つになっている。(それはハンター×ハンターの蟻編に似ている)他には、「進撃の巨人」「アイアムヒーロー」といった作品が挙げられる。

 これらの作品には、「セカイ系」と共通の特徴はまったくと言っていいほど見られない。むしろ、主人公たちの行動や立場が、読者と読者を取り巻く社会システム全体(ほとんど人類全体、といっていい)を代理しているという点で「セカイ系」以前の物語に似ているかもしれない。そして共通しているのは、読者(主人公)を取り巻く社会システム全体が、現実と物語とで、一見共通しているようで実は大きくズレている、という点である。

 たとえば「北斗の拳」「ナウシカ」などは、遠い未来という体裁を取り繕ってはいるが(少なくともわれわれの通常の想像力の及ぶ範囲では)完全に別世界の話である。「エヴァンゲリオン」「涼宮ハルヒの憂鬱」などはちょっとありえそうな気はするが、あくまで“そんな気がする”程度のものでフィクションの域を超えてはいない。だが「非日常系」は、具体的な未来に“実際にこんなことが起こる気がする”という設定をどれも持っている。「日常系」とは異なるが、同じくらいのレベルで日常とつながっているのである。

 これらの作品のルーツをたどってみると、万物の霊長である人間の価値を疑った「寄生獣」や善悪の価値を相対化した「幽遊白書」といった、90年代に人気を博した漫画に辿り着く。(もちろん「GANTZ」の影響もあることはあるが)

 正義とは果たして存在するのか? 人間は果たして肯定されるべきなのか? という自己否定、自分自身や自分を取り巻くあらゆるものを疑うことが、これらに通底する主題である。「非日常系」は、そのような主題を現代風に再構築した物語であるということができる。

 このタイミングでそのようなムーブメントが生じている理由は明白だ。「非日常系」という虚構の物語が、目に見える現実よりも震災後の現実を如実に表しているからだ。そして共通しているのは、瓦礫の山や放射能といったモチーフではなく、主人公や人類それ自体が、予め虐げられるべきもの/狩られるべきもの/差別されるべきもの/蔑まれるべきものであるといったハンディキャップ、言い換えれば「呪い」を背負っているという点である。

 物語が果たすべき最も大きな役割とは、物語全体を大きな比喩として機能させ、その方法以外ではアプローチすることが難しい問題に本質的に迫る行為である。すなわち「世界の終り」という共同幻想は、その出自からして「祝福」を常に孕んでいた。翻って、われわれが相対している「世界の終りの終り」が孕んでいるのは「呪い」に他ならない。「非日常系」がアプローチしているのは、瓦礫の山や放射能といった表面的な現象ではなく、その原因になった地震や政治や東京電力でもなく、この「呪い」なのだ。

テラフォーマーズ 1 (ヤングジャンプコミックス)/集英社

東京喰種トーキョーグール 1 (ヤングジャンプコミックス)/集英社

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)/講談社

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