2010年05月10日(月) 11時59分41秒

五帖目第十通 聖人一流

テーマ:ブログ
 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 親鸞聖人から伝わっているみ教えは、信心をもって、もっとも大切なこととされています。
 そのわけは、もろもろの雑行を行じる自力の心を投げ捨てて、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、人知でははかり知れぬ仏の本願力によって、仏のほうから人びとの往生を決定してくださるからです。
 それによってわたくしどもが入ることのできる位を、曇鸞大師の『往生論註』には、「一念発起入正定之聚(本願を信ずる心が起こったそのとき、往生が定まり、かならず仏となる者たちの位に入る)」とも註釈されています。
 さて、そのうえの称名念仏は、如来がわたくしどもの浄土往生を定めてくださったご恩にお応えするためのお念仏であるーーとお受け入れください。あなかしこ、あなかしこ。

【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」の来由には種々あるが、決定論はないようである。「帖外」六通に全く同文のものが存する。この「帖外」によると文明三年炎天のころとあり、北陸加賀の五ヶ庄という地名も出ている。しかし古来よりこの「御文章」は「お筆はじめ」ともいわれ、蓮師の寛正元年、金森の道西にあてたものともいわれる。さらに『来意鈔』では蓮師の入寂前に門弟をよんで、「大阪建立の章」と「聖人一流の章」を拝読せしめたとある(このことの真偽は不明である)。しかし、このように最初から最後まで一貫していることを考えると、「御文章」帖内帖外の二百数十通はこの章に圧縮されているともいわれるのである。この章に連関するものを二、三出すと、二の三通には、
 しかれば祖師聖入御相伝一流の肝要はたゞこの信心ひとつにかぎれり、これをしらざるをもて他門とし、これをしれるをもて真宗のしるしとす。
とあり、三の七通にも、
 抑親鸞聖人のすゝめたまふところのー義のこゝろはひとへにこれ末代濁世の在家無智のともがらにおいてなにのわづらひもなくすみやかにとく浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもて本とをしへたまへり。
とある。この「御文章」は、極めて短い文章の中に浄土真宗の教義を圧縮しているのである。すなわち信心正因称名報恩に摂することができる。この信心正因、称名報恩という対句は全く別個な内容のものではない。信心正因なるがゆえに、称名報恩であり、称名報恩なるがゆえに信心の正因なることが明らかに知られるのである。親鸞聖人の上ではこのような対句として出されている場合は余り存しない。蓮師の出拠とされているのは『正信偶』龍樹章の「憶念弥陀仏本願、自然即時人必定、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」である。蓮師がこの信心正因称名報恩の義を強調されたのは、当時、鎮西義の「単直愚痴の大信」、真盛上人の「戒称一致の念仏」が一般に北陸地方に浸透していたためといわれる。いずれも無信単称、口称正因を主張し、「ただ称えさえすればたすかる」という考え方が流行していたのである。それゆえ浄土真宗の本義は全く歪められていた。これに対し、信心正因であり、称名は報恩なることを明らかにされたのである。帖内八十通の中に「無信単称」の称名について八ヵ所出され、いずれも吉崎在住時代のものといわれる。この批判には、蓮師は必ず善導の六字釈を出されている。すなわち善導の六字釈そのものが、無信単称を批判して、「たのむものをたすくる」という信心正因を明らかにしているからである。
 信心の正因なることはすでに第十八願の上にその動かすべからざる根拠が存する。さらに本願成就文によると、より明らかに知られる。親鸞聖人によると、三国七祖の上でもその伝統は明らかに知られるのであり、それゆえ、『正信偈』の龍樹章に出されている信心正因称名報恩の義は七祖に一貫する立場をあらわすといわれる。このような第十八願、成就文を根拠とし、三国七祖の伝統をうけて、信心正因の義を明らかにされたのが『教行信証』一部六巻の内容といわれる。『教行信証』は周知のごとく真実の巻と方便の巻を持っている。万使の巻の中心はを頭の標挙の上に明らかに示されているごとく、十九、二十両願である。しかも「方便」とあるように、これらの願は既実に誘引せんがためのものといわれる。それゆえ、『教行信証』の方便の巻は真実五巻に摂せられる。このことは『教行信証』を圧縮した『浄土文類聚鈔』によっても明らかに知られる。この真実五巻は善導、法然両師の一願建立の立場から五願六法に開示され、十八願の分担を明らかにされているのである。すなわち十七願には教行を、十一願は証、十二、十三願は真仏真土に、残された十八願は至心信楽の願と標挙に出ているように「信巻」の内容となっているのである。しかも「信」のところには「証人涅槃の真因」とか、「正定之因唯信心」「至心信楽願為因」とあり、「涅槃の真因は唯信心を以てす」(信巻本)「報土の正定の因と成る」(信巻本)等、信心のところにのみ「因」を出されているのである。それゆえ、信心の正因なることを明らかにされたのが『教行信証』一部六巻といわれるのである。
 しかも正因となる信心は自力の信心では不可能である。他力の信心でない限り通じない。ここに「方便化身土巻」を出され、自力の信と他力の信との相違を明らかにされ、正因の正因たるゆえんは、他力の信にあることを明らかに示されているのである。したがって称名は、念仏往生とあっても自ら念仏することによって往生するのではなく、他力の念仏である。他力の念仏は、自らの称えたことに功を認めないのである。自らの功を認めない念仏は、念仏のそのまま、名号法の独立となる。同様に信心も、自らの、信じたという功を認めると自力の信心となる。それゆえ、宗祖は他力の信心の解釈は「無疑」といわれ、自力心の否定を意味するといわれるのである。自らの造作、はからいを加えない、与えられた法のそのままの領受の相をいうのである。それゆえ、信のものがらも、念仏のものがらも名号法のほかにはあり得ない。ここに、念仏往生即信心往生といわれるゆえんが存するのである。信心は、この私の上に名号法の領受された相で、そのものがらは名号のほかにない。この名号がこの私の上では因としてはたらくので、その因が果に証験したのが往生浄土であり、成仏といわれる。
 この信心が正因といわれるのである。したがって自ら称える念仏は、往生の因でないから報恩といわれるのである。このような信心正因称名報恩といわれる最も具体的な出処は、『歎異抄』十四章にある。すなわち、
 そのゆへは弥陀の光明にてらされまひらする故に、一念発起する時、金剛の信心をたまはりぬればすでに定聚のくらいにおさめしめたまひて、命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずばかゝるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏はみなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。
とあり、蓮師の信心正因称名報恩義は、この文によっているといわれる。特に称名の報恩なること、「おもふべきなり」をうけ、蓮師の上では「こゝろうべきなり」と機の主体の側から称える用心を明らかにされている。

〔用語の解説〕
・一念発起入正定之聚ー一念発起という言葉は、蓮師にはしばしば用いられているが、宗祖の上では余り用いられていない。『末灯鈔』十通に出ているが、蓮師は『歎異鈔』十四章によるものと思われる。一念発起入正定之聚の義を明らかに出されているからである。この義は一念発起平生業成ともいわれ、蓮師の平生業成の義も正しくこの『歎異鈔』をうけているといわれる。(もちろん覚如存覚両師も否定出来ない)一念発起とは聞信の一念と同時に往生すべき身に決定する。入正定之聚の語は元来曇鸞の『往生論註』によるものである。巻頭に「仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生を得、仏力住持して即ち大乗正定之聚に入る」とあり、この文面では彼土の益となっている。今は現益にとる。

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2 ■Re:べきなり

>雑草さん
ここでは、適当・妥当の意ではないかと思います。

1 ■べきなり

文末の「べきなり」の「べき(べし)」は、国語辞典では、当然の意、適当・妥当の意、可能の意、勧誘・命令の意、義務の意、推量・予想の意、決意や意志などを表すとなっています。ここではどれになるのでしょうか。

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