プロの見ている世界と、「結果」からみる世界 | 成功体質のための対話力向上公式ブログ

プロの見ている世界と、「結果」からみる世界

一概に「プロ」が正しいとは限らない、というふうに思うことがある。

自分自身が職人気質なのか、時々、講師業していると、「プロ」の人から注意される。

まあ、その度に落ち込んだり、発注者が「プロ」だと、しょぼーんとしたりするのだが、まあ、立場的に、
「いいからおれの歌を聴け-」(byマクロス7)とも言えずに、「はい、すいません」などと言ったりするのだが、
先日、「プロ」の人からはきつい「忠告」というなの警告を頂いて落ち込んで、次の週同じ場所で、同じ受講生に対して、講義を行ったのでありますが、うれしいことに、その「クラス」をもっている別の講師仲間から、「近藤先生わかりやすいって言ってましたよ」と言われた。これはとてもうれしい。
反応があんまりない。これでいいのか?とりあえず、質問すれば答えるしいいか?とかいろいろ試行錯誤していたのではありますが、そういうフィードバックいただいて、とてもうれしい。

自分として、「講師」っていう立場ではあるけれども、「テープレコーダー」になりたくないな、と思って以来、
「レジメ読んでれば済むだろう」っていうのはできるだけやりたくないし、その場で「自分から出てくる言葉」を大事にしたいと思っていたのですが、多くの場合、講師業は「わかりやすい話」「おもしろいジョーク」などを考えている。
単純に思うのだが「引きつけるため」には、型にはまった「安心感」っていうのも大事かもしれないが、
しかし、人の心はそれでは動かない、と思う。「わかりやすさ」はそれはそれでいいのだが、本当に大事なのは、「一歩踏み出してみよう」という何か、決意だったりコミットを呼び覚ます、何かなのだと思う。
もし「結果」が何か?と問われれば、コーチングとかでは「成果を出すこと」だという定義を出す人もいるでしょうが、しかし、自分が思うに、売り上げ二倍にしたとかってあんまりそれ自体は「つまんね」って思うのですよね。
なせかというと、いままでの非効率な所をカットして、効率を高めたり、目標に関係ある行動だけをすれば何とかなるんですよね。ただし、それ自体は「効率」の話なので、根本的な「何か」は解決はされてないので、元にもどるか、限界はすぐに出る。
本当に大事なのは、がんばって売り上げを上げること、じゃなくて、「体質改善」というか、性格とか、人間関係の作り方とか、もろもろ「自分が当たり前だとしていたこと」から、脱皮を図り、幼虫がさなぎを経て、蝶になるように、「変態」(カタカナ用語でいうと、トランスフォーム)を遂げないと多分、「いつかもどにもどる」わけです。
一部(というか、全部?)自己啓発が「効果がうすい」のは、終わったあとは、いろんな刺激でいっぱいで「すっごいがんばる」のだが、しかし、2,3週間すると「元にもどる」のは、極端なことをやらせて、それを刺激にして(大声で叫ぶ、泣く、歌うとかを「人工的に」つくりだしているので)、その自己啓発セミナーに参加している数日間(時には1週間)は一見かわっても、また元にもどる。しかし、それは「普段の自分」じゃないから、元に戻る。
じゃあ、何が「戻らない」ところかってのは実は簡単なようで、簡単じゃないのですが、ある意味、「自分がつくりあげたシステム」があると、最初は試行錯誤がいっぱいあるけれども、自分が一つの流れをつくっているので、再構成することもわりと簡単ではあります。
そういうようにして「自分の内側から」でてきた、リアルな目標が見えてはじめて、自分は、質の高い行動ができるとおもう。逆に言えば「やらされている」行動では、条件がかわれば元に戻る。よく、「お金」を理由に転職した人は、また、別の会社で、お金もしくは条件面が良かったら転職してしまうのと同じであり(お金を手段として考えられなくなっている)、条件や理由で選択したら、条件や理由でやめる事になる。

そういう内発的な動機は、実は外発的な刺激が元になっていたりするので、一概に「刺激」がいけないとはおもえないが、しかし、いつのまにか内発的な動機を引き出すための装置というかしくみが、主になってしまったりする。

上手な「演者」は、「上手だな」というのが伝わる。
しかし、うまいかどうかではないところに、ポイントがあり、たとえば「伝えたい事」に重点がある人は、「伝えたい事」が伝わる可能性がある。あくまでも、修飾は副次的であり、中身としての伝えたい事が何か?によるのだと思う。技巧に走ると、やってる時は伝え手の自己満足であるというと言い過ぎだろうか?