言葉の不確実性について&コミュニケーションのざっくり性について | 成功体質のための対話力向上公式ブログ

言葉の不確実性について&コミュニケーションのざっくり性について

ざっくり性とかって・・・書こうとした内容からいきなり脱線。
最近、○○力とか言っているのをみるとなんか安易だな・・・と思ったりするとか思っていたのに、
自分が○○性とかいっているという皮肉。。。汗

blogとかをみていると、昨今のをみていると、なんとなく、「どーでもいいよ、こんなこと」って思えるのもあるが
多分、ファンとかが見ると、そのどうでもよさを知りたいのかな・・・などと思ったりするのでありますが、
しかーし、それは「ファンが、タレントのblog」をみると成立する話であって、ただの「ファン」のblogで、
えらく、行間の多い、やたら、絵文字があり(PCだと見えないのも。。。汗)、1行ですむ内容を、やたら、
空行、空白が多い、ようなのがあるとなんか「いら」っとするのであります。

・・・という前置きはおいておいて、先般とある人にメールを書いて、あとから読み返してみると、
なんか「曖昧」な言い方をしているのですが、「その人にわかるぐらい」曖昧だと伝わるな・・・とおもう。


察するのではだめだ、もっと、全部言語化しなさい、と言われる。
でも、本当にそうでしょうか?

不確実とか、ざっくりとかいうとなんかおもいですが、試みに、「今朝起きて、朝食を食べるまで」を全部
文章で表現してみると、結構「あいまい」なことだと気づくと思うのです。

もっといってしまうと、家から駅までたとえば、10分で歩けるとしても、それを全て「言葉」で表現するの
難しくないですか?(ロボットは、あいまいではだめなので、すべて命令コマンドがあるか、だれかオペレーターがいるわけですね。先日やってたロボット対決みたいなのは、まだアニメみたいになるまでは、何万年かかりそうな勢いなわけで・・・・)

しかし、言葉、文字面としては正確ではなくて、「通じている」のは、言葉の不完全なところを補い会って会話をしているからで有り、しかし、あまり知らない人とかで共有意識をもってないと、「通じない」ことがあるわけです。

「あー、あれ」といって通じないと、そもそも、めんどくさいぐらい「正確に」伝えないと伝わらないわけです。
さて、その「あー、あれ」を比較的日本人はやってきたし、代替「察する」ってのは得意だった。
しかし、携帯(スマホ)世代にとっては、そういう「察する」のが弱い。単純であって、携帯の画面で「文字面」をみて考える、感じる癖がついているわけで、人の表情なんか見ないからであります。つまり、携帯の画面が自分の「世界」と感じているわけです。(人にもよるけど)そういう「感じる事ができなくなってしまう」という危険もあるでしょうが、実はこれは若者だけでなくて、大人でも・・・たとえばTVでのコメンテータの陳腐な解説や、脳みその半分がどっかに流れ出ているのではないかというアイドルと言われる人種とかいろいろな脳の力が弱っているような人もいるでしょうが、要は、「外界への五感」が、画面以外に向いていない傾向があるとおもうのですよね。

そんなことで、言語の不確実性は結局の所、「言語化」はできてはいないが実際に、家から駅まで10分の道のりを「右足出して、左足出して」なんていうことを「意識」してはいなくても、出来てしまう「無意識的な行動」というのが実は大きいと思うのですが、普段この無意識は相当使っているのにもかかわらず、あまり意識していません(ま、だから「無意識」というわけですが)

ですが、この無意識的な領域は「感覚」というか「感じる」ことによって、「意識的」もしくは「言語化脳」とつなげて連動することができます。より連動性を高めることができます。
実はこういったことは「虫の知らせ」とか、なんとなくのことを「直感」といって使えている人は使えています。ただ、「身体の部位」と「無意識情報」の接続がどうなっているのかを普段フォーカスしてはいないので、使えてないだけです。

ま、そんなわけで、その言語をさらに精度を上げるために、感覚のセンサーを鋭敏にする練習をしようと思います。よかったら講座やりますのでご参加下さいませませ。
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