文化放送 斉藤一美ニュースワイド 17時半頃から

 

【アーサー・ビナード午後の3枚おろし】4月27日〜28日

 

・・・今週まな板の上に乗るのは「知らなかったぼくらの戦争」・・・

 

【ニューギニアで現地住民殺害の罪でBC級戦犯とされ

         11年間拘束されていた飯田進さんのお話】

 

飯田さんのお話は本当に聞きたくて

ちょっと無理してお願いしたんです。

あまりお体の調子が良くなくて。

僕の最初の質問も良くなくて

最初はなかなか会話にならなかった。

 

飯田さんは答えるのも辛くて

途中から飯田さんが逆に僕にいろんな問題をぶつけて来て 僕がそれに答えていたらある時に心が通じ合う瞬間が来て そこから親友のような 

お父さんのような おじいさんのような関係になった。

飯田さんが「アーサー君」って呼んで下さってそういう風になった。

 

飯田さんは戦犯、戦争犯罪人なんですが

岡田黎子さんが話して下さった「人道兵器」という言葉の矛盾と

同じぐらいの矛盾が「戦争犯罪」って言葉にはある。

 

だって戦争はやることなすことほとんど平時だったら犯罪。

破壊行為、略奪とか戦争だったら普通に軍隊がやること。

人殺しちゃうわけでしょ。

 

だから何が犯罪なのか?何が戦争のルールの範囲内なのか?って

それは勝手に国際条約とかで線引きしているけど

厳密に人間の本来の感覚で言うと全て犯罪。

 

裁かれた飯田さんは自分のやった事を背負って

BC級戦犯も背負ってその責任を果たして来た人。

 

 

〜〜〜飯田進さん:1923年京都府生まれ。

   1943年に海軍民政府職員としてニューギニア島へ赴任。

   兵隊ではなく軍属という身分でしたが

   戦況の悪化によってゲリラの討伐に狩り出される。

   終戦後 BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。

   昭和25年スガモ・プリズンに送還。

 

 

飯田「戦闘に巻き込まれて、えらい殺しました。」

 

アーサー「殺した?現地の人たち?」

 

飯田「現地の人たちを殺しました。」

 

アーサー「現地の人たちが抵抗して戦っているから殺すって感じですか?」

 

飯田「3年いましたからね。3年間の間にいろいろ状況の変化があって

   ...(聞き取れず)」

 

アーサー「どこが裁こうとしたんですか?」

 

飯田「オランダです。形の上では連合国ですが実態はオランダ1国。」

 

アーサー「裁判で自分の弁護できる機会は与えられました?」

 

飯田「負けたんですからね。仕方がない。覚悟を決めなきゃならない。」

 

アーサー「死刑判決が出るだろうって、ご自分では思っていました?」

 

飯田「そう、間違いなくその一歩手前までいった。」

 

 

死刑判決じゃなくて重労働20年という判決が出る。

飯田さんはそれを背負って日本に送り返されて巣鴨プリズンの囚人となる。

飯田さんは国内でBC級戦犯となる。

 

そうこうしているうちにどんどん出されるんです。

アメリカが「もはや占領ではない」って感じで 在日米軍に変わって行く。

巣鴨プリズンも日本政府に任せると どんどん出される。

日本政府は再軍備を進め 警察予備隊ができる。

軍隊とは言わないで自衛隊って言うんですが。

 

飯田さんは現地の言葉もでき、現地の地理にも詳しく

厳密に言うと軍属だから兵隊じゃないけど

兵隊よりも多くの事をさせられ

愛国心からやったこともいろいろあって

その中には現地の人を殺すこともあり

それで犯罪として裁かれた時 国は何もしないし

負けた途端に何にもない。

 

飯田さんは責任を背負って犯罪者になり、日本に戻って来たら

今度は利用されて再軍備のPRの道具になってしまうわけ。

 

自分たちだけが責任を取らされ 

国は全然責任を取らない中で再スタート。再起動。リブート。

 

もう一回名前を変えて軍隊ってときに

飯田さんはプリズンの中から手紙を出す。

「再軍備に利用されるんなら俺たちを出すな」って。

出たい気持ちは山々だけど

出されて利用されるならもう出さなくていい。って手紙まで出した。

 

 

「たとえ明日世界が滅びるとしても 元BC級戦犯から若者たちへの遺言」

 

 

 

〜〜〜飯田さんは重労働20年の判決を受け

   1950年インドネシアの独立により日本に送還され

   1956年まで巣鴨プリズンに収監される。

 

   

「実際に戦争中ジャングルの中で

 俺ほど勇気がある勇ましい人間は身近にはいなかった。

 どこかでそれは間違っていた。

 しかしそれは生易しいことではない。

 私の目を見ろ、半分は見えない、全く。

 半分は全く聞こえない。

 ...(聞き取れず)覚えてね 私はしゃべっとる。

 その狭間の中で生きて来たんだよ。

 狭間って言う日本語知ってるか?」

 

 

「狭間って言う日本語知ってるか?」って聞かれて

「はい、知ってます」って言ったんですけど 知らないんですよ。

本当の狭間って体験しないとわからない。

 

ただ飯田さんの身になって 

飯田さんの歩んで来た道を少しでも一緒に歩めば

その狭間の厳しさが分かる。

 

飯田さんは

「歴史の真実は葬られるんだ。闇の中に消えるんだ。」とハッキリ言っていた。

本当の事を語るためには

自分のはらわたを自分で引きちぎるような覚悟がなければできない。

 

死刑になった人、遺言を残して突っ込んで行った人は最後に何か書きますよね。

それだって本当かどうか 本当の事を書く人は少ない。

自分の不利になるようなことを語る人ってほとんどいない。

 

でも歴史は善と悪の戦いではないから

自分が不利になるような事を伝えなければそれは真実にならない。

 

飯田さんは自分が不利になること

自分が大変なことをかぶることもして来た人。

 

僕がお会いしたときは「もう俺は間もなく死ぬ」っておっしゃっていて

ほんとに亡くなった。本当に最後の話が聞けた。

言葉は決して多くないが

歴史について、真実について語ってくれた事は

多分1年間の番組の中で一番はらわたに刺さりました。

僕に託して下さった。飯田さんの声が忘れられない。本当にいい声。

 

 

〜〜〜飯田さんは巣鴨プリズンを出所された後 社会福祉の仕事に就かれた。

   そしてニューギニアで起きた事実と 

   長い獄中生活の中で考えた事をまとめた

   著書「たとえ明日世界が滅びるとしても」を出版するなど

   戦争の悲惨さを伝え続けた。

   飯田さんは去年10月に亡くなられた。

 

 

飯田さんが獄中から出した手紙は文学作品としても本当に素晴らしい

言葉の矛盾そして現実の矛盾を本当に覚悟を持って

鷲掴みにしているような言葉で

詩人として表現のことも教わったような思いです。

 

原田要さんも平坂さんも飯田さんももう会えない。

平坂さんと だいぶたってから手紙のやり取りでわかったんですけど

本当に聞きたい話があったら今、今日聞きに行きましょう。

 

身近な人の話もみな聞いているようで聞いていない。

平坂さんの娘さんは

「自分はお母さんの話が聞けなかったから録音を送って下さい」って

だから僕は平坂さんの娘さんに平坂さんの話を手渡す。

それはみんなでやらなきゃいけない作業。

身時かな人の話を今聞きましょう。

 

 

「知らなかった ぼくらの戦争」

 

 

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どちらの本もぜひ読まなくっちゃね 

 

 

 

 

 




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【報道されない大問題】食い物にされる水道民営化・ダム・治水――国富を売り渡す安倍政権の水政策の裏を暴く!岩上安身による拓殖大学准教授・関良基氏インタビューhttp://iwj.co.jp/wj/open/archives/375521
4/27 7:07

田崎スシロー「今村さんは(被災者に)全然気持ちが寄り添ってない。でも、政治家は寄り添っているふりはしなければいけないんですよ」https://www.youtube.com/watch?v=ngXKpg48YmE&feature=youtu.be はあっ!!\(*`∧´)/
4/27 7:09

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文化放送 斉藤一美ニュースワイド 17時半頃から

 

【アーサー・ビナード午後の3枚おろし】4月25日〜26日

 

・・・今週まな板の上に乗るのは「知らなかったぼくらの戦争」・・・

 

https://www.shogakukan.co.jp/books/09388508

 

 

【毒ガスの製造に学徒動員されていた岡田 黎子さんの話】

 

毒ガスは瀬戸内海の美しい島でずっと作られていた。

大きい久しい野原の野と書いて大久野島という島。

僕はその島を広島県側から眺めていて

友達から毒ガスが作られていたと聞いた。

 

今はうさぎがいっぱいいる島。

うさぎと遊びたかったら楽しい島。ピョンピョンうじゃうじゃいる。

 

毒ガスのことを知っているつもりで島に行ったんだけど

実際に製造現場を歩き資料館を見て

毒ガスがはらんでいる矛盾がわかった。

作っている人が毒に蝕まれ 

それを国家が強いる残酷さに直面した。

 

資料館に素晴らしい本があった。

絵と分かりやすい文章で

体験者が毒ガスの島で働いたことを書いている本。

絵も文章も岡田黎子さんの作。

 

本からたくさん発見があり 本人に会えるかな?と連絡を取ったら

快くインタビューに応じて下さった。

 

「中学2年生の秋までは勉強ができました。

 上級生から徐々に行ったわけ。

 

 でも大久野島で何が行われているかは知らされてなかった。

 2、3日してガスマスクが配られた。子どもたちに。自分も。

 工員さんの使い古しのマスクで大きいんですよ。私たちはまだ小さいですから。

 私は何ともなかったんですけど

 かぶった人何人かが『痛い!痛い!痛い!』って言うて

 涙が出る子や、ピリピリするって言う子が出まして

 指導してくれていた工員さんが『外せ!顔を洗いに行け!』って言って。

 そういうことがあった。

 

 男の学校の先生が『黄色い煙の空気を吸うたら喉がおかしいし松が枯れとる。

 ひょっとしてこの島じゃ毒ガスが作られとるんじゃなかろうか』言うて

 引率していた先生がその時点でそういう風に気づいていとるわけです。

 本当に何も知らん人が多かった。秘密が厳重に守られました。」

 

 

子どもたちは何も知らされていない。

でも毒ガスが作らている現場でいろんな単純作業をやる。

和紙で作る風船爆弾を作る作業もあった。

 

その中でみんな薄々とわかる。

だって島の松の木がみんな枯れているとか

何か具合が悪かったり 洟が出るとか。

 

戦争末期の戦争が終わる直前に 

毒ガスを愛媛のもっと大きな島に避難させる。

人を避難させるんじゃなく毒ガス疎開。人より大事だったらしい。

 

毒ガスに米軍の爆弾が当たったら大変なことになる。

隠蔽という側面もあった。

毒ガスを学徒動員の女の子たちが運ぶ役。

運んでる途中で具合が悪くなる。

 

何も知らされておらず 

薄々わかってはいるが情報を求めて入って行くことはできない。

国家の秘密で国際条約違反でやっているから。

その狭間で子どもたちが被害を受けながら乗り越えて行く。

 

岡田さんは本当に体験を深く掘り下げている。

40年経って確認しているんです。あのときは何を運んだのか。

後で調べてそれがシモリンだったとかイペリットガスの原料だったとか。

 

そういう風に自分の体験と歴史の客観的事実とつなげると

やっと次の世代に手渡せる。

そういう作業抜きでは個人的な逸話で終わってしまうが

自分の体験と歴史をつなげれば次の世代に手渡していける。

岡田さんの本はそういう意味を孕んでいると思います。

 

 

 

絵で語る子どもたちの太平洋戦争 ─毒ガス島・ヒロシマ・少国民

 

 

 

 

〜〜〜岡田さんたちが作っていたのは人道兵器だと説明を受けていたが

   実態はくしゃみ性毒ガスやマスタードガスと呼ばれる

   ドイツが開発した毒ガスだった。

 

 

毒ガスを人道兵器だという説明の時「敵の戦う意欲を弱める」って言う。

説明した人はなかなかうまい事考えたなって思う。

 

人道兵器という言葉が成立するところに僕らの言語の破綻がある。

人道兵器などない。人道と兵器は相容れないもの。

例えば僕らが使っている「平和利用」という言葉も同じ問題がある。

 

大久野島は広島県竹原市で瀬戸内海に浮かんだとても美しい島。

何でこんな美しいところにこんなものが押し付けられたのかな〜?と思って

資料館に行った時聞いたら誘致したという。

竹原市が雇用が欲しくて経済効果を狙って誘致した。

 

「人道兵器」とか矛盾に満ちた言葉を使っていると慣れてしまう。

慣れたら存在し得ないものが存在してしまうっていう錯覚に陥ってしまう。

今僕らが普段使っている言葉の中にもいっぱいあると思う。

 

 

〜〜〜岡田さんのお話。8月15日がやってきたところをどうぞ。

 

「大久野島の控え室の側が広場になってまして

 『今日は重大放送があるから全員集合して整列せよ』と言うことがあって

 天皇陛下ってどんな声してるのかなとか思って。

 

 『あっ、負けたんじゃ』と思うてみんなの顔を見たら

 みんな知らん顔している。篠原中尉が言うた

 『というわけで日本はこれから休戦状態に入った。

  戦いを休むということになった。引き続き作業始め』という号令だった。

 篠原中尉もわからんかった。そういう状態でした。

 

 あぁこれで玉砕しなくてよくなったんじゃと思うたんです。

 これからもっとひどい事になるというよりは 

 戦争がもう終わったいうほっとした気持ちでした、私自身は。」

 

 

玉砕しなくて済んだという安堵の時間も短く

間もなく岡田さんたちは広島に送られた。

広島で原爆にあった人々の看病をした。

 

放射性物質が渦巻いている中で重傷者を見たり 

どうしたらいいか分からない中でケアした。

その後岡田さんは被ばくし放射能病になった。

 

毒ガスの島で働き 原爆投下直後の広島に入って

両方の終わりのないものを背負った岡田さんが

自分の体験と歴史をしかっりつなげて調べ

それを絵と言葉で表現した。

 

僕らはひとりの人間の体験として受け止めると同時に

自分と客観的につなげることができる。

岡田さんの体験は加害と被害の境界線も越えている。

加害者と被害者の境界線を越えた。

 

毒ガスを作る現場で仕事してた。

どこに運ばれて誰かが毒ガスを使う。

使われた側はとんでもない目にあう。

自分が作った毒ガスがどこに運ばれどこで使われたのか?

 

それから風船爆弾も作っていたが

それが偏西風に乗り実際アメリカに行って被害が出ている。

 

そういうことを岡田さんは長い年月をかけて掘り下げた。

中国大陸で毒ガスが使われたところの人々に謝罪の手紙を書いた。

その中国の友達から来た手紙の大きな束を岡田さんが見せてくれた。

そういう交流がそこから始まる。

 

岡田さんは謝罪してけじめを付けるのではなく

謝罪する事で相手とつながり 

その謝罪が歴史に言葉として記録として留める手段なんですね。

本当の謝罪ってそういう風に使うべき。

日本の国家の謝罪も歴史に留めるために使ったら発展して行くと思います。

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知らなかったぼくらの戦争

 

国がアホなことしないように

賢い国民にならないとね 主権者は私たちだ

 

 

 

 

 

 

 




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