2012-01-23 16:06:00

有明 の家 (ショート・ショート)

テーマ:日々是口実
〈ショート・ショート〉 有明(ありあけ)の家

BGM ポリス “サハラ砂漠でお茶を”



Ⅰ.

 空高く、夜明けの月がかかっている。
 微かにくすんだ紺碧を背に有明の月は、遠ざかって行く大きな白い帆船を思わせた。

 居間に入ってきた夫は、テーブルにティーカップを二つ並べ、妻の隣に座った。

 「熱、下がらないの?」
 「ええ。でも、よく眠ってるわ」

 夫は妻に顔を向けた。横顔に落ちる翳(かげ)の中で、片目が地底湖の湖面のように光った。

 「もっと早く気づけばよかった。たいしたことじゃないんだろうけど」

 カーテンの隙間から、暗く透明な夜明けが忍び込んでくる。夫の咥えた電子煙草の先端が、暗がりでぼっ、と丸い橙 (だいだい) 色に光った。

Ⅱ.

 階段を吹き上げてくる冷風が、少年の体から一気に熱を奪った。汗に濡れたパジャマがまたたくく間に乾いてゆく。半ば転げ落ちるように、少年は階段を駆け下った。
居間のドアが開いていた。耐え難い寒さはそこから流れ出していた。
 居間の敷居を跨(また)いではならなかった。
 しかし少年は歩を進めた。あたかもこの家の時間は彼と共に進み、停滞し、彼が力尽き立ちすくめば時もまたその歩みを止めてしまう、とでも言うように。
 少年は居間へ入った。
 高い窓から射し入る水銀のような暁光の下にソファーが置かれ、父と母が座っていた。

 「パパ?」

 父の肩は冷え切ってゴムのように固く、少年の手を拒んだ。殴られたようにたじろぎ、少年は両親の後姿をまじまじと見た。
 両親は息をしていなかった。まじろぎもせず、ただ前方を見つめている。二人の影は、床と壁についた微かな焦げ跡のようだった。
 少年は背後から、父母の肩に両腕を回した。

 「ねえ。何か言ってよ」

 薄闇に沈んだ両親は、今や部屋に並ぶ古ぼけた家具の一つでしかなかった。

 「パパ、ママ。お願いだから何か話して!」

 我を忘れ絶叫している自分に、少年は気づかなかった。少年の叫びは口から漏れる前に、居間の静寂にことごとく飲み込まれ、発せられることなく消え去った。
 膝の高さまで床に溜まった薄明を蹴散らし、少年は廊下から玄関へ飛び出した。
 葡萄茶(えびちや)色の小さな坂道に沿って連なる家々を、高台から遙かに見下ろす街を、死に絶えたような静けさが覆っていた。

Ⅲ.

 階段を駆け下りてきた妻の足音に、夫はまどろみを破られた。

 「来たの? 救急車」

 妻は激しく首を振った。黒縁眼鏡の奥で、知的な目が激しい動揺を湛えている。

 「いないのよ。あの子が」

 三年ぶりに本物の煙草を咥えたまままどろんでいた夫は、唇を小さく歪めた。

 「いない? トイレじゃないのか」

 妻は激しく首を振り、囁いた。

 「とにかく上に来て。自分の目で判断して」

 そう言って力尽きたように妻は目を閉じ、伸ばした癖毛が頬を渓流のように流れた

 「もう分からない。わたしには何が何だか」

 子供部屋のベッドは冷え切っていた。
 掛け布団も毛布もきちんと整えられ、新品の枕カバーにはしみ一つない。ベッドカバーには使われた形跡さえなかった。部屋に残る夜気は、微かに歳月を経た埃の匂いがした。
 やがて二人は全てを思い出した。どれほどの間ここに息子が横たわっていたか。そして最後にベッドがこのように整えられてから、どれほどの時が経ったのかを。

Ⅳ.

 街はなおも目覚めない。始発電車も長距離トラックも何一つ動かず、飾り煉瓦の歩道をやってくるものとてなかった。
 明け行く蒼い空に星が幾つも、目を抉るように激しく輝いていた。鱗雲の彼方に僅かに名残る夜空には巨大な月が、まるで自身の死面 (デスマスク) のように白々と浮かんでいた。
 急坂の途中に建つ瀟洒な屋敷の三階に、カーテンで閉ざされた小さな窓が一つ。レースのカーテンは内側から淡い緋色に染まっていた。
 分厚いドアの前に少年は裸足で立っていた。冷たい朝風がパジャマの裾をはためかせ、少年は打ちひしがれた目で、高い窓を見上げた。そこには潮だまりのように取り残された小さな夜が、そして夢が封じ込められていた。
 やがて少年は呼び鈴を押した。もう一度。
 チャイムは鳴らなかった。




- FIN -






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