岩美町、今は昔のお楽しみ【下】 | だるま親雲上日日記

岩美町、今は昔のお楽しみ【下】

 

 つまんない江戸時代を終えて明治時代に入ると村芝居が活性化します。田河内には、但馬から来た大工がつくった舞台がありましたが、それ以外は仮小屋をつくって演じました。

 田後は4月20~21日、荒金は旧暦6月7日、蒲生や岩井にもありました。

 古くは浄瑠璃で歌舞伎芝居を演じていましたが、大正から昭和には現代劇が演じられました。お代は取りませんが、「花」と呼ばれる心付けで費用を賄いました。

 第2次世界大戦で一時廃れましたが、戦後も演劇が文化活動として取り上げられ、小学校の講堂で演芸会が開かれました。

 村芝居は、野立小屋を設けるところからはじまり、稽古には2ヶ月はかけました。満天の星空の下、筵を敷いた桟敷で一杯やりながらの芝居見物は、娯楽に乏しかった時代には何よりの楽しみでした。

 岩井では旅回りの芝居一座を招いていたといいますから、こちらはプロのお芝居観劇だったんですね。

 町浦富には昭和館という専門館がつくられ、芝居だけではなく映画も上演されるようになります。戦後もしばらくありましたが、今では取り壊されて残っていません。

 岩井には本格的なつくりの岩井座があり、連日公演がありました。歌舞伎、旧劇、新派、喜劇、連鎖劇、浪花節や活動写真が入ることも。芝居茶屋までありまして、お茶子さんが座布団、火鉢、飲み物のサービスをしていたといいます。

 1881(明治14)年、鳥越から鳥取警察署へ出された芝居興行願が残されています。そう、あの「どんづまりハウス」がある、あの鳥越です。この当時は、40余軒あったそうです。

 沖縄では、やはり昭和館や岩井座のような演芸場は、都市部の那覇に集中していました。そのかわり、「芸能の島」の名にし負う村芝居が各地で盛んに行われていました。国指定重要無形文化財「組踊」が古典的な楽劇として有名ですが、沖縄本島北部の集落には、その技芸を極めた役者を招いて、村芝居で演じられる「組踊」を指導してもらっていたところもあります。

 今でこそ女性たちが伝統芸能の継承に大きく貢献していますが、元来は女人禁制でした。これは村芝居でも同様です。だるまがお話をうかがった名護市のお爺ちゃんは、名女形として集落中に名を轟かせ、他所の集落からも引っ張りだこだったとうかがったことがあります。恐らく、岩美の青年にも名優がたくさんいたのでしょう。遙や真琴には、ちょっとハードルが高いかも知れませんが、存外にロマンチストの凛は上手かったりするかも知れません。あはは。