初めまして!南の島のだるまと申します!!

 南の島=沖縄から、極私的な日記を綴って参ります。

 従いまして、あまりの独断と偏見に嫌気がさすという方も、少なくないかと思いますが、そのときは、どうか速攻でスルーしていただければと存じます。あはは。

 とりま、Free!とアニメ、ぬこたちやら、5人だった東方神起にK-POP、韓国のことなんかがネタになってます。

 こんなだるまですが、皆様よろしくお願いいたしますっ!!


 でもって、HP「だるまさうし」 へも足を運んでいただきますよう、お勧めいたします(^-^)ノ~~。

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2016年06月25日(土)

「松田道之」①

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 『新編岩美町誌』をめくっていると思わぬ発見があります。その1つが下巻の1032頁から記されている「松田道之」です。郷土が生んだ傑出した人物として紹介されています。
 沖縄との関わりは、1034頁から掲載されています。この著者の方は、相当気を遣って下さっていると思います。
 つまり、松田は、約400年間続いてきた「琉球王国」に引導を渡した人物だからです。
 ですから、だるま的にはビックリ仰天なのであります。岩美で知られる松田の経歴は、町誌に譲るとして、沖縄側では一般的にどのように捉えられているのか・・・。このことについては、1983(昭和58)年に沖繩タイムス社から刊行された『沖繩大百科事典』下巻522頁を挙げます。参考文献が同じなので、岩美出身であること以外は、沖繩の歴史の上で彼がどのような役割を果たしたかについて、大差ないかと思います。

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2016年06月24日(金)

『大日本管轄分地圖』

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 古地図シリーズの最終回は、1895(明治28)年に刊行された『大日本管轄分地圖』の再版(1904年=明治37年)です。この地図から「鳥取県」ですね。

1

 表紙です。

2

 奥付です。

3

 鳥取県の地誌は、縮尺したのでほとんど読めません。あはは。

4

 それでも、続く岩井郡のところをアップ。


 この地図が最初に刊行された年の前年に日清戦争がはじまり、1895年には日清講和条約が締結されています。
 再版の1904年は、日露戦争が起こった年で、岩美では大谷の奥田亀造が朝鮮(年表表記のママ)沿海に大規模のオッタートロール汽船漁業を試みて成功したと、『新編岩美町誌』下巻の年表にあります。
 同書960頁から亀田の功績が記されています。オッタートロール汽船漁業とは、20世紀にイギリスで隆盛を極めた漁法で、日本においていち早くそれを取り入れたことが記されています。
 また、この文章では「韓国」という表記を取っています。歴史的な近現代の表記では、日本が植民地としていた時代もそのように現すことが妥当でしょう。
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2016年06月23日(木)

『大日本國細圖抄』

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 江戸時代の3つ目は、1865(慶応元)年に刊行された『大日本國細圖抄』です。あっさりした感じですが、かえってそのことが時代の背景を現しているように思えます。

い

 「前書」その1です。

ろ

 「前書」その2です。

は

 「後書」は、こんな感じです。

に
 地図とは別に石高なども記されています。因幡には8016丁の田があり、知行高は13万1649石と記されています。
 また、因幡国には、もとは8郡がありましたが、巨濃郡が省かれて八東郡と岩井郡に加えたとあります。


 「慶応」といえば、いよいよ江戸時代の終焉を迎える最期の元号ですね。ここで注目したいのは、やはり「浦富台場」が設けられたことでしょう。『新編岩美町誌』上巻879頁からそのことが記されています。
 1853(嘉永6)年、ペリーが来航し、鵜殿氏も「玉筒」を備えます。1867(安政4)年、下田条約が調印された年には岩美郡内の力士たちが「力者隊」を組織して、海岸防衛に備えようと名簿がつくられました。
 1858(安政5)年、日米修好通商条約締結の年、海岸から1里以内の男子と牛馬の員数調査があり、岩美では岩常・宇治ラインを境界とする18ヶ村、福部地区の9ヶ村が対象となりました。
 また、守備地区の割り当てが行われました。
 ・陸上~小羽尾~大羽尾 円山勘解由
 ・牧谷~浦富 鵜殿藤次郎
 ・田後 鵜殿直次郎
 ・網代~大谷 山岡上野
 1863(文久3)年、長州藩が下関海峡を通航する米国船に砲撃を加えた年には、台場が浦富につくられます。現在は、約100mの土塁が残されています。
 1988(昭和63)年、「鳥取藩台場跡」(全部で6箇所あります)として国の史跡指定を受けています。


 グーグルアースから見た現在の浦富台場跡(五角形印の所)です。
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2016年06月22日(水)

『國郡全圖抄』

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 次にご紹介するのは、1837(天保8)年に刊行された『國郡全圖抄』の「因幡国」のアップです。昨日の『大日本輿地便覧抄』に色が付いたといった感じですね。

1

 「自序」その1です。

2

 「自序」その2です。

3

 「奥付」です。

4

 この年は、大坂で「大塩平八郎乱」が起きています。前年来の凶作に疫病の蔓延が追い打ちをかけ、岩美でも大変な被害が出ました。
 『新編岩美町誌』上巻837頁「記録による考察」を見ますと、この年の1~6月までに因幡で6339人の死者を出していますが、そのうち岩井郡(福部地区を含む)だけで1414人が亡くなっています。因幡七郡の平均が703人ですから、その倍に上ります。
 前年が蒲生・岩井地区で95人の犠牲者を出しており、これは餓死と推定されます。一方、この年の死者は明石家の記録などからチフスと思われる疫病が蔓延。
 特に網代、田後、浜大谷などの漁村部で多くの犠牲者を出しています。前年比でいうと、網代が315人で12倍、浜大谷が133人で6倍、浦富が86人で5倍、田後が141人で5倍となっています。尤も蒲生・岩井地区でも298人が犠牲となっています。
 疫病の蔓延は6月がピークで8月には落ち着いたようです。その間、穀物の蓄えが少ない漁村部で、なんとか家人の糊口をしのげるようにと無理をした働き盛りの世代がバタバタと倒れたようです。
 このような「現実」を念頭に地図を見ると胸が詰まります。
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2016年06月21日(火)

『大日本輿地便覧抄』

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 京都の古地図を扱う古書店さんから、因幡に関する古地図データを落手しました。現在の岩美町辺りをアップして、ご紹介いたします。
 まずは、1834(天保5)年に刊行された『大日本輿地便覧抄』です。


 同書の「序」その1。


 同書の「序」その2です。


 『Free!』の聖地関連では、田後、網代が見えず、浦富も「浦住」になっていますね。その他にも現在とは地名が異なるところが多々ありそうです。
 その中で、岩井には「湯村」と註釈が付されていて、すでに有名な温泉であったことがわかります。


 「後書」です。
 1834(天保5)年を『新編岩美町誌』下巻の年表で見ると、「幕府届枝村(鳥越・真名)、新田村(唐川)」とあります。
 また、『ウィキペディア』によれば、同年藩内に暴風雨が起こって洪水となり、青谷海岸には帆立貝が異常発生したようです↓。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E5%B9%B4%E3%81%8C%E3%81%97%E3%82%93
 この時期は岩美にとっても大変なことが起こっていました。前年から全国的な凶作で、いわゆる「天保の大飢饉」と呼ばれる江戸時代を通して三大飢饉に挙げられる大飢饉が、全国に広がりを見せていました。
 特に因幡では、1836(天保7)年が最も凄惨で、申年に当たることから「申年がしん」と呼ばれました。疫病も蔓延し、翌年にかけて岩美でも多数の死者を出しました。特に湯村より奥が深刻だったと記録されています。
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2016年06月20日(月)

『観光岩美』⑥

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 『観光岩美』の特集も最終回。内容は、名産から鳥取砂丘におよびます。

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 20頁には、鳥取砂丘(鳥取市)、多鯰ヶ池(鳥取市)、そして唐川のカキツバタの群落の写真が掲載されています。
 このうち唐川のカキツバタの群落は、標高約300mにある低湿地帯に広がることが稀であることから、1944(昭和19)年に国の天然記念物に指定されています。また、カキツバタは、2006(平成16)年、「町の花」に指定されました。

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 21頁には、前頁に掲載した写真の箇所を、唐川のカキツバタの群落、鳥取砂丘、多鯰ヶ池の順に紹介しています。

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 22頁は、「松葉蟹」、「名梨二十世紀」、「岩井みやげ湯かむりこけし」の順に説明が掲載されています。
 松葉ガニって、田後の漁師さんがはじめて水揚げしたんですね。

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 23頁は、松葉ガニ、「ゆかむりこけしと木彫十二支」、二十世紀が写真で紹介されています。だるまは、二十世紀が大好物。それ以外の梨は食べません(マジ)。
 ところで、ここに載せられている木彫十二支は、岩井の「おぐら屋」さんが伝えています。なんと、1964(昭和39)年、2015(平成27)年の年賀切手に取り上げられています。


 ・おぐら屋
〒681-0024鳥取県岩美郡岩美町岩井319
電話0857-72-0520
 『とりネット』で紹介されています↓。
http://www.pref.tottori.lg.jp/100889.htm

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 そして裏表紙。写真の解像度が悪くてよくわかりませんでしたが、岩美中学校の横の道を上っていったところ、道竹城山麓にある「佛州仙英禅師之碑」で、右の除幕式の様子は1958(昭和33)年10月とわかりました。除幕しているのは、多分、遺徳顕彰会の代表澤田廉三氏だと思います。
 場所などは『じゃらん』HPに掲載されています↓
http://www.jalan.net/kankou/spt_31302aj2200120119/?screenId=OUW2201
 下の「観光洗心」の揮毫には、「梧山」とありますから澤田廉三氏のことですね。
 そして、鳥取県岩美町の発行とあります。すると、『観光岩美』は昭和33年度の発行とするならば、1958年4月~1959年3月までの事業となり、昭和34年度とするなら1959年4月~1960年3月の間に発行されたと思われます。
 いかがでしょう?
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2016年06月19日(日)

『観光岩美』⑤

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 この『観光岩美』は、岩美町や鳥取県、国立国会図書館にもないようなので、ひょっとすると貴重なものかも知れませんね。

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 13頁には、①温泉、②砂丘・海岸、③海水浴、④キャンプ場、⑤ハイキングコース、⑥スキー、⑦浦富海岸島巡りが紹介されています。所要時間とか詳しいですね。

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 14頁には、田後、城原、鴨ヶ磯、東浜、網代が紹介されており、澤田廉三氏の『大漁節かぞえ歌』もあります。

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 15頁は、酒宴洞穴、鴨ヶ磯キャンプ場、そして釣りを楽しむ子供たちの写真です。この子たち、お孫さんがいたりして。

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 16頁は、ガッツリ大きく網代浦遊歩道大展望台が紹介されています。一推しなんですね。

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 17頁には網代港と網代浦、千貫松島、観音浦遠望とあって、島めぐり遊覧船の思い出が甦ります。


 18頁は東浜海水浴場です。臨海学校でしょうか。賑わっていますね。

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 19頁には、竜神洞、天然水族館(東浜養魚場)、獅子岩の写真が紹介されています。
2016年06月18日(土)

『観光岩美』④

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 『観光岩美』は、表紙も含めて24頁なのですが、中綴じの「おまけ」が4頁付いてます。中綴じってのが時代を物語りますね。


 まずは、岩井温泉の「ゆかむり唄」から「忠臣蔵づくし」。『新編岩美町誌』上巻の192頁から「ゆかむり唄」の解説などがあります。


 岩井温泉では、頭に手拭いを載せ、短い柄の柄杓で湯を叩いては頭からそれを「かむり」ます。そのときに歌い継いでいくのが「ゆかむり唄」で、代表的なのが「忠臣蔵づくし」なのだそうです。
 後には、「岩井八景づくし」や「芸題づくし」、「効能づくし」などの歌詞が生まれました。


 中綴じ後半の3頁目には、「岩井音頭」と「浦富小唄」が掲載されています。前者の作者「坂井正一」については、ちょいとわかりませんので、どなたか教えていただけるとありがたいです。
 しかし、後者の作者「沢田梧山」は、岩美町名誉町民で、初代国連日本代表を務めた澤田廉三氏のことです。その人物については、『新編岩美町誌』下巻1002頁から詳しく紹介されています。
 お堅い外交官かと思えば、故郷浦富を小気味よく謡っておられるシャレっ気が素敵ですね。


 中綴じ4頁には、「民謡」として網代の唄にはじまり、短歌、俳句、漢詩が紹介されています。
 このうち、短歌の与謝野寛は本名で、彼の有名な歌人「与謝野鉄幹」のこと。妻の晶子の作品とともに紹介されています。
 その与謝野夫妻の弟子に山城正忠という沖縄出身の医学生がおりました。後に歌集『紙銭を焼く』を上梓します。また、能書家としても知られ、第2次世界大戦前の沖縄では3本指に数えられるほどでした。
 そんな山城は、酒癖がよくなかったようで、鉄幹と晶子が歌に詠んでいます。
 ・鉄幹
 正忠は目出度く那覇に帰りけり今は酔ふとも泣かずやあるらん
 正忠は昔の癖をあらためず酔えば泣きつついきどほりつつ
 ・晶子
 正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごとそそのかすごと
 正忠が宿酔を得し酒の名も忘るる友となりにけるかな
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2016年06月17日(金)

『観光岩美』③

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 『観光岩美』の8~12頁は、『Free!』ファンにとっては見逃せない所です。遙や真琴のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちが見た景色ですよ。きっと♪


 まずは8頁。宮島展望台は、荒砂神社のある高台から続く公園の一角ですが、現在は危険となって立ち入り禁止です。
 「松根島」とあるのは、田後港の北側の防波堤に続く「松島」のことかと思われますがいかがでしょう?
 そして、小栗浜はビーチインたけそうさんから県道155号線を西へと進んでいくと開けるビーチですね。民宿福乃家さんの前辺りです。


 9頁のタイトルは「浦富海水浴場」ですが、見覚えのある島にたくさんの人々が・・・。そう、ビーチインたけそうさんの前にある「向島」ですよね。
 男性はベルトの付いた水着です。そしてほとんどの女性は、夏着に日傘。よく探してみると、スクール水着のようなのを来ている人がいます。


 10頁は、左手に菜種五島と黒島のアップ。黒島は田後の展望台から手に取るように見えますよね。
 その下の写真は田後港。遠くに展望台のある日和山が見えています。ということは、手前の漁船が並んでいる辺りが無人島合宿へ、遙たちが笹部コーチのイカ釣り漁船で出発した「聖地」。


 11~12頁は、浦富海岸の観光スポットなどを詳しく紹介しています。
 11頁、旅館の紹介にある浦富の「武田」さんは、ひょっとしてビーチインたけそうさんのことでしょうか。
 ちなみに「羽尾岬」には、「はにょう」と振り仮名されてます。


 12頁は観光コースの図解。大阪、京都、姫路、津山からの所要時間も記されています。
 そして、島めぐり遊覧船が網代からビーチインたけそうさん前の西コースと、ビーチインたけそうさん前から嵐ヶ浜(陸上)までの東コースとがあったんですね。
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2016年06月16日(木)

『観光岩美』②

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 沖縄は、本日梅雨が明けました。そして、まだまだ続く岩美町特集!


 『観光岩美』の4~7頁をご紹介します。4頁に記されている「河合谷高原(かわいだにこうげん)」、「扇ノ山(おうぎのせん)」は、鳥取市国府町、兵庫県にもまたがります。「雨滝(あめだき)」は鳥取市国府町です。
 「河合谷高原」のスキー場のことは、岩美町鳥越区長さんに問い合わせるように記されていますね。
 そして、幕末に彦根藩の井伊直弼が師事した岩美町牧谷出身の仙英禅師のことが紹介されています。『新編岩美町誌』下巻の1006~1010頁に詳しく紹介されています。


 5頁の写真は、岩井温泉の様子と白鳳時代の創建と考えられる弥勒寺の大きな礎石が紹介されています。


 6頁は「山陰の軽井沢」として、「河合谷高原」と「天神池」、「雨滝」が掲載されています。


 7頁は、「壮大極まるスキーツァー」として冬の「河合谷高原」が掲載されています。
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