初めまして!南の島のだるまと申します!!

 南の島=沖縄から、極私的な日記を綴って参ります。

 従いまして、あまりの独断と偏見に嫌気がさすという方も、少なくないかと思いますが、そのときは、どうか速攻でスルーしていただければと存じます。あはは。

 とりま、Free!とアニメ、ぬこたちやら、5人だった東方神起にK-POP、韓国のことなんかがネタになってます。

 こんなだるまですが、皆様よろしくお願いいたしますっ!!


 でもって、HP「だるまさうし」 へも足を運んでいただきますよう、お勧めいたします(^-^)ノ~~。

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2016年09月25日(日)

「岩美ことば」か行

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 「岩美ことば」は、「か行」に参ります。沖縄の方言でしたら、まず「かーぎ(容姿)」が頭に浮かびます。「やなかーぎ(不細工)」なんて、「初めてのうちなーぐち講座(?)」で男性の先輩に女性を褒める言葉だと教えもらって、「うちなんちゅ(=沖縄人)」の同級生(女性)に使って叱られることがパターン化してましたね。

 まずは、「がいき」。風邪のことを指すようですが、ネットで調べて見たら岐阜県の恵那方言にも同様な使い方をすることがわかりました。古語で「がいき」は、「咳気」と書くことがあるようで、いわゆる咳の出る病を指すようですね。『新編岩美町誌』が刊行された2006(平成18)年ごろには死語になっていたようですが、古い言葉が残っていた証拠ですし、身近な言葉なので伝えて欲しいものですね。

 「がいな」をだるまは知っていました。サッカー好きなので当然<(^´)>エッヘン。「ガイナーレ鳥取」の由来にもなっていますから。鳥取県の西部では、大きいという意味に使われるそうですが、田後では頑丈なとか、頑健な体力の持ち主の意味として使われるそうです。事例として「あんねの(あの家の)若いもんは、がいなけえなあ(馬力がある)」が挙げられていました。で、応用すると・・・、

 「真琴はがいなけえなあ。」

なぁ~んて

 「きょうさめい」というのは、実に不思議だとか驚きだ、予想外のことなどのようです。「遙は、きょうさめい人だ」なんて使い方でしょうか。でも、『新編岩美町誌』の解説には、「興醒める」とも記されていて、かなりそのニュアンスには幅があるのかも知れませんね。

 「くたためる・くたためられる」という言葉は、もともと岩美の言葉ではない「外来語」のようで、詰問されるとか、クタクタになるまで責められるなどという様子を表すようです。ただ、それでも的を射た解釈ではないようで、「まことに微妙な言葉で、説明のしようがない」んだそうです。「くたくた」とか「くたびれる」にヒントがありそうです。

 「くろうのあれんじゃー」という項目を見付けて、お茶を吹きました。ありったけの苦労をいうそうですが、「苦労のアレンジャー」と誤解しても、「クロウノアレンジャー」とかいう戦隊ものかと考えてもよさげです。あはは。

 「こてこて」は、関西では「こてこての大阪人(突っ込みようのない120%大阪人)」とゆうふうに使いますが、岩美では動作が鈍くてさっぱりらちがあかないことをいい、「いつまでこてこてしとっだいやあー」などと使うようなので、「だらだら」に似ているのかも知れませんね。

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2016年09月24日(土)

荒海を越えて

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 その昔、バイト先でタメのヤツと仲良くなって話していましたら、出身が福井県の越前海岸にある集落だったんですね。夏場にドライブに行ったので、とても綺麗なところだった記憶を語りました。

 すると、冬場は海岸線の道路は通れない日もあるとのこと。しかも、彼が大学受験のときは、その道路もまだ全線で整備が進められている最中だったそうです。

 折からの季節風と大雪で道が通れず、知り合いの漁船で隣の集落へ行き、リレー方式で乗り継いで舞鶴まで行ったそうです。ただし、船が出せない日もあって、結局大阪にたどり着くのに1週間かかったそうです。舞鶴からは電車ですから、ほぼ6日間は船と船待ちの日々。夏場なら1日で行ける距離ですよ。それほど日本海の冬は、嵐のような毎日なんですね。

 そういえば、新潟県の糸魚川でも国道8号線が高波で通れない日があると聞きましたっけか。昨年の話です。

 『岩美町誌』で海上交通の項目を読んでいると、

 「(前略)田後の古老にたずねると、今の浦富から通ずる海岸バス道路は、大正5年(1916)頃開通したもので、それまでは周囲から孤立して、「田後浦」と称され、陸路村より外に出る時は、才谷から山にたどりつき、小栗浜の別荘の所におりて浦富に出るか、桐山越えして岩本に出るしか道がなかった。何れも山道であるため随分難儀をしたという。いきおい舟で運べる地域には海上の交通路を選ぶことが最上の方法になる。」

と、ありました。

 とはいえ、1698(元禄11)年の鳥取藩の地図に掲載されている浦富港は、「荒磯川浜冬不懸但し当座の着船で、風荒き時は船掛なし」とあり、あまり良い港でない上に冬場は使いものにならなかったみたいですね。

 網代港も西向きであったため、冬場に吹く西北からの季節風には抗えず、岩本まで入って積み卸しをしたため、番所もそこへ置かれることになりました。藩の御蔵もあり、ここに集められた年貢米を大型船に乗せ替えて賀露港へ回漕したり、下関を経由して瀬戸内海に入り、大阪まで運んでいたそうです。

 山陰地方に鉄道を敷設するには大金がかかるとして、なかなか前進しない中、海上交通が盛んに行われ、岩本は築港工事が度々行われていました。

 1910(明治43)年、山陰本線は鳥取方面から岩美まで開通しますが、居組から東側は難工事のため遅れ、網代と城崎の間に隠岐汽船が就航しました。荒砂神社の下に仮桟橋もつくられ浦富港も利用されました。1912(明治45)年に全線開通するまでの間、大変な賑わいを見せた網代港も、その後はもとの漁港へと姿を変えていきました。

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2016年09月23日(金)

『Free!』の東浜駅はなくなりました

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 ツイッターで東浜駅が無くなっている写真を見て、愕然としただるまなのであります。江が駅から出てく宗介を見かけるシーンが忘れられないですよね。4月に行ったときには自販機もちゃんと残っていたのに・・・。

 来年春からJR西日本がトワイライト・エクスプレス瑞風を走らせることになり、東浜駅にも停車することから、全面的に建て替えるようです。

・トワイライト・エクスプレス瑞風ニュース・リリース

https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/06/page_7249.html

・トワイライト・エクスプレス瑞風スペシャル・サイト

http://twilightexpress-mizukaze.jp/

・トワイライト・エクスプレス瑞風パンフレット

https://www.westjr.co.jp/press/article/items/150618_00_route.pdf

 美しい東浜の海が多くの方々の目を楽しませることになるのでしょうが、『Free!』の聖地がまた1つ様変わりをするのは、寂しいものがあります。

 そういえば、東浜駅はご当地の皆さんの並々ならない努力が実を結び、ようやく出来た駅だったんですね。『岩美町誌』には、山陰本線開通の際、兵庫県側の居組の駅設置運動工作に敗れ、誘致すねことが出来なかったといいます。

 目の前を通り過ぎる汽車を眺めるだけ。それに乗るためには、岩美駅まで歩くか、居組駅までトンネルを潜ってでも行くしかありませんでした。中にはトンネルを通っていて汽車にはねられた方もありました。

 大正から昭和のはじめにかけて、3回にわたって当局へ請願するも、採算がとれないとの理由から拒絶され続けました。

 第2次世界大戦が終わり、「駅設置」を公約の第一に掲げた岡田光治氏が村長に当選。いよいよ本格的な運動がはじまります。1947(昭和22)年6月20日、小羽尾地域内へ簡易駅の設置について村会で議決したのを皮切りに、国鉄への請願運動が展開されました。もちろん、当時の運輸省へも足を運びました。

 こうして1949(昭和24)年1月9日、陸上への駅設置、その総工費1036万円と提示があり、工事費用187万4100円は陸上7、その他3集落3の割合で負担。

 同年7月1日午前6時50分、浜坂発鳥取行きの通勤列車が東浜仮乗降場に着いたのでありました。

 翌1950(昭和25)年1月1日、第2期工事を経て本駅に昇格。多額の費用を賄った陸上の皆さんはじめ、1912(明治45)年の山陰本線全線開通以来、村の皆さんの38年間の悲願がかなったんでね。

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2016年09月22日(木)

岸本与平治はどうして文字が書けたのか?

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 そういえば、田後の岸本与平治が記録した『古語伝実録抄』に触れて、一体、彼がどのようにして「文字」を学んだのかが気になり出しました。というのも、村の顔役であったとはいえ、生魚を扱う生物問屋であり、士族ではありませんでした。

 ちょいとお断りしておきますが、だるまも含めてガッコで江戸時代の身分制度を「士農工商」と習いましたが、実際にはそんな制度はありませんでした。単に「士」か「民=パンピー」かの違いだけ。かつての琉球も同じです。ただ、琉球の場合には「士」から「民」への「百姓落ち」という身分剥奪、その逆に「士」分への取り立てがあったこと位でしょうか。

 話を元に戻して、与平治がどのようにして文字を学んだか、あるいは問屋ならば算術も必要なので、いわゆる「読み・書き・算盤」をどのように学んだのかという疑問です。

 鳥取藩に士族に対する教育機関が創設されるは、1757(宝暦7)年の「尚徳館」が最初です。琉球では1718(康煕57)年に、中国系の村であった久米村(くにんだ)に設けられた「明倫堂」が最初なので、存外に遅いんだなぁと思います。

 パンピー教育は、1698(元禄11)年、鳥取藩が永代請免除制をしいたことから、年貢米を取り扱う事務が大庄屋村庄屋五人組という仕組みで委託されたことにより、「読み・書き・算盤」が出来なくてはならなくなったわけです。ただ、はじめは家庭教師に毛が生えたようなもんで、医師、神官、僧侶、浪士人を頼んで習うようになります。

 これが「寺子屋」という、村における学校として現れるのは、岩美では天保年間(1833~44年)のことだったようです。1872(明治5)年、新しい学制が発布されると寺子屋は「お客さん」を失って廃業に追い込まれてしまいました。

 『岩美町誌』には、当時の寺子屋の一覧表が掲載されています。「習字」を教えるところが7箇所、「読・習」と両方を教科としているのが3箇所ありました。とはいえ、「習字」だけ掲げていても、結局は「読み」も教えますし、「算盤」も教えていました。

 外村、荒金、岩常、河崎、太田、岩本、田後、陸上に各1箇所、浦富には2箇所ありました。

 与平治の学齢期(?)には、田後に寺子屋はありませんでしたが、寛永年間(1624~43年)にいずこから来た「金頭」、「三慶」、「三光」という3人の山伏兄弟が村人たちを教化したといい、今も彼らを祀る祠があります。

 次いで、正徳~享保年間(1711~35年)に、薬師堂へ信者の師弟を集めて熱心に教化したという「白禅房」が知られており、ひょっとすると与平治の先生だったのかも知れませんね。

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2016年09月21日(水)

「岩美ことば」あ行

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 『新編岩美町誌』の「あ行」を読み始めて、あっ!と驚いたのが「あばさん」という言葉です。年増の女性を指す言葉で、「あば」とも略すことがあるそうです。「あばさん=おばさん」らしいのですが、血縁の有無は問わないそうですから、単に「あば」というとき「叔母・伯母」と、即イコールというわけではないようですね。

 その「あば」が、沖縄の方言にもあります。「あばー」と延ばすのですが、「姉さん」という意味の田舎言葉です。おうじょうのった首里では、士族は「うみー」といい、庶民は「あんぐゎー」といいました。まぁ、年増とは少しニュアンスが違うかも知れませんが、年上の女性を指す言葉であり、血縁の有無を問わない辺りは同じですね。

 さて、面白そうなのをいくつか拾ってみます。まず、「あたりきさりき」は、続けて「ケツの穴ブリキ」というようです。当たり前のことを風刺的に強くいうときに使うそうです。これが関西では、「ありきしゃりき」といいます。意味はまったく同じですね。吉本新喜劇にも登場していたいい回しです。

 「あんや」というのは、若いもん、若い衆、あんちゃん、アニキ、息子などに使われることばです。沖縄では「にーせー」が該当する言葉でしょうか。この言葉は、鹿児島弁の「にせ」から来ているといいます。ただ、アニキというとき、那覇では「あひー」と語尾を上げて使います。

 「いちくちはちくち」という言葉も面白いですね。いちいち、一から十まで、すべてなどという意味だそうです。沖縄でいう「みーみくーじー」と、ほぼ同じ使い方かと思いますが、随分と違うものですね。

 「うちいりが悪い(ええ)」というのを見て、赤穂浪士の「討ち入り」かと思いきや、「うちいりが悪い」は外面がよいこと、その反対は「うちいりがええ」になるそうです。「うちでは悪い」、「うちでは良い」ということらしいですね。面白い表現です。

 「おけやのさんぶんごりん」も笑ってしまいました。漢字を交えると「桶屋の三分五厘」。桶屋のつくった桶に三分ほど水を入れて叩いても、空っぽと同じ音がすることから、脳みそが足りないということを意味しているそうです。もちろん、悪口です。直接的な表現ではないところがシャレてます。

 「おなる」は、大声をあげてわめくことなのですが、田後の狸谷と城原の真ん中辺の沖合約500mのところに、「おなりぐり(瀬)」があり、それが海面からどれくらい見えるか否かで出漁できるかどうかを大声で村人に伝えたそうです。

 ちなみに、沖縄で「おなり(実際の発音は「うない」)」は女性を指す古語で、男性の方は「えけり(実際の発音は「ぅいきー」)」といいました。

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2016年09月20日(火)

「お国ことば」というものは・・・

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 『新編岩美町誌』には、岩美町の方言が辞典風に収められています。田後ご出身の著者が「前書き」で、

 「二、三の言葉を耳にしたとたん田後の人たちだとすぐわかる。独特の荒れ言葉。さび声。イントネーション(抑揚・語調)、いわゆる漁師言葉である。」

と、述懐しておられます。

 

 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

 

 石川啄木が東京でホームシックに苛まれたとき、上野駅に出向いて出身地である岩手の言葉に耳を傾ける様子を詠ったものですが、彼の地も広いので地域性が豊かだったはずなので、聞き覚えがあってもピタリとくる言葉に出合うのは、そう容易いことではなかったかも知れません。

 だるまの出身地である兵庫県西宮では、人がいないことを「人がいーひん」といいます。しかし、武庫川をひとつ越えると「人がおらへん」に変わるので、同じ「摂津国」でも単語が違うのに驚きます。

 沖縄県那覇市で方言調査に関わったことがあります。隣の集落と2m弱の段差しかないのに、集落の人たち異口同音に「言葉が違う」というのですが、方言学上の調査では半農半漁村の大嶺にしか、際立った違いを見出すには至りませんでした。

 田後は漁村ですから、「独特の荒れ言葉」、「さび声」といった、船に乗っていては普通に会話していては相手に通じないため、結果的に大きな声で話すので声がかれ、丁寧に話していては生死に関わることがあるため、荒い言葉になるというのは、全国共通なのでしょう。そういう意味では、宮古島市の佐良浜も漁村なので、言葉が荒いといわれます。

 ザックリと『新編岩美町誌』を見回すと、いわゆる関西弁と共通するような言葉もあります。柳田國男は「蝸牛考」という論文で、中央から地方へと言葉が広がるものだという、「伝播主義」の考えを著しました。「でんでんむし」、「まいまい」、「かたむり」などの単語で比較研究したのですが、「ちんなん」だけは棚の上へ上げられたままでした。「ちんなん」は、沖縄の方言なのですが、どこへどう分類するのか不明だったんですね。あはは。

 とりま、関西弁と同じ言葉が岩美町にあっても、陸続きである以上、それはちっとも不思議なことではないと思います。他方、沖縄方言はその成立がかなり異なりますから。

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2016年09月19日(月)

岸本与平治と『古語伝実録鈔』【下】

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 岸本与平治が残した『古語伝実録鈔』とは、いい伝えと当時までの実録を合わせて記載した注釈書という意味です。

 目録は84項目あることになっていますが、いい伝えが25項目、実録が34項目で都合59項目がわかっています。

 巻1~巻3までの構成で、巻1は天正年間(1573~91年)にはじまり、1723(享保8)年までの記録です。巻2は行方不明となっていますが、1724(享保9)年から1740(元文5)年までの記録であろうと推測されています。巻3は、1741(寛文元)年から1747(延享4)年までの記録です。

 『ふるさと人物誌』に収められている事例をご紹介しましょう。巻1には凄惨な海難事故の記録があります。

 1722(享保7)年12月16日、沖漁船24隻が遭難。死者124人という大惨事となりました。都合63軒の家から犠牲者が出ました。この内43人は、一家の大黒柱である「戸主」でした。

 翌年、鳥取藩から銀5貫目を8年賦で借り、8隻の漁船を新造することになりました。材木の杉は隠岐から取り寄せ、木挽きは鳥取・町浦富から、釘をつくる鍛冶屋は鳥取から、船大工は越前から招き、2ヶ所の船小屋でつくりました。

 巻2は、なぜ行方不明なのか。この記録がなされたと思われる時期には、1739(元文4)年の「元文一揆」がありました。この一揆は、因幡・伯耆の百姓約5万人が参加したもので、鳥取藩政史上最大のものでした。鳥取藩の史料から岩井郡から起こったとされています。当然、その動向などが克明に記録されていたと考えられ、あるいは藩当局に没収されたのかも知れません。

 巻3からは、網代との漬場争いのことが掲載されています。漬場とは、孟宗竹でつくったパヤオみたいなもので、これに集まるシイラを獲ります。

 1741(寛保元)年、いつもは田後と相談して漬場を設けるのに、相談なく網代側が一方的に漁場を占領してしまいました。そこで、大庄屋の中島半兵衛らが双方のいい分を聞いた上で、両村の万覚帳なども調べた上で吟味し、「みさご島」を境として漬場を設けるよう裁定しました。そして、おとなしく双方仲良くするようにと諭しています。

 また、この翌年に起こった加路村虎屋安左ェ門船の遭難事件についても、『ふるさと人物誌』には取り上げられています。

 このように与平治の遺した『古語伝実録鈔』には、田後の歴史と漁業の歴史を知る貴重な記録が記されています。鳥取県立図書館には、古泉芳穂さんが2008(平成20)年に上梓された『古語伝実録鈔/薬師如来縁起』が納められているようです。こっちの図書館から借りられないものでしょうか・・・。ほんとは欲しいんですけど(^_^;)。

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2016年09月18日(日)

岸本与平治と『古語伝実録鈔』【上】

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 遙と真琴が暮らした岩美町田後は、文禄年間(1592~95年)に石見国の漁師たちが移住してきたことにはじまると伝えられています。

 そもそも、天正年間(1573~91)石見銀山領の大内郡松本滝の前というところから漁に来て、毎年3月ごろから10月上旬まで仮小屋を建てて暮らしていたといいます。

 そして文禄年間になって、親兄弟妻子も伴って本格的に移り住んだというわけです。

 このようなことがなぜわかるかというと、18世紀に記録を残した人がいたからです。その人物こそ、岸本与平治です。

 そう、岩美町教育委員会の刊行した『ふるさと人物誌』を開きましょう。

 与平治は、1707(宝永4)年に田後に生まれ、21歳になったころから田後の記録をはじめます。その理由は、御政道の慈悲を後世に伝えることと、自らの家業を大切に勤めるため、生活を戒めるためでした。

 そこで、村役をしていた家をはじめ、各戸に残る古い記録を探し出して記録し、古老たちのいい伝えも熱心に聞き書きしました。こうして、1759(宝暦9)年、与平治53歳のときに『古語伝実録鈔』が完成しました。天正年間にはじまる約150年にもおよぶ田後の記録です。

 与平治は、田後の中興となった松本七郎右ェ門を先祖とし、1743(寛保3)年に村三役の年寄となり、1747(延享4)年まで勤めました。

 1772(明和9)年には、松本七郎右ェ門が書いた『田後薬師堂如来縁起』の写本もこしらえています。

 1773(安永2)年の記録には、本業である生物問屋として活躍していた記録が残されています。

 それによれば、当時の顔役として、生魚の抜け荷を防ぎ、御運上(税金の一種)の確保を図る役割を勤めていたようです。

 漁師が水揚げした魚を仲買や振売商人に相応の値段で売るようにして、押し売りをさせないようにしたり、沖合での不正な取引を摘発して、番所へとどけるなどといった仕事をしていました。

 業務の内容は、月ごとに御船手番所へ御運上とともに報告書を提出していました。

 1789(寛政元)年6月14日、83歳で亡くなりました。当時としては、まさに天寿を全うしたといえるでしょう。

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2016年09月17日(土)

岩本出身の橋浦泰雄【下】

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 日本民俗学の祖である柳田國男は、学問に対して厳しく、弟子たちにも一切の妥協を許しませんでした。また、帝国憲法下での官僚でしたから、当時「主義者」とレッテルを貼られた社会主義運動家は、その嫌うところであったはずです。

 あ。「主義者」という言葉は、大正時代を背景として描かれ、アニメにもなった『はいからさんが通る』(大和和紀作)でも、怪しい存在として描かれています。

 柳田と橋浦の接点は、弟の季雄の関係で知り合った作家の有島タケオの紹介によるものでした。橋浦は、ロシアの革命家クロポトキンの「相互扶助論」に感銘を受けたころ、各地に相互扶助、原始共産社会の事例があることを知りました。

 1924(大正13)年、青森の尻屋に原始共産集落があると聞いて調査し、そのことを柳田に語ったことから賛同を得て、1年後に、信州、飛騨、越中、越後、福島、釜石、気仙沼などを約100日もかけて調査に明け暮れました。

 社会主義運動家として、原始共産制の研究が目的でありましたが、その綿密な調査は、各地の暮らしを浮き彫りにするものでした。民俗学を志す者には、机の前で唸るタイプと、とにかく足で稼ぐタイプがいますが、だるまの恩師は皆さん後者でした。そのようなタイプは、橋浦に端緒があるのかも知れません。

 とりま、その調査の素晴らしい成果は、『山村生活の研究』や『海村生活の研究』といった、日本民俗学の基礎的な研究として後世に偉大な金字塔として伝わることになります。こうした経緯を見ていると、柳田から見た橋浦は、「主義者」というよりは、彼が実践したかったことを代理する、いわば分身であったのではないでしょうか。うがった見方をすれば、当局に目を付けられていた橋浦を裏から手を回して護っていたとも考えられます。なんせ、柳田は高級官僚に上り詰めていましたから。

 『月ごとの祭り』も、橋浦の精力的な調査の精華といえますが、昭和30年代になると、それまでの調査で訪れていた紀州沿岸に「身を潜め」ます。なんと3ヶ年にもわたり、同地の捕鯨についての研究に没頭したのです。その成果は、『熊野太地浦捕鯨史』として、1969(昭和44)年に上梓されます。この大著こそ、橋浦の生涯を通して最も特筆される著作でした。

 戦時中も日本民俗学の碑を消さぬよう談話会を続け、1949(昭和24)年、日本民俗学会が設立され、翌年の第2回年会で、柳田、折口信夫らとともに名誉会員に推挙されました。

 橋浦は、文学を志し、画家として活躍する一方、社会主義運動家としての活動を続け、さらに日本民俗学の基礎を創り上げた実に多彩で精力的な人物であったといえましょう。

 1979(昭和54)年5月20日、鳥取民俗学会主催の講演会で講演し、6月2日に東京へ戻り、11月21日逝去なさいました。

 近年、早稲田大学教授で日本近現代史を研究しておられる鶴見太郎が橋浦の研究をしておられ、『橋浦泰雄伝-柳田学の大いなる伴走者』や『柳田国男とその弟子たち-民俗学を学ぶマルクス主義者』を上梓されています。

 

橋浦泰雄のシリーズは、民俗学に親しむだるまのクセで、研究論文でもないのに登場人物の敬称を略してしまいました。すみませんm(_ _)m

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2016年09月16日(金)

岩本出身の橋浦泰雄【中】

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 『岩美町誌』や『新編岩美町誌』は、ともに内容が充実していて、特に民俗については、素晴らしいと感服しております。九州にある町の「町誌」に、業者任せでつくられた装幀だけ立派で、内容が薄っぺらなのを見て辟易したことがあります。しかし、岩美町のは違います。ま、惜しむらくは「索引」が欲しかった(>_<)

 あー、昨日から脱線しまくりなので、もとに戻します。やはり『ふるさと人物誌』に橋浦泰雄のことが掲載されていました。

 橋浦は、1888(明治21)年、10人兄弟の6番目として岩本に生を受けました。父が読書好きであった影響を受け、とにかく本に親しんで育ちます。

 1903(明治36)年、『平民新聞』が発行され、翌年には岩本でも読めるようになります。橋浦も兄等の影響もあり、これに触れます。そこから、社会主義運動の道へ踏み入れることになりました。

 他方、文学にも親しみ、同人誌を発刊したりしています。そして、 1912(大正元)年、文学を志して上京。ここで多くの仲間と知遇を得て、当時の文壇に対して挑戦する『壊人』を刊行します。

 ただ文学の方ではイマイチ芽が出ず、画家を志します。実は絵も嗜んでいて、17歳の頃「美術学校に行きたい」と長兄にいっていたといいます。

 1922(大正11)年、初めて個展を東京・牛込で開き、22点の作品のうち12点が購入され、1000円近い大金を得ました。同じ年、鳥取でも個展を開いて好評を得ました。

 その後、画家として約30回もの個展を開き、公募展などにも時折出品していましたが、官展には一切関わることがありませんでした。

 橋浦は、社会主義運動家としての活動を続け、1921(大正10)年のメーデーには公務妨害として検挙され、45日間牛込監獄に拘留されました。第2次世界大戦前は、プロレタリアアートの最前線で活動していました。

 1945(昭和20)年、日本共産党が再建されるとともに入党し、翌年には全東京都生活協同組合連合会の理事長として、その設立から初動に貢献しました。

 わが国における社会主義運動の歴史に、しっかりとその足跡を刻む橋浦が官展とは一切関わらなかったというのは、ごく自然のことだったのだと理解できます。

 なお、兄弟姉妹も社会主義運動の歴史に名を刻む「名士」が、橋浦家からは出ています。

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