テーマ:
 机の上に、宝石のような玉が置いてあった。色は、金色に近い黄色。大きさは、指で摘むのにちょうど良いくらいの大きさだった。
 その玉を若い男が拾い上げると、声をかけられた。
「素手では触らない方が良いな、ヴェルツ」
 玉を置き、ヴェルツが声がした方を見る。そこには、この家の主である、ヴェルツと同じくらいの若さの男が立っていた。
「なぜだ?」
 視線を玉に戻し、ヴェルツが男に聞く。
「君はまだ生きているから、大丈夫だとは思うがね。ブロブを知ってるかな?」
「……。液体のような、固体のような、化け物の事か? 聞いた事はあるな」
 ヴェルツが聞き返すと、男は静かに頷いた。
「それは、ブロブの核だ」
 男が言い、机の側の椅子をヴェルツに勧め、自分も腰掛ける。
「核?」
「そいつを死肉の上に置き、しばらく放置する。すると、死肉は溶けてそいつを包み……、めでたく、ブロブが誕生すると言うわけさ」
「なるほど……。今は、こいつの研究でもしてるのか?」
 ヴェルツが玉を軽く突きながら、聞く。
「まさか。処分を頼まれただけさ」
 男はそう言うと、肩を竦めて見せた。

「処分?」
「貴族の中には、装飾品としてブロブの核で着飾る人間がいてね」
「酔狂な話だな」
 ヴェルツが苦笑する。
「それで、最近、ある貴族の老婦人が亡くなったんだが、遺体と一緒に肌身離さず身につけていた、首飾りを埋葬したらしい」
「まさか……」
 ヴェルツは眉をひそませると、ブロブの核を指差した。
「そのまさか、さ。ブロブとして蘇った老婦人は、何人か巻き添えにしたらしいね」
 男とヴェルツが、同時に溜息を吐く。
「迷惑な話だな」
「君も気をつける事だ。まぁ、ブロブの倒し方は簡単だけどね」
 男はそう言うと、ブロブの核を摘み上げた。
「こいつ自身に、刺激を与えるだけ……。それだけで、核とそれを守る油脂のような物は、結合力を失う」
「随分と簡単だな」
 ヴェルツが呆れたように言う。
「小さいうちはね。古い文献によれば、村一つを飲み込んだと言う話もある。ブロブはわかりやすい攻撃力こそ無いが、生き物を自分自身に取り込んで窒息死させる事ができるから、意外と侮れないよ」
「村一つとは、随分だな」
 ヴェルツはそう言うと、大袈裟に肩を竦めて見せた。
「それくらいの大きさだと、核も随分と大きいだろうね。ところで、今日は何を聞きに来たんだい?」
 と、男が話を変える。
「ん? ああ、それなんだが……」

「動く山か……」
 ヴェルツの語った話に、男は眉をひそめた。
「ああ。正体は不明だから、本当に山なのかどうかもわからないがな」
 ヴェルツが頷く。
「君も酔狂な男だね。それを追っているなんて」
「俺の勝手さ。で? 噂にでも、聞いた事は無いか?」
 ヴェルツがそう聞くと、男は首を左右に振った。
「無いね。追い越したんじゃないのかい?」
「ん……。そうかもな。少し、戻って調べてみるか」
 そう言うと、ヴェルツは立ち上がった。
「気をつけたまえ。それが何であれ、山が動くなんてのは、尋常じゃない。君の経験が少ないと言う訳ではないが、動く山を相手にした経験など無いだろう?」
 その忠告に、ヴェルツは苦笑した。
「わかってるさ。嫌な予感がしたら、手を引くよ」
「その嫌な予感も、経験が齎す物。その事を、努々忘れないように」
 重ねての男の忠告に、ヴェルツは頷いた。

 ヴェルツは、来た道を戻った。奥へと道が続く森の手前で、ふと、横を見ると、来る時には気づかなかった山が見えた。
 位置的には、森に遮られる場所で、森の中の道を通ってきたヴェルツが気づかなかったのも、不思議ではない。
(まさか、な)
 が、嫌な予感がした。その山には、違和感があったのだ。
(行くか)
 ヴェルツは頷くと、道を外れその山へと近づいていった。
 しばらく、歩いていくと、ヴェルツは違和感の理由に気づいた。振り返り、森を確認する。
「違う……」
 ぼそりと呟く。
 違和感の正体は、山に生える樹木であった。禿山に近い山であったが、辛うじて生えている木は、森では見なかった種類だった。
 ヴェルツはしばらく、山を観察してみた。少なくとも、今現在は動いているようには見えない。
(ここで眺めていても、埒が明かないか)
 一つ深呼吸をすると、ヴェルツはゆっくりと山へと入っていった。
 その山は、奇妙な山であった。地盤が緩い。そう言う表現が正しいのか、雲の上を歩いているような感じだった。
 その所為で、木が生えづらいのかも知れない。そう考えながら、ヴェルツはひたすら山を登り続けた。
(日が暮れるな……)
 ヴェルツは西を見た。遥か彼方の地平線に、太陽が沈んでいくのが見えた。
(仕方が無い。ここで、休む……。ん?)
 と、ヴェルツは嫌な予感を感じ、周囲を見回した。が、特に何も見えない。
「気のせい……、か?」
 そう呟いた瞬間、ヴェルツは足元の地面が崩れるのを感じた。
「……!」
 そして、ヴェルツは叫び声を上げる間もなく、地面の下へと飲み込まれていった。
(くっ! 息が……!)
 水よりも粘性の高い何かの液体の中で、ヴェルツがもがく。が、暗闇の中、呼吸もできず上下の感覚も失っていたヴェルツは、やがて、意識をも暗闇の中に飲み込まれていった。

(月……。月が……、見える)
 朦朧とした意識の中、ヴェルツは月を見ていた。
 闇を照らす月の光。ヴェルツは、それをぼうっと眺めていた。
(俺は今、どこに?)
 ヴェルツは記憶を辿る。が、何も思い出せない。
 自分が今、どこにいて、どうなっているのか。そして、なぜ、そうなったのか。
 全てが、思い出せない。
(月が近い……、な。まるで、手を伸ばせば……、届き……、そう……)
 再び、意識が遠のいていく。が、無意識のうちに、ヴェルツは月へと手を伸ばしていた。
 そして、月を掴み取った。
(……?)
 ありえない月の感触に、ヴェルツは意識を取り戻した。それと、同時だった。
 手と手を打ち合わせたような、破裂音。それが、ヴェルツの耳に届いた。
 ぐらりと、体が揺れた。そして、最初はゆっくりだったが、徐々に勢いを増し、最後には激流にでも落ちたように、ヴェルツの体は流されていった。
 何が起きたのかわからないまま、ヴェルツは再び意識を失った。

 それから、数時間ほど経ち、ヴェルツが意識を取り戻した。
「げほっ! げほっ!」
 瞬間、酷く咳き込む。
(一体……、何が……?)
 咳が収まり、ヴェルツは倒れたまま、首を動かして周囲を見回した。辺り一面、油の臭いが充満していて、臭いが堪らない。
 いや、それ以前に、ヴェルツ自身も油まみれであり、口の中も油の味で充満していた。
「くそっ……」
 吐き気を堪え、立ち上がろうとする。と、自分が何かを握り締めている事に、ヴェルツは初めて気づいた。
(何だ……?)
 ゆっくりと右手を胸の前に上げ、それを見る。それは金色に輝く、ブロブの核だった。
 が、昨日見た物よりも、何倍も大きい。拳大の大きさをしていた。
「はっ……」
 苦笑し、ヴェルツは再び横になった。おかしくて、立ち上がる気力が出なかったのだ。
(あいつに話したら、何と言うかな? 村一つどころか、まさか、山ほどの大きさのブロブがいたなんてな)
「ははは……」
 ヴェルツが、乾いた笑い声を上げる。
 そのヴェルツを見下ろすように、月が光り輝いていた。

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指輪

テーマ:
 その老人は部屋に入ってきた男を見ると、縋りついて叫んだ。
「お願いだ! 孫の仇を……!」
 男は小さな溜息を吐くと、老人の肩に手を置いた。
「まずは、落ち着け。話は、それからだ」

 老人の話は、こうだった。
 一週間ほど前の事だ。老人の孫娘が行方不明となった。その子の名は、アリサと言った。
 アリサの両親は、すでに他界していた。そのため、アリサは老人にとって、目に入れても痛くないほど大切な孫娘だった。
 年は、20歳となったばかり。アリサは誕生日の日に、村から姿を消したのである。
 老人は、血眼になってアリサを探した。村人も手分けをして、捜索の手伝いをしてくれた。
 が、アリサは見つからなかった。
 その代わりに、別の物が見つかった。村の外を捜索していた村人達が、怪物の姿を見たのである。
 その醜い巨体としわがれた叫び声に、村人達は逃げ帰ってきた。その話を聞いた老人は、もしやと思い、その怪物がいた場所へと向かった。
 怪物は、すぐに見つかった。老人はもっと近くで見ようと、恐る恐る近づいていった。と、怪物と目があった。
 一瞬の間を置き、怪物が雄叫びを上げて、老人に襲いかかってきた。老人は慌てて背を向けると、命からがら村の中へと逃げていった。運良く、怪物は村の中までは追ってこなかった。
 詳しく、怪物を観察する暇は無かった。が、老人は確信した。
 アリサは、怪物に襲われたのだと。
 なぜならば、老人は見ていたからだ。アリサがお守り代わりに左手の指にはめていた、母親の形見の指輪を。

「村人達も怪物を恐れ、近づこうともせん。もちろん、わしがすべき事だとは、重々承知している。だが、わしでは……」
 老人は悔しそうに表情を歪め、力無く俯いた。
「わかっている。だから、俺を呼んだんだろう?」
 その男の言葉に、老人は顔を上げた。
「やってくれるのか?」
「但し、結果に関わらず、依頼料の半分を前金で貰う。わかってるな?」
「わかってるとも、これが前金だ。確かめてくれ」
 老人はそう言うと、腰に提げていた袋を男に渡した。男は軽く中を確認すると、小さく頷いた。
「契約成立だ」
「よろしく、お願いします。せめて、あの指輪だけでも、取り返してくだされ」
 老人は、最後にそう言った。

 村の外に出ると、左手に怪物の姿が見えた。怪物は遠巻きに、村の方を窺っているように見えた。男には、まだ気づいていない。
 男は真っ直ぐに、怪物へと近づいていった。隠れて近づくのに、ちょうど良い障害物は無かった。
 しばらくして、怪物は男の足音に気づき、こちらを見た。
「あれか……」
 怪物に気づかれた事も気にせず、男は怪物の左手を見ていた。確かに、そこには怪物の指に食い込む指輪があった。
「ふん」
 嘲るように、男が鼻を鳴らす。
(人食いの怪物が、身を飾るとはな)
 男は尚も怪物に近づきながら、腰の剣を引き抜いた。その動作に、怪物が怯えたように後退りする。
(何だ?)
 その時、男は言葉にできない違和感を感じた。が、それを無視する事にした。ほんの僅かな迷いが死を呼び寄せる事を、男は知っていたからである。
 ある程度まで間合いを縮めると、一足飛びに男は怪物に詰め寄った。そして、怪物目掛けて剣を振るう。
 軽い手応えと、何かが足元に落ちる音がした。
 怪物が何かを喚きながら、男から逃げ出す。いくつかの指を失った左手から、血を撒き散らしていた。
「逃がすか!」
 すぐさま、男は怪物を追いかけようとした。が、なぜか、男はそうしなかった。
 男は足元に落ちた、怪物の指を拾い上げた。男の視線は、その指にはめられていた、指輪に注がれていた。

 再び、老人の前に男が現れた。
「すまない。逃げられた」
 男はそう言うと、溜息を吐いた。老人の表情には、失望の色がありありと窺えた。
「その代わりと言うわけじゃないが……」
 男はそう言うと、老人に右手を差し出した。その掌の上には、指輪があった。
「……っ!」
 しばらくの間、老人は声を失っていた。恐る恐る、指輪を手にする。
「おぅ。おぅ。ありがとう。ありがとう。本当に……、本当にありがとうございます」
 老人は大粒の涙を流しながら、堰を切ったようにお礼の言葉を繰り返した。
「礼を言われるような事じゃない」
「そうだ。依頼料の残りを……」
 そう言いかけた老人に、男が首を振る。
「依頼は果たせなかった。受け取るわけにはいかない」
 その男の言葉に、老人も首を振った。
「いや。わしはこの指輪を取り返してくれただけで、充分じゃ。だから、これを受け取って欲しい」
 前金を払った時のように、老人が腰に提げていた袋を男に差し出す。が、男が頑なにそれを拒んだため、老人の方が折れるしかなかった。

 拾い上げた指から、男は指輪を引き抜こうとした。が、肉にきつく食い込んで、中々抜けなかった。
 どうにか、指輪抜くと男はしばらくの間、その指輪を見つめていた。その後、怪物が逃げた方を見る。
 男の予想通り、怪物はそれほど遠くには逃げていなかった。男を、いや、男が手にする指輪を見つめていた。
 それを見ると、男は剣を鞘に収め、怪物へとゆっくりと近づいていった。
「あんた……、アリサか?」
 男のその言葉に、怪物はびっくりしたように両目を瞬かせた。そして、小さく頷いた。
「そうか」
 男が、少し困ったように頷く。
(病気か? 呪いか? いずれにせよ、困った物だな)
 男は深い溜息を吐くと、怪物をじっと見つめた。そして、ゆっくりと口を開く。
「なぁ。もし、人間に戻れるとしたら、どうする?」
 一瞬、怪物の動きが止まる。そして、咽喉の奥から搾り出すような、呻き声を発した。
「ああ、首を振って答えてくれ。もし、人間に戻れるとしたら、俺の言うとおりにするか? 但し、あんたが死んでると思っている、あのじいさんとは二度と会えない」
 その男の言葉に、怪物はしばらく答えを出せなかった。
「どうする? このまま、怪物としてこの村の側に居続けるか?」
 男のその問いかけに、今度は首を左右に振って答えた。男は頷くと、懐から紙を取り出し、何かを認めだした。
 その紙と印をつけた地図、そして、腰に無造作につるしていた袋を怪物に手渡すと、男は言った。
「その印をつけた森の中に、偏屈な医者がいる。まぁ、医者と言っても、かなり、怪しい物だが。そいつなら、何か知ってるかもしれない。その手紙を見せれば、何とかしてくれるだろう」
 それを聞くと、怪物は手渡された袋に視線を移した。
「そいつは、治療代だ。あいつは善意で治療するような、玉じゃないんでな。逆に言うと、金さえ払えば、怪物の姿をしていようと、構いはしない奴でな」
 それでも、怪物は何かを訴えかけるように、男を見つめた。
「俺の事なら、心配するな。あんたのじいさんから、そいつと同じ分だけの依頼料を貰う手はずになっている。ああ、その代わり……」
 そこで、男は怪物の目の前に指輪を出した。
「じいさんにはこいつを渡して、納得して貰う。だから、こいつは諦めてくれ」
 怪物が恐る恐る頷くのを見ると、男は笑みを浮かべた。
「ありがとよ。あんたが元の姿に戻れる事を祈ってる」
 男はそう言うと、老人の待つ村へと歩き出していった。

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オフ会

テーマ:
 あれは、とある日のオフ会だった。

 参加者の一人のMさんが仕事の都合で遅れてくると言う事なので、喫茶店で駄弁りながら待つ事になった。最初は、最近のネットの話やアニメの話をしていたんだけど、いつの間にか、Kさんが聞いた怪談話の話題になった。

 それは、とあるオフ会の話だった。焼肉食べ放題のコースで、皆、食べて飲んで喋ってと、和気藹々としていたらしい。
 参加者の一人──仮にAさんとしておく──が、ふと、隣で黙々と肉を食べ続けていた人の様子が気になって、声をかけた。
「Bさん、さっきから食べてばっかりだけど、どうしたの?」
「……」声をかけられた事に気づかなかったのか、Bさんは黙々と肉を食べ続けていた。
「Bさん?」
「力が入らないんだ……」
「え? なんだって?」AさんはBさんの返事が良く聞き取れず、聞き返してみた。
「おなかがペコペコで、腹に力が入らないんだ……」
「ペコペコって、結構な量、食べてるじゃない」
「食べても食べても……、おなかが膨れないんだ」
「そんなわけな……。うわぁっ!」そこまで言いかけて、AさんはBさんのおなかから、内臓らしき物が飛び出ているの気づき、驚きの声を上げて気を失った。
「食べても食べても、おなかから零れ出るんだ」気を失う直前、Bさんの悲しげな声をAさんは聞いた。
 その後、Aさんは意識を取り戻すと、Bさんがオフ会に来る途中に事故に遭い、ちょうど、Aさんが気を失った頃に息を引き取ったと言う話を聞いた。事故で、Bさんの腹は避け内臓が飛び出て、胃も大きく裂けていたらしい。
 その話を聞きながら、Aさんの脳裏にはBさんの最後の言葉が、何度も何度も繰り返し聞こえていたらしい。

「なんだか、どこかで聞いたような話だな。あ、Mさん」Kさんの話が終わった時、タイミング良く、Mさんが来た。
 その後、偶然と言うか、オフ会のお約束と言うか、場所を焼肉食べ放題の店に移した。Mさんはよほどおなかが減っていたのか、食べてばかりいた。
 その様子が、Kさんの怪談話と被り、ちょっと、怖くなって僕はMさんに声をかけた。
「Mさん、さっきから食べてばっかりだけど、どうしたの?」
「……」声をかけられた事に気づかなかったのか、Mさんは黙々と肉を食べ続けていた。「Mさん?」ますます怖くなって、僕はMさんの肩を揺すった。
「あ、ごめん。最近、忙しくて、ろくに食べてないから、おなかがペコペコで……」Mさんが照れ笑いを浮かべながらそう答えたので、僕はほっとした。
 確かに、良く見ると、Mさんは以前より随分と痩せていた。顔色も青い。別な意味で、僕はMさんが心配になってしまった。

 その後、無事オフ会は終わり、僕は家に帰った。パソコンの電源を入れ、今日のオフ会仲間が集まるチャットに行く。そこで、僕は信じられない話を聞く(見る?)事になった。
「昨日、Mさんが栄養失調で倒れて、そのまま……、って連絡が来てたんだけど、オフ会に来たって本当?」

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こんな「こわい!」話は駄目だ

テーマ:
 とある小学校で、一人の少年が教室で行方不明となった。その教室はまるで、津波にでも飲み込まれたかの如く、荒れ果て水浸しとなっていた。
 そこに残された学級ノートには、少年の字が綴られていた。

 あいつが、あいつがすぐそこまで来ている。椅子や机でバリケードを作ったけど、あいつにはなんの障害にもならないだろう。
 海底を這いずる者。それが、あいつの名だ。あいつは海底だけでは飽き足らず、地上へと這い出てきた古代の神の末裔だ。
 背後で、扉が軋む音がする。あいつだ。もう、時間が無い。あいつは今にでも、僕を

 少年の字は、そこで途切れていた。残された者に、何が起きたのかは解からなかった。
 ただ、一つだけ解かる事があった。このネタは、駄目だと言う事だ。

萌え長老

テーマ:
「長老。お教え下さい。萌えとは、何なのでしょうか?」
「うむ。良かろう。心して聞くが良い」そう言うと、長老は一呼吸ほど間を置いた。
「萌えとは……、猫耳じゃ!」
「そ、それは一体、どのような物なのでしょう?」若者がさらに問う。
「ミミズクを知っておろう。あれは、コスプレじゃ」
「何と、そうであったのですか!」若者がそう、はたと膝を打つ。
「フクロウの中でも、一番の目立ちたがり屋が選んだ道。それが、萌えの道じゃ」
「なるほど、流石は長老。感服致しました」若者はそう答えると、頭を深く垂れた。

 次の日。

「長老。やはり、まだ、わかりません。萌えとは、何なのでしょうか?」
「萌えとは……、ツンデレじゃ!」

 その村で、一番萌えに造詣の深い長老。故に、その知識が微妙に間違っている事を知る者はいなかった。

取り換え子

テーマ:
「金さえ積めば、ドラゴンだろうと始末するそうだな?」村長が目の前の男に、尋ねる。
「報酬は高いがな」男がそう、興味無さ気に答える。
「大した仕事ではない。十五の子供一人を殺して欲しいだけだ」
「聞いてないのか?」それを聞いた男が、眉を顰める。
「何をだ?」
「俺は人殺しの仕事は受けない」そう言うと、男は部屋を出ようとする。
「待ってくれ。なら、大丈夫だ。奴は、人間じゃない。妖精だ」
 その村長の言葉に、男は立ち止まる。そして、しばらくの沈黙の後、男はゆっくりと振り向いた。
「取り換え子……、か。親は何と言ってる?」
「自分の子供が妖精に取り換えられた事に気づいてから、精神的におかしくなり始めてたらしくてね。今まで、周りに気づかれないようにしていたんだが、とうとう……」
「村の人間で、知っているのは?」
「わしだけだ。で、引き受けてくれるのか?」
「その子はどこに?」
「奴の家は、ここの向かい。そこにいるはずだ」
「そうか」男はそう答えると、部屋を出ていった。

「こっちに来ないで。ひ、人殺し……」
 少年が後退りする。背後は、壁。それ以上、逃げる事は出来ない。
「人殺し? おまえは人なのか? 妖精ではないのか?」
「そ、そんな事……、言ったって……」
「どうなんだ? おまえは人間なのか? 妖精なのか? 人間として生きるのか? それとも、妖精として生きるのか?」男がそう問い詰めながら、少年に近づく。
「妖精として生きるのなら、この村を出て、人里離れた森にでも行け。だが、人間として生きると言うのなら……」男はそう言うと、腰の剣に手を伸ばした。
 少年はそれを見ると、男の目と腰の剣を交互に見た。そして、震えながらも、意を決したように、口を開いた。
「僕は……、妖精なんかじゃない。人間だよ」
「そうか。ならば……」男はそう言うと、ゆっくりと、腰の剣を引き抜いた。

「なぜだ? 耳の尖っている部分を斬った所で、いずれ元に戻るのではないのか?」仕事の結果報告を聞いた村長は、少々不満げにそう聞いた。
「傷口を火で焼いた。少々、見栄えは悪くなるが、元に戻る事は無い」
「だが、奴が本当に人間になった訳ではあるまい?」村長は納得しない。
「奴は人間として、生きる事を選んだ。それで充分ではないのか?」
「確かに、奴の親は正気を取り戻した。そして、本当の子供が帰ってきたと思い込んでる」そう、村長が肩を竦ませる。
「それに、俺は人間を殺さないと言ったはずだ」
「奇麗事だな」そう言うと、村長は男に金貨の入った袋を投げつけた。
「ああ。だが、これは俺が、決めた事だ」
(そう。人間として生きる事を選んだ時に、な)
 袋を手に取ると、男は黙って部屋を出ていった。

赤い月

テーマ:
 月が煌々と照らし出す深夜の街は、静けさに包まれていた。それは、まるで、街の人々が息を潜めているかの様であった。
 その街の片隅で、剣と剣の打ち合う音がした。続けざまに、二度、三度、剣と剣が打ち合わされる。そして、その後の鈍い音と共に、それは止んだ。
「はぁっ! はぁっ……」その音を発していた場所では、一人の男が肩で息をしていた。
 その男の目の前には、皮鎧に身を包んだ、恐らくはこの街の衛兵であろう男が倒れている。その衛兵は左胸を剣で貫かれて息絶えており、自らの血で作り上げた血の海の中にいた。
「まだ……、だ。まだ、足りない」男はそう呟くと、衛兵の胸から剣を引き抜いた。
「ア……、アイン」と、その男の背後から何者かの声がした。
 男がゆっくりと背後を振り返ると、そこには一人の衛兵がいた。それを見ると、男は不気味な笑みを浮かべた。
「き、きさまか! 一体、何の理由があって、罪も無い人を殺してるんだ!」衛兵が怒りのあまり、そう叫ぶ。
「理由?」男がそう、聞き返す。
「そうだ。今まで、何人もの街の人々が殺されている。全て、おまえの仕業なんだろ?」衛兵が腰の剣に手を伸ばす。
「月が……、月が眩しいからだ」男がそう答え、左手で頭を掻き毟る。
「何を馬鹿な事を」その男の口調に、何か得体の知れない物を感じた衛兵は、用心深く剣を引き抜いた。
「気が狂いそうになるんだよ、あの月を見ている、と。だけど、ね」男が誰に聞かせるでもなくぶつぶつと呟きながら、衛兵に近づいていく。
「く、来るな!」それを見た衛兵は背筋が凍るのを憶え、真横に剣を振るう。
 が、突然、男が姿勢を下げたため、衛兵の剣は空を斬った。そして、次の瞬間、男の剣が衛兵の左足を貫いた。
「ひっ?」衛兵が恐怖に駆られ、思わずそう叫ぶ。
「他人の血を見ると、心が落ち着くんだよ」男が耳元で、そう囁いた。

「寝られないな」そう、男が呟く。
 その男、ゼイラスは街道を歩いていた。街までは、後、半日と無い。
(昨日より、月の光が強い。こんなのは、初めてだな)
 ゼイラスは街へ向かってゆっくりと歩きながら、月を見上げた。
「明日は、満月か。今日より、強くなりそうだが、宿にでも泊れば多少は楽になるかな?」ゼイラスがそう、諦めた様に溜息を吐く。
 と、しばらくして、ゼイラスは立ち止まる。そして、再び、月を見上げた。
「そうか。四年になるのか」
『四年に一度、月の女神の力は増し、月は血のドレスを身に纏う』
「あいつはそう、言ってたな。あれから、四年か……」ゼイラスはそう呟くと、首からぶら下げた首飾りを手に取った。

「あんた、旅人かい?」次の日の朝、ゼイラスは街へと着くと、門番にそう尋ねられた。
「ああ、何日か休んで疲れを癒したら、すぐに出て行くよ」
「そうかい。いや、その方が良いな。まぁ、正直言うと、泊らない方が良いんだがな」門番がそう、声を潜めて言う。
「何かあるのか?」ゼイラスがそう、銀貨を一枚門番に見せて聞く。
「いや、そんなつもりは無かったんだが、すまないな」門番はそう言うと、非常に嬉しそうに銀貨を手に取る。
「気にするな。で?」
 と、門番が左右を見回すと、ゼイラスの耳元に顔を近づける。
「この頃、夜中が物騒なんでな。今まで、何人も殺されてる」
「衛兵は?」ゼイラスが聞く。
「駄目、駄目。その衛兵すら、二人掛かりで殺られちまってるんだ。
頼りにならんよ」
「そうか。それは、いつ頃から?」そう言い、ゼイラスがさらに一枚、銀貨を渡す。
「一週間位前からだな、俺が聞いた話じゃ」
「ありがとう。あまり、長居しない様にするよ」ゼイラスはそう言うと、街の門を潜った。
 街の中に入り、宿を捜す。その間、ゼイラスは眉を顰めていた。
(四年前の……、俺がいるのか)

 ゼイラスは宿を決めると、部屋に荷物を置き、ベッドへと横になった。昨夜は寝てはいないが、眠気は無かった。
 ベットに横たわったまま、首飾りを手にしゆっくりと眺める。
『これで、君は月の女神から解き放たれた。もっと、喜び給え』
「馬鹿野郎。何が、喜べ……、だ」ゼイラスがそう、呟く。
 目を瞑る。ゼイラスの過去の記憶が呼び起こされる。
 それは、四年前、ゼイラスがまだ、自分が生まれ育った街にいた時の事だった。ゼイラスの目の前には、血だらけの男がいた。右手には首飾りを握り締め、ゼイラスの額にそれを翳していた。
『月の女神よ。あなたに、彼を渡しはしない』その男の静かな声には、強い意志が篭められていた。
 ゼイラスが両目を見開き、首飾りを見る。そのゼイラスの瞳には、涙が滲んでいた。
「俺にはまだ、あんたの代わりは出来ない。俺に今出来る事は、月の女神に愛され、心を食われた男を止める事だけだ」
 身を起こすと、ゼイラスはベッドの側に置いた荷物に、手を伸ばした。そして、鞘ごと剣を手に取ると、ゆっくりと剣を引き抜いた。

 夜、窓を開けると、ゼイラスは空を見上げた。
「あいつの言った通りだな」夜空に浮かぶ月を見て、ゼイラスがそう呟く。
 と、ゼイラスは静かに窓から外へと出ると、音も無く二階から舞い降りた。
「さて、と」ゼイラスがそう、左右を見る。
「あっち……、か」と、ゼイラスは右へ向かって、道を歩き始めた。
(感じる。月の魔力が強くなっている所為か?)
 しばらく歩いていくと、ゼイラスは血の匂いを嗅いだ。それは、すぐ近くから漂ってきていた。
「失敗したな。もう、始まってるのか」ゼイラスが眉を顰め、走り出す。
 と、目の前の角を曲がった瞬間、ゼイラスは思わず立ち止まった。眼前に広がる景色に、立ち止まらざるを得なかったのである。
 ゼイラスの目の前には、二人の衛兵が身動き一つせず、冷たく転がっていた。二人の衛兵には共に無数の傷があり、道は真赤に染まっていた。
(こいつは……)
 吐き気を憶え、ゼイラスが口を押さえる。
「四年前の俺以上だ」ゼイラスはそう吐く様に言うと、二つの死体を飛び越えた。
 ゼイラスが剣を引き抜く。そのゼイラスの視線の先には、動かない衛兵に尚も自分の剣を突き入れ続ける、男の姿があった。
「はぁ!」ゼイラスが剣を振り下ろす。が、それは男の剣によって、遮られた。
(反応速度が尋常じゃない。だが、それは俺も同じだ)
 一歩後退り、ゼイラスが体ごと剣を突き入れる。それを男が、横に跳んで避けた。
「血だ。血を欲しがってるんだ。もっと、もっと」男の呟きが、ゼイラスの耳に聞こえてくる。
「すまないな。俺には、おまえを救う事は出来ない。いや、こんな事を言っても、もう、おまえの心には届かないんだろうな」そう言い、ゼイラスが構えを解く。
 と、瞬間、男がゼイラスに襲い掛かっていく。男は剣を振り上げると、無防備のゼイラス目掛けて振り下ろした。
 が、ゼイラスはその攻撃を紙一重で横へと避けた。そして、間髪入れず、ゼイラスは剣を勢い良く振り上げた。
 鈍い音が響く。それは、男の剣とそれを掴む両手が落ちた音だった。
「痛みも、感じてはいないんだろうな。心を食われ、狂気しか残らない、今のおまえには」ゼイラスはそう呟くと、男に向けて剣を振り下ろした。

 男の死体を前にして、ゼイラスが無言のまま、月を見上げている。そのゼイラスの二つの瞳に、その月は血に染まって見えた。

魔法の矢

テーマ:
 とある国に一人の射手がいた。
 その男は矢をひとたび放てば、外す事の無いと謳われる程の名手であった。
 ある時、その名射手に一人の男がこう聞いた。
「あなたは多くの戦で功を納めている。どうすれば、あなたの様になれるのか?」
 その問いに、名射手は少し間を置き、軽く頷くとこう答えた。
「何の事は無い。私はここぞと言う時には、悪魔より譲り受けた特別な矢を使うだけだ」
 その答えに、重ねて男が聞く。
「特別な矢とは?」
 名射手は答えた。
「その矢は、一矢放つ度に私の寿命を一月奪っていく。だが、その矢が的を外す事は無い」

 さて、その話を風の噂で耳にした、一人の男がいた。その男もその国の射手であり、いつも、戦での活躍を夢に描いていた。
 男は考えた。
「私にも、その矢があったなら」
 その男の耳に、ある山に悪魔が住んでいると言う噂が届く。男は躊躇せず、その山へと向かった。近々、大きな戦が行われると言う、噂もあったからである。
 山に登り始めて暫くすると、急に辺りに霧が立ち込めた。そして、何者かの声が聞こえてきた。
「我が棲家に何用だ、人の子よ?」
 その声に、男は頬を緩ませ、尋ねた。
「お前が、この山に住むと言う悪魔か?」
「そうだ。それを知っていて、ここまで来たのか」
 男は迷う事なく、こう告げた。
「私に必ず標的を射抜く、魔法の矢を与えて欲しい」
「良いだろう。だが、条件がある、この矢を一矢放つ毎に……」
 と、男は悪魔の言葉を遮って、こう言った。
「寿命を奪うと言うのだろう? それは、わかっている。さぁ。早く、矢を!」
 暫くの沈黙がその場に流れた。と、男の背後で、何か物が落ちる様な音がした。
 男が振り向くと、そこには矢の束が置かれていた。その矢は、青白い光を帯びていた。
 男は喜び勇んで、矢の束に駆け寄ると、それを高々と持ち上げた。
「これで、私も手柄を立てられるぞ」
 その後、男は山を降り、家へと戻ると矢の数を数えた。矢は十本あった。
「十ヶ月、約一年の寿命か。だが、それだけの犠牲で、多くの恩賞を得られるのならば」
 男はそう、呟いた。

 数日後、男は戦場に出た。背中の矢筒には、魔法の矢があった。
 その戦は後の歴史に残る様な、とても大きな戦であった。当然、その恩賞も名誉も、大きな物となる。
 男は躍起になって、敵将と思われる姿を探し出して、魔法の矢を放った。矢は次々と敵将の息の根を止めていった。
「素晴らしい。この矢さえあれば、私は英雄となれる!」
 男は有頂天になっていた。そのため、自らの変化に気づかなかった。
 その変化に気づいた周囲も、何も言わなかった。いや、何も言えなかった。
 気づくと、男の矢筒の中身は空になっていた。男は周囲を見た。戦況はこちら側に有利に展開していた。
 一息入れると、男は額に流れる汗を手で拭った。と、拭った手に無数の髪の毛が絡まっている事に、男は気がついた。
 暫くの間、男はその理由に気がつかなかった。やがて、男はわなわなと肩を震わせて、呟いた。
「まさか」
 恐る恐る男が片手を頭に伸ばし、ゆっくりと髪の毛を引っ張る。その髪の毛は、驚くほどにあっさりと抜け落ちてしまった。
「馬鹿な!」
 男は叫んだ。そして、自らの手に無数の皺がある事に、そこで初めて気がついたのである。

 数刻後、男は山の中を歩いていた。あの後、戦場を抜け出して、どうやってここまで来たのか、男は覚えていなかった。
 男は悪魔の声を聞いた場所に向かって、歩き続けていた。その男の足取りは、覚束ない物だった。
「どこに……、いる?」
 掠れる声で、男がそう呟く。すると、それに答える様に、悪魔の声が山の中に響いた。
「お主か」
 その声を聞いた途端、男の顔は怒りの余り真っ赤に染まった。
「騙したな!」
 男が叫ぶ。
「騙した? 何の事だ?」
「寿命だ! 一体、私から、何年の寿命を奪ったのだ?」
「その様子だと、全ての矢を使ったのであろう? ならば、五十年だ」
 その声に、男は目を見開いた。
「約束が違う。一年との約束だろう?」
「その様な約束はしていないはずだが? そもそも、説明を遮ったのは、人の子よ。お主自身であろう?」
「そんな。じゃあ、なぜ、あの男は一ヶ月なのだ?」
「何を勘違いしているのかは知らぬが、お主以外にあの矢を渡した事は無いが?」
 その瞬間、男は唖然とした表情のまま、その場に崩れ落ちた。そして、その男は二度と立ち上がる事は無かった。

 とある日の訓練所に、一人の男の姿があった。男は黙々と遠くの的に向かって、矢を放っていた。その男は、名射手と言われている男だった。
 と、そこに別の男が近づき、こう声をかけた。
「魔法の矢を持つと言うあなたが、日々の訓練を絶やさないとは不思議ですね」
 その問いに、名射手は苦笑してこう答えた。
「はは。もし、本当にその様な矢を持っていたとしても、私は怖くて使えない。私は臆病なのでね」
 そう答えると、名射手は矢を放った。その矢が的の中心を貫く。
「日々の訓練を絶やさぬ事が、何の変哲も無い矢を魔法の矢に変える。私はそう思っている」
 名射手はそう言うと、訓練所から去っていった。

人魚姫

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 海水浴にはまだ早い季節外れの海に、僕は来ていた。砂浜に腰を下ろし、何をするでもなく、ただ、ぼんやりと海を眺めていた。
 夕方近くになって、一人の少女が靴を脱ぎ捨て、海へと入っていくのが見えた。
 まだ、水も冷たいのに、物好きだな。僕は苦笑し、仰向けに寝転がった。

 絵を描けなくなって、もう、一ヶ月になる。いや、描けなくなった訳じゃなく、描く事に情熱を失ってから、一ヶ月だ。
 ただ、絵を描く事だけが楽しかったのは、いつの頃だったろう。そんな事も思い出せない僕は、画材道具のある部屋に、絵の具の匂いのする部屋にいられなくなって、当ての無い旅に出た。

 宿に戻ろう。僕はゆっくりと起き上がり、ふと、海を見た。少女の姿は無い。いや、少女の脱ぎ捨てた靴は、まだ、砂浜に転がったままだ。
 自殺? 僕は顔から、血の気が失せていくのを感じていた。
 波打ち際に駆け出し、海を凝視する。運良く、波間に少女の頭が見えた。が、それはすぐに沈んでいった。

 気がつくと、僕は少女の沈んだ場所まで泳いでいた。初夏の水の冷たさも気にならない。ただ、少女を助けたい一心だった。
 息を大きく吸い込み、海の中へと潜る。そんなに深い所ではなかったのが幸いし、少女の姿をすぐに見つける事が出来た。
 が、僕はそこで、少女に見とれてしまった。まるで眠るように海の底に漂う少女の姿が、あまりにも美しく見えたからだ。

 我に帰った僕は、少女を抱え上げると、砂浜へと引きずり出した。少女は華奢で軽く、それは驚くほど簡単な仕事だった。
 その後、少女を砂浜に寝かせると、僕は荒い呼吸を落ち着かせるのに終始した。それと言うのも、少女は水を飲んだ風でもなく、呼吸も普通にしていたからだ。
 しばらくして、僕の呼吸も整った頃、少女は両目を開き、ゆっくりと起き上がった。そして、辺りをきょろきょろと見回した後、不思議そうに僕を見詰めた。
「どちら様?」少女は微笑みを浮かべると、僕にそう聞いた。
「え? あ、いや。僕の名は和人」思わず、僕はそう、答えていた。
「そう。私の名は……、カイリ。よろしくね」そう、カイリと名乗った少女は、僕に右手を差し出した。
「よろしく……、じゃない」僕はそう右手を伸ばしかけて、その手を止めた。
「?」その僕の行動を見て、カイリが首を傾げる。
「どうして、自殺なんてしたんだ?」
「自殺? してないよ」カイリはきょとんとして、そう答えた。
「してないって、事実してただろ? 服着たまま、海に……」
「変……、かな? いつもしてる事だけど」
「いつもって」
「海に沈んでると、服も体も全てが海と一体になって溶け合うような気がして、気持ち良くなるの。今日はいつもより水が温かかったからかな? つい、うとうとしちゃった」
 僕は溜息を吐いた。そして、何かどうでもよくなり、苦笑した。
「じゃあ、僕は宿に戻るけど、気を付けるんだよ?」
「うん。また、明日ね?」
「ああ」僕はそう答えると、宿へと戻った。

 次の日の昼、浜辺に行くと、砂浜にカイリがいた。カイリは僕の姿を見ると、駆け寄ってきた。
「ねぇ。何か、お話ししようよ。一人で海を見ていても、つまらないでしょ?」
「そうだね」
「和人は旅行? どこから来たの? どんな仕事してるの?」カイリが矢継ぎ早に問い掛けてくる。
 僕はその問いに、一つ一つ答えていった。都会から来ている事、バイトをして生活費を稼いでいる事、バイトの無い日は絵を描いていた事。
「へぇ。画家なんだ。じゃあ、今度、私の絵を描いてくれる?」カイリが無邪気に言う。
「ああ、今度ね。今は、道具を持ってきてないけど」もう、絵を描かないかも知れないと思いつつも、僕はそう答えていた。
「約束だよ」
 その後は夕方まで、僕とカイリは他愛も無い話をしていた。
「と、もう、こんな時間か。じゃあ」
「うん。また、明日ね?」

 次の日もまた、僕とカイリは話をして過ごした。昨日は僕の話ばかりだったからか、今日はカイリの話を僕が聞く番となっていた。
 カイリは生まれた時から、この海からそう遠くはない所に、親と一緒に住んでいるらしい。カイリは昔の話を良くしてくれたが、今の事はあまり話したがらなかった。それは、僕も同じかも知れないが。
「人魚姫の最後って、知ってる?」帰り間際、カイリがそう聞いてきた。
「知ってるよ。海の泡になる奴だろ?」
「そう」カイリはそう頷くと、波打ち際へと歩いていった。
「私ね。その人魚姫のように、海の泡になれたら良いなあって、思うの」海を眺めながら、カイリがそう言う。
「海の中で目を瞑る時も、このまま、泡になりますようにって、願うの」カイリの言葉には、いつもの明るさが無かった。
「でも、私は泡にはなれない。だって、私は人魚姫じゃなくて、ただの人間だから」その時のカイリの表情は、僕にはわからなかった。
「カイリ」僕は言葉が見付からず、名を呼ぶ事しか出来なかった。
「あ、もう、帰る時間でしょ?」そう、振り返ったカイリの顔は、いつもの笑顔だった。
「そう、だね。じゃ、また」
「うん……。また……、ね?」いつもと違うカイリのその言葉に、その時すでに、僕はカイリに会えない事に気づいていたのかも知れない。

 次の日、僕は浜辺に行った。もう、家へと帰るつもりで、カイリに連絡先を教えるつもりだった。だが、カイリはその日、浜辺に来なかった。
 帰る前にも、海へと立ち寄ったが、やはり、カイリの姿は無かった。

 家へと帰った僕は、気がつくとキャンバスに向かっていた。そして、記憶の中の彼女の姿を描いた。
 寝食を忘れて、絵に没頭するのは、久し振りの事だった。絵を描く事を止めようとしていた事も、忘れていた。

 次の年、僕は描き上げた絵を持って、あの海へと旅をした。だが、彼女は来なかった。その次の年も。
 今年は行けなかった。丁度、絵の仕事が入っていたからだ。彼女の絵を描き上げた後も、僕は絵を続けていた。そのおかげか、今ではそれだけで暮らせはしなくとも、多少の絵の仕事を受けられるようになっていた。

 僕はこの頃、こう考えている。きっと、彼女は海の泡になれたんだ、と。人魚姫の様に。
 額縁の中の彼女は、今も海の底に静かに眠っている。