第一章 追手・4

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 魔性の森を流れる川の辺に、レインの死体は俯せに倒れていた。その背中には、一本の矢が突き刺さっており、その傷口からはどす黒い血が、流れ出ていた。
 息はしていなかった。が、心臓は止まってはいなかった。信じられない事に、心臓は今も力強く、脈打っていたのである。
 さらに、もう一つ、不思議な事があった。レインの体を貫いている矢が、窮めてゆっくりとだが徐々に、抜けつつあったのである。
 その矢がレインの体から完全に抜けるのに、丸一日の時間を要した。そして、さらに一日が経ち、レインは呼吸をし始めた。その後、しばらくして、レインは目を覚ました。
 レインは呆然と俯せになったまま、身動き一つしなかった。レインにはまだ、今の状況が飲み込めてはいなかったのである。
(夢……、か?)
 ようやく、レインはゆっくりと立ち上がった。そして、ふと足元を見ると、レインは再び硬直してしまった。なぜならば、レインの足元に、一本の矢が落ちていたからである。
(俺は……、一体……)
 レインはそれを恐る恐る拾い上げると、その鏃をじっと見詰めた。その鏃は真赤に染まっており、怪しく光輝いていた。
 レインは眉を顰めるとその矢を折り、地面に投げ捨てた。そして、レインはゆっくりと辺りを見回した。
 当然、エルミの姿は無かった。そして、唯一見つかったのは、何人かの人間の争った跡だけであった。それを見ると、レインは歯を食い縛り、その場に座り込んでしまった。
「くっ……」レインは両手で頭を抱え込むと、呻き声を上げた。
(情けねえ……。二度も……、たった一人の女を守れなかったなんて……。レイン……、きさまは最悪の人間だ……)
 レインは悲しみに打ち震え、しばらくの間、動こうとはしなかった。と、レインは両拳を固く握り締めて強く地面を叩くと、突然、すっと立ち上がった
 そして、レインは腰の短剣を引き抜くと、何を思ったのか左腕に深々と突き刺した。そのため、左腕とそれに突き立てられた短剣は真赤に染まり、レインはその痛みに表情を歪めた。
「この……、左腕の……、傷に誓う! 必ず、エルミを助ける事を……!」レインは天を仰ぎ、そう叫んだ。
 なぜ、そんな決意をしたのか、レインにはわからなかった。わからない事が多すぎた事もあるが、胸の内から湧き上がる衝動に、レインは逆らえなかったのである。
 そして、レインは北の方角を向くと、ゆっくりと歩き出した。その表情は固く強張り、一直線に帝都ラルグーンの方角を見詰めていた。
 ふと、レインは川面に視線を移した。そして、川面が赤く光っている事に、レインは気づいた。それを見ると、レインは眉を顰め、その光へとゆっくりと近づいていった。
 その光の発生源は、川のかなり深い所に沈んでいるようであった。その光のすぐ側まで近づくと、しばらくの間、レインは考え込んでいた。が、一つゆっくりと頷くと、レインは用心深く川の中へと右手を入れた。そして、レインはそれを掴み取ると、ゆっくりと拾い上げたのであった。
 それは、血脈の短剣であった。そのため、それを見ると、レインは眉を顰めた。そして、それを持っていくべきか、ここに捨てていくべきか、レインは頭を悩ませた。いつのまにか、血脈の短剣が放つ光も弱まっていたが、レインにそれを気にする余裕は無かった。
(わからねえ……。俺が死にそびれた理由も、エルミが帝国の馬鹿どもに追われる理由も、この血脈の短剣の力も何も、全ての事がわからねえ……)
 レインは血脈の短剣を再び、川に投げ捨てようとした。が、レインは躊躇った。目に見えぬ力が、レインにその血脈の短剣を投げ捨てぬように、制したかのようであった。
 暫くの間、レインは血脈の短剣を凝視すると、腰の袋へと投げ入れた。と、レインは突然屈み込み、川の水で顔を激しく洗った。そして、勢い良く立ち上がると、レインはゆっくりと川を渡っていった。
(何か……、ある。その何かを……、俺は暴いて見せる)
 レインは一歩一歩を噛み締めるかのように、帝都ラルグーンへと歩いていった。そして、三日後、レインはラルグーンへと辿り着いた。そのラルグーンは戒厳令が敷かれており、潜り込むためにレインは、夜を待つ事にした。
 そして、日が暮れ、夜になった。レインは頃合いを見ると、ラルグーンへと潜り込もうとした。真夜中にも関わらず、何人もの兵士達が巡回をしていたが、レインは無事にラルグーンへと潜り込む事ができた。
(いやに、物々しい警備だな……。これじゃあ、容易に城には忍び込めそうに無いな……)
 レインは城の近くまで来て、城門付近の警備の兵士の数を見ると、いかにも嫌そうに表情を歪めた。なぜならば、その数が尋常ではなく、まるでこれから最後の決戦でも始まるかのようであったからである。
 そのレインは黒衣を身に纏い、狭い路地で息を殺して城門の方を窺っていた。すると、しばらくして、レインは城から二人の男が出てくるのを、見る事ができた。
 一人は他の兵士と同じように、物々しい装備をした若武者であった。そして、もう一人はゆったりとした服を着込んだ、皺の目立つ老人であった。
 それを見ると、レインはできるだけ二人に近づいていき、二人の会話を聞こうと耳を欹てた。そのため、レインはかなりはっきりと、二人の会話を聞く事ができた。
「そうですか。やはり、陛下は……」と、若武者が溜息混じりに言う。
「当然ではないか? 魔性の末裔は捕らえたとは雖も、鍵である血脈の短剣が賊に盗まれたままなのじゃからな」そう老人が少し、きつめに言う。
(魔性の末裔……? 鍵……?)
 レインは首を傾げた。そして、さらに耳を欹たせようと試みた。
「おかげで、例の計画が遅れてしまいおった。陛下も憤慨しておる」
「ですが、我々とて……、無駄に時を費やしている訳では……」
「陛下は東方のキサラギ殿に、血脈の短剣の探索を頼んだそうじゃぞ?」と、老人は若武者の言葉を遮った。
「異国の者に、このような大事を……?」若武者の声が、微かに震える。
「覚えておくのじゃな。陛下は無能な人間をいつまでも、手元に置かぬ御人だと……」そう言い残すと、老人は若武者から離れていき、姿を消した。
(東方のキサラギ……? 名前の感じだと、ナパ・ジェイか……?)
 レインは若武者の姿が消えるまで、静かに待った。そして、レインは城を離れ、ラルグーンの南の魔性の森へと戻っていった。その頭上では、再び暗雲が集まりつつあった。
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第一章 追手・3

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 帝都ラルグーンの東に位置する湖、レイト湖。そのレイト湖と西のガルト海とを結ぶ川は、魔性の森をほぼ半分に分けて走っていた。雨はすでに止んでおり、その川の流れもいつもの落ち着きを取り戻していた。
 その川岸に、二つの人間の影があった。そこは、魔性の森の西の外れであり、少し西へと進むとガルト海が垣間見える所であった。
 その川岸にいる二人は頭から足の先まで、全身びしょ濡れであった。片方は女性であり、その女性は死んだように横たわっていた。そして、もう片方は男であり、その男は木に寄りかかってその女性の方を見詰めていた。
(ちっ……。俺はどうしちまったんだ? こんな見た事も無い女を……。しかも……、そう、しかもだ! 命懸けで助けるなんて!)
 その男、レインはその女性、エルミを見詰めながら眉を顰めた。エルミの頬は寒さで青白く、唇も微かに震えていた。一方、レインも同じように寒気を覚えていたが、焚火をする訳にはいかなかった。なぜならば、その焚火の明かりによって、帝国の兵士達に自分達の存在とその位置を気づかれる、恐れがあったからである。
 そのため、レインは寒さをじっと我慢し、朝を待つ事にしたのであった。それももうすぐの事であり、東の空が明るくなり始めていた。夜中、ラルグーンと魔性の森の上空に居座っていた暗雲も今はもう無く、星々が暁の空に瞬いていた。
(この不細工な女の所為で、散々な目にあったぜ)
 レインがそう表情を歪める。と、朝日の光が、エルミの顔を明るく照らし出した。その透き通るような白い肌と整った顔立ちを見ると、レインは思わず横を向いて目を逸らしてしまった。
「ちっ……」レインは舌打ちをした。
(いやに、奇麗じゃねえか……)
 レインは軽く地面を右拳で叩くと、すっと立ち上がった。そして、東の方に向き直ると、レインは朝日を眩しそうに見詰めた。
 朝日の光がレインに降り注ぎ、ゆっくりとレインの体を暖めていく。やがて、服もある程度乾き、レインの頬に赤みが差していった。
(何かが……、起ころうとしている。いや、起こっていやがる。それが、何かは分からねえ……)
「ちっ」レインは舌打ちした。言い知れぬ不吉な予感に、レインの脳裏に一度は追放したはずの記憶が、はっきりと呼び覚まされようとしていた。
 と、レインは両手で両耳を押さえると、顔を強く左右に振った。そして、そのまま、レインは崩れるように跪いた。そのレインの両目は固く閉ざされ、何かを怖れるようにレインの体は震えていた。
「忘れろ……、レイン。過去は……、過ぎ去ってしまった事は……、忘れるんだ」レインはそう言い聞かせるかのように、虫の音ほどの声で呟いた。
 しばらくして、レインはゆっくりとだが、力強く立ち上がった。その姿にさっきまで弱々しく震えていた時の弱さは、全くと言って良いほど存在しなかった。しっかりと両足で立ち、両拳を握り締めてレインは、朝の光を再び見詰めた。
「ん……」と、エルミが呻き声を上げた。
 それに気づくと、レインは振り向き、エルミに向かってゆっくりと近づいていった。そして、エルミの側に座り込むと、レインはその顔をじっと見詰めた。
(この女は……、なぜ、帝国の兵士どもに追われていたんだ? 女盗賊とは、言えそうもないし……)
「いや、止めて……。お父さんを……、お母さんを……、殺さないで……」エルミがそう、寝言を言った。その目には、薄らと涙が滲んでいた。
(人間……、人に知られたくない事の……、一つや二つあるもんか……)
 レインは溜息を一つ吐くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、ふと腰の袋を開くと、レインは血脈の短剣を取り出した。その刃は昨夜と同じように、赤く怪しく光り輝いていた。
 不思議な事に、レインにはその赤い光が心地好く感じられた。そして、その光は昨夜より微かにだが、明るさを増しているように見えた。
 レインは首を傾げた。その血脈の短剣は不思議な短剣であった。その重さは感じられず、そして、それを握っているという感触も何か違っていた。
(この短剣……、この女……、昨日の暗雲……、そして……、俺……。共通点は何も無い。いや、ある? いや、無い。いや……、何かがあって、何も無いのかも……?)
「くっ……! これは……、夢だ! そうだ! 俺はきっと……、とてつもなく悪い夢を見ているんだ! そうに違いない」レインは空を仰ぐと、そう自分に言い聞かせた。
(不安だ……。何だ? 何がそう不安なんだ、レインよ? 何が……?)
「うっ……。あっ?」と、エルミの声が聞こえたので、レインはエルミの方を振り向いた。
「け……、血脈の……、短……、剣……?」そのエルミは恐怖に怯えた目で、レインの右手の血脈の短剣を凝視していた。それを見ると、レインは不思議そうにエルミと血脈の短剣を交互に見詰めた。
「おい、女。おまえはこの短剣が何か……、知っているのか?」レインはそう聞きながら、ゆっくりとエルミに近づいていった。
 すると、途端にエルミは顔を青く染め後退り、木を背にして縮こまってしまった。そのため、レインは困ったように左手で頭を掻くと、後ろに血脈の短剣を投げ捨てた。
 そして、再びゆっくりとエルミに、レインは近寄っていった。が、エルミの警戒心は解けはしなかった。
「おい、あんたは一体何者で、何を知り、なぜ帝国の兵士なんかに追われているんだ?」レインがそうエルミに詰め寄る。
「嫌……、怖い……。思い……、出したくない……」エルミは両手で両耳を塞ぐと、微かな声でそう呟いた。
「ちっ……」レインは舌打ちすると、後ろを振り返って軽く地面を蹴った。
「わかった。何も聞かねえ。だけど、名前ぐらいは教えてくれねえか?」と、レインがエルミに背を向けたまま、聞く。
「……。エルミ……」そうエルミは小さく答えた。
「そうか。俺はレインって言うんだ。どうやら、あんたも俺も帝国に恨みを買っているらしい。そこで……、だ。俺と一緒に逃げねえか?」レインが振り向きざま、そう尋ねる。
 すると、エルミは黙って頷き、弱々しく立ち上がった。それを見ると、レインは笑みを浮かべ、投げ捨てた血脈の短剣を拾い上げた。その瞬間、エルミはレインに背を向けた。
「御願い……。それは、置いていって……」エルミが震える声で、そう言う。
 それを、レインは不思議そうに見詰めた。そして、少し考えると、レインはゆっくりと川に近づいていった。
「わかったよ。これは、捨てて行こう」そう言うと、レインは血脈の短剣を川へと投げ捨てた。
 血脈の短剣はゆっくりと、川底へと沈んでいった。その血脈の短剣の輝きが徐々に増していった事に、レインは気づかなかった。
「これで……、良いだろう?」そう、レインが振り返る。
 それを見て、エルミがすまなさそうに俯く。すると、レインは微笑みを浮かべ、ゆっくりとエルミに向かって歩き出した。
 と、突然、レインは左胸に鈍い音と痛みを感じ、ゆっくりと左胸に視線を移した。すると、そこには、研ぎ澄まされた鏃が突き出ており、太陽の光を反射して光り輝いていた。
 そして、レインは窮めてゆっくりと、地面に崩れ落ちていった。そのレインの耳に、何人もの人間が川を渡る音と、エルミの叫び声が微かに聞こえてきた。
(お……、俺は……、死ぬのか……?)
 徐々に、レインから全ての感覚が薄らいでいった。そして、何も聞こえなくなり、その瞳には何も映らなくなった。
(親父……、おふくろ……、俺は、死ぬのか? ディゼ……、お兄ちゃんはお前達の所に行くのか……?)
「い……、や……、だ……」レインは掠れた声で、そう呻いた。
 過去の記憶が走馬灯のように、レインの脳裏に浮かんでは消えていった。レインの父、母、そして、最愛の妹、ディゼの姿が、何も映らないはずの瞳に映し出された。
 そして、レインは意識を失った。
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第一章 追手・2

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 雲の切れ間から、月が顔を覗かせた。その柔らかい光は魔性の森を暖かく包み込み、その中を明るく照らし出した。が、それも一瞬の事であり、すぐに月の光は暗雲によって遮られてしまった。
 その魔性の森を南へと駆ける、一つの影があった。その影は道無き道を進み、肩で大きく息をしていた。その影は、一人の少女であった。その少女の名は、エルミと言った。
 エルミは心臓の鼓動を少しでも抑えようとするかの如くに両手で左胸を押さえ、南へと逃げるように走り続けていた。その瞳は涙で潤み、その唇は涙を堪えようと、強く噛み締められていた。
 エルミは絶えず後ろを気にしながら、森の奥へ奥へと走っていた。が、辺りに物音はせず、エルミが草を掻き分けて進む音だけが、寂しく森の中に響いていた。
 と、突然、エルミの目の前に、木の上から何かが降りてきた。その瞬間、エルミは立ち止まり、目を見開いたまま後ろへと退いた。その瞳は恐怖の色に染まり、エルミは後ろの木に力無く寄りかかった。
「よう、御嬢さん。こんな夜遅くに、御散歩かい?」と、その男、レインがエルミにそう話しかけた。
 が、エルミはレインを凝視したまま、身動きすらしなかった。そのエルミの瞳を見ると、レインは鼻で笑った。そして、ゆっくりとレインはエルミに近づいていった。
「おい、おい。俺は全く怪しい者……、だな。いや、まあ、善人じゃあないが、根っからの悪人でもない」レインがそう言いながら、エルミに近づいていく。
 が、エルミは全く警戒を解かずに、化物でも見るかのようにレインを見詰めていた。それを見ると、レインは困ったように溜息を吐き、近づくのを止めた。
「あんた、名前は何て言うんだ? そして、何をそれほどまでに怖れているんだ?」レインはエルミをこれ以上怖がらせないように、声の調子をなるべく和らげて聞いた。
 が、エルミは答えようとはしなかった。幾分、警戒が薄らいだ事にレインは気づいたが、それも焼け石に水程度の物であったようだった。
(ちっ……。よくよく考えてみれば、こんな女に構う理由はねえじゃあねえか。寝よ、寝よ)
 と、レインが欠伸をしながらエルミに背を向けた瞬間、レインの耳に何人もの人間がこちらに向かってくる音が飛び込んできた。しかも、それはそれほど遠くはなく、すぐ近くであった。
「しつこい連中だな。良いじゃねえか。一つしかない物の一つや二つ、取られたくらいで……」レインはそう呟くと、物音のする方を見た。
「いたぞ!」その瞬間、闇の中から十人以上の兵士達が、その声と共に姿を現した。
 すると、エルミは突然、南へと駆け出していった。レインはそれに一瞬気を取られたが、すぐに兵士達の方に向き直った。そして、レインはゆっくりと腰の短刀を引き抜いた。
「来やがれ! このレイン様を嘗めるなよ!」そう叫ぶと、レインは兵士達に向かって、襲いかかっていった。
「邪魔だ! 退け!」が、次の瞬間、レインはその言葉と共に、兵士の一人に横に突き飛ばされてしまった。
 そのため、レインは短刀を握り締めたまま地面へと倒れ、軽く頭を打ってしまった。そのレインを兵士達は無視して、南へと走り去っていった。
 その後姿をレインは頭を軽く押さえながら、唯、呆然と見送っていた。そのレインの頬に、雨が一滴降りかかった。
(あいつら……。俺を追ってきた連中とは違うのか?)
 レインはゆっくりと立ち上がった。それと同時に、大雨が魔性の森へと降り注いできた。そのため、レインはあっと言う間に、ずぶ濡れになってしまった。
「ば……、馬鹿野郎! 俺の許可無しに、雨を降らすな!」レインは頭上の暗雲に向かって、そう怒鳴った。が、当然、雨は止まなかった。
 しばらくして、レインは足元を向くと、一つ溜息を吐いた。そして、レインは目を瞑ると、右手でゆっくりと前髪を掻き揚げかけた。が、レインはその右手を途中で止めると、突然、かっと目を見開いた。そして、歯を食いしばると、レインは南の暗闇に視線を注いだ。
 その後、レインはもう一度足元に視線を注いだ。そして、レインは一気に顔を上げると、南を振り向いた。雨水がレインの目に入り、レインは右腕の袖でそれを拭った。
「ちっ……」と、レインは舌打ちすると、地面に唾を吐きかけた。
 そして、レインはいつの間にか豪雨となっていた大雨の中を、南へと駆け出していった。目に入る雨水も気にせずに、レインは南へと掛け続けた。
 しばらくして、レインは突然、立ち止まった。そのレインの目の前には、大きな川が流れていた。その川は豪雨によって川幅が広がっており、その流れもいつもよりも急になっていた。その川を渡り切る事は、レインには到底できそうに無かった。
 が、にも関わらず、レインはその川へと一歩足を踏み出した。その途端、レインの右足は急流に捕らわれてしまい、そのため、レインは体勢を崩して倒れかけてしまった。
「くっ……。おい、おい、レイン? 一体、おまえはどうしちまったんだ? なんで、あの女の心配なんかしているんだ?」そうレインが俯いて呟く。
(わからねえ。なぜ、あの女が無性に気になるんだ? 惚れた訳でもあるまいし……。大体、顔もろくに見てやいねえ)
 レインは頭を強く振った。その時、川上に何人かの人間の姿がある事に、レインは気づいた。それは、川を背にしたエルミの姿と、それを包囲する十人以上の帝国の兵士達の姿であった。
(あれは、助からねえな。帝国の兵士に追われるような事をしたんだから、自業自得だな……)
 レインは何とも言えない表情で、それをじっと見詰めていた。そのレインはエルミを助けたいと言う衝動と必死に戦い、そして、それに勝つ事ができた。なぜならば、エルミを助けようとするならば、レインは死を覚悟しなければならないからである。
 やがて、兵士達はゆっくりとその囲いを狭めていき、エルミに今にも襲い掛からんとしていた。レインはそれを固唾を呑んで見詰め、決して目を離そうとはしなかった。そして、両拳を握り締めて、レインはエルミを未だに強く胸の中に渦巻く、助けたいと言う衝動を必死に堪えていた。
 と、突然、エルミが荒れ狂う激流へと身を投げた。それは、考えられない事であった。そのため、兵士達はそれに呆気に取られ、その行為を止める事ができなかったのである。
(な……? 馬鹿な事しやがって……)
 その瞬間、レインは川岸へと駆け寄っていた。そして、エルミの姿をレインは水上に捜し求めた。そのレインの目に、川上から流されてくるエルミの助けを求めるような、か細い右手が映し出された。
 レインは迷った。エルミを助けるべきか、それとも見殺しにするべきか。そして、レインは歯を食い縛ると、川に背を向けた。
(俺には……、関係ねえ……)
 レインは川から離れようと、ゆっくりと歩き出した。が、レインはすぐに立ち止まってしまった。
「ええい! 儘よ!」そうレインは叫ぶと、川の方を振り返った。
 そして、レインは川に向かって駆け出すと、激流の中へと飛び込んでいった。そのレインの姿は、あっと言う間に、激流の中へと呑み込まれていったのであった。
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第一章 追手・1

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 その日の夜、夜空は暗雲にその姿を隠され、帝都ラルグーンは闇に包まれていた。日中、雲一つ無かったラルグーンに、その暗雲がどこからとも無く現れたのは、太陽が西のガルト海へと没してからの事であった。
 その異変に、多くの人々は気づいた。が、この異変がその日の夜中に城へと忍び込んだ盗賊と、深く関わりあっている事には気づく由も無かった。その盗賊の名はレイン、身軽さだけが取り柄の一介の盗賊であった。
 その一介の盗賊、レインは首尾良く城から逃げ出す事ができた。その右手には、城から盗み出してきた真紅の刃の短剣が握られており、その刃は赤く光り輝いていた。その短剣の名を血脈の短剣と言った。
 レインは、その短剣が持つ力を全く知りはしなかった。いや、一介の盗賊がそんな些細な事を気にする必要は、全くと言って良い程無かったのであろう。とにかく、レインはその血脈の短剣が、世界にとってどれほどまでに重大な力を持っているのかを全く知らなかったのであった。
 そのため、レインは城から少し遠ざかっただけで安心し、呑気にも闇夜の散歩を洒落込んだのである。帝国の兵士達が血眼になって、レインと血脈の短剣を探しているとも気づかずに。
「今日の仕事は楽だったな。天気も良いし、盗賊日和とはこの事だな」レインはほくそ笑みながら、頭上を見上げていた。
 相変わらず、空は暗雲に包まれていたが、逆にレインの心は晴れ渡っていた。この暗闇がレインの味方をし、城への侵入と脱出を助けたからである。レインの言う通り、まさにこの夜の天気は盗賊日和と言えた。
 と、レインは表情を引き締めた。そして、ゆっくりと腰の袋から血脈の短剣を取り出すと、それを目の高さまで上げた。すると、ゆっくりとレインの口元が緩んでいき、ついにはにやりと締まりの無い顔へと変わった。
 そのレインが持つ血脈の短剣は、不思議な事にこの暗闇の中でも怪しく赤く光り輝いていた。それは血のように赤く、少し不安にさせるような色であった。
「はっはっはっ……。こいつは、面白いな。照り返す光も無いのに、光っていやがる。しかも、血でできてるようだ。そうは、思わないか?」レインはその輝きを見ると、そう誰かに話し掛けるように言った。
 すると、その瞬間、レインの言葉に答えるかのように、その赤い輝きが一瞬だけ閃いた。それに気づくと、レインの顔がますます笑みで満たされた。そして、レインは血脈の短剣を、頭上に軽く投げ上げた。
「面白い! 良い買い物をしたな、レイン。こいつは、高く売れそうだ」落ちてきた血脈の短剣を受け取ると、レインはそう言った。
 その時であった。城の方角からレインに向かって、何者かの声が飛んできたのである。
「おい! そこにいるのは、誰だ?」それは、帝国の兵士の声であった。
「通りすがりの盗賊だ。ま、気にするな」そう小声で答えると、レインは苦笑して、ゆっくりと歩き始めた。そして、徐々に歩を速めていき、いつしかレインは走り出していた。
「怪しい奴! 待て!」そのレインを兵士が追う。
 それに気づくと、レインは足音を消すために、少し逃げ足を遅める事にした。そして、レインは広い道を南に向かって、真っ直ぐに逃げていった。なぜならば、この暗闇では兵士に姿を見られる事は無いので、わざわざ横道に入る必要が無かったからである。
 が、不思議な事に、その兵士は全速力でレインを追いかけてきた。兵士に、レインの姿を見る事は不可能のはずであった。レイン自身、兵士との距離を足音で判断していたくらいである。
(しまった! 奴は、悟りの化物か!)
 レインは思わず立ち止まって後ろを振り向くと、左手で頭を掻いた。が、すぐに思い直し、レインは再び足音を立てないように駆け出していった。
「待て!」再び、後ろから兵士の声がしたが、当然、レインは立ち止まらなかった。
(まあ、待ってもいいんだが、それじゃあ、ただの馬鹿だからなぁ……)
 レインは困ったように眉を顰めた。そして、再び、左手で頭を掻いた。
「おい、どうした?」と、別の兵士の声がした。
(え……?)
 その声に、レインは目を少し見開いた。
「賊だ! 応援を頼む!」今までレインを追っていた兵士が、そう叫ぶ。
(それは、遠慮したいな……)
 レインは苦笑し、ゆっくりと後ろを振り返った。が、やはり、レインには兵士の姿は見えなかった。
「ん? あれだな?」と、新たな兵士の声がする。
(ちょっと、待て、おまえら! なぜ、わかる?)
 その声に、レインは大きく目を見開いた。そして、その額に冷や汗が滲んできた。
「よし。おい、おまえ、他の者に連絡しろ。残りは俺についてこい」
「はっ!」と、また、何人かの声がする。
 すると、レインは突然、立ち止まった。そして、暫く、耳に全神経を集中させると、追手の兵士の足音の数を確認した。そして、さも嫌そうにレインは、ゆっくりと表情を歪めた。
(おい、おい、おい、おい……。七人かよ。参ったな……。しかし、ナパ・ジェイのシルヴァじゃないってのに、なぜ、あいつらは俺を確実に追ってこれるんだ?)
 レインはその後、かなりの間、逃げ続けたが、全力疾走して追いかけてくる兵士達との差は、縮まるばかりであった。そのため、身の軽さを売り物としているレインも、呼吸が苦しくなっていったのであった。
 これには、さすがのレインも精神的に参り始めていた。それは、まるで目に見えない敵に追われているような物であるから、無理はなかった。そして、レインが兵士達に追い着かれるのも、時間の問題となっていた。
(ちっ……。やばいぞ。こいつは、かなり、やば……・。ん?)
 と、レインは右手でしっかりと握り締めていた、ある物に気づいた。それは、赤く光り輝く、血脈の短剣であった。
 しばらく、レインは逃げながら血脈の短剣をぼうっと見詰めていた。そして、一つ溜息を吐くと、レインはその血脈の短剣を腰の袋へと放り入れた。
(馬鹿か、おまえは! 明日の朝飯は抜きだぞ、レイン?)
 レインは苦笑すると、ちょうど目の前に現れた森の中へと飛び込んでいった。その森を人は、魔性の森と呼んだ。
 が、レインはその事を知らない。

序章

テーマ:
 広大な領土と強大な力を持つ帝国。その帝国の北には難攻不落の砦、トリオールの砦が聳え立ち、東には大陸最長の長城、バグトレスの長城が道を閉ざし、南には不毛なレイ砂漠が広がり、西にはガルト海が延々と広がっている。帝国は、まさしく史上最強と謳われる強国であった。
 その帝都、ラルグーンの南に一つの森があった。そこは、伝説の魔獣の住処と言われ、魔性の森と怖れられていた。そして、その伝説の魔獣が未だに魔性の森に巣くっていると言う者もいれば、伝説の魔獣はすでに死んではいるが、その邪悪な力が魔性の森を包み込んでいると主張する者もいた。
 が、真実を知る者は、誰一人としていはしなかった。それを確かめようとする勇気ある者が、一人として存在しなかったからである。どんな命知らずの荒れくれ者も、この魔性の森に一歩入った瞬間、身も心も凍りつくような言い知れぬ恐怖を感じ、一目散に逃げ出してしまうからである。
 そんなある日、帝国はこの魔性の森に対して、多くの兵を送り込んだ。それは、人々の魔性の森に対する恐怖心を消し去ると言う名目ではあったが、本当の理由は別の所にあった。
 帝国は魔性の森の奥深くにあると言う、ある洞窟を捜そうとしていたのであった。その洞窟は普通の人々の知らぬ物であり、唯一、帝国に伝わる魔獣の伝説にのみ、それは存在した。それは、伝説の魔獣の住処と伝えられていた。
 果たして、多くの兵士達の探索により、その洞窟は見つかった。その洞窟は兵士達の考えていた物よりも小さく、とても、伝説の魔獣の巣であった物とは思えない物であった。そして、それが、余計に兵士達を不安にさせ、未知の驚異を煽っていた。
 だが、命令に逆らう事はできず、兵士達はその洞窟へと入っていった。兵士達の一人一人はまだ見ぬ何かに恐怖心を抱いてはいたが、多くの仲間がいる事がその恐怖心を和らげていた。そして、ゆっくりと兵士達は、洞窟の奥へと進んでいった。
 やがて、兵士達は洞窟の終わりへと辿り着いた。そこには、一体の骸骨が横たわっており、それは確かに人間のそれであった。が、兵士達はそれを見ると、恐怖のあまり後ろにたじろいでしまった。
 なぜならば、その骸骨の左胸の部分に、信じられない事に一つの心臓が脈打っていたからである。その心臓には、一本の短剣が深々と突き刺さっていた。力強く脈打つ、その心臓の鼓動が洞窟に響き渡り、突き刺さる短剣の刃は怪しく、そして、血のように赤く輝いていた。
 それが、一体何であるのかをほとんどの兵士達は、全く聞いてはいなかった。が、とにかく、兵士達は命令を遂行する事にした。その命令とは、洞窟の中に存在した物全てを城へと持ち帰る事であった。
 そのため、兵士達は大きな布を広げると、二人掛かりでその心臓と短剣を布の上に、恐る恐る置いた。そして、それを慎重に布で包み込むと、兵士達はゆっくりと洞窟を出ていった。
 帝国を揺るがしたこの物語は、この時より紡がれ始めたのであった。

赤い月

テーマ:
 月が煌々と照らし出す深夜の街は、静けさに包まれていた。それは、まるで、街の人々が息を潜めているかの様であった。
 その街の片隅で、剣と剣の打ち合う音がした。続けざまに、二度、三度、剣と剣が打ち合わされる。そして、その後の鈍い音と共に、それは止んだ。
「はぁっ! はぁっ……」その音を発していた場所では、一人の男が肩で息をしていた。
 その男の目の前には、皮鎧に身を包んだ、恐らくはこの街の衛兵であろう男が倒れている。その衛兵は左胸を剣で貫かれて息絶えており、自らの血で作り上げた血の海の中にいた。
「まだ……、だ。まだ、足りない」男はそう呟くと、衛兵の胸から剣を引き抜いた。
「ア……、アイン」と、その男の背後から何者かの声がした。
 男がゆっくりと背後を振り返ると、そこには一人の衛兵がいた。それを見ると、男は不気味な笑みを浮かべた。
「き、きさまか! 一体、何の理由があって、罪も無い人を殺してるんだ!」衛兵が怒りのあまり、そう叫ぶ。
「理由?」男がそう、聞き返す。
「そうだ。今まで、何人もの街の人々が殺されている。全て、おまえの仕業なんだろ?」衛兵が腰の剣に手を伸ばす。
「月が……、月が眩しいからだ」男がそう答え、左手で頭を掻き毟る。
「何を馬鹿な事を」その男の口調に、何か得体の知れない物を感じた衛兵は、用心深く剣を引き抜いた。
「気が狂いそうになるんだよ、あの月を見ている、と。だけど、ね」男が誰に聞かせるでもなくぶつぶつと呟きながら、衛兵に近づいていく。
「く、来るな!」それを見た衛兵は背筋が凍るのを憶え、真横に剣を振るう。
 が、突然、男が姿勢を下げたため、衛兵の剣は空を斬った。そして、次の瞬間、男の剣が衛兵の左足を貫いた。
「ひっ?」衛兵が恐怖に駆られ、思わずそう叫ぶ。
「他人の血を見ると、心が落ち着くんだよ」男が耳元で、そう囁いた。

「寝られないな」そう、男が呟く。
 その男、ゼイラスは街道を歩いていた。街までは、後、半日と無い。
(昨日より、月の光が強い。こんなのは、初めてだな)
 ゼイラスは街へ向かってゆっくりと歩きながら、月を見上げた。
「明日は、満月か。今日より、強くなりそうだが、宿にでも泊れば多少は楽になるかな?」ゼイラスがそう、諦めた様に溜息を吐く。
 と、しばらくして、ゼイラスは立ち止まる。そして、再び、月を見上げた。
「そうか。四年になるのか」
『四年に一度、月の女神の力は増し、月は血のドレスを身に纏う』
「あいつはそう、言ってたな。あれから、四年か……」ゼイラスはそう呟くと、首からぶら下げた首飾りを手に取った。

「あんた、旅人かい?」次の日の朝、ゼイラスは街へと着くと、門番にそう尋ねられた。
「ああ、何日か休んで疲れを癒したら、すぐに出て行くよ」
「そうかい。いや、その方が良いな。まぁ、正直言うと、泊らない方が良いんだがな」門番がそう、声を潜めて言う。
「何かあるのか?」ゼイラスがそう、銀貨を一枚門番に見せて聞く。
「いや、そんなつもりは無かったんだが、すまないな」門番はそう言うと、非常に嬉しそうに銀貨を手に取る。
「気にするな。で?」
 と、門番が左右を見回すと、ゼイラスの耳元に顔を近づける。
「この頃、夜中が物騒なんでな。今まで、何人も殺されてる」
「衛兵は?」ゼイラスが聞く。
「駄目、駄目。その衛兵すら、二人掛かりで殺られちまってるんだ。
頼りにならんよ」
「そうか。それは、いつ頃から?」そう言い、ゼイラスがさらに一枚、銀貨を渡す。
「一週間位前からだな、俺が聞いた話じゃ」
「ありがとう。あまり、長居しない様にするよ」ゼイラスはそう言うと、街の門を潜った。
 街の中に入り、宿を捜す。その間、ゼイラスは眉を顰めていた。
(四年前の……、俺がいるのか)

 ゼイラスは宿を決めると、部屋に荷物を置き、ベッドへと横になった。昨夜は寝てはいないが、眠気は無かった。
 ベットに横たわったまま、首飾りを手にしゆっくりと眺める。
『これで、君は月の女神から解き放たれた。もっと、喜び給え』
「馬鹿野郎。何が、喜べ……、だ」ゼイラスがそう、呟く。
 目を瞑る。ゼイラスの過去の記憶が呼び起こされる。
 それは、四年前、ゼイラスがまだ、自分が生まれ育った街にいた時の事だった。ゼイラスの目の前には、血だらけの男がいた。右手には首飾りを握り締め、ゼイラスの額にそれを翳していた。
『月の女神よ。あなたに、彼を渡しはしない』その男の静かな声には、強い意志が篭められていた。
 ゼイラスが両目を見開き、首飾りを見る。そのゼイラスの瞳には、涙が滲んでいた。
「俺にはまだ、あんたの代わりは出来ない。俺に今出来る事は、月の女神に愛され、心を食われた男を止める事だけだ」
 身を起こすと、ゼイラスはベッドの側に置いた荷物に、手を伸ばした。そして、鞘ごと剣を手に取ると、ゆっくりと剣を引き抜いた。

 夜、窓を開けると、ゼイラスは空を見上げた。
「あいつの言った通りだな」夜空に浮かぶ月を見て、ゼイラスがそう呟く。
 と、ゼイラスは静かに窓から外へと出ると、音も無く二階から舞い降りた。
「さて、と」ゼイラスがそう、左右を見る。
「あっち……、か」と、ゼイラスは右へ向かって、道を歩き始めた。
(感じる。月の魔力が強くなっている所為か?)
 しばらく歩いていくと、ゼイラスは血の匂いを嗅いだ。それは、すぐ近くから漂ってきていた。
「失敗したな。もう、始まってるのか」ゼイラスが眉を顰め、走り出す。
 と、目の前の角を曲がった瞬間、ゼイラスは思わず立ち止まった。眼前に広がる景色に、立ち止まらざるを得なかったのである。
 ゼイラスの目の前には、二人の衛兵が身動き一つせず、冷たく転がっていた。二人の衛兵には共に無数の傷があり、道は真赤に染まっていた。
(こいつは……)
 吐き気を憶え、ゼイラスが口を押さえる。
「四年前の俺以上だ」ゼイラスはそう吐く様に言うと、二つの死体を飛び越えた。
 ゼイラスが剣を引き抜く。そのゼイラスの視線の先には、動かない衛兵に尚も自分の剣を突き入れ続ける、男の姿があった。
「はぁ!」ゼイラスが剣を振り下ろす。が、それは男の剣によって、遮られた。
(反応速度が尋常じゃない。だが、それは俺も同じだ)
 一歩後退り、ゼイラスが体ごと剣を突き入れる。それを男が、横に跳んで避けた。
「血だ。血を欲しがってるんだ。もっと、もっと」男の呟きが、ゼイラスの耳に聞こえてくる。
「すまないな。俺には、おまえを救う事は出来ない。いや、こんな事を言っても、もう、おまえの心には届かないんだろうな」そう言い、ゼイラスが構えを解く。
 と、瞬間、男がゼイラスに襲い掛かっていく。男は剣を振り上げると、無防備のゼイラス目掛けて振り下ろした。
 が、ゼイラスはその攻撃を紙一重で横へと避けた。そして、間髪入れず、ゼイラスは剣を勢い良く振り上げた。
 鈍い音が響く。それは、男の剣とそれを掴む両手が落ちた音だった。
「痛みも、感じてはいないんだろうな。心を食われ、狂気しか残らない、今のおまえには」ゼイラスはそう呟くと、男に向けて剣を振り下ろした。

 男の死体を前にして、ゼイラスが無言のまま、月を見上げている。そのゼイラスの二つの瞳に、その月は血に染まって見えた。

魔法の矢

テーマ:
 とある国に一人の射手がいた。
 その男は矢をひとたび放てば、外す事の無いと謳われる程の名手であった。
 ある時、その名射手に一人の男がこう聞いた。
「あなたは多くの戦で功を納めている。どうすれば、あなたの様になれるのか?」
 その問いに、名射手は少し間を置き、軽く頷くとこう答えた。
「何の事は無い。私はここぞと言う時には、悪魔より譲り受けた特別な矢を使うだけだ」
 その答えに、重ねて男が聞く。
「特別な矢とは?」
 名射手は答えた。
「その矢は、一矢放つ度に私の寿命を一月奪っていく。だが、その矢が的を外す事は無い」

 さて、その話を風の噂で耳にした、一人の男がいた。その男もその国の射手であり、いつも、戦での活躍を夢に描いていた。
 男は考えた。
「私にも、その矢があったなら」
 その男の耳に、ある山に悪魔が住んでいると言う噂が届く。男は躊躇せず、その山へと向かった。近々、大きな戦が行われると言う、噂もあったからである。
 山に登り始めて暫くすると、急に辺りに霧が立ち込めた。そして、何者かの声が聞こえてきた。
「我が棲家に何用だ、人の子よ?」
 その声に、男は頬を緩ませ、尋ねた。
「お前が、この山に住むと言う悪魔か?」
「そうだ。それを知っていて、ここまで来たのか」
 男は迷う事なく、こう告げた。
「私に必ず標的を射抜く、魔法の矢を与えて欲しい」
「良いだろう。だが、条件がある、この矢を一矢放つ毎に……」
 と、男は悪魔の言葉を遮って、こう言った。
「寿命を奪うと言うのだろう? それは、わかっている。さぁ。早く、矢を!」
 暫くの沈黙がその場に流れた。と、男の背後で、何か物が落ちる様な音がした。
 男が振り向くと、そこには矢の束が置かれていた。その矢は、青白い光を帯びていた。
 男は喜び勇んで、矢の束に駆け寄ると、それを高々と持ち上げた。
「これで、私も手柄を立てられるぞ」
 その後、男は山を降り、家へと戻ると矢の数を数えた。矢は十本あった。
「十ヶ月、約一年の寿命か。だが、それだけの犠牲で、多くの恩賞を得られるのならば」
 男はそう、呟いた。

 数日後、男は戦場に出た。背中の矢筒には、魔法の矢があった。
 その戦は後の歴史に残る様な、とても大きな戦であった。当然、その恩賞も名誉も、大きな物となる。
 男は躍起になって、敵将と思われる姿を探し出して、魔法の矢を放った。矢は次々と敵将の息の根を止めていった。
「素晴らしい。この矢さえあれば、私は英雄となれる!」
 男は有頂天になっていた。そのため、自らの変化に気づかなかった。
 その変化に気づいた周囲も、何も言わなかった。いや、何も言えなかった。
 気づくと、男の矢筒の中身は空になっていた。男は周囲を見た。戦況はこちら側に有利に展開していた。
 一息入れると、男は額に流れる汗を手で拭った。と、拭った手に無数の髪の毛が絡まっている事に、男は気がついた。
 暫くの間、男はその理由に気がつかなかった。やがて、男はわなわなと肩を震わせて、呟いた。
「まさか」
 恐る恐る男が片手を頭に伸ばし、ゆっくりと髪の毛を引っ張る。その髪の毛は、驚くほどにあっさりと抜け落ちてしまった。
「馬鹿な!」
 男は叫んだ。そして、自らの手に無数の皺がある事に、そこで初めて気がついたのである。

 数刻後、男は山の中を歩いていた。あの後、戦場を抜け出して、どうやってここまで来たのか、男は覚えていなかった。
 男は悪魔の声を聞いた場所に向かって、歩き続けていた。その男の足取りは、覚束ない物だった。
「どこに……、いる?」
 掠れる声で、男がそう呟く。すると、それに答える様に、悪魔の声が山の中に響いた。
「お主か」
 その声を聞いた途端、男の顔は怒りの余り真っ赤に染まった。
「騙したな!」
 男が叫ぶ。
「騙した? 何の事だ?」
「寿命だ! 一体、私から、何年の寿命を奪ったのだ?」
「その様子だと、全ての矢を使ったのであろう? ならば、五十年だ」
 その声に、男は目を見開いた。
「約束が違う。一年との約束だろう?」
「その様な約束はしていないはずだが? そもそも、説明を遮ったのは、人の子よ。お主自身であろう?」
「そんな。じゃあ、なぜ、あの男は一ヶ月なのだ?」
「何を勘違いしているのかは知らぬが、お主以外にあの矢を渡した事は無いが?」
 その瞬間、男は唖然とした表情のまま、その場に崩れ落ちた。そして、その男は二度と立ち上がる事は無かった。

 とある日の訓練所に、一人の男の姿があった。男は黙々と遠くの的に向かって、矢を放っていた。その男は、名射手と言われている男だった。
 と、そこに別の男が近づき、こう声をかけた。
「魔法の矢を持つと言うあなたが、日々の訓練を絶やさないとは不思議ですね」
 その問いに、名射手は苦笑してこう答えた。
「はは。もし、本当にその様な矢を持っていたとしても、私は怖くて使えない。私は臆病なのでね」
 そう答えると、名射手は矢を放った。その矢が的の中心を貫く。
「日々の訓練を絶やさぬ事が、何の変哲も無い矢を魔法の矢に変える。私はそう思っている」
 名射手はそう言うと、訓練所から去っていった。

人魚姫

テーマ:
 海水浴にはまだ早い季節外れの海に、僕は来ていた。砂浜に腰を下ろし、何をするでもなく、ただ、ぼんやりと海を眺めていた。
 夕方近くになって、一人の少女が靴を脱ぎ捨て、海へと入っていくのが見えた。
 まだ、水も冷たいのに、物好きだな。僕は苦笑し、仰向けに寝転がった。

 絵を描けなくなって、もう、一ヶ月になる。いや、描けなくなった訳じゃなく、描く事に情熱を失ってから、一ヶ月だ。
 ただ、絵を描く事だけが楽しかったのは、いつの頃だったろう。そんな事も思い出せない僕は、画材道具のある部屋に、絵の具の匂いのする部屋にいられなくなって、当ての無い旅に出た。

 宿に戻ろう。僕はゆっくりと起き上がり、ふと、海を見た。少女の姿は無い。いや、少女の脱ぎ捨てた靴は、まだ、砂浜に転がったままだ。
 自殺? 僕は顔から、血の気が失せていくのを感じていた。
 波打ち際に駆け出し、海を凝視する。運良く、波間に少女の頭が見えた。が、それはすぐに沈んでいった。

 気がつくと、僕は少女の沈んだ場所まで泳いでいた。初夏の水の冷たさも気にならない。ただ、少女を助けたい一心だった。
 息を大きく吸い込み、海の中へと潜る。そんなに深い所ではなかったのが幸いし、少女の姿をすぐに見つける事が出来た。
 が、僕はそこで、少女に見とれてしまった。まるで眠るように海の底に漂う少女の姿が、あまりにも美しく見えたからだ。

 我に帰った僕は、少女を抱え上げると、砂浜へと引きずり出した。少女は華奢で軽く、それは驚くほど簡単な仕事だった。
 その後、少女を砂浜に寝かせると、僕は荒い呼吸を落ち着かせるのに終始した。それと言うのも、少女は水を飲んだ風でもなく、呼吸も普通にしていたからだ。
 しばらくして、僕の呼吸も整った頃、少女は両目を開き、ゆっくりと起き上がった。そして、辺りをきょろきょろと見回した後、不思議そうに僕を見詰めた。
「どちら様?」少女は微笑みを浮かべると、僕にそう聞いた。
「え? あ、いや。僕の名は和人」思わず、僕はそう、答えていた。
「そう。私の名は……、カイリ。よろしくね」そう、カイリと名乗った少女は、僕に右手を差し出した。
「よろしく……、じゃない」僕はそう右手を伸ばしかけて、その手を止めた。
「?」その僕の行動を見て、カイリが首を傾げる。
「どうして、自殺なんてしたんだ?」
「自殺? してないよ」カイリはきょとんとして、そう答えた。
「してないって、事実してただろ? 服着たまま、海に……」
「変……、かな? いつもしてる事だけど」
「いつもって」
「海に沈んでると、服も体も全てが海と一体になって溶け合うような気がして、気持ち良くなるの。今日はいつもより水が温かかったからかな? つい、うとうとしちゃった」
 僕は溜息を吐いた。そして、何かどうでもよくなり、苦笑した。
「じゃあ、僕は宿に戻るけど、気を付けるんだよ?」
「うん。また、明日ね?」
「ああ」僕はそう答えると、宿へと戻った。

 次の日の昼、浜辺に行くと、砂浜にカイリがいた。カイリは僕の姿を見ると、駆け寄ってきた。
「ねぇ。何か、お話ししようよ。一人で海を見ていても、つまらないでしょ?」
「そうだね」
「和人は旅行? どこから来たの? どんな仕事してるの?」カイリが矢継ぎ早に問い掛けてくる。
 僕はその問いに、一つ一つ答えていった。都会から来ている事、バイトをして生活費を稼いでいる事、バイトの無い日は絵を描いていた事。
「へぇ。画家なんだ。じゃあ、今度、私の絵を描いてくれる?」カイリが無邪気に言う。
「ああ、今度ね。今は、道具を持ってきてないけど」もう、絵を描かないかも知れないと思いつつも、僕はそう答えていた。
「約束だよ」
 その後は夕方まで、僕とカイリは他愛も無い話をしていた。
「と、もう、こんな時間か。じゃあ」
「うん。また、明日ね?」

 次の日もまた、僕とカイリは話をして過ごした。昨日は僕の話ばかりだったからか、今日はカイリの話を僕が聞く番となっていた。
 カイリは生まれた時から、この海からそう遠くはない所に、親と一緒に住んでいるらしい。カイリは昔の話を良くしてくれたが、今の事はあまり話したがらなかった。それは、僕も同じかも知れないが。
「人魚姫の最後って、知ってる?」帰り間際、カイリがそう聞いてきた。
「知ってるよ。海の泡になる奴だろ?」
「そう」カイリはそう頷くと、波打ち際へと歩いていった。
「私ね。その人魚姫のように、海の泡になれたら良いなあって、思うの」海を眺めながら、カイリがそう言う。
「海の中で目を瞑る時も、このまま、泡になりますようにって、願うの」カイリの言葉には、いつもの明るさが無かった。
「でも、私は泡にはなれない。だって、私は人魚姫じゃなくて、ただの人間だから」その時のカイリの表情は、僕にはわからなかった。
「カイリ」僕は言葉が見付からず、名を呼ぶ事しか出来なかった。
「あ、もう、帰る時間でしょ?」そう、振り返ったカイリの顔は、いつもの笑顔だった。
「そう、だね。じゃ、また」
「うん……。また……、ね?」いつもと違うカイリのその言葉に、その時すでに、僕はカイリに会えない事に気づいていたのかも知れない。

 次の日、僕は浜辺に行った。もう、家へと帰るつもりで、カイリに連絡先を教えるつもりだった。だが、カイリはその日、浜辺に来なかった。
 帰る前にも、海へと立ち寄ったが、やはり、カイリの姿は無かった。

 家へと帰った僕は、気がつくとキャンバスに向かっていた。そして、記憶の中の彼女の姿を描いた。
 寝食を忘れて、絵に没頭するのは、久し振りの事だった。絵を描く事を止めようとしていた事も、忘れていた。

 次の年、僕は描き上げた絵を持って、あの海へと旅をした。だが、彼女は来なかった。その次の年も。
 今年は行けなかった。丁度、絵の仕事が入っていたからだ。彼女の絵を描き上げた後も、僕は絵を続けていた。そのおかげか、今ではそれだけで暮らせはしなくとも、多少の絵の仕事を受けられるようになっていた。

 僕はこの頃、こう考えている。きっと、彼女は海の泡になれたんだ、と。人魚姫の様に。
 額縁の中の彼女は、今も海の底に静かに眠っている。