【入門之心得】

 夫れ茶の道は東山殿の時、南都の僧珠光(しゆくわう)之を興し、荘厳(さうごん)の式法(しきほう)は能阿彌(のうあみ)之を始め、北向道陳(きたむきどうちん)、同易庵(ゑきあん)、武野紹鴎(たけのぜうおう)を經て、利休居士に傳ふ。居士之を受け、和敬清寂(わけいせいじやく)を以て、法則を立て、爾来草庵の清風永く世に傳はる事その功偉大なりといふべし。

 抑も茶道は、心を修むるの術にて、虚より實に入るの道なり。されば、萬法の上に通じ、己が本業を勤むるの助ともなり、狐疑の心を*匡(たゞ)し、上に居て驕らず、禮讓の道正しく、靜寂以て自ら修む。然るに世間茶を本法の如く心得、富者の玩弄物視して、貧者の稽古すべきにあらずとなし、或は又嘲りて、老人婦女子の遊戯に類す。敢て男子の學ぶべき業(わざ)にあらずとなす。之全く茶道の認識を誤りたるの論にして顧るの要なし。

 *此に心を接し志を發して入門する者は、道に進む事速に、其益する所大なるべし。

小西酒造蔵『凌雲帳』~入門之心得~

 

「夫れ茶の道は東山殿の時、南都の僧珠光(しゆくわう)之を興し、荘厳(さうごん)の式法(しきほう)は能阿彌(のうあみ)之を始め、北向道陳(きたむきどうちん)、同易庵(ゑきあん)、武野紹鴎(たけのぜうおう)を經て、利休居士に傳ふ。」

 

 茶道の興りは足利義政公の時代に村田珠光が始め、荘厳の式法=書院茶は能阿弥が始めたことが書かれています。が、それを伝えたのが、「北向道陳と同易庵」となっていて、北向易庵という人物がいたことになっています。

 

 易庵というのは、道陳の号とする人もいますが、道陳の号は立休庵(りゅうきゅうあん)で、別人とも考えられます。同とあることから、北向を名乗った道陳の兄弟または子供、養子……ということでしょうか。

 

「居士之を受け、和敬清寂(わけいせいじやく)を以て、法則を立て、爾来草庵の清風永く世に傳はる事その功偉大なりといふべし。」

 利休は北向道陳、易庵、武野紹鴎から、茶道を受けて(伝授されて)、研鑽を深めて和敬清寂を以て法則性を見出し、それ以来、清き風の吹く草庵の茶が長い間伝わってきたことの功績は偉大である……と述べられています。

 

「抑も茶道は、心を修むるの術にて、虚より實に入るの道なり。」

 そもそも茶道というものは、心を修めるためにするものであって、虚より実に入る道です……とはどういうことでしょうか。これは解釈が難しいのですが、現在の点前の教授法が実は「難しい方から教えている」という逆説的なことが言えるかもしれません。

 

 平点前は用いる道具が少ないため「簡単な点前」と思われていますが、実は非常に難しい点前なんですね。というのは、道具というのは「全て同じところにおかなければならない」のに、「目安となる道具が水指一つ」なんです。

 何が言いたいかというと「平点前であっても台子があるが如く、その場所に置かなければならない」訳であり、「無いのにあるかのごとく置く」ことが、利休が言ったともされる「台子の極意は台子を廃すること」に通じ、「虚より実に入る」、すなわち、上の許状を頂くことで台子を置く点前をするようになる……かもしれません。

 

「されば、萬法の上に通じ、己が本業を勤むるの助ともなり、狐疑の心を匡(たゞ)し、上に居て驕らず、禮讓の道正しく、靜寂以て自ら修む。」

 

 そうすれば、いろいろことにに通用するようになり、自分の本業の助けにもなり、ある事に臨み、うたがってためらうようなこともなくなり、立場が上になっても驕り高ぶらず、礼儀をつくして謙虚な態度を持ち続けることができ、心を落ち着かせて自分を修めることができるようになります……となりますね。

 確かに、茶道は人生の助けになっています。

 諦観を基本とする仏法は「他人を変えようとせず、他人が変わろうと思うように助ける」訳ですが、自分の考えや欲望といった執着から解脱し、悟りの境地で物事をみていく(これが諦観)のが最終的な境地でありましょうか。

 

「然るに世間茶を本法の如く心得、富者の玩弄物視して、貧者の稽古すべきにあらずとなし、或は又嘲りて、老人婦女子の遊戯に類す。敢て男子の學ぶべき業(わざ)にあらずとなす。」

 それなのに(茶道は自らの心を修めるものであるのに)、世間では茶を本法(軸となるもの)のように心得違いをし、金持ちの道楽であると考え、貧しいものが稽古するものではないと思い込み、あるいは無駄遣いであるというように笑い、老人や婦女子の手慰みの同類であるかのように言っている。あえて男性が学ぶものではないと考え違いをしている。

 

「之全く茶道の認識を誤りたるの論にして顧るの要なし。」

 これはまったくもって茶道の認識を誤っているということであり、このような世間の評判はかえりみる必要がない。

 いや全くそのとおり。
 茶道は全ての男性が男性として身を修めるにおいて絶対必修の術であり、長く習わなければならないものであると私も共感します。

 

「此に心を接し志を發して入門する者は、道に進む事速に、其益する所大なるべし。」

 茶道が心の琴線に触れ、志を以て入門する人は、何かをするにしても速やかにして、益となるところが大きい。

 茶道には上下なく、ただ、互いを尊敬できるかどうかな訳です。

 私が上だ、お前は駄目だ……ではなく、私のほうが知っている・できるなら、相手を導いてあげよう……でなくてはなりません。私もまだまだ学ぶ身ですが、知り得たこと、考えたことをこうしてblogで発信しているのは、そう思うからです。

 ただし、字で読むことだけでは、決して得られぬものが、直接あって指導を受けることです。
 行学の二道は同じ強さで回さなければ、同じところをぐるぐると回ってしまうだけですので^^