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『永遠の未完成を奏でる 天籟の風』


  • 20Apr
    • リベラル・アーツの構築

      今回はリベラル・アーツのお勧め記事になります。どういう人へのお勧めかというと、これから何をしたら良いのか目標が定まっていない人、テーマはぼんやりと決まっているんだけど戦略が整わない人、ひらめきでクリエイティブな仕事をしてみたい人(営利的な仕事に限りません)、他にも応用が利くと思います。特に直観を大事にしている、目の前のリアルよりも可能性を求めるタイプの人に相性が良い自己実現型戦略論です。リベラル・アーツの淵源は古代ギリシャにあります。主に文系の3学と数学系の4科を合わせたリベラル(自由な)アーツ(思考技術)を磨くための分類分けで、自由7科とも言います。ソクラテスやプラトンが活躍したギリシャ時代では、PHILOSOPHY(知を愛すること)が最も重要視されていました。和訳では哲学ですが、現在の哲学とは全く違っていて、学問をトータル的にフィロソフィーと呼んでいた時代です。西洋の中世から近世にかけ哲学の領域がどんどん狭められて、現代では「主に先人の哲学を研究する専門分野の学問」のことを日本の大学では哲学と呼んでいます。本来は、好奇心いっぱいで「疑問に思って、問うて、考えること」が哲学です。ゆえにPHILOSOPHYのために、上図の7科を横断して学ぶスタイルがとられていたというわけです。(ソクラテスは修辞学に反対でしたが)さて話は変わりますが、最近図書館で借りてきた中でとてもためになることがたくさん書かれていた本をご紹介します。お勧めです。ダイヤモンド社 山口周著 『知的戦闘力を高める 独学の技法』 (2017年11月15日刊行 1620円)表紙をめくると黒いページにいきなり白抜き文字の言葉が目に飛び込んできます。 思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだ (チャールズ・ダーウィン)コンサルタントの著者は、これからの時代は専門バカでは駄目だと言い、リベラル・アーツの重要性を解説していくのですが、とにかく解りやすい。ロジックも解りやすく、最初から最後までの筋立てが非常に解りやすく、テキストの大きさもメリハリがあって楽に読めてしまいます。「覚えたことをどんどん忘れていい(忘れるべき)」とも言っています。基本はビジネス論なのですが、ビジネス以外の「仕事」でも、趣味やスポーツにでも応用が利くと思います。著者は独学を四つのモジュールのシステムとして組み立てます。 1「戦略」→2「インプット」→3「抽象化・構造化」→4「ストック」各章のサブタイトルは次のようになっています。 序章 知的生産を最大化する独学のメカニズム 第一章 限られた時間で自分の価値を高める「戦略」 第二章 ゴミを食べずにアウトプットを極大化する「インプット」 第三章 本質を掴み生きた知恵に変換する「抽象化・構造化」 第四章 知的ストックの貯蔵法・活用法「ストック」最後の第五章では、リベラルアーツを学ぶ意義として次の5点を主張しています。 1.イノベーションを起こす武器となる 2.キャリアを守る武器となる 3.コミュニケーションの武器となる 4.領域横断の武器となる 5.世界を変える武器となる古代ギリシャの自由七科にあたる著者お勧めのジャンルは11種類。 歴史・経済学・哲学・経営学・心理学・音楽・脳科学・文学・詩・宗教・自然科学このうちまずは、自分のテーマに応じた2種類を学んでクロスオーバーさせる。ここでのポイントは次のように書かれています。 掛け合わせるジャンルについては、「自分の持っている本性や興味」を主軸に選ぶべきで、他人が「持っているもの」で、自分が「欲しいもの」を主軸にしてはいけない。ただ、全部が全部、著者の主張どおりにする必要はなく、例えば第四章には本をノート換わりにしてどんどんアンダーラインを引いたり言葉を書き込んで付箋を貼っていくことを強く求めていますが、私はそうしません。或いは、上記ジャンルで99冊の書籍が紹介されていますが、私としては特に哲学や心理学で著者とは全く別の本を紹介するだろうなあと思いました。99冊のうち興味を惹かれたのは7~8冊でした。あくまで参考ですね。私には6割か7割くらいの共感がちょうどいい。8割以上共感だと残りの2割以下に強い拒否反応を示すことになりますし、5割以下の共感ではストレスを抱えることになります。私はこれを友人等を選ぶときの基準にもしています。テーマとジャンルを暫定的に決めて、リベラル・アーツのシステムを構築します。けっこう楽しい作業です。ギリシャ時代と上記の本の、リベラル・アーツの考え方を基に自分でオリジナル構築したのが、前の記事『小さな志ですが。』に掲載した下のイラスト図です。自分独自の変形リベラル・アーツです。「こころの美学を創造すること」がテーマになっていて、(大西克禮の)美学、医学系の科学、認識論と自由論系の哲学、日本思想、意識と無意識を解明する分析心理学の5つのジャンルをクロスオーバーさせる形です。日本思想の中には文学や歴史、倫理学、老荘思想なども関連付けていますし、哲学では個人主義や共同体主義等のイデオロギーを関連付けています。おそらく更に広がっていくでしょう。私はそれほど広範囲に多くの著者の本を読みません。例えば哲学ならばニーチェとカントだけを深く掘り下げます。もちろんロールズの『正義論』やJSミルの『自由論』なども読みますがこれらは浅くて良いと思ってます。分析心理学ではユングのみを深く、ですね。なぜヘーゲルやハイデッガーや、心理学でいえばフロイトを読まないかと言えば、独りで充分だからです。例えばニーチェを読めば、ニーチェによってギリシャ古典文献学はすべてフォローされていますし、カントやデカルトなど、19世紀半ば以前に活躍した哲学者の叡智をニーチェという天才が所有しているわけです。ユングについても同様のことが言えます。自分と相性の合う先賢を小人数で良いので深く何冊も読んで、「ニーチェならこう言うだろうな」というところまで一体化したほうがいい。『西洋流と日本流、真逆とも言える無意識への道』の記事で触れた内田樹さんが、レヴィナスだけを深く読みこんで「レヴィナスなら内田樹だ」と言われるほどまでになったと同じところを目指したい。ニーチェにしてもユングにしても、大西克禮にしても、私とは比較にならないほどの、否、比較することが失礼なほどの天才・秀才なのですから、彼らのエッセンスを凝縮してその叡智を自分の血肉にできるのなら、ニーチェひとりの3割でも凄いことになります。あなたも自分独自のリベラル・アーツのスタイルをつくってみてはいかがでしょうか。ということで、今後のブログスタイルは、同じジャンルのテーマを連続させないように、連続させるとしても今までのように(1)→(2)のようには続けないことを基本とします。既に『幽玄(1)』を書いていますが、『幽玄(2)』は幾つか別の記事を挟んだうえで記載していくというイメージです。そのほうが自分の頭のなかがクロスオーバーし易いと思いますので。

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  • 16Apr
    • 小さな志ですが。

      もやがかかっていた自分のこれからの人生テーマが、一冊の本と出合ったことによって一気に視界が開け、形に成りはじめてきましたのでイラスト化して整理しました。新しい、心の美学という石板を建設したい。小さな志ですが、こつこつと進めていこうと思います。21世紀まで進んだ私たち人間の生の営みのなかでは、富と権力、名誉、そして科学の発展、その結果による成功が幸福に結びつくという価値観念が、多数の人の無意識の中に根付いていると思います。この価値観のパラダイム変革を提唱していきたい。富を求めて結果として成功することを否定しません。権力を求めるのもいいでしょう。けれど今よりもちょっとそちらの価値は下げてもらいたい。新しい、心の美学が第一等の価値になることによって、一生涯のプロセスの充実が図れるように、個人の内発的な価値観変革を提唱していきたい。こころの美学の建設構想ですが、価値マップを作ってみました。暫定的な叩き台があったほうが自分にとって解りやすいと思ったので。ベースは分析心理学です。すべてに分析心理学を結び付けていきます。今よりももっと深く、無意識についての考察を行っていくつもりです。美学の土台とするのは、大きく分けて西洋哲学と日本思想です。身体はこころに大きく影響を与えると考えますので、医学系(内分泌系・自律神経系・脳科学・エピジェネティック遺伝学など)の最新科学の知識も借りなくてはいけません。分析心理学、哲学、日本思想、科学をクロスオーバーさせて美学の石板を造ろうとする構想です。独学でがんばります。営利的な仕事は別でがんばります。認知症にならない限り生涯現役です。新しい、こころの美学という価値の建設は、当然、私の能力をはるかに超えた遠大なテーマではあります。けれど千里の道も一歩から、世界の小さな片隅を一つの志で照らしていくことで充分だと考えています。10年や20年でできる事業ではありませんので、500年、1000年と、きっと誰かがバトンを受け取って繋いでいってくれると信じて。皆さんもそれぞれに、人生にテーマと希望をもってがんばってくださいね!きっといいことあるよ!

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  • 10Apr
    • 幽玄(1)

      前の記事で、美しい心こそが人類にとって第一等の価値となるべきと書いた。何をもって美しいとするのか、なぜそれを美しいと思うのか、どんなふうに美しいのか、それは普遍的なのか個人的なのかなどについて考え、そのメカニズムをつまびらかにしていくことが今後の第一の課題です。その次に価値構造の建設、創造がある。今は、日本の美学を掘り下げながら心理学と照らし合わせていこうと思います。■ 大西克禮の『幽玄論』ここでは幽玄の「研究」をしようとするものではありません。幽玄を感受する心とはどんなふうなのか、どうやって感受する心ができあがってきたのか、心理面が主たるテーマです。従として、幽玄とは何かになる。大西克禮によれば、幽玄を、「知的意味契機」「感情的意味契機」「価値美学」の三つの観点から考察することが必要であるという。以下に引用しますが、少々晦渋な文章です。しかし時間を置いて繰り返し数回読むと、かえって分析が明快であることが判り、幽玄にかんする理解が深まるかと思います。まずは前者二つの「契機」の分析から入ります。 第一に、「幽玄」と云う概念は一般的に解釈しても、何等の形で隠され又は蔽(おお)われていると云うこと、即ち露わではなく、明白ではなく、何等か内に籠(こ)もったところのあると云うことを、その意味の重要な一契機として含むことは、その字義から推しても疑を容れない。(略) 第二に当然一種の仄暗(ほのぐら)さ、朦朧(もうろう)さ、薄明(はくめい)と云う意味が出て来る。(略)、余り明白に理をつめない大様さ、上品さの意味が生ずる。 第三に同じくそれ等と極めて緊密に聯関(れんかん)する意味契機として、一般に「幽玄」の概念の中には、仄暗く隠れたるものに伴う静寂と云う意味も含まれるであろう。(略) 第四の意味は深遠と云うことである。これも勿論前に述べた意味と聯関するが、しかし一般的の幽玄概念に於いても、この意味の契機は単に時間的空間的の距離に関するものではなく、特殊なる精神的意味、即ち例えば深く難解な思想を蔵する様な場合(「仏法幽玄」の如き)を意味する。(略) 第五に更にこれと直接に連絡する意味として、私は一種の充実相と云うことを指摘したい。幽玄なるものの内容は単に隠れたるもの、仄暗きもの、解し難きものであるのみならず、その中に言わば限りなく大なるものを集約し、凝結させた inhaltsschwer(※重い内容?表現豊か?) な充実相を蔵し、そこからして寧ろ前に列挙したような諸性格の結果して来る所に、その本質があるのではないかと思う。(略) 第六の意味契機としては、上述した様な諸々の意味と結びついて、更に一種の神秘性又は超自然性と云うようなものも考えられる。これは宗教的ないし哲学的概念としての「幽玄」に於いては当然の事であるが、そう云う神秘的ないし形而上学的意味は又美的意識にも感受されて、そこに特殊の感情方向を成立せしめるであろう。(略) 第七の意味契機は、前に言った第一及び第二の契機と極く近いものであるが、しかし単なる隠とか暗とか云う意味とは少し違って、寧ろ非合理的とか不可説的とか微妙とか云う如き性質に関する意味である。一般的意味の幽玄概念としては、それはまたかの深淵とか充実とか云うような意味と直ちに結びついて、いわゆる言説の相を絶する深趣妙諦(しんしゅみょうてい)を指すことになるが、美的意味に転ずれば、かの正徹が好んで「幽玄」の説明の中に指摘している「飄泊(ひょうはく)」とか「縹渺(ひょうびょう)」とか云う様な、言語に表現難き一種の不思議な美的情趣を指す。かの「余情」と云う如きものも、主としてこの意味契機の発展であって、歌の直接の詞心以外に、そこに表し得ない縹渺たる気分情趣が、その歌と共に揺曳(ようえい)する趣を言うのであろう。(略) (書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論 p57-60 )次に「価値美学」の観点。 さて吾々は先きに和歌に於ける芸術的最高価値の概念としての意味に於いて、「幽玄」と「有心(うしん)」とが大略一致すべきことを論じたが、一方まだ上に試みた幽玄概念の意味契機の分析に於いて、「幽玄」に於ける「深遠」と云うことが、美的意味に於ける「心深さ」「有心」「心の艶」等に照応するものであろうと云うことを想定した。故にこの様な関係を辿って考えても、第三の価値美学的観点の下に取り出ださるべき、幽玄概念の最も中心的なる意味は、恐らくこの美的意味に於ける「深さ」と云うような点に在るべきことは容易に想像されるであろう。ただしかし吾々はこの第三の観点に於ける美的意味の「深さ」が、先きの第二の観点に立って考えられた美的意味の「深さ」と、直ちに同じものであり得ないことを注意しなくてはならぬ。「効果美学」或は心理学的美学の立場から言えば、この意味の「深さ」は結局「心の深さ」とか「有心」とか云う外はないであろうが、しかし そう云う意味の美的深さはやがて心自体、精神自体の価値根拠の深さ――即ち「精神」その者の内面に終始する 一種の価値内容として考えられ、従ってそれがまたややもすれば非直感的、非美的、道徳的価値の方向に帰着するものとして考えられる傾向が有る。 (略) 然るに今この様な美的意味に於ける「深さ」が真に「価値美学」的立場から解釈される場合には、それはもはや単に美の主体としての心の深さと云う如き主観的方向のみが考えられるのではなく、言わば主観と客観を打って一丸とした「美」その者の「深さ」が考えられなければならぬ。それは例えば美の「脆弱性」とか「崩落性」とか云うような性格が考えられる時に、それが単なる主観的意識の流動性としての意味に止まらず、正に「美」との者の「存在」の仕方に関するものとして解釈されるのと同様な関係である。 (略) (書肆心水出版『大西克禮・美学コレクション・Ⅰ』幽玄論 p61 )なるべく正確に文意を示したかったので長文引用となりました。前半の「意味契機」では、観察者が、知的(知識的)な教養に支えながら美しさを感受する契機と、個人の心のなかに、体験によって醸成された感情、情操からじわじわと滲み出てくるイメージの契機とでも言いましょうか。 、その二つの契機を並行して考察した上での分類を行っています。「価値美学」においては、知的なもの、感情的なものがミックスされ成熟した「有心」によって「深さ」を感受する。「美」その者の「深さ」。 これを腹の中に落としこんで心で感受するにはもう少し時間を要します。尚、仏教では有心を囚われた妄執の心として否定し厳しく批判します。無心でなくては駄目だという古代インド哲学からつづく感情の全面否定です。一方、日本の和歌や国学、伝統文化では有心が高貴な心だとされてきました。まだ私も理解が追いついていませんので、引用はしたもののどうまとめて良いか思案に暮れてしまいました。引用以降の文章では、「深さ」とは何かについての考察が、「崇高」という価値にまで昇華している。それほど多量な文章ではないのですが、岩盤をこつこつと鑿(のみ)で切り崩してゆく手作業のようなものです。今日はここまでとします。

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  • 08Apr
    • 古くて新しい価値観「美しく貴き心」

      昨日の記事につづき日本的美学観に入っていきますが、意識しているのは深層心理です。常に無意識を念頭においています。本記事の前半では、次の記事で扱う『幽玄とあはれ』の著者である大西克禮の経歴と時代環境、学問的系譜、現代における彼の美学論の価値について簡単に記します。1888年(明治21年)大西克禮(おおにしよしのり)は東京に生まれ、1913年に東京帝国大学文科大学(現在の文学部)哲学科を卒業します。1927年に東大助教授になりドイツ・イタリア・フランスに留学。1931年に東大教授。1949年(昭和24年)に退官し東大名誉教授の称号を授かる。その後は福岡に隠棲し個人的に美学研究を続け1959年に没します。享年71歳。九鬼周三とは同い年、和辻哲郎は一つ年下です。美学者と言えば日本的美学を『茶の本』として欧米に紹介した岡倉天心(1863-1913)が有名です。大西と岡倉に接点があったか否かはわかりませんが、当然、大西は岡倉の著書を読んでいたはずです。大西の美学論は難解のためか研究する人が少なく資料も乏しいのですが、田中久文著『日本美を哲学する』で扱っています。同書より美学についての記述を、「はじめに」から引用します。いい文章だと思います。 「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった言葉は、西洋の「美」よりも広がりをもった概念ともいえる。それらは、ある場合には「美」的概念というよりも「倫理」的概念であったり、「存在」論的概念であったり、さらには「宗教」的概念であったりする。しかし、だからこそ、限定的な「美」の概念に制約されない豊かな内容をもったものとして今日の私たちには映るのである。 むしろ、近代以前の日本人は、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念によって、広い意味で「哲学」していたといってもよいのではなかろうか。中江兆民が述べたように、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」といった見方が一般化している。もちろん、日本でも仏教や儒教の領域に於いて独創的な思索を展開した者は少なからずいた。しかし、それらは何といっても特定の経典や教義に制約されたものであり、世界や他者と素手で格闘しながら考え出されたものではない。それに対して、「あはれ」「幽玄」「さび」「いき」といった概念をめぐって展開された思索は、今日的にいえば芸術論・文学論・芸能論・演劇論などといわれる形をとりながらも、実際には人間や世界のあり方全体に関わるものであり、しかも、何ものをも前提とせずに世界を考えようとする、まさに「哲学」的なものであったといっても過言ではない。 (中略) そうしたことを最も体系的に考えたのが大西であった。(略)こうして彼は日本の伝統的美学をその閉鎖性から解放し、普遍的な美学のなかでその意義を明らかにしようとした。 これほど体系的ではないにしても、日本の伝統的美学を捉えるこうした基本的な姿勢は和辻や九鬼などにも共通している。彼らが日本の美学の独自性を説く場合にも、その背景には常に西洋へのまなざし、さらにはそれを超えて普遍性へのまなざしが存在していた。 (中略) こうして、日本の伝統的美学は、近代の哲学者たちのまなざしを介することによって、日本人が「哲学」する際の格好の指標として甦ったといえよう。 (田中久文著『日本美を哲学する』p10-12)※太字の強調は私の手によるものです。美学という名称やその領域に囚われず、大西克禮を含めた近代の哲学者たちが日本伝統の美しさ観について掘り起こしてきた、考えてきたことがよくわかる言説です。さてここからは心の構えを転調します。徐々に。上記の美しさ観についてですが、大きく分ければ、自分の心を外へ映してゆく外向的テーマと、外の世界を感受し自分の心のなかで練ろうとする内向的テーマとに分かれます。後者ですが、なぜ、私たちはそれを美しいものとして感受できるのだろうか。あるいは、なぜ、まだ美しいものとして感受できないのであろうか。子どもに「もののあはれ」を感受しなさいと言ったってできません。私だって「幽玄」を感受してみろと言われても自信がない。こんなに生きてきても、世阿弥が晩年に著した『花鏡』の「幽玄の境に入ること」を、本質的な体感として解ってはいないし、幽玄の美を未だ浅くしか感受できない己れの未熟さを自覚しています。もっと身近なところで「愛」はどうでしょうか。子どもの頃の歌に「かあさんの歌」がありますよね。「かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた…」の歌詞とメロディを思い浮かべてください。YouTubeで聴いてみてください。子どもが自分のこととして歌って母の愛を感受できていると思いますか。自分の子どもの頃を思い浮かべて、小学校3年生のときにこの歌を聞いて歌って感動しましたか。子どものときに、母の愛を感受できなくていいのです。感動しなくてもいいのです。でも歌っておくのです。たくさん歌っておく。やがて自分が母になった時に、ようやく母が自分に与えてくれた愛の深さに感動するのです。20年、30年かけて、母の愛情がわかる。母もおばあちゃんからそうして、愛情を教わってきたのです。子どものことをひたすら思って、夜を徹して編んでくれた手ぶくろ。暖かくないわけがないじゃないですか。その暖かさを、心の温もりを、20年かけてようやく感じとるのです。今すぐに子どもが母である自分の愛情を、真の愛情を感じとれることはない。でも、ずーっと後になって感じとれてくれたらいいなあ。娘に子どもができた時に、その思いを自分の子どもに伝えてくれたらいいなあ。そんなふうに、母親は子どもに、或いは間接的に孫に、20年、30年と、その後も引き継がれる愛情の大事業を行っているのです。そうした心の構えが自分の無意識の中にできれば、「かあさんの歌」を聴いて歌ってみたときに、胸にぐっときて、落涙しないことがあり得ない。自分の母が自分に手ぶくろを編んでくれたかどうかなんて関係ない。自分の境遇にフィードバックしなくても想像力があれば感動してしまう。母の子どもに対する愛情はほかにもたくさんある。子どものことを思って料理して、ほうれん草を茹ですぎておひたしがやわらかくなってしまっても、おいしくないわけがないのです。おいしいに決まってるじゃないですか。どんな高級料理よりもおいしいに決まってます。母子に限ったことではありません。父子でもそうですし夫婦や恋人どうしでも、そんなことはあたりまえなのです。愛情を感受できるこころ、愛情いっぱいの真ごころ、そんな貴い心よりも価値のあるものなどこの世にあるものか!と。経済的に富裕であること、科学による様々な恩恵、それを幸せだとし、裕福になることが成功だと言われて久しい世の中ですが、美しく貴き心にまさるものなどこの世にはありません。過去にも未来にも永遠にありません。綺麗ごとですか。いえ、もしこれが綺麗ごとに聞こえるのならば本当に汚い世界や暴力と利権にまみれた世界を深く体験してこなかったからです。真っ暗で絶望的な悪と闇の世界を体で知れば知るほどに、そうした世界でもキラリと光って通用する、美しく貴き心にまさるものなど何もないと言い切れるのです。古くからあるこの日本の、いや日本だけじゃなくて世界中にその素はあると思う。美しく貴き心のすばらしさを掘り起こすだけなく、更に磨きをかけ日本から世界へと発信し、新しい価値として台頭させることができたなら、どうですか。素晴らしいこととは思いませんか。子どもたちの目に希望の光が灯るとは思いませんか。100年200年かかっても1000年かかってもいい。個人の手柄なんていらない。何世代も超えた有志のつながりで、人間の最も大切なまごころを、美しく貴き心を第一等の価値にしようじゃないかと、少なくとも私ひとりはそう思ってます。想像してみてください。人の美しく貴き心に触れて、感動して、自分も美しい心をもちたいな、あたしも、ぼくもと、その連鎖が起きる社会を想像してみてください。経済や科学は人のまごころの営みを支えるために存在しているのです。次の記事では「幽玄とあはれ」に入ります。いろいろアウトプットすることで無意識の心構えの謎を解明できるかもしれないと、淡い期待はありますが、無目的的にただただ没頭して考えてみる姿勢を大切にしていきたい。

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  • 07Apr
    • 日本的美学論と無意識論の結合

      大西克禮『美学コレクション』全3巻を購入し手元に揃いました。大袈裟な表現になりますが、この本は私に出会うのを待っていた、そんなふうに、感動を超えて感激しています。美学者・大西克禮氏(1888-1959)が生前に著した数冊の著書を現代仮名遣いに直し、3冊に纏めた著作集です。2012年~2013年に刊行され未だ初版のままですので、(たぶん人気がないため)おそらく重版はなく絶版になるかもしれず、確保できて良かったです。高価でしたが価格以上の価値ありです、私にとって。1冊目の帯にはこうあります。 長く理論的考察がなされないまま、独特の美概念としてただ体験的に論じられてきた 幽玄・あはれ・さび の理論的様相を、美学者の立場から明かした画期的業績。2冊目の帯にはこうあります。 人と自然とが対立しない美という日本人の感性の最深層を探る。知性によって自然を統御支配するよりも、生活そのものを自然の多変性、多様性に順応させる文化の息吹。3冊目の帯にはこうあります。 西洋美学の枠を破り日本特有の美概念をも組み込んだ新たな普遍美学への試み! 東洋的芸術精神のパントノミー即ち本源的綜合性とは何か。生活の全面と深く一体化する芸術の心を総合的に理論化する。「美学」というと芸術(美術や音楽など感覚的なもの)を想像するかと思いますが、いやまさに西洋の美学はそこが基本なのですが、日本の美学は感覚的なものにとどまらず、抒情的なものもあれば生きかたの信条的なものもある。日本人は古くから、非常に幅広く、この「美しさ」というものに、外形的にも、内面的にも、生きざま的にも拘ってきたのです。『葉隠』の武士道や世阿弥の『風姿花伝/花鏡』、その他挙げればきりがないほどですが、深いところで通底しているのは、日本人的な、美しさの意識です。大西克禮は、その日本人的美学観を体系化し、理論化しようとしました。彼の論は実に多面的です。認識論的な哲学であり、日本人が連綿と受け継いできた無意識の美学すなわち深層心理学であり、平安王朝からの抒情的な国学の系譜であり、知性・知識に裏打ちされた想像的体験論であり、集団生活の芯とすべき道徳を扱う倫理学であり、人と人との絆の美しい人情論であり、もちろん感覚的な芸術論でもあるのですが、それらすべての基準に「美しさ」を置いた。悲哀や悲壮・悲愴の「陰性」の美しさなどはまことに日本人らしい、独特の、無常感的な美しさの捉えかただと思います。大西克禮氏も心理学に少し触れていますが、そうした美しさを感受できる心の構えは(実際に「構え」という言葉も本文で使っています)、無意識論へ伸びてゆきます。私は、大西克禮の日本的美学論と、ユングの深層心理学的無意識論を結合させようと思っています。

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  • 02Apr
    • 西洋流と日本流、真逆とも言える無意識への道

      イギリスのタイムズ・ハイアー・エデュケーションが毎年発表している世界大学ランキング(2017-2018)によると、第1位はオックスフォード大学で日本トップの東京大学は第46位。その第14位に位置するコロンビア大学ビジネススクールで上級講師を務めるウィリアム・ダガン氏。彼は同スクールの大学院課程とエグゼグティブコース、その他世界中の企業を相手に、「第7感」についての講義を熱心に行っている。彼の著書『The Seventh Sense』の邦訳版がダイヤモンド社から、『超、思考法/天才の閃きを科学的に起こす』として出版されている。(2017/11/15)「第7感」とは何ぞや?いわゆる直感的洞察の「第6感」の次のステージにある、天才的な突然の閃きに対する、著者の造語とのこと。映画で「シックスセンス」が使用済みだったことも有り得そうですが。面白そうじゃないかと思って図書館から借りてきました。(順番待ちで2か月ほど待った)1620円位ケチらないで買えよと(苦笑) 以前はけっこう私、こういうビジネス本や啓発本は10冊単位でまとめ買いしていたんですけどね、結局、ペラペラめくって一度で終わりなんですよ。で、反省して買わなくなりました。ユングやニーチェ、エレンベルガーの本ならば5000円~1万円以上でも買います。だって一生モノだし何度でも読み直しますからトータル的な価値が高い。昨日もAmazonで大西克禮の本を1万2千円出費し発注したところで、明日か明後日には手に入るので楽しみです。閑話休題。では、「第7感」の第一章の一部を引用する。 最新の脳科学のおかげで、この「突然のひらめき」についての解明が進み、人間の脳に秘められたこの神秘的なパワーをフルに活用できるようになったからだ。本書の目的は、読者であるあなたが、そんな脳のパワーを最大限に生かせるようになることだ。この本では、このパワーのことを「第7感」と呼ぶ。 (上記同書p14)まずは批判からいこう。彼は最初から大きく出た。まるで「突然のひらめき」が脳科学的に解明されたかのような論調であるが、同書の最後まで読んでも、脳のどの部位がどう反応して、脳に何が起こっているのかについては何も書かれていない。ゼロです。唖然とします。世界第14位のコロンビア大、大丈夫か? 要するにウィリアム・ダガン氏が「突然のひらめき」についての個人的な仮説を立て、講義をし、出版しているというだけだ。「科学的に」という言葉が随所に使われている(欧米では科学的論拠のない理論をオカルトとする傾向があるからだと思う)。ところがどこにも科学的エビデンスは見当たらない。この手の本は、仮説のストーリーに合う少ない事例をどこからか探してくる、または誰かに証言してもらうことで説得力を高める。かつてベストセラーとなったディール・カーネギー著『人を動かす』やナポレオン・ヒル著『成功哲学』などの系統と同じ手法です。スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』は「心の知能指数・EQ」という概念をつくってだいぶマシに進化していましたが流れは同じ。それでも、幾つかは参考になることが書かれています。 〇第7感の基本的なメカニズムは、「既存の要素を新しく組み合わせること」。脳内でのマッチングのことですが、これは100年も前にユングが無意識論で論じていますし、最近の私も同様のことを書いていて何も目新しいことではない。ですが、確認にはなりました。 〇「頭がリラックスした状態のときに、既存要素の新しい組み合わせが生じた」 〇「目の前の状況についての既存の考えを、いったん頭からすべて忘れることのできる心の状態」=オープンマインドをつくる。この2点も同様に、無意識内に「問題となるテーマを寝かせ」て醸成するということを何度も書いてきた。確認にはなりました。忘れるために、「脳のプラグをすべて抜く」といった文学的表現も登場するのですが。大脳生理学や自律神経、脳内ホルモン分泌などの脳科学的・医学的なエビデンスがあるのかなと思いきやまったくないので残念。今後に期待。ただ、世界の大学や世界の大企業が、「クリエイティヴ」な思考のできる人材を物凄く欲していること、とっかかりでもわずかなヒントでも良いのでダガン氏のように示唆してくれる人を求めていること、そうした時代に入ったことはよく理解できました。上記同書については批判が中心となってしまいましたが、こうして批判されても仕方のない内容だと思います。昨日までの論考を見てお解りかと思いますが、ここではユング理論を中心に、ダガン氏よりもハイレベルな分析と論理構成によって、新しい価値創造のための考察を行っていると断言できる。さてここで、コロンビア大のずっと下のランクに位置する東京大学を卒業して、「第7感」のことなど全く研究していない哲学者の内田樹氏が、大ヒントとなることを述べているので紹介したい。あまりに気づく点が多かったので、超長文をA4サイズ16枚にプリントアウトして何度も読み直しています。上記の本一冊よりもこちらの方がはるかに価値が高い。レトリックを含めた高い文章力も大違いです。ベタ褒めが過ぎるので(↓)で落としておきます(苦笑)(でも私は内田樹氏の政治にかんするご発言とその内容は、直截に酷い表現であえて言わせていただくが、チャラいと思っております。思想家は政治にかかわるとたいてい劣化していくんですよ。左派だからということでなく右派も。尊敬する西尾幹二さんも今世紀に入った頃からそうなってしまったと思う。思想家の才能がもったいない。余談で失礼。)氏はフランスの哲学者レヴィナスを翻訳する仕事に取り組んだが、全く理解できずに断念した。そして数年後に、忘れた頃にもう一回引っ張り出して読んでみるとちょっと分かるようになっていた。 驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけ経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。この体験を更に抽象へと落とし込んで次のように述べる。 それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。(略) 身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」。(略) まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが実現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。(略) 自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。(略) そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕には不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。また、氏は合気道の道場を開き師範をされているのですが、その経験を踏まえて次のように述べる。 武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと一秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1㎝太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やっているこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。どうですか。繋がったでしょう?ウィリアム・ダガン氏は「第7感」の閃きを得ることを目標に、目的的に、仮説を論理化しようと企図し、今も熱心に研究を続けていることでしょう。きわめて西洋的です。一方の内田樹氏は、レヴィナスの翻訳については一度放棄して忘れてしまった。でもおそらく無意識の中にはテーマとして残っていた。長い期間の経験を含めて、アモルファスな星雲状態に無意識があって、形とならずにじたばたしていた。武道の修業においては、無目的的に、今目の前の修業を一所懸命にやる。ただただやる。そうして、あるとき、はっと気づく。私たちの一生のことについても西洋流と日本流では全く逆なんです。西洋流では自分が生きる意味とは何かと考え、目的的に目標を定めようとする。人生設計をし計画的に生きて行こうとする。明治維新以降、現代日本でも西洋流が大流行していますね。一方、伝統的な日本流では自分が生きた意味は死ぬ頃にはわかるのかもしれないし、わからなくても良いと考える。未来の計画よりも、とにかく「今」を大切に生きようとする。それはけっして刹那主義でもニヒリズムでもなく、「今」を大切に生きれば大丈夫だ、お天道様はちゃんと見てくれている、 今をしっかりと善く生きていればそのうち良いことがきっとあるさ、 といった非合理的な強い信念がある。西洋流を否定するわけでも日本流のみを肯定するわけでもありません。どちらかに是非や優劣があるということではなく、できれば両方の考えかたを自分のなかに混在できていると良いと思うのです。それこそアモルファスな星雲状態です。無意識の活用を考えた場合も、西洋流と日本流(あえて東洋流とは言いません)を混在させることによって化学反応を起こせると直感しています。ウィリアム・ダガン氏と内田樹氏の、異なった方法論ではあるが同じ方向性をもつ二論が、わずかここ数日のあいだに私の目の前に飛び込んできたことに、なにか偶然ではない、運命の流れのようなものを感じます。但し、単に混在させるだけでは駄目で、何事も深く、豊かに、徹底して掘り下げてゆかねば無意識がじたばたできない。ユング理論の「構え」について、オリジナル応用論の考察を更に深める。他方、大西克禮の「美学」を中心に、日本文化を深く掘り下げる。上記引用した内田樹氏の講演記録は以下のサイトで読みました。(超長文覚悟してください。特に前編の中盤あたりに着目し本記事を書きましたが、他にも読みどころが数か所ありました。)言葉の生成について

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  • 30Mar
    • 無意識を活用した医療

      古代の医療行為においては、無意識の活用が積極的に行われていた。科学医療に慣れた現代人はこれをオカルトと呼び蔑視する傾向が顕著だけれども、そのオカルトが治療成果をあげてきたのも歴史的事実である。アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史』では、古代の呪術によって医療行為が行われ、しかも呪術者自身も患者を欺いていることを知りながら、無意識を利用することによって治療の成果をあげていた歴史が記されている。上・下巻合わせて千ページを超えるこの大著(しかも全頁二段組)の第一章、「力動精神療法の遠祖」は次の文章から始まる。 無意識心性と心的力動の体系的研究は無論かなり新しい事柄に属するが、力動精神療法の起源は、その祖先やそのまた祖先がつくる長い一本の線を辿って遠い過去まで遡ることができる。過去の医学、哲学の教説と旧式の治療法には、すでに一部、人間心性の世界における、普通ごく最近の発見と思われている事柄に、驚く程水準の高い洞察があった。 精神科医は長い間、未開民族の呪医やシャーマンの行う治療の報告にはほとんど目もくれていなかった。そういう報告は、いわば奇談のたぐいで歴史学や人類学者だけが興味をもつものとされていた。呪医とは、迷信の虜になっている無知蒙昧きわまる連中で、放置しても治癒すること受け合いの患者だけを治せる輩か、さもなくば同族人のお人好しにつけ込む詐欺漢とみられていた。 われわれが今日下す評価はこれと違って、もっと積極的な面を認めた評価である。近代精神療法の発展とともに、心理的治癒の機転の謎が注目を浴びるようになり、心理的治癒の具体的詳細は今日のわれわれにもまだ首をかしげるばかりのものが多いことが判ってきた。 (弘文堂 アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見/力動精神医学発達史・上巻』p1)古代の人々にとって病気は不思議な事象であり、因果関係には様々な想像がなされた。悪霊の侵入、霊魂の行方不明、タブーを破ったなどの理由がまことしやかに語られ、対処として儀式や告解が行われた。その理由の中で大きな位置を占めたのが「病気という物体が体に侵入した」というものだった。患者を横にさせて長時間におよぶ儀式を行い、呪医やシャーマンは患者の体から病気を取り出すのである。それは虫であったりミミズであったりしたが、医療行為をする呪医の長があらかじめ仕込んであったものだ。 疾病物体の摘出は、呪医が一種のトリックを使ってみせかけるのは間違いなく、この種の治療の実際を目撃したヨーロッパ人の一部が、呪医とはインチキ医者、詐欺師だと公言していたのも成程と思う。しかし、この種の治療がしばしば成功するのも事実でまず疑えない。(同書 p9)現代でも未開民族のあいだではこうした医療行為が行われている。同書では、実際に先進国の科学者や精神医学者が興味を持ち、多数の例を挙げていて、日本の迷信の例も書かれている。動物憑依の「狐憑き」を日蓮宗の祈祷僧侶が女性に憑いた狐を追い払った事例。現代であれば二重人格の精神分裂症と診断されるかもしれないが、僧侶の腹話術と喝によって完全に治癒してしまうのだ。ここでのテーマは、医療行為にあたる人や医療方法のうさんくささをどうこう言う話ではない。患者のなかで何が起こっているのか、これである。「病気とは罪に対する罰である」との考えに基づき、自らの過ちや非を告白(告解)することで病気が治癒してゆく例も枚挙にいとまがないということだ。科学医療に慣れた現代日本人にとっては、にわかに信じられないことばかりではあるけれど、子どもの頃に風邪をひいて町の医院へ行き、注射をうってもらい薬を処方されなぜかすぐに治ってしまったのはなぜだろう。昔の頓服薬を思い出すと紙に包装された中に入っていた粉のほとんどは片栗粉みたいなもので、苦みがあるため砂糖を混ぜて水で飲んだ。今思えば、もしかして砂糖のほうに効用があったのかもと考えてしまうほどだが、やはり、暗示の力を認めざるを得ない。同書では、こうした患者の無意識を活用した未開人の医療行為について、その特徴が並べられている。 (1)未開社会の治療者は属する地域社会で現代の医者よりも枢要な役割を果たしている。(略) (2)疾患の猛威下にある時、特に重症や危険な病いの際には、患者は、薬など治療者の使う治療法よりも治療者“その人”に希望をつなぎ信頼を寄せる。どうやら治療者の人格が治療の主役らしい。(略) (3)原子治療者はきわめて熟練した技量と高度の知識を持っており、(略)、”高度の学位を持つ人間”である。大抵の原始治療者はやはり原始治療者による訓練を受けて育成され、秘儀的な知識と伝統を継承してゆく集団の一員となる。(略) (4)(略)、治療者の最重要な治療法は心理的性質のものである。(略) (5)原始治療の実際は大体集団で行われるものである。普通、患者は自分ひとりでは治療に行かない。親戚縁者が連れて行き、その連中も治療に立ち会う。(略) (同書 p41-42 )患者は、治療者の人格を信頼し、安心を得る。治療者の公けの権威を信用し、未来の希望に期待する。儀式(セレモニー)が行われ、治療をポジティブに受ける心の構えが変わる。人間の、「信じる力」はあきらかに身体にも精神にも作用する。これを悪用して信者を悪意に洗脳したり、悪徳商法を行ったりする悪者が世にはびこっているのも事実。しかし、善い方向へ暗示をかけ、結果として善い成果が生まれるのであれば、嘘つきだとか詐欺師だとか咎められるだろうか。無意識の活用は、未開人で終わったのではなく、まさに今、始まったばかりだと私は考えています。今日の記事の最後に。少し逸れるかもしれませんが。その人が何も話さなくても、自分を見ていてくれなくても、ただ、存在しているだけで自分が安心できる、あるいは勇気を奮い立たせてくれる、そういう人物が世の中にはけっこういるのではなかろうか。もっと言えば、想像力をはたらかせて、既に世に無い人であっても、今の自分を見守ってくれている、励ましてくれている、そうした故人もいるのではなかろうか。更にもっと言えば、これは私の体験ですが、一緒に長年暮らし可愛がっていて死別した猫との対話では、心の痛みと懺悔とともに感謝の心が生まれ、慰撫の潤いを感じられるのです。それは、けっしてネガティブなことではなく、素晴らしい体験だと思うのです。

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  • 26Mar
    • 無意識を動かす、機会としてのセレモニー

      内向と外向について考察してみようかと思った今回ですが、気づいたことがあるので先にこちらを。といっても例によって閃きの段階なのですが。まずユングの分析心理学のロジックを方程式的にまとめる。〇統合人格(パーソナリティ)=意識+無意識〇人格の機能→心の構え=意識の構え+無意識の構え※容量およびエネルギーのイメージ。私としては、意識1:無意識1000、をとりあえずイメージする。おそらくこれ以上に無意識は膨大だ。科学で解ること:科学で解らないことも同様だと思われる。〇意識の構え→ペルソナ※内省的に自覚しようと思えば自覚できる〇無意識の構え→アニマ(またはアニムス)※無自覚であり自覚できない〇統合人格の構えーペルソナを生成する構え=アニマを生成する構え〇ペルソナ変更→(影響)→アニマ変更→(影響)→統合人格変更〇アニマ変更→(影響)→統合人格変更→(影響)→ペルソナ変更〇統合人格の変更→機能の変更→意識の構えの変更→ペルソナの変更〇統合人格の変更→機能の変更→無意識の構えの変更→アニマの変更(※参考)最終的にユングはペルソナとアニマの統合を提唱する。しかし自分自身を実験台にしたがこれはうまくいかなかったようだ。成果について述べていない。私はユングのペルソナ+アニマの統合論を支持しない。意識できるのはペルソナだけである。論理的には、優先機能の変更を行うことが可能であれば、構えを変更することでペルソナを変更できる。統合人格を変更できる。(前の記事)さてここで、逆に、ペルソナを変更すれば意識の構えも無意識の構えも変更できることに気づく。しかしペルソナは構えの変更なしに変更できない。西洋的手法であれば頭(理性)で考えて変更を試みるのだろう。例えば瞑想をする際に(アメリカではメディテーションが流行りらしい)「雑念を振り払おうとする」のであるが、これはできない。やはり西洋流では意識的に心の機能を変更するロジックでやるほかない。ところが日本流であれば体の型を整えることで「雑念は勝手になくなる」となる。雑念がなくならないのは体の型が悪いとなって、禅寺の座禅では警策で打たれるのだ。何を言いたいのかを直截にいえば、日本の礼儀作法はそれ自体に本質的意味はなく、礼儀作法の型に体を整えることを一種のセレモニー(機会的意義としての儀式)として無意識の構えを直接的に動かし、ごく自然に、無意識のほうを変更しているのではないかという推論的仮説である。なにしろ無意識には世界創生からの歴史が遺伝に組み込まれており、この地に生を受けてから今までの情報と智恵と反応等が、頭脳と肉体に蓄積されているのだ。今この一瞬に二つのことさえ同時に頭に思い浮かべることのできない意識の小ささと比較すれば、無意識のほうが圧倒的に膨大な領域を占め、巨大なエネルギーを蓄えている。この重要性は現代ならば知性として理解できるが、古代日本人の知性では理解できず、非合理の直感として大切に扱ってきたのではないのだろうか。例えば日の丸の国旗が掲揚されるのを見るとき、そこで愛国心(意識)へ振れるのではなく、機会として無意識の構えが発動されるほうの意義である。すると意識の構えも変わり聖たる厳粛な気持ちとなって(おそらく)自分の顔の表情も変わってくる。スポーツで重要な試合のとき「集中!」はよく言われる。野球であればボールに集中する。これはけっして間違いではない。が、精神の集中を意識すればするほど体は固くなる。体をリラックスさせつつ精神を集中させることは意識的にできない。ゾーン状態に入るのは、集中とは真逆の意識の放散である。無意識にすべて任せる。左脳を遮断する。イチロー選手が打席に入ると、皆が知っての通り、ピッチャーが構えに入る前にルーティンのセレモニーを行う。それも一球一球必ずだ。彼は集中力を高めているのだろうか。そうではなく逆に放散し、体が覚えている反射・反応にすべてを委ねる無意識の構えを意図的に造りだしていると私は考えている。あのルーティンセレモニーを「機」として。本記事に関連すると思われるプラシーボ効果という、社会心理学で確立された現象がある。あくまで「現象としてある」が定説になっているだけで、科学的に原理が解明されたわけではない。手がかりすらつかめていない。次の記事ではアンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』から、現代でプラシーボ効果と呼ばれている現象を、西暦以前から意図的に活用してきた歴史を少し振り返ってみたい。無意識の構えを「セレモニーによって造る」ヒントになるかもしれない。いずれにしてもセレモニーをルーティン化して無意識に染み込ませなければ、たった一回初めてのセレモニーでどうこうなるわけではないだろう。セレモニーの、意味ではなく機会としての意義を見直してみる。これは今後の大きなテーマですが、意識的な「自然体」をはるかに超えた、無意識的な「超自然体」へ近づくには、西洋の合理的論理的思考だけでは不可能だと思います。日本の非合理的直観の歴史に糸口を見いだせるような気がしてなりません。わくわくしてきます。

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  • 25Mar
    • 無意識の応用と個人的実用化

      私が無意識(深層心理学/分析心理学)を研究しているのは何かの目的があってのことではありません。好奇心だけかと言えばそういうわけでもない。動機としては、「何かがある、閃きに繋がるものがきっとある」や「自分の中にある何かの考えとマッチングして新しい何かを創造できそう」という直感的なものがある程度です。しかし結果的に仕事の役に立っているのはほぼ間違いない。自分の外側に展開される世界、対人的鑑識眼であるとかビジネスモデルの構築であるとか。本記事では「自分を変える」ことに役立つ無意識論の応用とその実用化について考察する。ユングは「心の構え」が「ペルソナ」をつくり、その「ペルソナ」がまた、自分の人格へと影響を与え、人格を変えていくと述べている。では、その「心の構え」はどういうメカニズムで出来るかと言えば、個人固有の「心の機能」によるとした。心の機能とは、思考・感情・感覚・直観の4タイプ。これに内向性と外向性を組み合わせて8タイプの性格傾向について論じている。ここに合理性・硬直性と非合理性・柔軟性の2傾向を組み合わせた16タイプの性格自己診断がネットにごろごろ出回っている。私を例にとろう。ネット上にあるユング系の16タイプではどのテストをやってもENTP型になる。ネット上の手垢のついた解説よりも、『タイプ論』からユング自身の説明を引いてみよう。他にも私と同じ外向的直観型の人もいるかもしれない。 外向的直観型 直観型の人が向かうのは、皆に認められるような現実価値を見つけられる方角ではけっしてなく、つねに、可能性が存在する方角である。彼はこれから芽を出すものや将来の見込みのあるものに対して優れた嗅覚をもっている。彼は、昔から存在し基盤もしっかりしており皆に認められて安定しているが、しかし限られた価値しかもっていない事柄には目もくれない。彼はつねに新しい可能性を追い求めているため、安定した状況の中では息がつまりそうに思える。彼はたしかに新しい対象や方法を手に入れるときは懸命に、時には異常なほど熱狂するが、いったんその広がりが確定してもはやそれ以上の著しい発展が望まれないとなると、たちまち愛着をなくし、見たこともないようなそぶりで冷たく見捨ててしまう。 (中略) 直観型の人の道徳性は知的でもなく感情的でもない彼自身の道徳、すなわち自らの直覚を信頼しその力に進んで身を委ねることである。周りの幸福に気を配ることなどほとんどない。周囲の身体的幸福感など自分自身のものと同様に論ずるに値しない。同様に周囲の信念や生活習慣を顧みることもほとんどなく、そのためしばしば彼は非道徳で思いやりのない怖いもの知らずの人間とみなされる。 (中略) しかし彼はどうしても新しい可能性を追うのに急なあまり、今植えたばかりの畑を見捨ててしまい、その収穫は他人の手に渡ってしまう。結局のところ彼の手元には何も残らないのである。 (みすず書房 C.G.ユング著 『タイプ論』p396-398)まだまだたっぷりの量の解説があるけれど、ほとんどと言ってよいほど的確に私の傾向を言いあてている。自分のことを酷い奴、愚かな奴だなあとも思う。また、自他の境界があまりにも明確になり過ぎているきらいがある。でもちゃんと周囲に「私は冷たい人間です」と告知義務を果たしている(苦笑) 情熱的で熱い男ではあるけれど冷たいんだよね。こうして自分の特質や傾向を内省的に見つめ直し、社会的に、何が自分に向いているのか向いていないのかを客観的に知ることができる。しかしこのままで終わってしまうと自分は何も変わらない。傾向がどんどんエスカレートしていくかもしれない。要するに、「構え」なのである。私の場合で言えばENTP型の構えが中心となって主たるペルソナが造られている。であれば、時と場合によって意図的に「構え」を変更し、ペルソナを変えてゆくことも可能ではないのか。新しいペルソナができることで、それが自分の人格に作用し、自分を変えてゆくことに繋がるのではないか。ある場面では内向思考型の構えをつくる。今こうして論考を書いている際には、いくぶん外向思考型タイプの構えが発揮されてペルソナが造られているのではないかと思うし、哲学書や倫理学の書を読んでいるときには本を鏡の役割として内向性の方にエネルギーが向けられているのだとも思う。対人関係で実験として、普段の外向性を封印し内向性の構えをとれば、それに伴って別のペルソナが登場するはずだ。「芝居」をすることになる。知人では難しいし良心も痛むので、ビジネス上で新しく知り合う人などに対して試みる価値がありそうだ。どちらにしてもビジネス用の「仮面」では、直観の対極となる感覚(リアリズム)を使っていることが多いので、内向性感覚タイプや内向性思考タイプならば問題なく新しい構えを造れそうではある。となると、内向性とはどんな感じなのか、感覚優先、感情優先、思考優先はどういう構えなのかについて理解を深め、どういう場面でどの構えが有利に働くのかを事前に考えておく必要がある。ユングの分析心理学の理論は、自分を知って自分の傾向を生かすことよりも、上述の方向性で実用化したほうが可能性に満ちていておもしろい。と考えるのも外向的直観優先タイプだからなのでしょうね。畑に苗を植えたので皆さん収穫してください。(苦笑)

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  • 24Mar
    • リテラシー

      リテラシーということが良く言われるようになったのはこの15年くらいでしょうか。インターネット情報はますますフェイクニュースに溢れているらしい昨今ですが、疑った方が良いこと、疑わなくて良いこと、疑っても疑わなくてもどっちでも良いこと、などの判断ができることが、リテラシーの前提になっています。あまりに何もかもを疑ってばかりいると人間不信になったりして自分の心が壊れてしまう、こともあるかもしれない。なので、ほどほどにリテラシーは発揮しなくてはならないわけですが。リテラシーを発揮するひとつに、情報の「マッチポンプ」を疑うことというのがあります。マッチポンプを仕掛けてくる人は、ある程度の知能の高さをもっていますよね。当然ですが。宗教なんかでは特に、雰囲気をつくられた中で、「人生とは苦の連続である」なんて言われてしまうとそのとおりかもなんて思ってしまう。「人間には原罪があるのだ」もそうなのですが、仏教を信じなければ苦を克服できないだとか、キリスト教を信じなければ地獄に落ちるだとか、まあ、宗教の宗派にもいろいろあるのでその辺はよろしくということで。お医者さんなんかでも昔はいろいろいらっしゃったみたいで。ま、人間の場合はリテラシーを発揮するんだぞおい!ってことで自覚できるのですね。ところが動物の場合は、お話することができないので、飼い主に促されるままってことになっちゃうわけですが。「マッチポンプ 獣医」とかで検索すると少し情報が出て来たりします。特にわんちゃんね。利益をあげなければスタッフも雇えないし家賃も払えないしで獣医さんも商売できないし気持ちはわからんこともない。でもねえ、わんこにゃんこ調子悪くなって獣医さんへ連れてくほどの状況って、飼い主としては頭の中真っ白けっけなんですよね。私もそうだったんですよね、真っ白けっけで獣医さま神さまお願いしますってなる。そ、もうお医者さま=神なわけ。自分ではどうにもできないわけで藁をもつかむ心境ですよ。そんな状況で自分のことをメタ認知なんてできないしリテラシーなんかすっ飛んじゃってる。でもわんこにゃんこはしゃべれない。獣医さんと飼い主の立場って獣医さん自身が一番よくわかってるわけで、藁をもつかむ心境も。慣れていらっしゃるから。だから・・・いや、でもほとんどの獣医さんはマッチポンプなんてしてないと思いますよ。きっとみんな動物思いのお医者さんなのでしょう。だから信頼するのが一番なのですよね。でも、ちょっとだけ、ほんのちょっぴりだけ、リテラシーを心に留めておくのがわんちゃんにゃんちゃんのためかなあとは思います。いえ、今度またにゃんこと一緒に共同生活をするときのための心構えなんですけどね。私自身も、医者が言うことよりも自分の体のほうを信頼してます。ていうか、自分の体が本体で、こうして考えたりテキスト書いたりしてるのは本体が頭に命令してそうさせているんでしょうから、体を自分の付属品のように軽視しちゃって「病いと闘うぞ」なーんて意識しちゃう人は大抵早くお亡くなりになってますね。病いって体がそうなってるわけで、例えばがんとか。精神が体と闘ってどうすんの?ってことでしょ。がん細胞だって自分なんだから。 もしウィルスなどであれば闘うのは精神じゃなくて体なんですけどー(苦笑)とまあ、余計な話でした。体の動きが元気ならばぜんぜん大丈夫ですね!

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  • 20Mar
    • ユング・フロイトの無意識理論の根はニーチェのこの文章

      今回の記事ではニーチェの言説から無意識を捉える。フロイトもユングも、ニーチェの『ツァラトゥストラ』からヒントを得て、深層心理学の無意識にかんする理論を組み立てたことは既に明らかになっている。ユングはそれを公言して憚らなかったし、フロイトは最初は認めなかったが晩年にしぶしぶながら認めていた。では行こう。ニーチェは楽しい。 そうだ。この自我、自我の矛盾と混乱こそが、最も誠実に自らの存在を語っている。事物の尺度であり価値たる自我、創造し意欲し価値づけるこの自我こそが。 Ja, diess Ich und des Ich’s Widerspruch und Wirrsal redet noch am redlichsten von seinem Sein, dieses schaffende, wollende, werthende Ich, welches das Maass und der Werth der Dinge ist.上記の引用にドイツ語原文を引用したのは、[ Ich ] という言葉が「自我」と邦訳されている点に留意したいため。英訳書では [ ego ]と訳されているので自我で良いのだろうと思う。[ Ich ] は一人称の「私」としてもドイツ語で使用される。以下の言説では、ドイツ語原文の [ Ich ] が「われ」に邦訳され、 [ Selbst ] が「おのれ」に邦訳されている。[ Selbst ] は英訳書では [ Self ] となっており一般的な邦訳では「自己」になる。ニーチェの無意識論では自我は自己に内包されない二元となっている点にも留意が必要。ユングは自我は自己に内包されるとした。「われ」を意識下の自我、「おのれ」を意識の背後に広がる(肉体を含めた)無意識と考えてよい。 「われ」と、君は語り、この言葉を誇りとしている。だが、君が信じたくないと思っているもの――君の肉体とその偉大な理性の方が、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口で〈われ〉とは言わないが、無言で〈われ〉を実行する。 (略) 感覚と精神など、実は道具であり、玩具なのだ。これらの背後に、さらに本来の〈おのれ〉がある。この〈おのれ〉が、五感という目を使って探り、精神という耳を使って聞いている。 〈おのれ〉は絶えず聞き、かつ探る。比較し、強制し、征服し、破壊する。〈おのれ〉は支配する。それはまた、〈われ〉の支配者でもあるのだ。 わが兄弟よ、君の思考と感情の背後に、ひとりの強大な命令者、知られざる賢者がいる――その名を称して〈おのれ〉と言う。君の肉体が彼なのだ。 君の肉体には、君の最善の知恵に宿るよりも多くの理性が宿っている。何のために、君の肉体が外ならぬ君の最善の知恵を必要とするかは、誰が知ろう。 (略) 〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで苦痛を感じよ!」と。すると〈われ〉は苦に耐えて、どうすれば苦の種がなくなるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。 〈おのれ〉は〈われ〉に向かって言う。「ここで喜びを感じよ!」と。すると〈われ〉は喜びを知り、どうすればさらにしばしば喜びが生まれるのかを考える。――まさにそのために、〈われ〉は考えなければならないのだ。 (略) 創造する〈おのれ〉が、尊敬と軽蔑、喜びと嘆きを創り出したのだ。創造する肉体が、自らの意志の手として、精神を創りだしたのだ。 (白水社版 『ツァラトゥストラはこう語った』p48-53)19世紀のヨーロッパでは精神に重い価値を置いた世相があった。ニーチェはそれに抗して「肉体の軽蔑者たち」という章タイトルを付けて上記のように語った。「苦痛を感じよ!」の苦痛はもちろん肉体だけのことではない。精神的に打撃をうけ、悲しみ沈みこむ精神の苦痛のことも述べている。肉体の軽蔑者たちに向かって、この章の最後には次のように語る。 君たちの〈おのれ〉は没落を欲している。それゆえ、君たちは肉体の軽蔑者になったのだ! 君たちが、最早自分を乗り超えて、創造し得ないものだから。 またそれゆえに、君たちは今や人生と大地に怒りを向ける。君たちの軽蔑に満ちた流し目には、意識されざる嫉(そね)みがある。 わたしは、君たちの道は行かない。君たち、肉体の軽蔑者らよ! わたしにとって、君たちは超人に到る橋ではない! (上記同書同ページ)初めてこの章を読む時には、〈われ〉と〈おのれ〉に混乱するかもしれない。しかしそれぞれに意識と無意識を当てはめれば完全にすっきりする。意識(自我)とは、広大な宇宙に拡がる無意識(自己)の海に浮かぶ一隻のボートに過ぎず、そのボートは海から生まれ、海に支配され、海に命令され海に従うのである。よって超人に到る秘訣は海(無意識)にある、と解すことができる。ユングの分析心理学の構造とほぼ同じであるが、支配するスタイルは異なる。フロイトは〈おのれ〉に当たる無意識をエス(別名イド)と名づけ、意識と無意識にまたがる「超自我」という概念を創った。なお、前の記事でも述べたとおり、自我については改めて考える。哲学思想的に「自我」はヨーロッパでも幾つか若干異なる概念として定義づけられているし、インドの「自我(サンスクリット語でアートマン)」はヨーロッパのそれとは全く異なる概念になる。また、仏教には自我はなく無我になる。自己という言葉の定義にしても複数の説がある。自分にとっての「自我」とは何かを考えるのは有意義ではあるけれど、言語的に「正しい自我」とは何かを考えるのは「真の保守」を考えるのと同じでまったくナンセンス。著者によって、あるいは文脈によって多様な語義語感があって当然だ。ヨーロッパの自我とインドの自我の違いを研究するのも良いかもしれない。「この文脈で使用している自我という言葉はこれこれこういう定義で使用してますよ」と、ユングは丁寧に自分の定義を解説している。理系の科学者ならではの正確を期す手法だ。他方、ほぼすべての哲学者は自分の言語の定義を説明せずに書き綴っているので(しかもオリジナルの造語まで濫用して)、読者にとっては難解さの要因となるし、著者の意図から外れた誤読のオンパレードとなる。それはそれで有意義ではありますが。

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  • 18Mar
    • 無意識による人格形成

      今日は結論を先に書きますが「人格は無意識内で形成される」というのが本稿での主な主張です。前の記事までに「構え」と「ペルソナ」の重要性について考えた。ここでは、人の心における、構えとペルソナの根源について分析し、構成し直してみたい。1.主体の資質(1)価値観の生成主体(人の心)の資質を大きく大別すると、心理学者のほぼ一致した見解として、生得的なもの(遺伝的なもの)と習得的なもの(生後の体験によって得たもの)に分けられる。次に習得的なものを分解する。身体的体験、感情的体験、知性的体験、感性的体験の四つの根源に、私は分ける。もちろん複数の体験を同時に体験していることも日常茶飯事だ。一つ一つの詳細については長くなるのでここでは省く。私たちはこれらの体験に価値を付与する。人は常に、相当な量の価値付けと価値の塗り替えを行っている。無自覚に。ではこの価値付与と価値変容のメカニズムはどうなっているのだろう。私は、(2)の最終部分で述べる「構え」がメカニズムの主軸になっていると考える。(2)「理」「感」「質」の形成と変容さて、この四つの体験および付与された価値群のうち、一部の知性的なもの以外は、意識的に現実感覚することは不可能である。そうしてみるとほとんどの体験と価値は無意識の中に沈み、蓄積されていることがわかる。無意識内に蓄積された体験と価値は無意識内で化学反応を起こし、次の段階では、「理」「感」「質」の三要素へと変容すると私は考える。「理」とは、見識、智恵、論理展開力、計算力などの知性的能力の形成。「感」とは、情操、審美眼、空間把握力など感性と情感力、身体性の形成、「質」とは、例えば職人気質、親分肌、楽天的(悲観的)など性質的性格の形成である。生得的(遺伝的)資質も混合される。意識上では、”その情報” に対しての、”その場” でのインプットとアウトプット、および内省的考察しかできない。能力や性質は時間をかけた習慣性をもって習得され形成される。すべて無意識のなかで。私はこの「理」「感」「質」の傾向、および(3)の自我欲求(特に習慣的なペルソナ)、2.主体の状態、3.客体の状態、この統合によって「構え」が造られると考える。「構え」によって創造された「ペルソナ」が習慣的になれば、主体の資質に大きな影響を与え「構え」は循環的に変化する。(3)人格と自我「理」「感」「質」を統合した全体の個性を、われわれは人格と総称する。よって人格形成とは「理」「感」「質」の形成のことであり、人格形成はすべて無意識の中で行われるとなる。人格内からの自然欲求、および客体に対する内在的欲求が顕現される人格内の一部(ごく僅かな一部)のことを、自我と呼称する。自我はペルソナを直接的に創造する。ユングは自我をコンプレックスとほぼ同値であるとした。自我については稿をあらため後日考察する。2.主体の状態現実の主体の状態は刻一刻と変化する。身体的に不健康であったりおなかがすいていたり、何か気にかかることが重くのしかかっていたり、数日後にうきうきする予定が入っていたり、無意識が多くを支配するとき(例えば睡眠中)でも、主体の状態は変化している。現実の状態には、睡眠中の夢の中を含め、すべて「構え」がある。状態の変化によって、今の構えから即座に次の構えに変更しようとするはたらきが無自覚に生じている。主体の状態は主体の資質から多くが造りだされるけれど、主体の資質は、主体の状態が続くこと、または強い状態の変化によってこちらも影響を受ける。「構え」によってアウトプットされたものは客体となって自分へ戻って来る。例えば声を荒げ怒った人が自分のアウトプットに自分が反応し、更に興奮して怒るというのはよくある光景だ。悲しみに暮れて涙をボロボロ流して声をあげて泣けば、自分への慰撫となって一時的に悲しみは収まってくる。次の新しい「構え」が自動的に造られている。3.客体の状態現実および未来に想定される外部環境、すなわち主体の外側にあるすべての客体においても状態は刻一刻と変化する。ここでいう客体とは、自然環境的なもの、社会環境的には対人的なものや大衆に渦巻く世論の空気など。主に五感で感覚的に捉える対象。客体の状態およびその変化は、常に、主体の状態と主体の資質に影響を与え続けている。■今日の論考は、前の記事までで学んだこと考えたことをまとめ、自分なりに仮説として組み立てたものです。人格形成についての論理は大海原のように膨大なものであって、私はそこへ漕ぎだした一隻のボートに過ぎず、自分の能力をはるかに超えた領域にたいする稚拙な仮説だということは自覚しています。内省はしても未熟さは気にせずに、よく学び、よく考え、稚拙な仮説をブラッシュアップしていこうと思います。無意識は可能性に満ちています。

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  • 17Mar
    • 無意識と意識の「構え」

      例えば剣道には上段の構えや正眼の構えがあるし、柔道や空手にも構えがある。ボクシングも構えがあり、格闘技に限らず陸上短距離走のクラウチングスタートも構えだ。「レディー・ゴー!(Ready Go!)」の Ready は「ようい、どん!」の「ようい」の構えであり、「構え」とはコトに及ぶ直前の準備を表す。上記の例は意識的かつ外形的ではあるが、内面の心も準備される。このとき、意識的に準備の心を作ることと、無自覚に無意識から湧きあがってくる準備の心とが混在している。わかりやすい無意識の構えとは(意識的にそうすることもあるが)、例えば日常社会生活上では、出勤時に会社の扉を開ける直前の心構え、重要な商談に臨むときの心構え、初対面の人と会うときの心構え、舞台に上がる前や試合前の心構え、帰宅し玄関へ入り扉を締めるときのホッとする心構え、リゾート地へ出かける前や到着直前の心構えなど、数え上げればキリがないほどだ。意識に重心が置かれる場合と無意識の構えが無自覚に現れてくる場合とがある。「構え」は「ペルソナ」に直結する。ヨーロッパではこの構えという概念を、19世紀後半から20世紀初頭のかけて、ミュラー、シューマン、キュルペ、エビングハウスらの心理学者の手によって確立した。日本における、特に武道の構えは、もしかするとヨーロッパよりもずいぶん早く確立され、心理学方向からのアプローチではなく、実践が先に立つ「形から入る手法」として現われているのではあるまいか。日本の心構えについては改めて研究してみる必要がある。ユングは上記心理学者らの研究を受けて、独自にこの概念を分析した。『タイプ論』から Einstellung (構え)についての特徴を幾つか抜き出してみる。一読するだけでは理解が難しいところがあると思うけれども。 われわれは構えを、一定方向に作用ないし反応しようとする心の準備態勢とみなす。 構えがなければ能動的な統覚(※)は不可能である。 関係ないものを排除する、選択や判断がなされる。 意識的と無意識的の二つの構えをもっている場合も非常に多い。 意識は無意識とは異なる内容をあらかじめ用意している。(構えの二重性) 構えとは一種の予期であり、予期はつねに選択したり方向を与える作用をなす。 意識内容は自らに対応した構えを作り出す。 この自動的な現象こそ、意識的な方向づけが一面的になる根本的な原因である。 もし心の中に意識的な構えを修正する自己制御的な補償機能が存在しなかったら、平衡がまったくとれなくなってしまうであろう。 素質・環境の影響・教育・人生経験全般・信念・に基づいて、ある内容的布置が習慣的に存在しており、それがつねにしばしば細部にまでわたって一定の構えを形成している。 感情が思考や感覚を呑み込んでしまうこともあるが、こうしたことはすべて構え次第なのである。 結局のところ構えは個人個人で異なる現象であり、科学的な観察方法にはなじまない。 しかし経験的には、いくつかの心的諸機能を区別できるかぎりは、いくつかの構えのタイプを区別できる。 ある機能が習慣的に優位を占めていると、それによって典型的な構えが生じる。 こうして思考・感情・感覚・直観それぞれに典型的な構えが生じる。 社会的なタイプも、すなわち集合的表象の特徴を表しているタイプもある。これらを特徴づけているのは、さまざまな主義である。いずれにしてもこうした集合的に決定された構えはきわめて重要であり、時には純粋に個人的な構えをはるかに超えた意味さえもつのである。 (みすず書房 C.G.ユング著 林道義訳『タイプ論』第十一章「定義」p455-458) ※統覚(Apperzeption)・・統覚とは、新しい内容が、すでに存在しているそれと似た諸内容の中に組み込まれることによって、理解されたもの・把握されたもの・明白なもの・と呼ばれるようになる心的過程である。統覚は能動的なものと受動的なものとに分けられる。(同書p445)統覚は認識への架け橋と言って良いのかもしれない。最後の「集合的表象の特徴」を補足しておくと、社会からの要請によって無自覚に付与される仮面(ペルソナ)、つまり知らず知らずのうちに社会に飼われている家畜のようになってしまう個性喪失状態がひとつ。もう一つは生得的に(先天的に)備えている、人類の普遍的な幾つかの「構え」であり、これは後に、ユングが『元型論』で述べるアーキタイプの端緒となっている。(アーキタイプ・・アニマ、老賢者、永遠の少年、グレートマザー、トリックスターなどの別人格)上記の「構え」にかんする記述には濃厚なエッセンスが凝縮されており、その一文一文の背景の深度は相当に深い。構えによってペルソナが生じ統覚する場合もあれば、社会からの要請によって先にペルソナが形成され、構えが後から生じ統覚する場合もある。あるいは受動的な統覚が先に発生し、あわてて構えが変更されペルソナが生じる場合も多々あるだろう。例えば急に道を尋ねられたりしたときに。われわれの日常生活でも、「構え」によって必要のない情報を排除し、必要のある情報にフォーカスしようと五感が自動調整される。上掲の写真が美しく自然に感じられるのは、われわれの視覚が焦点を絞ってピントを自動調整する習慣によって、(写真においても)背景を排除しようとしているからにほかならない。聴覚でも同様に、聞きたい人の声や音楽の音に焦点を絞り雑音を排除しようと自動調整される。まれに自動調整に障害があって感覚過敏の人もいる。「構え」の機能はそうした選択を可能にする。意識の構えと無意識の構えの二重構造において、どちらかが補償的役割を果たす場合は正常な現象であり、しかし両者が譲り合わず一つの決断をすることに支障をきたす場合、神経症になる恐れがあるとユングは述べている。また、「生が不快に満ちていることをとくに深く感じとっている人が、つねに不快なものばかりを予期する構えを持つのは当然」(同書p456)とも述べている。ここまでで解ったことは、「構え」がいかに生命活動とって重要であるかということ、自分が周囲の人たちに与える影響においても、「構え」が大いに関係しているということです。ユングは「構えは個人個人で異なる現象」と断りつつ、精神科医としての十数年にわたる現場経験と研究から、構えのタイプを区別できるとした。思考・感情・感覚・直観という分類の是非はともかく、それ以前の内向性・外向性への個人的傾向は、ユングが決定的に定義づける100年以上も前から心理学者たちによって研究され、定説が形成されてきた歴史がある。類型についてはまたあらためて考察することとします。次の記事では、構え・ペルソナ・統覚の三要素によって生じる人格の根源と認識の関連性について考えてみようと思います。

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  • 16Mar
    • 無意識の道しるべ

      人類は科学を発展させ宇宙の神秘を物理学によって解明しようと試み、その研究と実験は日進月歩で、月までの一般人往復旅行程度ならば今世紀中に達成されるだろう。他方、人間の心については解明の糸口さえもつかめていないのが現状だ。物理学や生物学、西洋医学は心の問題を「脳」の問題として扱う。しかし、それらの「科学」は非科学的現象、非合理的現象については手も足も出ない。物質としての人体はいずれ解明されると思うが、はたして私たちが心と認めているコレは物質的なものなのだろうか。どうも違うような気がする。そもそも物質から意識が発生するシステムも全く解っていないのだ。オーストラリアの哲学者・デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」として提唱したのが1994年。その後なんの進展もない。意識が解らないのだから無意識はもっと解らない。物質的には。そのことを解ったうえで、無意識と意識の関係性を考えて続けてみたい。このテーマにはおそらく、飽きることなく死ぬまで私の興味を捕えて放さないだろうと思う。無意識を探究し新しい理論を構築するためには、偉大な先賢たちが研究したロジックを参考に学ぶのが良いと思っている。道しるべとして、無意識の探究の歴史を綴った大著、アンリ・エレンベルガー『無意識の発見』は欠かせない。探究を進めるうえでもっとも信頼できるのは、カール・グスタフ・ユングの『タイプ論』だ。ユングと言えば『元型論』その他でオカルトイメージが付いていしまっているかもしれないが、私はこの『タイプ論』がユングの主著として相応しいと思っている。無意識を研究するための理論がしっかりしているのだ。ある意味、哲学書でもある。書名の『タイプ論』は『Psychologische Typen』を和訳したものでみすず書房出版。同時期に人文書院から『心理学的類型』のタイトルで出版されている。『タイプ論』のまえがき冒頭部分を引用してみよう。 本書は臨床心理学の分野における、ほぼ二十年にわたる研究の成果である。このアイディアは、一方では精神科および神経科における臨床やあらゆる階層の人々とのつき合いによって得られた無数の印象や経験から、他方では友人や反対者との私の個人的な討論から、そして最後に私自身の心理的特質の批判から、しだいに生まれてきたものである。ユングは机上の理論を語る書斎派心理学者を厳しく批判している。本書は和訳本として600ページを超える大著であるが、第一章から第九章までは研究について書かれており、第十章でユングオリジナルの類型が登場する。その中で私が最も無意識の道しるべとしたいのは第十一章の「定義」である。この章は凄い。ユングが心理学上で扱う言葉の語義を説明しているのだが、言語概念とはそのまま哲学なのだ。つまり、第十一章にユング理論のエッセンスがすべて詰まっていると言っても過言ではない。前の記事で扱ったペルソナにかんする内容もこの章から引用した。その他、一部参考にするのはアブラハム・マズローとチクセントミハイ。参考にする文献を広げ過ぎるのは避ける。狭く深くやる。じっくりと時間をかけて。

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  • 04Mar
    • 無意識とペルソナ

      以前のアメーバブログではペルソナ(仮面)について何度か書いたが、昨年年初にこのサイトを立ち上げてからは初めてになる。自分の無意識を探究するうえでペルソナからアプローチをかける手法は私にとって解りやすい。まずはペルソナについて復習しておこう。Persona とはラテン語で仮面や人格を表す。personal や personality の語源かどうかは調べていない。心理学にペルソナという概念を導入したのは C.G.ユングだ。 ある人をさまざまな状況において詳しく観察してみれば、彼の人格がある環境から別の環境へ移るさいに著しく変化し、しかもそのたびごとにはっきりと輪郭をもち、前のものとは明らかに異なる性格が現れてくることに気づくであろう。一定の環境は一定の構えを要求するのである。構えは一定の環境に適合するように長い間要求されたりくり返し要求されたりしていると、しだいに習慣化する。 (中略) 彼はその時々の構えと多少なりとも完全に同一化してしまい、そのため自らの真の性格について少なくとも他人を・しばしば自分自身さえも・欺いてしまうのである。つまり”仮面”をかぶるのであるが、彼はこの仮面が一方では自らの意図に沿い他方では環境の要求や意図に沿うものであり、しかも時に応じてこのどちらかの要素が優位に立つことを承知している。 この仮面・すなわち《この目的で》前面に出される構え・を私は”ペルソナ”と名づける。 (みすず書房 C.G.ユング著 林道義訳 『タイプ論』p497-498)ペルソナとは仮面である。真の自分自身ではなく造られた人格だ。環境から要求され、一方では戦術を用いて自らを主張しようとするが、やはり他者に対しては欺瞞の仮面であり自己に対しては無自覚な自己欺瞞の仮面なのだろう。おそらく意識して無意識から発芽するペルソナを認識できる人は稀であると思う。社会性において造りこんだペルソナが習慣化することで、自分ですらそれが真の自分の人格であるかのような錯覚に陥る。この点については後からまた触れる。環境からの要求や期待に沿おうとして多くの場合無自覚に、無意識の引き出しの中から「その場」でのペルソナを登場させる。上記文脈で使用されている「構え」とは、私たち日本人が日常的に使う心構えのようなものだと理解してください。詳細についてはまたあらためて。ただし、ペルソナはその性質上、外側に対する構えです。自分の内面へ向かう構えについては本格的に深淵を探索する無意識心理学になる。が、今回は立ち入らない。朝7時半、会社員の一日が始まる。自宅で朝食を済ませスーツに着替える。男性はネクタイを締め鏡を見て出で姿を整える。家族がいる人ならなおわかりやすい。玄関を一歩出て扉を締めれば家族コミュニティのペルソナから、出勤時のペルソナに切り替わる。哲学者の中島義道氏が指摘していたけれど、出勤途中、駅や電車のなかでも「怪しい人に見られないように、他人に危害を加えそうな人に見られないように」仮面をかぶる。会社の敷地に入れば会社員としてのペルソナに切り替わる。夕方会社を退社し同僚と軽く一杯やろうと居酒屋に入ればネクタイを緩め外す。一気に緊張感が解けリラックスし、会社の同僚と一緒でも半ばプライベートな感覚のペルソナに切り替わる。別の同僚と行けばまた少し違うペルソナになるのかもしれない。飲んで酔っ払えばまた違うペルソナが顔を出すのだろう。こうして自分のペルソナの切り替えを無自覚に行い、他者の造る別のペルソナを知ることで相互理解が深まる。善し悪しは別として。ここで最も重要な点は、自分が造るさまざまなペルソナが、自分の内面へ、無意識へと多大な影響を与えるということだ。最初は環境に適応しようと、周囲の要求と期待に応えようと造ったペルソナであるけれど、同一環境、同一集団との関係が継続することでペルソナが習慣化され、どんどん固定化してゆくのである。固まってゆくペルソナは無意識のなかの真の個性的人格と融合しだすかまたは閉じ込めようとする。同窓会を思い出してほしい。何十年も会っていない旧友と再会し、変わった互いの姿と人格をうかがい見、多少の警戒心を抱くが、会話し酒を飲んでいるうちに学校時代のペルソナをいつのまにか使いだすのである。親や親せきも同様だ。もちろん当時のペルソナを取り出さないこともできる。例えば今のプライベートのペルソナを使った話題や、当時とは大きく変化した価値観で会話をしたとしよう。おそらく旧友や親せきとは疎遠になる。この面からペルソナについて言えることは二つある。一つには、同じ環境、同じ集団との関係性が長く続けば、自分の性格や能力をよく理解してくれる人がいることで居心地はよくなるかもしれないが、自分のペルソナを変えることができず価値観は固定化する。ペルソナがいつしかその人になってしまう。先日亡くなられたフリーアナウンサーの有賀さつきさんが生前、結婚し離婚した相手のことを「家庭でも上司と部下の関係のままだった」と語っていたのが印象深い。よくあるケースだと思う。そうしてペルソナを変えられないジレンマがストレスとなって、インターネット上で別人格を装い2ちゃんねる等に書き込む人があとを絶たないのだろう。同情するつもりもないけれども。もう一つは、自分を大きく変えたいのなら、環境と、主に付き合う人をがらりとチェンジすることだろう。周囲から新しいペルソナを要求され、期待されることで、人は大きく成長することが可能になる。実は私もそうだった。このときに、以前よりも人格的に高い次元のペルソナを要求される環境や他者でなくてはならないのは言うまでもない。逆のぬるま湯ではどうしようもない。ペルソナは無意識の中の、自分では意識できない人格を成長させる、もしくは堕落させるということです。

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  • 20Feb
    • 19世紀初頭の「無意識」

      Twitterに少し書いたのですが、カール・グスタフ・カールス(1789-1869)の無意識についての考察が興味深く、フロストもユングも未だ生まれていない19世紀初頭の無意識について考えてみたいと思っています。どこまで踏み込めるかわかりませんが。 カール・グスタフ・カールス(1789-1869)・・・ドイツの内科医系医師であり画家。人間心理の鋭い観察眼をもち、無意識についての最初の体系的・理論的考察を試みた。カールスは心理学とは無意識から意識への魂の発展の学であるとし、また個人的無意識は人類全体の無意識と連なっていると考えた。 このようにカールスの見方はユングの無意識論に非常に近いものであり、ユングはいたるところで自分の先駆者として名前を挙げている。(『元型論』訳注より引用)代表的著書に『プシュケー』があるが、邦訳は未刊行。 カールスは無意識の諸特徴を次のようなものとしている。 1.無意識は ”プロメテウス的(前向き的)”側面と ”エピメテウス的(後ろ向き的)”側面とを所有しており、未来をも過去をも指向するが、現在のことには無知である。 2.無意識はたえざる運動と変化の中にある。意識的思考あるいは感情は、無意識となって初めてたえず修正され、たえず成熟する。 3.無意識は疲れを知らない。無意識は定期的休養の必要がない。逆にわれわれの意識的生活には休養と心の回復が必要である。それらは意識が無意識に沈潜することによって得られる。 4.無意識は根本的に健康で病むことを知らない。自然治癒力は無意識の働きの一つである。 5.無意識はそれ自身の必然的法則に従って作動し、自由を持たない。 6.無意識は独特の知恵を生まれながらに備えており、試行錯誤も学習行動も存在しない。 7.世界特に自分以外の人間とわれわれの関係はわざわざ意識しない限り、無意識を介する関係である。 カールスは対人関係を四型に分類した。 1.意識に発し意識に向かう関係。 2.意識に発し無意識に向かう関係。 3.無意識に発し意識に向かう関係。 4.無意識に発し無意識に向かう関係。 カールスは個人的無意識は、人類全体の無意識と連なっているという原理をはっきり述べている。 (アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』上巻p246)非常に示唆に富みとても興味深い。それぞれの項目について今後細かく検証していきたい。個人的無意識が人類全体の無意識と連なっているという仮説は、ユングの、集合的無意識、元型論、共時性(シンクロニシティ)の元になっている理論だ。ユングがカールスから大きな影響を受けていたことがわかる。なおユングは1875年生まれなので直接的接点はない。また、カールスが『プシュケー』を刊行する少し以前に、哲学者ショーペンハウアー(1788-1860)が『意志と表象としての世界』を刊行しており、ここで使われる「意志」とは、無意識の世界および世界そのものの原動力という性質を表す。つまりショーペンハウアーも、人類全体の無意識を含む全世界が一体化した意志をもっていると仮説を立てていたのだ。1869年にハルトマンが『無意識の哲学』を著す。1885年にニーチェが『ツァラトゥストラ』を著し、そこから本格的に無意識を科学者・精神医学者が研究を始める。フロイト、ユング、アードラーらが20世紀初頭に無意識を扱う心理学者・医学者として勇躍する。しかし、本当に面白いのは、フロイトやユングらが科学として無意識を扱おうとする前段階の、内科医カールス、哲学者ショーペンハウアーやハルトマン、ライル、ハインロート、イーデラー、ノイマンら精神医学者、フェヒナーやバッハオーフェンが次々と無意識に関する仮説を展開していった19世紀前半~1880年頃だろう。例えばフェヒナーは、「地球は一個の生物で、人間より高水準である」とし、人間は地球のために造られたという仮説を展開する。バッハオーフェンは母権制から父権制への移行をより高度の文明段階への進歩と考え、アマゾニズム(女性帝国主義)とディオニュソス崇拝を提唱した。しかしスイス・バーゼル大学での理解はほとんど得られなかったが、当時25歳いう若さでバーゼル大学の教授となったニーチェが老バッハオーフェンの、ディオニュソス文明vsアポロン文明という思想を継承したのだ。この辺りの無意識をめぐる哲学界、医学界の混沌と仮説の展開、そして巨人から巨人への継承が特に面白い。ユングも時期は少しずれるが(ニーチェが『ツァラトゥストラ』で有名になり狂人化した以降に入学)、バーゼル大学出身である。しかし、ユング亡きあと、無意識にかんしての研究とその成果にはほとんど進捗が見られない。だから今、大きな可能性を秘める「無意識」がおもしろい。

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  • 18Feb
    • 星の王子さま(5)―Secret World

      星の王子さま(4)―Solitude からのつづき。今回の星の王子さまシリーズは、この記事をもってラストとします。最後にとても大切なことに気づきました。星の王子さまが自分の星に帰っていったあと、こう書かれています。少し長文になりますが引用します。 こうして、いまではもちろん、もう六年が経った・・・・・・ぼくはこれまでこの話を、一度も語ったことがない。 (中略) いまでは、いくらか悲しみが和らいだ。つまり・・・・・・完全には、和らいでいない。けれども、王子さまが自分の惑星に帰ったということは、良く知っている。 (中略) ところが、ここでたいへんなことが発生した。ぼくが王子さまのために描いたあの口輪に、革バンドをつけるのを忘れてしまったのだ! 王子さまは、羊に口輪をつけることが絶対できなかったであろう。そこでぼくは思う。《王子さまの惑星では、何が起こったんだろうか。ひょっとして、あの羊が花を食べてしまったのではなかろうか・・・・・・》 またあるときは、こうも思う。《違うにきまってる! 王子さまは、毎晩、自分の花をガラスの覆いのなかに入れて、羊をよく見張っている・・・・・・》。すると、ぼくは嬉しくなる。そして、星という星が静かに笑う。 (中略) そこに、実に大きな神秘がある。王子さまを愛しているきみたちにとって、ぼくにとってと同じように、この宇宙では何一つ同じ状態ではなくなってしまう。もしかしてどこかわからないある場所で、ぼくたちの見知らぬ一匹の羊が、一輪の薔薇の花を食べてしまったかどうかによって・・・・・・ 空をよく見て欲しい。自問してみて欲しい。《あの羊は、花を食べてしまったのだろうか、それとも食べなかったのだろうか》と。そうすれば、どんなに一切が変化することか、わかるはず・・・・・・ それなのに、おとなは誰一人として、それがこんなにも大事なことだということが、絶対わからないだろう! (第三書房 小島俊明約 対訳フランス語で読もう 『星の王子さま』p175-179 )世界は解釈次第でまったく異なるものに変容を遂げる。何一つ変わらぬものはないし同じものもない。哲学的な結論に「ふむふむ。そうだよなあ」と納得して終わるのではなく…。六年間誰にも話さずにいた、というのは作者の立場です。それをこうして『星の王子さま』という作品にして発表した。王子さまが自分の惑星に帰って行った時の『絵』が挿入されているのですが、何もない世界に星だけがある。サンテグジュペリは、自分の手で創造した世界を永遠の星に放逐したのです。ここで極めて重要なことは、自分が創造したストーリーと世界を、誰にも話さずに内緒にして、六年間のあいだ秘密を守ったこと。自分だけの秘密のストーリー、秘密の世界であれば、口輪も描けるしストーリーを創りなおすことだってできる。けれど『星の王子さま』という作品にしてしまった後はそうはいかない。ストーリーと世界観は王子さまが惑星に帰ったところまで固定化されてしまったのだ。その後のストーリーは、もはや自分の手の中にあらず、多くの読者によって変容してしまう。秘密の自分だけのストーリー、秘密の自分だけの世界、これがどれほど大事なことか大人には絶対にわからない!と言っているように私には思える。というのも、子どもの頃、外の砂場や家のなかでブロックや積み木で遊んでいるとき、自分だけのストーリーがあって世界があった。だけど、それを大人が「これはなあに?」と説明を求めてきたことが何度かあって、私は説明した。しかしその瞬間にストーリーも世界も消え失せてしまったのだ。おとなになって仕事上で、いろいろと新しい斬新なアイデアを思いつく。そのアイデアに対する他人の評価が聞きたかったり、何かアドバイスがあるかもしれないと思って話す。一所懸命に自分のストーリーと世界観を話す。話しているときは夢中で、とてもいい気分なんです。たぶん目をきらきらさせていると思う。でも、話をし終わったら、ストーリーも世界観も色あせてしまい、その実現に対するモチベーションががくんと下がる。そうなんだ。これを私は何度も体験したのに、こんな重要なことに気づけなかった。まさに今日、気づいたのです。秘密性が極めて重要なのだ。心理学者、C.G.ユングの『元型論』に、童児をモチーフにした一つの「型」が提唱されている。「永遠の少年」と呼ばれることも多い。 童児モチーフの本質的な性質の一つは、その未来的性格である。童児は未来の可能性である。それゆえ、個人の心理に童児モチーフが現れるということは、たとえそれがはじめはうしろ向きの姿に見えようとも、一般的には未来の発展の先取りを意味している。人生とはまさに流れていくことであり、未来への流れであって、せきとめて逆流させることはできない。それゆえ、神話の救い手がそれほどしばしば童児神であることは、驚くに当たらない。それは、個々人の心の中で「童児」が未来の人格変容の準備ができていることを示す経験と、正確に一致している。童児は個性化過程において、意識的な人格要素と無意識的なそれとの総合から生まれる形姿の先ぶれである。それゆえそれは対立を結合するシンボルであり、調停者、救い手、すなわち全体性を作る者である。 (紀伊国屋書店 林道義訳 C.G.ユング著『元型論』p188)ユングが結論付けているように「全体性を作る者」とは世界観を作る者であり、ストーリーを創造する者と言えよう。童児には一般社会的通念などない。善悪価値も正悪価値もないし、相対化した優劣価値もない。損得勘定や打算、論理性、合理性、効率性などの、現代的価値観のすべてがない。その創造する世界には主人公さえいないのだ。中心がない。世界は万能であり無敵だ。この秘密の自分だけの世界、秘匿された世界とそのストーリー性は、男児の「永遠の少年」モチーフだけでなく、女児の「永遠の乙女」モチーフにもあるのではなかろうか。乙女ごころに閉ざされけっしてオープンにされない彼女だけのストーリーの世界というものが、あるような気がする。以上で『星の王子さま』シリーズを終了します。自分にとってとても有意義な考察でした。

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  • 09Jan
    • 星の王子さま(3)―Creativity

      星の王子さま(2)―Only One からのつづき。地球上の〈ぼく〉と星の王子さまは、飲み水を切らし砂漠の中の井戸を求めて歩き続ける。日が暮れて夜になってしまう。 「星たちは美しいね、見えない一輪の花のおかげで・・・」 「もちろん」とぼくは答えた。そして話すのを止めて、月光の下の砂の皺(しわ)を眺めた。 「砂漠は美しいね・・・」と王子さまはつけ加えた。 まさしくそれは本当だった。ぼくはずっと砂漠が好きだった。砂山の上に腰をおろす。何も見えない。何も聞こえない。それなのに、何かが、黙って光っている・・・ 「砂漠を美しているもの、それは砂漠がどこかに井戸を隠しているということだよ・・・」と王子さまが言った。 ぼくは、砂の放つあの神秘的な光の意味がふいにわかったので、びっくりした。小さいころ、ぼくは古い家に住んでいた。そして、言い伝えによると、ある宝物がその家に埋まっているということだった。もちろん、誰もそれを見つけることができなかったし、たぶんそれを探そうともしなかった。しかし、その宝物が家全体に魔法をかけていた。ぼくの家は、その核心部の奥に一つの秘密を隠していた・・・ 「そうなんだ。家でも星でも砂漠でも、その美しさを成り立たせているものは、見えないのさ!」とぼくは王子さまに言った。 「きみがぼくの狐と考え方が一致しているので、ぼくは嬉しいよ」と彼は言った。 (第三書房 対訳フランス語で読もう『星の王子さま』 p149 )王子さまの星の一輪の薔薇の花は、地球上の薔薇農園にあった五千本の薔薇と見た目は同じなのに王子さまにとっては価値が全く異なっていた。狐が「大切なものは目に見えない。本質は目に見えない。」と王子さまに教えてくれた。夜空の星々のなかに王子さまの星があるけれどどれかはわからない。その星に咲く一輪の薔薇への思い入れが、夜空に輝く星々を、宝石を散りばめたような美しい価値に高める。砂漠も同じで、どこかに井戸を隠しているという想像力をはたらかせなければ単なる不毛の地だ。彼ら二人はこの砂漠のどこかにきっと井戸があると信じたのだった。誰かにとって全く価値のないものが、他の誰かにとってはものすごく価値の高いものになるという体験を私たちは日常的に感覚できてはいるのものの、それは言葉や論理によって説明できるものでも解明できるものでもない。ここで何をどう捉えたら良いのだろう。第一段階として、愛着や思い入れのあるモノや他者との関係作りがある。第二段階として、そこから離れた時や見えない時の想像や洞察がある。第三段階として、想像によっておのずと生まれる心情の創造がある。第一段階の関係性の構築がなければ何も始まらない。第二段階の想像力、或いは空想力、洞察力が弱ければ第三段階の価値は高まらない。最も個人差が大きく難解なのは第三段階の心情の創造だ。この己れの心情の創造は意識して行っているものではないし、経験によるものとも言い切れない。現に星の王子さまのピュアな心情は経験によって得られたものではなさそうで、大人になるにしたがって消えてゆくようにも思える。いったいこの創造の正体とはなんだろう。わからない。今後の課題としたい。『星の王子さま』での大きなテーマとして今回は Creativity を考えてみました。関係性の創造、想像の創造、心情の創造、いずれも私たちは無意識のうちに行っていることだと思います。星の王子さま(4)―Solitude へつづく。

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  • 07Jan
    • 星の王子さま(2)―Only One

      星の王子さま(1)―Prologue からのつづき今日の記事では星の王子さまの核心にいきなり踏み込む。表題は『Only One』でなんとなく解る人はいるに違いない。しかしそのなんとなく解った人の期待を私はたぶん裏切る。本題に入る前に、書を味読する際には一つの視点から理解しようとする方法と、多数の観点(視点ではなく)を混在させながら感じる方法とがあることを確認しておく。『星の王子さま』での観点としては、地球に暮らす〈ぼく〉の観点、星の王子さまの観点、著者であるサンテグジュペリの主張にかんする観点、サンテグジュペリがなぜこう書いているかの心理学的観点、ほかの登場キャラクターの観点、作品全体の立体的観点、作品を覆う〈感じ〉の感性的観点、読者一般の成熟した成人の観点、読者である私の個人的観点、その個人的観点を観察するメタの観点。この辺りが代表的な観点だろう。どれもこれも大切で、この観点群をひとつひとつ分断し分析しながらというのも良いと思います。まずは、全ての観点をカオスとしてごちゃ混ぜにして読むのが私のスタイルです。「なぜ」や「意味」を考えるよりも直感で感じるものを大切にしたい。さて本題。本作では Only One のテーマがある。突然空から降りてきた王子さまは僕に羊の絵を描いてくれとせがむ。僕はいくつか絵を描くが王子さまは気に入らない。もう王子さまの相手なんかしていられないやと思って箱を描いてやった。「このなかに羊がいるんだよ」と。王子さまはそれで納得したのだ。羊を描いてほしいと言った王子さまは、その箱の中に、自分自身で羊のすがたを描いたのだ。王子さまのこころにイメージ化されている羊しか羊ではない。ここにOnly One の羊がある。王子さまは一輪の花と一緒に小さな星で暮らしていた。この一輪の花の機嫌をとることに王子さまは面倒になって、お別れをしてしまう。そして地球に来てみると自分の星に一輪しかなかった薔薇の花が五千本も植えられていた。それを見て王子さまは、一つしかないと思って大切にしていた一輪の花が普通の薔薇に過ぎなかったことに気づき、泣いてしまう。そうこうしているうちに狐と出会い、花との悩みについて相談する。王子さまは狐にこう語る。 「一輪の花があってね、・・・その花がぼくを飼いならした・・・」狐は王子さまにこう語る。 「頼むから・・・ぼくを飼いならしてよ!」 「ものごとは、飼いならして初めて知ることができるんだよ」ここで「飼いならす」という言葉に違和感をおぼえるが、この会話の前に、狐は次のように説明している。王子さまからの問いかけ 「『飼いならす』って、どういう意味なの」 Qu’est-ce que signifie “apprivoiser” ?に対して、狐はこう答える。 「それはみんなが忘れすぎていることだよ。それは『絆を創る・・・』って意味だよ」 C’est une chose trop oubliée, dit le renard. Ca signifie “créer des liens…”解説にはこうある。 「飼いならす」という通俗的な言葉に「絆を創る」という意味づけをしたのがサンテグジュペリ。apprivoiser というフランス語がここに「絆を創る」という意味を初めて獲得した。狐とのお別れが近づいたころ、王子さまは自分が飼いならした狐との絆に気づき、自分の星にある一輪の薔薇と五千本の薔薇との違いにも気づいた。狐はこう語った。 「心で見ないかぎり、ものごとはよく見えない。ものごとの本質は、眼では見えない。」 「きみの薔薇の花がそんなにも大事なものになったのは、きみがその薔薇の花のために時間を費やしてしまったからなんだよ」 「きみは、きみが飼いならしたものに対して、永久に責任があるんだ。きみは、きみの薔薇の花に責任があるんだよ・・・」やがて王子さまは毒蛇に噛まれることによって一輪の薔薇の花がある自分の星へ帰ってゆく。SMAPの『世界で一つだけの花』の作詞者が『星の王子さま』の物語を意識したかどうかはわかりませんが、一輪の薔薇の花は王子さまにとって Only One だと理解したのでした。SMAPの歌に感動し、自分はオンリーワンなんだと勇気と希望をもたれたかたも多いのではないかと思います。「ナンバーワンよりオンリーワン」のコピーライトはブームにもなった。思い入れのある生物や愛用品に愛着を感じる。人間でも赤の他人よりも身近かな人、親族に愛着を感じてはいるはずなのだが、空気のように当然そこにあるのでふだんはそれに気がつかない。しかも、面倒で鬱陶しくなってしまうことさえある。失ってはじめて気づく。そうしたことは誰もが経験し、本来はもっと大切にしなければいけない絆だったのにと内省したり後悔したり。私たちの周囲は Only One だらけで、自分自身もまた、誰かにとっての Only One なのです。ここまでは、ベタ論。星の王子さまの魅力とは、Only One に気づく前の彼にある。本質的には、Only One も相対価値なのだ。その意味ではナンバーワンと何も変わらない。五千本の薔薇と比較して一本の薔薇が Only One ということであって、相対価値の基準を自らの主観に置くか普遍性に置くかの違いがあるだけだ。王子さまは狐に理屈を教えてもらうまでは、一本の薔薇への相対評価など微塵も抱かずに絶対価値を置いた。相対価値としての Only One に彼は本心から納得したのだろうか。私にはそうは思えない。相対評価は人間社会の理屈でしかない。もちろん意味や価値の世界を知ることが人間社会で生きてゆくために重要であるという点は、大人の大部分が理解していることだろう。『永遠の少年・『星の王子さま』の深層』の著者であるフランツ女史は、最初の王子さまの登場場面では、サンテグジュペリの幼児性が現われたと分析している。幼児性は社会人にとって解決しなければならない「問題」であるとし、克服すべき欠点としてレッテルを貼った。王子さまが徐々に成熟してゆく過程を良いことと評価した。私は逆に、理屈を与えられたことで失った純粋性こそが「永遠の少年」というテーマの本質だと思っている。欠点ではなく生き生きとした個性。ゆえに物語の後半は、徐々にものわかりのよい星の王子さまに変わってゆくことにがっかりする。星の王子さまが失った純粋性の一面を私は失いたくないのだ。Only One という価値は今の私の中にはないし、今後も有り得ない。自分のことを特別だとも思わないし、逆に普通だとか一般的だとも思わない。他方、愛着のある何かに唯一の意味や理屈などを付けない。なぜなら愛着の対象は絶対的なものだから。 SMAPのあの歌詞は大人の理屈では「ああなんて素晴らしい詞なのだろう」となるのかもしれないが、「永遠の少年」の心にはまったく響かない。私だけかもしれませんが。サンテグジュペリが企図した主旨と私の論考は異なると思います。けれど、「飼いならす」という一方的な、しかも権力的な行動を「絆」という双方向のラインへ狐が誘導し、「本質」という大人の言語をもちいていることに、フランス人特有のアイロニー(皮肉)の可能性を私は捨てきれなかった。本記事後半では、地球上の「ぼく」の観点とも、一般的な星の王子さま評論とも、情緒的に成熟した観点とも異なる価値観で書きました。星の王子さま(3)―Creativity へつづく。

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  • 01Jan
    • 元旦にあたっての幸福論

      幸福であることが他人に対しても義務であることは、十分に言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、とは至言である。しかし、この褒美が正当なものであり当然なものであることは忘れられている。不幸や倦怠や絶望が、われわれすべての呼吸している空気のなかにあるからだ。そこでわれわれは瘴気(しょうき)に耐え、精力的な手本を示していわば共同生活を浄化する人々に対し、感謝と戦士の栄冠をささげる義務がある。それゆえに、愛のうちには幸福たらんとの誓い以上に奥深いものはなにもない。自分の愛する人たちの倦怠や悲しみや不幸以上に、克服しがたいものがあろうか。男も女も、そのすべてが絶えずこう考えるべきであろう。 つまり、幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、そしてもっとも寛大な捧げものである、と。 (白水社 アラン著作集2『幸福論』 p278)アランは感情は周囲へ伝染するものだと言います。憎悪の感情も幸福の感情も伝染するものであると。ゆえに、愛する人や周囲の人たちを幸福にしたいのならば、幸福を捧げたいのであれば、みずからが幸福になることは義務なのだと。幸福とは心が満たされることだという広義の意味では、『老子』の「足るを知る」がそうなのかもしれない。しかし足るを知ったところで自己満足の域を出るものではなく未来への希望とはならない。老子のこの言葉は戒めの金言です。幸福という名詞を「停止した状態」のごとく西洋風に使うよりも、私たち日本人は「幸せになる」や「幸せな気持ちになる」という心の動きを幸福という言葉の語感に感じとるのではないでしょうか。そこには必ず比較対象となる過去の自分のこころがあって、知らず知らずのうちに相対化して幸せの感情を創りだしているのです。アランの幸福論にそって言うのならば、私のこころは昨日よりも幸せでなければならない。いや、昨日よりも幸せであろうとする、その命運はみずからの主体性にあるのです。他の誰かが、社会が、白馬に乗った王子さまが突然現れて自分を幸せにしてくれるのではない。もし仮に偶然宝くじに当たったとしても、それはホンモノの幸せではない。元旦にあたって私がまず手に取ったのはアランの幸福論でした。多くの人が元旦には気分を一新し新年の誓いを立てたりする。今年はこうしようああしようと、自分の心のなかから湧き上がってくる志に前を向こうとする。ところが去年も同じではなかったかという疑惑が生じてきます。いったい去年の今日のあの志はどうしたのかと内省する。アランは幸福になることは義務であり、「礼儀」だとも言います。礼儀の優雅さはダンスのようなもので、一朝一夕にして礼儀を身に着けることはできない。習慣化してこそ礼儀を身に着けることができる。人が見ていない自分一人だけのときにこそ礼儀が試されると。日本伝統の「カタチ(形)・型・作法」を大切にする文化には、アランの幸福論に通底するものがあることに気づきます。優雅な型の習慣化が礼儀となり、みずからの心に美しさをはぐくみ、愛する人へのもっとも寛大な捧げものになる。昨年にはなかった「新しい型」を、今日より実践し習慣化していこうという新しい試みが、私のささやかな新年の決意であるとともに、みずからへの希望となりました。皆さまにおかれましては、本年が幸多き一年となりますように。平成三十年 元旦

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