おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

DANGO茶屋 (だんごぢゃや) http://www.dangodyaya.com

アニメーションクリエイター・一ノ瀬 輝とデザイナー・山高紀子のコンビによる映像製作集団です。
主に立体アニメーションの映画を製作しています。

他にグラフィックデザイン、実写ドラマ、演劇の脚本や演出などの活動も行っています。

活動拠点の佐賀では、自主制作の映像作家を集めた上映会なども企画・運営しています。


テーマ:

 

 そして、3つ目の「完成した脚本を検討するという習慣がない」は、前述の2つとも絡み合っていて、本来は、私に結論が出せるような、(出せたとしても、意味がある結論にはならないような)簡単な問題ではないのですが、考察中の「とりあえずの結論」として、書きたいと思います。

 

 まず、「脚本は、それだけで完結した完成作品である」という大前提と、「しかし、作品を作る上では部品の1つでしかない」という、矛盾した現実があります。

 脚本家が書き上げた脚本は変更するべきではないのだけれど、諸々の事情で変更せざるを得ない場合があるわけです。脚本に書かれていることが会場・時間等の都合で実現できないとか、演出家が脚本に納得できないとか、事情はいろいろだと思いますが、ともかく脚本家にとってはつらいことですし、時には脚本家と演出家の信頼関係にヒビが入ってしまうこともあるでしょう。

 演出家と脚本家が、密に連携しながら脚本を作れる体制でないなら、脚本を書いた者が演出して、その場の判断で書き直すのが良いだろうと思います。

 ところが、そうなると脚本・演出家は、公演の準備をしながら脚本の書き直しをすることになるので、とてつもなく忙しくなります。正直に言って、脚本をじっくり書き直すヒマはありません。

 さらに準備が進み、道具や照明が決まり始め、役者がセリフを覚え始めると、脚本を書き直すのは、多くの人間に負担をかける非人道的な行為になってしまいます。

「完成した脚本を検討するという習慣がない」と言うよりも、「完成した脚本を検討する余裕がない」と言うのが実際のところだと思います。公演の現実と戦いながら、脚本は書かれて行くのでしょう。

 

 現実の前に、いつも理想は無力なものですが、それでも一度、理想的なスケジュールを作ってみましょう。

 

①脚本・演出家が、脚本の第1稿を仕上げる。

②第1稿の内容に合わせて役者を集める。

 基礎練習、読み合わせや台本を持っての立稽古を行う。

③役者の能力の見極め、意見を聴き取る。

 読み合わせ・立稽古の結果も踏まえて、大幅な構成の変更も含めた第2稿を仕上げる。

④必ず、第2稿の仕上がり後に、会場の予約、スタッフの手配を行う。

⑤第2稿に合わせて、本格的な立稽古、音響・照明の計画づくり、道具の準備を始める。

⑥立稽古の結果を踏まえて、セリフなどの小さな変更を加えた第3稿を仕上げる。

⑦ひたすら練習

⑧公演当日を迎える。

 

 会場にもよりますが、ホールの予約は1年~半年前に開始されることが多いので、第2稿の仕上がり後に予約したとすると、脚本執筆から始めて公演まで1年半から2年程度の時間がかかることになります。

 ちょっと長すぎる気もしますが、「完成した脚本を検討するという習慣づくり」から始めるとしたら、このくらいの時間が必要なのかなと思います。

 脚本を検討するという作業は、そのくらい時間がかかる、重要な作業だと考えるからです。

 

 さて、ここまで、さらりと書いてきましたが、「書き直す」とか「構成を変更する」とは、具体的にどういう作業で、どのように重要なのでしょうか。

 誰でも知っている「桃太郎」の場合で、考えてみたいと思います。

 

 

(つづく)

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

 原因の2つ目、「そういう脚本の方が便利だから」は、もっと具体的で、ある意味、切実な事情が関係しています。

 

 「長い短編」は、人物紹介にかけられる時間がたっぷりあります。そのため、本来、端役でしかない役回りでも十分にセリフや見せ場が与えられ、結果的に端役が存在しなくなります。登場人物のほとんどを主役、脇役、敵役といった「主要人物」にすることができるので、出演する役者にとっては、主役じゃなくても「重要な役」を割り当てられるし、登場人物の全員が「演劇的な見せ場」に参加するだけの時間の余裕もあるので、役者全員がダンスや殺陣の経験を積むことができます。

 出演者にやさしい脚本なのですね。

 

 意地の悪い見方をすれば、

「ギャラも出ない、練習時間もかかる本公演に、端役で出てくれとは言えない。せめて、『脇役だけど重要な役で出番も多い』と言わないと、申し訳ない」

 という、事情・人情もあるのかもしれません。また、参加した全員を成長させたいという親心のようなものもあるかもしれません。

 

 役者の満足度は高く、全員で参加するダンスや殺陣にはチームスポーツ的な達成感もある・・・役者さんは、基本的にそういう見通しが立つ脚本を好みます。役者がいなければ公演は成立しませんから、「長い短編」は、公演を成立させるための必要悪とも言えます。

 ほんのちょっと、観客がガマンすることになりますが、作り手側にとって長編の骨格に従うメリットはないのです。むしろ、役者にとってはデメリットの方が多い。観客との関係づくりは、照明、音響、道具、役者の演技など、骨格以外のサービスで満たすこともできるはずです。

(実際に、これは意見の分かれるところのようです。『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督は「観客は結局、物語しか見ていない。細かな演出にこだわる前に脚本をしっかり作れ」と言っているし、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは「物語のパターンは出尽くしている。細やかな表現の積み重ねで面白さを出して行くしかない」と言っています)

 

 仮に「なんとなく脚本がおかしい」と感じたり、関係者からの指摘があったとしても、作り手側としては、とりあえず置いておく、放っておく方が無難です。準備の途中で脚本が変われば、それまでの準備・練習が水の泡になる可能性もあるのですから、

「それは脚本家の仕事だ。オレは知らん」

 ということでしょう。

 

 脚本(物語)がおかしいと感じた時に、観客の立場でできるのは、「アンケートにその旨を書いて、次回の公演には行かず、次々回のチラシで改善の兆しがあるか様子を見る」くらいしかありません。それでも、あまり効果はないでしょう。

 多少観客が減ったとしても、作り手側としては、それはそれで少ない観客へ向けて続けて行けば良いだけの話ですし、「主な観客層は友人・知人」という現実がある以上、ちょっとくらい脚本に難があっても、役者の頑張りを感じれば、見に行くものだと思います。

 

 脚本を診断し、改善案を出す「スクリプトドクター」という役割を付けるという方法もあるらしいのですが、私の知る限り、プロットや脚本などの文字情報で良し悪しを判断できる人は、地方演劇では「凄腕」のレベルです。しかも、それを脚本家と役者が納得するように伝えなければいけません。

 佐賀県在住で、凄腕で、説得力、コミュニケーション能力に優れていて、人格者で・・・適任がいたら教えてください。(私の脚本も診て欲しいです)

 

 私が、もっとも簡単で、効果がありそうだと感じているのは、物語の大枠を最初から「串だんご方式」にしてしまうという方法です。

 昔の子ども向け冒険アニメによくある形で、アニメ映画「わんぱく王子の大蛇退治」のように、主人公が次から次にいろいろな国を渡り歩いて、それぞれの国でテーマや表現、登場人物が変わって行くというものです。主人公という串を通して、物語がだんごのように連なって行くわけですね。長編の骨格が、自然にできあがります。

 また、だんごの数だけ「その場面における主要人物」が必要なので、多くの役者に重要な役を割り当てることができ、別のだんごでは端役をしてもらうこともできるでしょう。

 子ども向け作品に使われることが多い方式なので幼稚な印象もありますが、スペースオペラ「スターウォーズ」やサン・テグジュペリの「星の王子様」、空閑薫さんの「アルシュのイワカンというモノガタリ」「リバース」もこの方式の変奏曲だと思います。テーマや舞台設定の工夫次第で、いろいろに応用でき、単純だからこそ簡単には崩れない骨格の強さがあると思います。

 

 余談ですが、「映画 妖怪ウォッチ」シリーズの第2作「エンマ大王と5つの物語だニャン!」と、第3作「空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!」を見比べると、串だんご方式の効果がよくわかります。

 第2作は、長編映画なのに5本の短編集になっている究極の串だんご映画ですが、人間と妖怪の交流が串になり、一応ひとつなぎの長編になっています。第3作は、タイトルにもなっている「ダブル世界」の謎を追いかける物語で、面白ギャグを散りばめて引っ張っていますが、基本的に、設定の説明とドタバタアクションが続く「長い短編」です。大人なら途中で飽きてしまうかもしれません。

 「長編映画」という言葉のイメージから考えると、第3作が正統な作り方で、第2作はイロモノ的な作り方のはずなのですが、鑑賞後の「映画観たな~」という満足感は、第2作の方が高くなっています。(と、書いておきながらアレですが、第2作が『必見の超名作』だと言ってるわけではないです。あくまで『TVアニメ 妖怪ウォッチ』ありきの映画なので、興味ない人が見たら、どちらも意味不明だと思います)

 

 そして、3つ目の「完成した脚本を検討するという習慣がないから」は、前述の2つとも絡み合っていて、本来は、私に結論が出せるような、(出せたとしても、意味がある結論にはならないような)難しい問題なのですが、考察中の「とりあえずの結論」として、書きたいと思います。

 

 

(つづく)

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

 さて、ここまで来て「私はどんな基準を持っているのか、それはナゼなのか」を述べ尽くすことができました。

 やっと、ここから「なぜ、本公演が面白くないのか」という疑問に取り組むことができます。(まだ終わらないのです)

 

 私が本公演を見る時の一番の評価ポイントは「夢中になれるか」です。どんなにひどい脚本、演技だったとしても、上演の90~120分間を夢中で過ごすことができれば満足です。

 二番目の評価ポイントは、「長編の骨格を持っているか」で、最初の30分くらい見ていると、骨格の作りがわかってくるので、どうやら長編の骨格で書かれているとわかったら、安心して「これはどんな肝(テーマ)の作品なんだろう」と内容を味わい始めます。

 これは短編の骨格だな、と思ったら、物語そのものを楽しむのはあきらめて、音楽や照明の良し悪し、役者の頑張りを楽しむようにします。(残りの60分以上、物語をあきらめて音楽やら照明やらに集中するのは、なかなかの苦行です)

 

 なぜ、長編ではない「長い短編」が本公演として上演されてしまうのか?

 脚本の書き方がわからないとか、エピソードが書けない(脚本は書きたいけれど、その中で特に主張したい思想がない)とか、根本的な問題を除けば、原因は3つに絞られるのではないかと思います。

 

 1つ目は、「自主作品は、自由であるべきだから」

 2つ目は、「そういう脚本の方が便利だから」

 3つ目は、「完成した脚本を検討するという習慣がないから」

 

※いわゆる「自主制作映画」「個人映画」や「アマチュア演劇」「地方演劇」など、物語性があり、商業的に流通していない作品を、ここからは便宜的に「自主作品」と呼ぶことにします。

 

 1つ目の「自主作品は、自由であるべきだから」は、原因というより、思想というか、作品を作る目的の一つが「自由」であるということです。

 「長い短編は作ってはいけない」というルールはないし、仮にあったとしても、守る必要はないのです。

 そもそも、自主制作映画や地方演劇が作られる理由の一つに「自由なイメージ、自由な内容を実現できる」というのがあります。単純に、舞台を作りたい、演技をしたい、エンターテイメントをやりたいだけなら、自腹を切りながら自主作品にこだわる理由はないのです。自由こそ、自主作品の一番の価値であり、わざわざ骨格にこだわったりして、自由を失うのは本末転倒なのです。

 

 乱暴な言い方をするなら、

「自腹を切って作っている自主作品に、文句を言うんじゃねぇよ」

 ということです。

 

 自由に作ることができるという魅力は、しがない作り手である私も日々感じていることです。だからやめられないし、新しい作り手が絶えることがない。また、その自由さの中から新しい表現や新しい思想、システムが、生まれてきました。

 自由で型破りだからこその可能性もあり、自由で型破りだから観客がついて行けないことも多いということです。

 

 だから、作り手は「自分が自由に振る舞っていること」を自覚しなければいけませんし、観客にも自由に振る舞う権利があると認めなければいけません。観客が公演中に寝てしまうこともあるし、途中で帰ってしまうことだってあるのです。ネットにボロクソ書かれることも当然あります。それが自由です。すべて受け入れましょう。

 ただし、作品は(舞台芸術は特にですが)、観客と仲良くなって、味方に付けなければ成功しません。自主作品に慣れていない観客は、わかりにくい作品を「観客と仲良くする気がないという作品」だと受け取ることが多いようです。

 

 これまた、乱暴な言い方をすると

「金払って劇場に入ったのに、いきなり仲間外しにしてきやがった」

 と観客は不信感を感じ、それに対する作り手側の返答が

「自腹を切って作っている自主作品に、文句を言うんじゃねぇよ」

 だったりする。こういう会話をお互いの腹の中でやっている公演はやめた方が良いし、折れるとしたら作り手側です。

 私の場合は「骨格」というルールを受け入れることにしました。自由の一部を封印することになりますが、それが観客との関係づくりの第一歩だと思ったからです。

(後述しますが、他の人は、また別の方法で観客との関係づくりをしているのだと思います)

 

 自由な表現の追求は、マニアを対象にした小規模の短編(金ショーのような短時間のライブハウス公演)の方が向いているのではないかと思います。どうしても大規模になる長編(いわゆる本公演)は、あえて自由を制限し、大多数に向けた表現にしないと、自主作品に対する一般的なイメージが悪化してしまうのではないかと思っています。

 

 原因の2つ目、「そういう脚本の方が便利だから」は、もっと具体的で、ある意味、切実な事情が関係しています。

 

 

(つづく)

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

 ここまでをまとめると、

 短編は人物や状況のアイディアがそのまま作品の骨格作りにつながりますが、長編は思想(= 中身 = エピソード)をひねり出さなければ、骨格を作ることができません。

 新鮮で、多くの共感を呼ぶ思想を考え出すのは本当に大変ですが、作品にどのような思想(エピソード)を込めることができるかが、長編の肝になるのです。

 

 肝は「重要なもの」という意味ですが、元来は「内臓」のことです。

 

 長編を生物になぞらえるならば、脚本(物語)には、骨格と内臓があり、役者という筋肉と皮膚を得て、照明・音響・道具といった服を着て、私たちの前に現れるのでしょう。

 どんなに筋肉を鍛えて、豪華な服を着たとしても、骨や内臓がなければ長編が生きて行くのは困難です。

 

 ・・・こうして、いろいろな困難がありつつ(いろいろと論理の破綻もありつつ・・・)どうにか、私は私なりの「長編の骨格」と「長編の肝」を発見しました。その後、なんとか脚本を書き上げて、アニメーションを作り始めています。

 

 本当のところを言うと、なぜ、この形(骨格)でなければいけないのか、経験論と自分の感覚から直観しているだけで、私には説明できません。

 しかし、私が面白いと感じる映画、演劇は、必ずこの骨格を持っており、また、「起承転結」「三幕構成」「ハリウッド脚本術」などなど、古今さまざまに語られてきた「物語の作り方」も、表現が違うだけで、同じようにこの骨格・構成を推奨しているように思います。

 どうも人間にとって、理解しやすい物語の形なのではないでしょうか。

(ここまで読んでくださった方の中には、疑問・反論のある方もいると思いますが、これがとりあえず私の出した答えです。反論・疑問から有益な議論が起こればうれしいです)

 また、ここまで「骨格が大事!」とさんざん言っておきながら矛盾しますが、一観客としては「骨格とか内臓とか、そんな理屈を超えた、新鮮で痛快な作品を見たい!」という思いもあります。後期の宮崎駿監督の作品(特に「千と千尋の神隠し」以降)に、物語があらぬ方向に走りつつ、目を離せない強い魅力があるのは、そんな思いを叶えてくれる何かがあるかもしれません。

 

 最後にもう一つ・・・ここまで短編、長編について述べてきましたが、この他に「連載」という物語の形があるようです。

 マンガや小説など、長期に渡る「連載」作品は、長編の骨格が当てはまらない場合が明らかにあります。いや、そもそも「連載」に骨格があるのか?私にはわかりませんが、「骨格らしいものが見当たらないけれど面白い」作品があるのは事実です。

 しかし、連載マンガや小説の映画化に成功例が少ないところを見ると、「連載」のノウハウを「長編」や「短編」に応用するのは難しいのではないかと思います。

 そういえば、先述の宮崎駿監督は、脚本を書かずに、連載マンガのように絵コンテを書いて行くそうで、スタッフも監督も物語の最後を知らないままアニメーションを作り始めるそうです。まさに連載の作り方を長編映画に応用していると言えるかもしれません。

 「連載」については、また、興味のある別のどなたかが研究してくれないかなぁ・・・と思っています。

 

 さて、ここまで来て「私はどんな基準を持っているのか、それはナゼなのか」を述べ尽くすことができました。

やっと、ここから「なぜ、本公演が面白くないのか」という疑問に取り組むことができます。(まだ終わらないのです)

 

 

(つづく)

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

 脚本の構成で考えると、長編における「エピソード」とは、起承転結の「承転」であり、先に説明した「中身 = 承転 = 思想」に追加するならば、

「中身 = 承転 = 思想 = エピソード」と、いうことになります。

 

 しかし、「思想=エピソード」とは、どういう意味なのか?

 そんなことがありうるのか?

 

 よく、ハリウッド娯楽映画を揶揄する時に「また、いつもの恋愛物語だ」「結局、いつもどおりの『家族に会いに行く話』ね」と言う人がいます。確かに、そのとおりなのですけれど、なぜそうなってしまうのかを考えると、「恋愛」と「家族」が、一番わかりやすくて、誰にでも共感を持ってもらえる「思想」だからだと気付きます。

 思想と言うと、哲学や宗教のことを考えてしまいますが、「テーマ」や「内容」「主張」くらいの意味でとらえて良いのではないでしょうか。

 

 社会派と言われるような映画だと、恋愛、家族の要素があまり入っていなかったり、入ったとしてもそれは別の思想を伝えるためのアクセントでしかなかったりします。例えば、『スラムドッグス ミリオネア』は、「起」と「結」がクイズ番組の場面で、「承転」のエピソードは、「インドの貧困層の生活を伝えなければいけない」という思想に貫かれています。

 伊丹十三監督の社会派エンターテインメント映画『女シリーズ』も、「思想=エピソード」の塊のような作品です。

 また、『ブラックスワン』や『セッション』は、「芸術家とは、どういうものか」をエピソードとして描きつつ、子が親の理解できる世界を越えて、芸術の世界に没入して行く様を描いていて、一筋縄ではいかない「家族の物語」にもなっています。

 

「エピソード」を書く作業自体は、人物と状況(舞台設定)が決まった状態で新たに短編を書くようなものです。「長編を書く」とは、実質的に「3本以上の連作短編を書く作業」と考えることができるかもしれません。

 私の場合は30分の短編を書くのに最低でも1カ月はかかるので、長編を書くには単純計算で3カ月、構成を練る時間を入れたとしたも半年ほどで書ける計算になります。

 しかし、実際には8年かかりました。

 ただ単に私が遅筆だっただけであり、自分が何を書きたいのかわかっていなかったからなのですが、それはつまるところ、私に「思想」がなかったということです。

 自分で書いてみるとよくわかるのですが、「恋愛」と「家族」なしにエピソードを書くのは、ものすごくしんどいです。仮に書けても、なかなか共感を得られる内容になりません。

 思想なしに長編は書けない(もしくは、書くのが非常に難しい)のです。

 

 思想なしに、仕掛け(ギミック)でエピソードを作り出して行く映画もあるのかもしれませんが、それは一般的に「B級」と呼ばれます。

そして、B級映画でも(B級映画だからこそ?)パターン通りの「恋愛」と「家族」を、「とりあえず」という感じで入れています。

 不思議なことなんですけれど、パターン通りでも陳腐でも、思想が入っていないと、観客は映画を「まっとうな映画」として認識できないようなのです。

 

 例えば、モンスター映画の「トレマーズ」とか、めちゃめちゃ面白いけれど、あくまでB級の王者であって、決してA級と呼ばれることはありません。もしかしたら、「アメリカの田舎町の雰囲気を描く」という思想があったのかもしれませんが、それが理解できない日本人にとっては、B級以上の価値を見つけることができないのです。

 そういう意味では、「シンゴジラ」も描かれている思想が理解できない外国人にはB級映画にしか見えないだろうと思います。実際に、外国での興業はあまり上手く行かなかったようです。

 思想がない(伝わらない)作品は、それだけで一段、格下に見られてしまうという事実があるようなのです。

 

 ここまでをまとめると、

 短編は人物や状況設定のアイディアがそのまま作品の骨格作りにつながりますが、長編は思想(= 中身 = エピソード)をひねり出さなければ、骨格を作ることができません。

 新鮮で、多くの共感を呼ぶ思想を考え出すのは本当に大変ですが、作品にどのような思想(エピソード)を込めることができるかが、長編の肝になるのです。

 

 

(つづく)

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。