2012年01月27日
テーマ:第56回大会(2011年)弁論原稿
最優秀賞 思いのその先に 立命館大学 村山勇暉
札幌市長賞
日本弁論連盟名誉会長賞 最優秀賞(一般の部)
「皆様の手で、ぜひとも府議会へと押し上げてください、大きな声で失礼しております…」大学で研究している政治というものの現場を知るべく府議会議員選挙のウグイス嬢としてボランティアをしたのは今年の春のことでした。車にマイクを積んで大音量で町を走り回る姿は、誰もが目にしたことがあり、誰もが顔をしかめたことがあるでしょう。朝は駅前で「行つてらっしゃいませ」と流れる人波に笑顔でビラを撒き、それが終わると団地を縫うようにして、ゆつくりと走る選挙カーから候補者の名前を連呼、候補者が車から降りて話し始めると笑顔で誰もいないベランダヘ手を振ります。諸外国の方から見れば滑稽ともされるこの選挙活動、当事者にしてみれば結構大変なものです。
しかし、私にはある疑間がついて回ります。「私が叫んでいる相手は一体どこにいるのか」ということです。投票する側は選挙カーをうるさいとしか思わず、なんとなくテレビを見て良し悪しを決め、投票すらしない人々も多くいます。立候補する側は顔の見えない有権者へ向かって叫び続けることで満足しています。こうなっては、私は誰のために何をしているのか少しわからなくなってし
まいました。
そんな小さな疑間を抱きながら、福島県へと私が訪れたのは、今年の夏のことでした。それは大きく被害を受けた海側の場所へのボランティアなどではなく、内陸部にある県庁所在地の福島市に住む友人を励ますためでした。私は駅で彼がいつも通りの何ら変わらない姿で出迎えてくれたことに驚き、安心しました。しかしそれ以上に私が驚いたのは、彼だけでなく、そこにいる街も人もみんながいつもと何ら変わらない姿で生活をしていたことでした。事実として、足下に目を落とすと生々しいひび割れの跡があり、人々の中にぬぐえない不安要素は依然として多く残っています。 しかし、一人一人が悲しみをたたえながらも、多くの人があの日以前と同じ活動をしています。
少し冷たい言い方かも知れませんが、大きく被害を受け、今も苦労をされている方々がいる一方で、それよりももっと多くの人々が様々な思いを乗り越え、いつも通りの姿に戻ろうとしています。そんな彼らをただひとくくりに被災地や東北といった言葉で片付けてよいのでしょうか。私たちが軽々しく「がんばろう」と言ったり「絆」を求めたりするその相手とは一体誰なのか考えたこと
があるでしょうか。
選挙においても、友人を訪ねたときにも疑間を感じたのは「思いのその先」が見えなかったからと私は考えています。こんな話を耳にしたことはあるでしょうか。生まれてすぐの子どもに何も話しかけずに育てると、満足に食事を与えても2歳までには死んでしまうといいます。それだけ人には明確に相手を意識したコミュニケーションが必要不可欠であり、それに安心感を得るのです。例えば、近年売られている野菜に生産者の顔が貼られているのも、私たちは野菜というものの先に顔が見える安心感を求めているのです。生産者の思いは確実に私たちに届いています。それでは果たして「有権者のため」や「東北のため」という言葉は誰のためでしょうか。そこに明確な相手は見えません。相手を理解しようとせずに、知ろうとせずにただ大きな声を上げることほど寂しいことはありません。私が小さいときに友達とケンカをして泣いて帰ってきても、親はなぜそうなったのか、どうして相手はそんな気持ちになったか考えたことがあるのか、と今度は親に泣かされる経験をしたことが多くあります。相手を思う前にまず自分を理解し、思いのその先を誰に向けるのかを理解し意識すること。それができれば、私たちの思いはより多くの人の心を打つものになるでしょう。
相手の気持ちを考えて、なんていまさら何をと思われるかもしれません。しかし、そんな簡単なことすら忘れられているのが今の私たちなのです。当たり前が当たり前にできるようになるために、まず私が、本当の思いやりを多くの人に広げてゆきたいと考えています。
日本弁論連盟名誉会長賞 最優秀賞(一般の部)
「皆様の手で、ぜひとも府議会へと押し上げてください、大きな声で失礼しております…」大学で研究している政治というものの現場を知るべく府議会議員選挙のウグイス嬢としてボランティアをしたのは今年の春のことでした。車にマイクを積んで大音量で町を走り回る姿は、誰もが目にしたことがあり、誰もが顔をしかめたことがあるでしょう。朝は駅前で「行つてらっしゃいませ」と流れる人波に笑顔でビラを撒き、それが終わると団地を縫うようにして、ゆつくりと走る選挙カーから候補者の名前を連呼、候補者が車から降りて話し始めると笑顔で誰もいないベランダヘ手を振ります。諸外国の方から見れば滑稽ともされるこの選挙活動、当事者にしてみれば結構大変なものです。
しかし、私にはある疑間がついて回ります。「私が叫んでいる相手は一体どこにいるのか」ということです。投票する側は選挙カーをうるさいとしか思わず、なんとなくテレビを見て良し悪しを決め、投票すらしない人々も多くいます。立候補する側は顔の見えない有権者へ向かって叫び続けることで満足しています。こうなっては、私は誰のために何をしているのか少しわからなくなってし
まいました。
そんな小さな疑間を抱きながら、福島県へと私が訪れたのは、今年の夏のことでした。それは大きく被害を受けた海側の場所へのボランティアなどではなく、内陸部にある県庁所在地の福島市に住む友人を励ますためでした。私は駅で彼がいつも通りの何ら変わらない姿で出迎えてくれたことに驚き、安心しました。しかしそれ以上に私が驚いたのは、彼だけでなく、そこにいる街も人もみんながいつもと何ら変わらない姿で生活をしていたことでした。事実として、足下に目を落とすと生々しいひび割れの跡があり、人々の中にぬぐえない不安要素は依然として多く残っています。 しかし、一人一人が悲しみをたたえながらも、多くの人があの日以前と同じ活動をしています。
少し冷たい言い方かも知れませんが、大きく被害を受け、今も苦労をされている方々がいる一方で、それよりももっと多くの人々が様々な思いを乗り越え、いつも通りの姿に戻ろうとしています。そんな彼らをただひとくくりに被災地や東北といった言葉で片付けてよいのでしょうか。私たちが軽々しく「がんばろう」と言ったり「絆」を求めたりするその相手とは一体誰なのか考えたこと
があるでしょうか。
選挙においても、友人を訪ねたときにも疑間を感じたのは「思いのその先」が見えなかったからと私は考えています。こんな話を耳にしたことはあるでしょうか。生まれてすぐの子どもに何も話しかけずに育てると、満足に食事を与えても2歳までには死んでしまうといいます。それだけ人には明確に相手を意識したコミュニケーションが必要不可欠であり、それに安心感を得るのです。例えば、近年売られている野菜に生産者の顔が貼られているのも、私たちは野菜というものの先に顔が見える安心感を求めているのです。生産者の思いは確実に私たちに届いています。それでは果たして「有権者のため」や「東北のため」という言葉は誰のためでしょうか。そこに明確な相手は見えません。相手を理解しようとせずに、知ろうとせずにただ大きな声を上げることほど寂しいことはありません。私が小さいときに友達とケンカをして泣いて帰ってきても、親はなぜそうなったのか、どうして相手はそんな気持ちになったか考えたことがあるのか、と今度は親に泣かされる経験をしたことが多くあります。相手を思う前にまず自分を理解し、思いのその先を誰に向けるのかを理解し意識すること。それができれば、私たちの思いはより多くの人の心を打つものになるでしょう。
相手の気持ちを考えて、なんていまさら何をと思われるかもしれません。しかし、そんな簡単なことすら忘れられているのが今の私たちなのです。当たり前が当たり前にできるようになるために、まず私が、本当の思いやりを多くの人に広げてゆきたいと考えています。



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