2012年02月18日
テーマ:第56回大会(2011年)弁論原稿
優秀賞 熱中症と大津波 -今だから「正義」の話をしよう- 石川県立鹿西高校 佐伯萌子
札幌商工会議所会頭賞
日本弁論連盟会長賞
校庭に響き渡るけたたましいサイレン。みなれた生徒玄関にはたくさんの救急車とパトカーの列。
本当にここが、私の通っている高校なのかと、目を疑いました。
その日、7月15日。最高気温34.2度。ジリジリと照る付ける太陽の下、校内球技大会が行われていました。クラス対抗でテニスやサッカーの試合が繰り広げられ、「がんばれー!」とあちらこちらで声援が飛び交います。グラウンドには賑やかな声がこだまし、誰もが楽しく学校行事にいそしんでいました。 しかしその数時間後、さっきまで一緒にプレーしていた友人が次々と救急車に運ばれてゆくのです。私の通っている鹿西高校では、この日生徒14人先生1人を含む15人の熱中症患者を出すという事件が起こり、全国ニュースでも放送されました。
救急隊員の方や他の生徒が必死に介護にあたる中、私もそれに協力すべく、汗だくになりながらグラウンドを友人に付き添い往復しました。
そんなことがあった次の日曜日。家族で街に買い物に出かけ、公園の森を下る坂の途中、自転車の横で倒れている青年を見つけたのです。私はとっさに「お父さん、車とめて!」と叫びました。
車は道ばたに急停車し、私達は青年のもとに駆け寄りました。アスファルトにつっぷし、呼びかけてもわずかにうなずくだけ、着ているシャツは汗まみれで手足は軽く痙攣しています。熱中症です。すぐさま119番通報し、車から毛布を取り出し日陰を作り、かぶっていた帽子で一生懸命青年をあおぎぎ続けました。私達が汗だくになりながら必死に青年を看病する横を、何台も何台もの車が通りすぎます。
救急車が到着するまでのわずかな時間もとても長く感じられました。その後、なんとか青年は一命を取り留め、無事救急車で運ばれていきました。
この、二つの熱中症事件から、私は「人助けの重要さ」を改めて実感し、他人のために汗まみれになりながらも走り回った自分を、少し誇らしくも思え、「正義」の達成感に包まれていました。
そんな「正義感」に浸っているときに、テレビで見た東日本大震災を振り返る特集番組で知った言葉に、強い衝撃を受けたのでした。
それは、「津波てんでこ」という言葉です。「てんでこ」というのは「てんでんバラバラに」という意味で、「津波のときだけは親子といえども人を頼りにせず、走れる子どもは一目散で逃げろ。そうすることで一家全滅、共倒れになることを防げ」という意味で、昔から津波が多い三陸地方に伝わる教訓です。
この地方の小学校ではこの話を紙芝居などにして、住民が小さなときから教えているそうです。それでも、この教訓どおりに津波の際動けたかというと、違います。実際にこの春起きた東日本大震災で被害に遭った方の多くは、いったん揺れが収まった際に家に戻って荷物を取りに行ったり、家族を助けようとして逃げ遅れた方なのです。
家族を助けようとして、弱い立場の人を助けようとして、自分も逃げ遅れる・・・。ハッとしました。先日まで熱中症の友達や道に倒れた青年を助けたことで、「人を助ける事は大切、自分を犠牲にして人の役に立つことはすばらしい」と思っていたばかりだったのに、この津波の際では、人を助けようとしたら自分まで死んでしまうのです。
もちろん、危険を顧みず飛び出し、逃げ遅れそうだった人の命を救われた方もいます。しかし、そんなことができるのはごく一部で、むしろ、津波のときには自分1人が確実に助かることで、生存者の数を最低1人でも増やす事が大事なのです。そう、「自分の身の安全を確保することで、集団としての存続を図ることこそが、ここでの「正義」なのです。
熱中症を通じて学んだ「自分の身を犠牲にしてでも他人を助ける正義」。昔から言われている津波の際の「自分の身の安全を確保することで集団を存続させる正義」。一見正反対のことを言っている、この二つの「正義」。 私には、どちらも正しく、この両方が、人の命を救う人間のあるべき姿だと考えます。ただ、問題は、その力を発揮する場面が大きく違うということです。
特に、熱中症のときのようにただ走り回るだけでは、津波の時は自分まで巻き添えになってしまいます。こんなとこは、誰もが分かっているはずです。それでも、頭では分かってはいても、もし今、私の目の前に大津波が来て、その津波にのみ込まれそうな人がいたら、きっと「車をとめて!」と叫んだあの日のように、私は何も考えずにその人を助けに走ってしまうことでしょう。
「正義」は、時に非情です。それでも未熟な私たちには、学ぶ時間があります。これからは、この二つの「正義」のいずれが正しく、いざというとき自分の身の処し方をどうするか、これからたくさんの勉強と経験を積んで、時間がかかったとしても、どんな時も最善の選択のできる自分になりたいと考えています。
それが今考える「正義」の行動です。
日本弁論連盟会長賞
校庭に響き渡るけたたましいサイレン。みなれた生徒玄関にはたくさんの救急車とパトカーの列。
本当にここが、私の通っている高校なのかと、目を疑いました。
その日、7月15日。最高気温34.2度。ジリジリと照る付ける太陽の下、校内球技大会が行われていました。クラス対抗でテニスやサッカーの試合が繰り広げられ、「がんばれー!」とあちらこちらで声援が飛び交います。グラウンドには賑やかな声がこだまし、誰もが楽しく学校行事にいそしんでいました。 しかしその数時間後、さっきまで一緒にプレーしていた友人が次々と救急車に運ばれてゆくのです。私の通っている鹿西高校では、この日生徒14人先生1人を含む15人の熱中症患者を出すという事件が起こり、全国ニュースでも放送されました。
救急隊員の方や他の生徒が必死に介護にあたる中、私もそれに協力すべく、汗だくになりながらグラウンドを友人に付き添い往復しました。
そんなことがあった次の日曜日。家族で街に買い物に出かけ、公園の森を下る坂の途中、自転車の横で倒れている青年を見つけたのです。私はとっさに「お父さん、車とめて!」と叫びました。
車は道ばたに急停車し、私達は青年のもとに駆け寄りました。アスファルトにつっぷし、呼びかけてもわずかにうなずくだけ、着ているシャツは汗まみれで手足は軽く痙攣しています。熱中症です。すぐさま119番通報し、車から毛布を取り出し日陰を作り、かぶっていた帽子で一生懸命青年をあおぎぎ続けました。私達が汗だくになりながら必死に青年を看病する横を、何台も何台もの車が通りすぎます。
救急車が到着するまでのわずかな時間もとても長く感じられました。その後、なんとか青年は一命を取り留め、無事救急車で運ばれていきました。
この、二つの熱中症事件から、私は「人助けの重要さ」を改めて実感し、他人のために汗まみれになりながらも走り回った自分を、少し誇らしくも思え、「正義」の達成感に包まれていました。
そんな「正義感」に浸っているときに、テレビで見た東日本大震災を振り返る特集番組で知った言葉に、強い衝撃を受けたのでした。
それは、「津波てんでこ」という言葉です。「てんでこ」というのは「てんでんバラバラに」という意味で、「津波のときだけは親子といえども人を頼りにせず、走れる子どもは一目散で逃げろ。そうすることで一家全滅、共倒れになることを防げ」という意味で、昔から津波が多い三陸地方に伝わる教訓です。
この地方の小学校ではこの話を紙芝居などにして、住民が小さなときから教えているそうです。それでも、この教訓どおりに津波の際動けたかというと、違います。実際にこの春起きた東日本大震災で被害に遭った方の多くは、いったん揺れが収まった際に家に戻って荷物を取りに行ったり、家族を助けようとして逃げ遅れた方なのです。
家族を助けようとして、弱い立場の人を助けようとして、自分も逃げ遅れる・・・。ハッとしました。先日まで熱中症の友達や道に倒れた青年を助けたことで、「人を助ける事は大切、自分を犠牲にして人の役に立つことはすばらしい」と思っていたばかりだったのに、この津波の際では、人を助けようとしたら自分まで死んでしまうのです。
もちろん、危険を顧みず飛び出し、逃げ遅れそうだった人の命を救われた方もいます。しかし、そんなことができるのはごく一部で、むしろ、津波のときには自分1人が確実に助かることで、生存者の数を最低1人でも増やす事が大事なのです。そう、「自分の身の安全を確保することで、集団としての存続を図ることこそが、ここでの「正義」なのです。
熱中症を通じて学んだ「自分の身を犠牲にしてでも他人を助ける正義」。昔から言われている津波の際の「自分の身の安全を確保することで集団を存続させる正義」。一見正反対のことを言っている、この二つの「正義」。 私には、どちらも正しく、この両方が、人の命を救う人間のあるべき姿だと考えます。ただ、問題は、その力を発揮する場面が大きく違うということです。
特に、熱中症のときのようにただ走り回るだけでは、津波の時は自分まで巻き添えになってしまいます。こんなとこは、誰もが分かっているはずです。それでも、頭では分かってはいても、もし今、私の目の前に大津波が来て、その津波にのみ込まれそうな人がいたら、きっと「車をとめて!」と叫んだあの日のように、私は何も考えずにその人を助けに走ってしまうことでしょう。
「正義」は、時に非情です。それでも未熟な私たちには、学ぶ時間があります。これからは、この二つの「正義」のいずれが正しく、いざというとき自分の身の処し方をどうするか、これからたくさんの勉強と経験を積んで、時間がかかったとしても、どんな時も最善の選択のできる自分になりたいと考えています。
それが今考える「正義」の行動です。



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