10代、20代、30代前半の人には理解しにくいだろうが、アラフィフの私などは「とんねるずと共に成長してきた」と言っても過言ではないほど、密接な存在だった。
そう。
「だった」なのだ。
いつしか、とんねるずの番組から離れていき、終了するというのでこの1ヶ月ほど改めて観て分かったことがある。
やはり、とんねるずは面白い。
特に昔の映像を観ると、そう感じる。
“懐かしさ” 込みの部分もあるとは思うが、パロディコントや大掛かりなセットでのゲーム(一歩間違えれば大怪我にも繋がりかねない“おふざけ” も目立ったが)など、とんねるずの番組が後進のバラエティに与えた影響は大きいと思う。
この10年くらい視聴率が低迷したのは、本人達が汗をかかず、若手や中堅芸人にやらせていたことに理由があるのは間違いない。
今回初めて観たという人も多いのかもしれないが、20代、30代のとんねるずは、それは身体を張っていた。
40歳を過ぎたあたりから、そういうコントは全く観られなくなり、一時期は毎週「食わず嫌い王」になったり、「きたなトラン」や「漢気じゃんけん」、「〜を買う」、「お宅訪問」などロケ中心になっていった。
これでは、図らずもナインティナインの岡村隆史がラジオで言った「グルメ、情報、クイズばかり」ではないか(「クイズ とんねるず」というのもあったし)。
岡村がどこまで考えて発言したのかは分からないが、「した!」自体がコント番組から情報バラエティに変化してしまったということで、岡村理論で言えば、「面白くない企画ばかり」だから、終わっても仕方ないということになる。
だが、石橋貴明は「俺はこれで終わりと思ってないから。必ずここに戻ってくるから」と言っていた。
これは、「また同じスタッフとやりたい」というだけではなく、「やっぱり、原点であるコントをまたやりたい」ということだろうか。
昨年末、「ダウンタウンの笑ってはいけない」で、エディ・マーフィーを演じた浜田雅功が「黒塗りは差別的」と批判された。
こんな時代に、とんねるずの2人が「やりたいこと」ができるかどうかは難しい。
最終回、マイケル・ジャクソンに扮した木梨憲武、ライオネル・リッチーやMCハマーに扮した石橋貴明がそのまま放送された。
これが、再び「抗議」に晒されるかは分からない。
だが、「そんなもの、知ったこっちゃねえよ!」とばかり、ぶっちぎるのがとんねるずの魅力であり、欠点でもあった。
数々のセクハラやパワハラ、モラハラを批判されても、視聴者よりも芸人仲間に慕われているのは、そういう規格外の“怖いもの知らず” なところだと思う。
師匠を持たず、個人事務所だから、しがらみがなく、誰よりも「自由」なとんねるずは、やはり唯一無二の存在なのだ。
そういう意味では、やはり、今の時代にとんねるずは生きにくいのかもしれない。
ラストに2人が真剣に唄った“情けねぇ”。
「バラエティを、滅ぼすなよ」
「フジテレビを、おちょくるなよ」
この部分が話題を呼んでいる。
オリジナルは、「バラエティ」も「フジテレビ」も「この国」なのだが、とんねるずのラストメッセージとして、一部歌詞を変えて唄った。
私などはジーンときたが、一部の人は「番組を終わった責任を視聴者に押し付けるのか」、「パワハラや内輪受けばかりでバラエティをつまらないものにしているのは自分達」などと批判しているらしい。
まぁ、受け取り方は人それぞれだから、それでもいいのだが、私はこの“メッセージ” は視聴者に向けたものではないのではないかと見ている。
規制を強めているのは抗議団体ではなく、テレビ局側で、「抗議されそうだからやめとこう」と及び腰になっているように感じるし、安易な番組作りで「お詫び」を連発するフジテレビは、「どうせ、今は何をやっても叩かれるから」となってはいまいか。
とんねるずは、そんなフジテレビのスタッフに「バラエティを滅ぼすなよ」と檄を飛ばし、「フジテレビを一番舐めてるのはフジテレビの社員自身じゃないのか」と戒めているように、私は感じた。
“また、一緒に面白いことをやろうぜ! それには自主規制なんかするな。フジテレビの社員であることに誇りを持て!”
さて、当事者はどのように受け止めただろうか。
このメッセージを「だよなぁ。このままじゃ、面白いバラエティなんか作れないよなぁ」などと“他人事” にしていたら、残念ながら「バラエティのフジテレビの復活」は成し得ないと断言しておきたい。
最後に、あの歌詞変更は誰のアイディアだったのだろうか。秋元康に相談無しにはやらないだろうし、単なるアドリブとは思えない。
後日談を聞きたいものだ。