日本の伝統文化をつなぐ

日本の伝統文化をつなぐ実行委員会によるブログです。


テーマ:
【新春を寿ぐ、江戸から現代へ〈邦楽と舞踊〉】プログラムより

伝統をうけつぐ
西陣織製織伝統工芸士 五代目蔦屋久兵衛

私が、二十二、三歳の頃、祖父から、明治維新に都が京都から東京へ移る際に、創業者の久兵衛が京都に残り織物業を始めたこと、機屋を始める以前は公家で御所内の装束に関わる仕事をしていたことを聞きました。屋号である「蔦屋」は御所より頂いたそうです。しかし、当時は屋号より創業者の名前で呼び合う習慣があったそうで昭和の初め頃までは「久兵衛さん」と呼ばれていたと祖父が言っておりました。祖父は六歳の時両親を亡くし、高祖父に育てられました。十二才の時に、その高祖父も亡くなりました。生前、高祖父は、祖父に職人の家ではあたりまえですが、六歳から機に関わる手伝いをさせながら徹底して織物の仕組みを教えました。そこから龍村商店(現龍村美術織物)の仕入機(しいればた)として昭和二十年代終わり頃までお世話になっておりました。昭和三十年代に入り、この頃から産業としての西陣が動き始め、多くの機屋が独立するため、各地で協同組合という数軒の機屋が集まり組織を作り、製造や販売など役割を分担し、問屋などに商品を卸し、祖父も双美苑という組合の代表を務め多くの機屋を指導しておりました。それは、昭和五十年代まで続き、その役目も終え自然消滅していきました。(組合は当時、一軒の機屋では商品数も少なく取引上、不利な点も多くそのような弱点を補う一つの方法でした。

昭和五十年頃から平成五年頃は、西陣が最も栄えた時代でした。

各織元は製産を上げるため次々と織り手を増やしていきました。

しかし、景気が沈み、徐々に売上も落ち込みはじめていきました。私が西陣に入ったのも、ちょうどバブルがはじけ始めた頃です。状況が悪くなるのを見越してか、入所当時から、製織をするようにも言われました。しかし、二〇代初めの私には辛いことでした。冷暖房もなく常に常温の工場は、当然冬は極寒、夏は猛暑、それに加え織り機は思うように動かせない。想像以上に機を織ることは難しく、一度全く違う世界に逃げたこともあります。しかし、幼い頃から家業を継ぐと漠然と思っていました。二年も過ぎた頃、もう一度戻ると決めました。戻ると父から「やるのはかまへんけど、給料は自分で稼げよ、全部自分で考えてやれよ」と言われました。当時の気持ちは、家業を継ぐということしか考えられませんでした。必死で考え、自分でやれることは何でもやりました。その時にやってきた事は今でも大きく役立っています。この経験から、我慢し続ければ大抵のことは、そこそこ出来るようになると知りました。職人にはその「そこそこ出来るようになる」この事が大事だと思います。それが次に進むための土台になるからです。そこからどれぐらい上達するかは本人次第です。まだまだ修業中の身ですが、これまでと、今をどう考えていくか、広い視野でいろいろな人に出会い、様々な可能性をみつけていきたいと思います。

 



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