サイクルトレーラー・ライフ

リヤカーデザイナー兼ネットショップ店長兼フリーライター(怪しい?)をしている40代男子が、おもにタメにならないことを書いたり書かなかったりします。お酒・本・釣りの話題が中心でしょうか?
ロードバイク+サイクルトレーラーの生活も(販促がてら)紹介します。


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「蜃気楼こねくしょん、5,4,3,2,1,0!」

第2話ディアブロ救出・後編

 前夜。
 近来になくやる気満々の三人は、意気揚々と箱根に向けて出発した。出陣、と言ってもいいくらいのテンションの高さだった。
 前もって計画の詳細を聞かされたルリとソニアは、その柔軟性に富んだ内容に惜しみのない賞賛を送った。完璧だ、と誰もが思った。
 しかし、『柔軟性にとんでいる』ということと『行き当たりばったり』は親戚なのだ、と気づくのは、計画が止めようもなく走り出してからのことになる。
 どこからか調達してきた古いコンパクトカーに、偽造したナンバープレートを取り付け、走り出す。ステアリングを握るのはルリ。
 主要な道路に設置されている交通監視システムのありかは確認してある。出発地点が察知されないよう、高速道路に乗る直前まで幹線道路を避けて走る。
 料金所のゲートをくぐり、流入レーンでアクセルペダルを床まで踏み込んだルリはのけぞった。地味な外観に似合わない暴力的な加速。例によって、たみが過激なチューニングを施したらしい。
「パトカーをぶっちぎるには、このくらいやらなきゃ」
 たみは涼しい顔で言う。
 ぶべべ、という気の抜けた排気音とはうらはらに、三人たちを乗せたクルマは他車を縫うように俊敏なダッシュを見せる。速度が増すごとに操縦性も冴えてゆく。ときおり突っかけてくるクルマがあったが(高級外車が多かった)、軽く置き去りにした。
 どうせ偽造ナンバーである。速度自動取締機も何のその、区間新記録をつくりかねない勢いでエンジンを鞭打ち、三人の乗るクルマはあっという間に新御殿場インターに着いた。

 如月カーミュージアム館長、如月大介は、今日七十四度目となる深いため息をついた。暗い館内に、ひとりたたずんでいる。
 いつものテンションがなりを潜めているのには、もちろん理由があった。
 この俺が、脳腫瘍で余命半年か。天罰だとしたら、身に覚えがありすぎて特定のしようがないな。
 自嘲まじりに苦笑する彼の目の前にあるのは、例のディアブロ。このクルマを前に悩んでいるのにも、やっぱり理由がある。
 こうなりゃ、コイツと路上に散るのも悪くない。
 そんなことを考えているのだった。
 彼の物思いを、クルマの排気音が破った。すぐ近くで停車した気配。
 振り向いた彼の目の前で、いきなり派手な音をたててショウウィンドウの強化ガラスが砕け散った。黒ずくめの人物が月あかりを背に立っている。手には馬鹿でかいハンマー。
 その女(だろう、たぶん)は、彼と眼が合って一瞬ぎょっとしたようだったが、気を取り直して言った。
「悪の権化、社会正義の蹂躙者にして良い子の悪しき見本、蜃気楼コネクションただいま参上! この口上をナマで聞いたのはあんたがはじめてよ。ありがたく思いなさい」
 それを聞いた如月の胸に、突然笑いの衝動が突き上げた。こらえられない。
「ぶっ、ぶわははははは!」
「なっ、なによ!」
「あははははは、あは、さ、最高だ! 最後にこんなイベントが用意されてるなんて、人生はすばらしい!」
 あまりにも予想外の反応に、彼女、逆瀬川ルリはひるんだ。
「な、なによあんた。おかしいんじゃないの。って、そんなことはいいのよ! とにかく、そのディアブロはいただいていくわ!」
「わはは、おもしろい! やれるものならやってみろ」
 楽しげに言うと、如月は柵を蹴り倒してディアブロに乗り込もうとした。
 しかし、ここでこのクルマの奇抜な設計が災いした。
 ガルウィング、つまり跳ね上げ式のドアは重く、開閉には腕力がいる。おまけにシートは極端に低く寝そべっていて、乗り降りに骨が折れるのだ。
 もっとも機敏に動いたのはソニアだった。
 数歩の助走でトップスピードに達すると、えい、という声とともに跳ぶ。瞬発力だけなら、これまた人並みはずれているルリさえもはるかに凌ぐ。十メートル以上の距離を一瞬で詰め、閉じられようとしているドアに手をかけた。
「降りてください」
「いやだ。他のクルマなら、持っていけ。だが、このクルマだけは絶対いやだ」
「なぜです」
「このクルマが・・・・人生の、思い通りにならなかった人生の象徴だからだ。わたしはもう長くない。残りの時間を、このクルマと過ごす。一瞬でもいい、自分のイメージ通りに走らせることができたら、このクルマとあの世に旅立ってもいい」
「そうですか・・・・しかし、わたしもこのクルマでないとだめなのです」
 そのとき、多数の足音が響いてきた。ルリが叫ぶ。
「おーい、のんびりしてるヒマはないぜ」
 かけつけてきた警備スタッフに対し、ルリは意識的に闘気を吹きつける。押されて彼らの足は止まった。
「・・・・行きましょう」
 意外すぎるソニアの言葉。
「なんだって?」
「行きましょう。このクルマを走らせたいということで、わたしたちの意志は一致しています。いっしょに行きましょう。外野はこの際関係ありません」
 ソニアの言葉に如月は一瞬あっけにとられ、それからにやりと笑った。
「そうだな。こういう突発的なアクシデントも、嫌いじゃない」
 言うと、イグニッションキーをひねった。セルモータの回る音。そして・・・・。
 野獣が、ガンメタリックのディアブロが、身をよじるような叫びを放った。
 十二のシリンダーとピストン、そして四十八のバルブが発するメカニカルノイズに、ガソリンの燃焼音。そこに、毎秒十立方メートル以上の排気がマフラーを震わす音が重なる。その場にいた誰もが一瞬身をすくませた。
 如月はクラッチを切ってシフトを一速のゲートにそっと送り込む。そして、アクセルペダルをじわりと踏み込みながらクラッチをつないでゆく。
 するり、と、意外なほどスムースにディアブロは走り出した。
「月夜のランデヴーだ」
「そして、道づれは泥棒」
 如月はアクセルを深く踏み込んだ。
 ディアブロは、恐れを知らぬ子供のように夜空の下に身を躍らせた。

 今まさに乱闘に突入しようとしていたルリと警備員たちは、クルマの行方を呆然と見守っていた。
「ど、ど、ど」
 ルリが情けない声を出す。
「どーなってんのよーう!」
 クルマに戻っていたたみがルリに叫ぶ。
「乗って! バックアップしなきゃ」
 ルリは手近にいた警備員にやつあたりの空手チョップを見舞い(いい迷惑)、その他大勢がひるんだ隙にクルマに跳び乗った。
「行くわよルリ!」
「おう! じゃないって、おまえ免許は?」
「あるわよ、ほら」
 たみが投げてよこした免許には『桜田あけみ』とある。
「これ、ヤンさんに造ってもらった偽もんじゃんかよ! 運転したことあんのかよ!」
「あるわよ、ゲーセンで。さあ、発車おーらい」
 発車しなかった。サイドブレーキが引きっぱなしだった。
「サイドサイド!」
「おお。そういえばそんなものも」
 ようやく、ふたりを乗せたクルマは走り出した。つんのめるような勢いで。
 ルリの悲鳴が、箱根の空にいつまでもいつまでも尾を引いていた。

「あんたら、金がほしくて泥棒してるんじゃないよな」
 腕に覚えのあるらしい如月は、かなりのハイペースでワインディングコースを飛ばしていた。一連の運転操作はよどみなく、危なげない。ただし、非常識に重いステアリングにだけは苦労しているようで、大舵角のたびに『そりゃ』とか『ぬん』などと声をもらしている。
「お金は必要ですよ」
「なら、もう少し効率のいいものを盗めばいい。ずばり現金だっていい。なのに、なぜそうしない」
「楽しくないからです」
 ソニアは短く答え、少し考えてから言い加えた。
「もう少し格好をつけるなら、確認、でしょうか」
「確認?」
「ええ。世の中の注目を浴びるようなアクションを起こしてみる。それが派手であればあるほど、リアクションも大きく返ってくる。そうやって、自分が本当に存在していると実感する。そうせずには、いられない」
 自己の存在を確認したい。それは、自我というものが普遍的に抱える衝動といえるだろう。誰もが、この問いから自由ではありえない。生きている限り。
 その意味で、まさしくソニアは生きているのだった。金属とプラスティックとシリコンの集合体であろうと。
「哲学する泥棒、か。気の利いたジョークだ」
「本人はいたってまじめですが」
 冗談のように小さいサイドウィンドウは開けられている。澄んだ冷たい空気とともに、エグゾーストノートとタイヤのきしむ音が耳に届く。
 クルマは台ヶ岳と小塚山の間を走り、仙石原に抜けようとしている。道幅は狭く、きついコーナーも多い。ディアブロのエンジン性能を発揮させるには直線が短すぎる。それでも、彼、木田作之進という名のランボルギーニ・ディアブロは、歓喜の歌を歌っていた。華麗なステップを踏んでいた。
「あんたは泥棒で、俺は死にかけてる。なのに・・・・なのに、なぜこんなに気分がいいんだ?」
「きっと、月夜とディアブロのせいでしょう」
「大昔、そんな映画があったよ。月あかりの魔力で、誰もが大胆に、ロマンティックになっちまうのさ。たしか、アカデミー賞をとった、なんていったっけ・・・・あっ、うあっ」
 不意に如月がうめき、身体を硬直させた。クルマの進路が逸れそうになる。
 ソニアが助手席からとっさにサイドブレーキを引き絞った。タイヤがロックし、ディアブロはスピンモードに陥る。
 奇跡的にどこにも接触することなく、重い車体後部を進行方向に向けて停止した。クラッチを切っていなかったため、エンジンは停止している。
「どうしました」
「がっ、あっ、頭が」
「痛むんですね」
 うなずくのにさえ、意志の力を総動員しなければならないようだった。
 ソニアは迷わずに行動した。助手席を降り、運転席側からドアを開けると、巨体の如月を軽々と運び出し、助手席に収めた。
 再び車外をまわって運転席に戻る。シートを自分の体型に合わせて調節し、ステアリングを握る。
「これがアクセル、これがブレーキ、これはクラッチ。一速のゲートはここね」
「あ、あんた、もしかして運転初めてなのか」
「ええ」
 こともなげに言いながら、気づいたソニアは如月のネクタイを緩め、シャツのボタンを外してやった。
 イグニッションキーをひねる。しかし、きしゅん、とセルモータの回る音がしたきりで、エンジンは沈黙したまま。再び試みる。かからない。
 そのとき、遠くでサイレンの音がするのを、ソニアのセンサが捉えた。
 お願い、眼を覚まして。
 祈りをこめ、キーをひねる。
「セルは回し続けろ。エンジンに火が入ったらアクセルをいっぱいに踏むんだ」
 苦しげな音とともに、セルは回転をつづける。バッテリーは猛烈な勢いで消費されているだろう。
 苦痛に歪んだ如月の表情を見る。ロボットであるソニアには、人命を最優先させよというプロテクトが施されている。それが今、激しいシグナルを送っていた。
 しかし、エンジンが目覚める気配はない。
 だめなのか。
 あきらめかけたソニアが、少しでもバッテリーの消費を抑えようとライトを消した瞬間だった。どるっ、というかすかな鼓動。すかさずアクセルを踏み込む。
 雄叫びが静寂を揺るがし、モンスターは再び眼を覚ました。
「病院に向かいます」
「・・・・伊勢原の、湘陽大学病院に行けるか」
 最短ルートと、所要時間を概算する。御殿場から旧東名道で厚木、そして二四六号。限界まで飛ばせば三十分程度か。救急車の到着を待って救急指定の病院に向かうより早く、確実な処置を受けられるだろう。
「飛ばします」
 ソニアはアクセルペダルを床まで踏みつけると、クラッチを無造作につないだ。
 リアタイヤが盛大にホイールスピンし、もうもうと煙があがる。一向に前に進まない。ディアブロというクルマ、あきらかに運転初心者には荷が重い。
「タイヤのグリップと相談しながらアクセルを踏むんだ」
「はい。しばらく、話しかけられても答えられないかもしれませんが、ちゃんと聞こえてはいます。異変があったら言ってください」
 ソニアは、脳にあたるプロセッサの能力わりあてを最適化し、運転操作に処理能力の大半をつぎ込んだ。全身の加速度センサの感度を最大にする。シートやステアリングに密着した部分に皮膚感覚を集中させる。 
 彼女をつつむ世界の様相が一変した。
 エンジンの鼓動が手にとるように伝わってくる。最高で毎分八万回以上にもなる、シリンダー内での爆発の一つひとつがわかる。
 ソニアはディアブロの一部となった。
 クルマは泳ぐように滑らかに、しかし猛然と走り出した。

 途中で交代し、今はルリがステアリングを握っている。ふたりの乗るクルマはソニアたちとは反対の方向に向かっていた。意識してのことだ。
「あああ、ソニアのやつ、大丈夫かなあ」
 トリオ始まって以来の大アクシデントに、本来動じないタイプのルリが度を失っていた。ソニアが警察に捕まるのはかまわない。そのときは警察を襲撃してでも助け出すまでだ。しかし、もしクラッシュでもしてたら、と考えると、ルリの心臓はばたつくのだった。
「こうなったらあっちはソニアに任せるしかない。大丈夫、彼女は馬鹿じゃない。きっとうまくやる。とにかく追手をこっちにひきつけなきゃ。ルリ、そこのピンクのボタン押して」
 言われるまま、ルリはダッシュボードに不自然にとびだしたボタンを押す。
 しかし、何も起きない。
「?」
「いま、あの博物館の回線に割り込んでる。そこを経由して警察に通報するの。ディアブロはこっちに逃げたって」
「警官への受け答えは?」
「人工知能にやらせてる。もうすぐパトカーが来るわ。湯本に続くすべての道路に検問が敷かれるでしょうね」
「時間稼ぎか」
 たみはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「そんなぬるいもんじゃないわ。今度は赤のボタンよ」
 押す。今度はにぎやかなことになった。
 ぼん、という音とともに、クルマの外装が弾け飛ぶ。ぎょっとするルリの耳に、今度は空気の漏れるような音が入ってきた。
「なな、なによ、どうなってんの」
「すっごくわかりやすく言うと、風船」
 言うとおり、外装があったところから、クルマ全体を覆うように何かが膨らんでくる。それはまとまった形をとりはじめ・・・・そして、クルマはディアブロの姿になっていた。細部のディテールまでそっくりに。ごていねいに、タイヤまで太く見せている。特殊低伸度シリコンを使った、ばかばかしくも見事な擬態であった。
「ぎゃははは! サイコー! もう死ぬ! 死んじゃうー」
 ルリは身をよじって笑い転げていた。
「苦労したんだからね、ホイールベースの合うクルマ探すの」
「そ、そこまでやるかフツー? おめーおかしいって絶対! ヒー、苦しい」
「うふふ」
「ひゃははははははは」
「あはははははは」
 笑い袋になったふたりを乗せ、偽ディアブロはふらつきながら湯本に向かって坂を下っていく。
 宮の下付近で、ようやくパトカーのサイレンが聞こえてきた。接近してきていること自体は、警察無線を傍受して知っていたが。
「いつも思うけどさ、日本の警察ってとろいよな。本気で逃げてたらとっくに巻いちまってるぜ」
「世界レベルで見たら相当優秀らしいけど、それってたぶん地道な捜査のたまものなんじゃないかしら。出足のはやさでは、決して誉められないわよね」
 ふたりは、日本警察の優秀さの反証である人物を、そろって思い浮かべた。
 そうこうする間にも、パトカーは背後に迫ってくる。たみはダッシュボードのどこかを操作した。エンジン音が変わる。ディアブロそっくりに。
「マフラーいじって、排気音を切りかえられるようにしたの。四気筒エンジンでこの音色を出すの、難しいんだから」
「こんの、おたく娘が」
 言いながら、ルリはカーチェイスに備えて姿勢を正した。パトカーのドライバーは専門の訓練を受けている。なかにはレーシングドライバー級の者もいる。あなどることはできない。
 わざと接近を許す。予想通り、スピーカーで停止を命じられた。
《そこの、ナンバープレートのないランボルギーニ・ディアブロ。ただちに停止しなさい。ガンメタリックのディアブロ、止まりなさい》
 あざ笑うように加速する。
「だって、ディアブロじゃないしー」
 性能では、ふたりのクルマがパトカーを凌いでいる。直線で引き離してコーナーで追いつかせる、ということを繰り返しながら予定の地点に近づく。
「ルリ、あそこよ」
「わかってる」
 やや長い直線を利用してパトカーとの間隔を広げる。そのあいだにたみが後席からあるものをとりだした。
 飛行機の模型にCCDカメラとスピーカーを付けたようなそれは、一種のロボットだった。道路のセンターラインをカメラで捉えて目標にし、一定高度を自律飛行するようにプログラムしてある。また、パトカーのサイレンの波長を拾って距離を測り、一定以上近づかれないよう速度を制御するようにもなっている。そして、スピーカーからはディアブロのエンジン音。つまりは、おとりだった。
 目標のコーナーに飛び込む。リアタイヤが滑ったが、カウンターステアでねじ伏せ、限界近いスピードでクリアする。同時にたみが窓から自立飛行ロボットを放った。すぐ目の前の空家になっている別荘のガレージにクルマを入れ、シャッターを閉める。そして、ダッシュボード上の最後のボタンを押す。
 ぱん、という乾いた音とともに、ディアブロの偽装がはじけ飛ぶ。下からは、また別の外装があらわれた。
「お色直し二回かよ」
「しっ、来るわ」
 息をひそめるふたりの横を、パトカーの一団は殺気だって駆け抜けてゆく。
 音が聞こえなくなってからも、しばらくじっとしていた。
「行った、よな?」
「そうみたい」
 ふたり同時に深く息を吐き出す。たみがぽつりと言った。
「どうしよう、これから」
 あたしがききたい、とルリは思った。

 ソニアとディアブロは、ひとつの運動体となって疾駆していた。
 あらゆる屈曲率のコーナーを、最適なラインと侵入速度でクリアする。タイヤのグリップ力は余すところなく路面に伝えられ、エンジン回転は最も効率のいいバンドを外れることがない。
 如月は激しい頭痛にさいなまれながらも、ソニアの華麗な運転操作に魅せられていた。岩のように重いステアリングに片手であたえている舵角にはまったく迷いがない。シフト操作は眼で追いきれないくらい速く、クラッチミートは羽のように柔らかだ。
 コーナリング時にかかる絶対Gは大きい。しかし、荷重移動が滑らかなので不思議なほど恐怖を感じなかった。それどころか、いまこのクルマ以上に安全な乗物はないのではないか、とさえ思えてくる。
 ソニアはメーター類を一切見ない。身体にかかる重力の変化で速度を、ミッドシップゆえに背後から聞こえてくるエンジン音で回転数を把握する。視線は次にクリアすべきコーナーに注がれつづけている。表情はない。
 その横顔を見る如月の意識から、あらゆるノイズが消えていった。車内に充満する豪音も耳に入らず、ただただ不思議な感覚に包まれてゆく。
 自分は今、浮遊している。大きな生き物の背中に乗って、空を飛んでいる・・・・。
 ソニアは如月の異変に気がついていた。呼吸が浅く、速い。眼は焦点を失い、意味不明のつぶやきがもれている。
 運転操作にかけた安全マージンをさらに削り取る。路肩から、時には対向車線まで使ってコーナリング速度をかせぐ。道に張り出している草木をかすめる。
 しかし、酷使に耐えかねたブレーキが音をあげ始めていた。効きが落ち、踏み応えも甘くなってきている。しかし、彼女はペースを落とさない。
 そして、ブレーキパッドから白煙があがり始めたころ、ようやく長い長い下りが終わった。
 高速入口をめざす。
 しかし彼女を待っていたのは、呪いの声をあげたくなるような事態だった。
《渋滞情報 秦野中井―御殿場・事故渋滞20㌔50分以上》
 ソニアはクルマを止めた。その目の前で、渋滞の表示は25㌔に延びる。事故が起きて間もないことを示している。
 ソニアの頭脳がめまぐるしく回転をはじめた。最適解をもとめてあらゆる可能性を検討してゆく。
 出た結論は、もっとも過激なものだった。
 高速入口に入らずそのまま通過すると、数百メートル先でサイドブレーキを引いてスピンターンする。そして飛びこんだのは、高速「出口」だった。
 料金所の空いたレーンを、クラクションをけたたましく鳴らしながら突破する。高速を降りようと料金所に向かってきたクルマが、急ブレーキを踏んで路肩に停車した。ドライバーはあっけにとられ、怒るのも忘れている。
 ソニアの操るディアブロは、旧東名高速の出口車線をフル加速で逆走し、本線に合流した。深夜でクルマが少ないとはいえ、皆無ではない。しかも、高速を走行するクルマは自然と集団を形づくる。その対向車たち、ときには相対速度が四百キロ近くなる彼らを、一切ブレーキを踏まず、アクセルのオンオフによる荷重移動とステアリング操作だけでかわしてゆく。
 時速二百五十キロ以上のスラローム。しかも、事故を避けるには対向車に急ブレーキを踏ませてはならない。ソニアはそれを完璧に実行した。神業、という表現も大げさではない。
 如月の朦朧とする意識は、夢と現実を断続的に行き来していた。
 なんで、右側を走ってるんだ? ああ、ここはアメリカだったか。それにしても、なぜ道路標識がすべて背を向けているのだろう。誰かのいたずらか・・・・。
 そのとき、窓を覗きこむように、不意に意識が現実を捉えた。つかのま機能を取りもどした思考能力が、感覚器から流れ込んでくる情報を受け止める。
 尋常ではない速度で窓をかすめてゆく対向車のライト。けたたましく鳴らされる、さまざまな音色のクラクション。身体にかかる急激な加速度。
「・・・・なんか、とんでもない無茶をしてないか」
 ソニアは答えない。今や全能力をドライビングに傾け、プロセッサの処理能力を会話に振り分ける余裕がない。
 まあ、いいか。病気で死ぬのも、ここで散るのも同じことだ。いや、ここでディアブロと運命をともにするほうが、ロマンティックじゃないか。
 そう考えながら、しかしその可能性は低いと如月にはわかっていた。
 痛みはわずかにやわらぎ、かわりに眠気が襲ってきた。彼は眼を閉じた。

 旧東名高速を猛スピードで逆走しているクルマがいる、という通報を受けた警察官は、当然のことながら冗談だと思った。しかし、同じ内容の通報が複数とどいたことで、あわただしく対応することになった。
「あのう、高速道路をナンバープレートのないクルマが逆走しているという通報がありまして」
「冗談では、ないのだな」
「はあ、登録者のちがう複数の回線から受けておりますので」
「新種の自殺か? まあいい、そのクルマの進行方向にある入口はすべて閉鎖、人員を配置。人数は、まあ、任せるよ」
 ふたりとも、その効果を信じてなどいなかった。高速道路上では、十分間あればクルマは二十キロ前後は進む。飛ばせばなおさらだ。通報が届くまでに何分間かのタイムラグがあることも計算すれば、入口の閉鎖が完了するまでのあいだに当のクルマが高速を降りてしまう可能性が高い。
 これは税金の無駄遣いにならないだろうか、と思いながら、その警官は関係各所に連絡をはじめた。

 まんまと警察をまいたルリとたみは、のんびりと箱根の峠道を下った。湯本付近で検問に遭ったが、無邪気な笑顔で『すいませーん、横浜に行くにはどっちに行けばいいですかあ』ときくと、遅いから気をつけてください、などと言いながら親切に道を教えてくれた。礼を言うふたりに手をふる警官の鼻の下は、ずいぶんと伸びていたものだ。
「これだから男どもってのは」
 軽蔑もあらわにたみが言う。
「まあ、おかげで逃げられたわけだし」
「そうだけどさ・・・・」
 やや潔癖のたみであった。
 クルマは野毛のオフィスに向かっている。それ以外に思いつかなかったからだ。
 小田原厚木道路を経て旧東名高速に乗ろうとすると、事故による大渋滞の表示が出ていたのであきらめ、一般道でのんびり帰ることにする。高速からあふれたクルマでときおり流れが滞ったが、深夜ということもあって比較的スムースな帰路となった。
 オフィスから一キロほど離れた駐車場にクルマを止め、歩く。この界隈に人通りの絶える時間帯はない。アルコール臭を漂わせた人びとの流れにまぎれ、ふたりはビルの入口に着いた。ひそかに期待していたが、やはり照明は消えたままだった。
「ただいま」
 たみの言葉が無人の部屋に吸いこまれ、消える。
 ただ待つ。
 ルリは、ビールのプルタブを空けたまま手をつけず、眼を閉じて腕組みしている。眠っているわけではないのが、ときどき組みかえる脚でわかる。
 たみは肘をついて組んだ手にあごを乗せ、入口のドアを見つめている。クルマの音がするたびに耳をすませ、そして止まらずに通り過ぎてゆくたびにかすかに落胆の表情を浮かべる。
 通りで猫がゴミをあさっている気配がする。
 時計の音が耳ざわりなほど大きく聞こえる。
 誰かの身を案じて待つ時間の長さに、ふたりは黙って耐えていた。
 朝はまだ来ない。 

 旧東名高速の入口閉鎖は行われなかった。その指示を出す直前に、厚木料金所から通報があったのである。
《逆走してきたナンバープレートのない大型スポーツカーが料金所を突破、小田原厚木道路方面に向かったもよう》
 厚木西警察署が動き、小田原厚木道路上下線の封鎖と主要幹線道路への検問設置が行われた。しかし、深夜のすいた道路を高速で駆け抜けるディアブロの前に、やはり警察の対処は遅すぎた。クルマは、伊勢原市東部、国道二四六号沿いにある湘陽大学付属病院に着いた。

 救急指定の大病院に気の休まる時間はない。次から次へと急患たちが担ぎこまれてくる。とはいえ、ふと患者の流れがとぎれるエアポケットのような瞬間がやってくることもなくはない。
 そんな、台風の眼のような穏やかな時間帯。
 彼女、飯塚なるみはナースステーションの奥でややだらしなく脚を投げ出してすわり、ここのところ頭を占領しつづけている考えをもてあそんでいた。
 やっぱり、辞めよう。看護婦、向いてなかったのよ。
 看護学校を卒業し、胸躍らせて飛び込んだ職場は、戦場だった。ひっきりなしに回ってくる患者たち。もちろん回復する者ばかりではない。しかし、目の前の悲劇に感傷をおぼえるいとますらあたえられなかった。彼女は確かに、疲れていたのだ。
 野太い排気音が彼女の物思いを破った。ほどなくして、急患を告げる業務連絡。身体が勝手に反応し、足は救急外来へと向かう。
 エレベータを降りたなるみが目にしたのは、ひとりの女性が大柄な男性を楽々と抱えあげている姿だった。眼が合い、その女性が口を開いた。ハスキーな美声。
「三十分ほど前に急に頭痛を訴え、二十分前からは意識が混濁しています。名前は如月大介、年齢は四十九歳。この病院で定期的な診察を受けているはずです。照合してください」
 その口調はあまりによどみなく落ち着いていおり、もしや同業では、と思ったほどだった。
 患者を救急処置室で寝かせ、壁のインターフォンを取り上げる。氏名、年齢、病状を伝え、待つ。返ってきた照合結果は、彼女の気分を沈ませた。
 悪性の脳腫瘍で、余命わずか。
 まただ、と彼女は思った。ここにまたひとり、治癒の見込みのない者が、それでも治療を待っている。
「・・・・ここはどこだ」
 不意に患者が口を開いた。
 同伴の女性が答える。
「病院です。湘陽大学付属病院」
「・・・・なおる見込みがあるわけでもないのに、やっぱり病院に来ちまうんだな」
 今度はなるみのほうに向き直り、苦笑まじりに言う。
「あんたも、こんな患者を相手にすんの、むなしいだろう」
 そんなことはない、そう言ってはげましの言葉をかけるべきなのはわかっていた。しかし、今の彼女にはそれができなかった。硬直したように立ちつくす。
 かわりに口を開いたのは、つきそってきた女性だった。
「人間には、かならず死がおとずれます。それ自体は、とくに悲しむべきことではないでしょう。しかし、もしもまだ死ぬべき時ではない、と感じているなら、なにかすべきです。やり残したことに取り組んでもいいし、生き残る努力を続けるでもいい。いずれおとずれる死の瞬間を、悔いなく迎えられるように」
 かわいそう、でもなく、がんばれ、でもない。余命短い者に向かって、ただ『納得して死ね』、そう穏やかな口調で語る女性を、新米看護婦は驚きとともに見ていた。
 複数のあわただしい足音が響いてきた。これから戦いが始まる合図。
 やってきた主治医が女性の顔を見るなり言った。
「身内のかた?」
「いえ。通りすがりの者です」
 医師はとたんに興味を失った顔になり、看護婦たちに指示を飛ばしはじめる。患者はキャスターつきのベッドに移された。
「ICUだ!」
 運び出されるベッドに付き添いながら、女性は場ちがいなことを言いだした。
「『月の輝く夜に』、ではありませんか」
 医師は不信を顔ににじませ、なにか言おうとしたが、その前に患者が声をあげた。わずかに表情を輝かせている。
「ああ、そうだ! ニコラス・ケイジと、あと、あのいい味出してた女優・・・・」
「シェール」
「そう、シェール。うん、いい映画だったんだ」
「見ましょう、治ったら」
「誘って・・・・くれてるのか」
 女性はただ微笑むばかりだ。
「よし、これは死ねないぞ。絶対あんたとデートする。ディアブロでドライブして、それから、いいワインを飲みながら『月の輝く夜に』を見るんだ。約束だぜ」
「ええ」
 患者は安心して眼を閉じた。女性は彼が運ばれていく様子を背筋を伸ばして見送っていた。絵のようだった。
 その数秒後、警官たちがなだれこんできた。
「午前二時四十四分、窃盗、営利目的略取、および道路交通法違反の容疑で緊急逮捕します」
 工芸品のように美しい手に手錠がかけられた。
 彼女、ソニア・カークライトは無言で連行された。

 長い夜が明けた。
 たみも、ルリも、一睡もせずソニアを待ちつづけていた。眠くはなかった。膨らみつづける不安が、眼を冴えさせていたのだ。
「朝飯でも調達してくるか」
 ルリが立ちあがった。いらない、と言おうとしたたみは、空腹だと考えが悲観的になりがちだ、と思って無理にでも食事をとることにした。ただうなずく。
 のろのろとドアに向かうルリがふと足を止めた。今度はおそろしい勢いで突進する。ドアを開けるのももどかしく、階下をのぞきこむ。
「・・・・っ!」
 声にならないルリの悲鳴。
 たみも慌てて続く。
 見慣れた顔がふたりを見上げていた。
「ソニアああ」
 ルリは階段の十五段下にいるソニアの胸にダイブした。なんなく受け止められる。
「遅くなりました。警察の尾行を振り切るのに手間どってしまって」
 そう言って微笑みを浮かべる顔を見つめながら、たみは手すりを強く握りしめていた。ひざの力が抜け、そうしないと立っていられそうもなかったからだ。

 伊勢原中央警察署の取調べ室にいるあいだ、ソニアは完全な黙秘をつらぬき通した。ひとことも口をきかなかった。
 並大抵のことではない。どれだけしたたかな犯罪者であっても、事件に無関係な世間話には思わず応じてしまうものだ。社会を形成する生き物である人間は、他者の問いかけを無視しつづけることに大きなストレスを感じる。経験によってそれを熟知している警察は、巧妙にそこを突いてくる。
 取調べを担当したふたりの警察官は、内心舌をまいた。取調室という一種異様な空間にあって、その女性はまったく落ち着きを失うことなく、穏やかな微笑みを浮かべさえして完黙する。どれほどの話術を駆使しても、爪の先ほどの情報さえ得ることができなかった。婦人警官によるボディチェックで所持品などがあらためられたが、いくらかの現金が出てきただけで、身元を特定できるようなものはなにひとつなかった。これは妙齢の女性としてはあきらかに不自然で、いっそう疑いを深めることになったが、もちろん容疑を裏付けることにはならない。
「共犯者がいますね。目撃証言があります」
 無駄を承知で大和田警部補はきいた。やはり無駄だった。が、続ける。
「複数の警備員が、あなたの仲間のひとりが『蜃気楼コネクションだ』と名乗るのを聞いているんですよ」
 この女性が、かの怪盗のうちのひとりなのか。そうであってもおかしくはない、と大和田は思った。
 もちろん、答えは返ってこない。
 そのとき、ドアがあわただしくノックされた。
「失礼」
 そうことわって、大和田は席を立つ。ひとことも口をきかない容疑者に対してさえ礼儀を忘れないのは、警察官としては稀有な美徳といえるだろう。
 部屋を出たところでやりとりしているのがかすかに聞こえてくる。本当か、と何度も念を押す声には、いらだちが込められているようだった。
 取調室にもどってきた大和田の顔には、隠しきれない無念がにじんでいた。
「釈放です。如月氏が回復して、あなたの容疑を否定しました。看護婦のひとりも、あなたの適切な対処にいたく感心していたそうです」
 ソニアはなにも言わずに立ちあがった。大和田の部下らしき刑事がドアを開ける。 彼女に続き、ふたりの刑事もともにエントランスに向かう。まさにドアをくぐろうという瞬間、大和田がソニアの背中に声をかけた。
「あらぬ容疑をかけられて、ご迷惑だったでしょう。おわび・・・・」
「必要ありません」
 ふたりははじめて彼女の声を聞いた。想像以上につややかで落ち着いた声だった。大和田の脈拍が、なぜか少しあがる。
「あなたがたは、なすべきことをきちんと全うしただけです。ご立派だったと思います」
 それがいやみでもからかいでもないのが、ふたりにはわかった。不意にこみあげてきた感情に、大和田はとまどった。
「あの・・・・」
 お名前を、という言葉を、彼は飲み込んだ。警察官である自分に、この女性はきっと答えはしない。
 かわりに別のことを言う。
「お送りします、と言っても、きっと断られるんでしょうね」
 彼女は口元に笑みを浮かべただけで、去っていった。
 大和田の胸には不可解な感傷が満ちていた。しかし、それに流されてしまうほど彼は甘い男ではなかった。部下に言う。
「尾行しろ。気づかれるなよ」
 部下は黙ってうなずき、彼女が視界から消えるのを待ってあとを追い始めた。しかし、十分とたたずにもどってきた。
「申しわけありません・・・・見失いました」
 大和田は驚かなかった。この時点で、彼はあの女性が『蜃気楼コネクション』のひとりだと確信していた。自分たちが最大のチャンスを逃してしまったことも。
「まだ電車は動き始めていない。タクシー会社に連絡して、それらしい人物の情報を募ろう。それから、すこし仮眠だな」
 眠れるはずもなかった。

「尾行されないよう走って平塚駅まで行き、東海道線の始発に乗って帰ってきました。始発電車っていろんな人が乗ってるんですね。ちょっと面白かった」
 簡単に言うが、伊勢原中央警察署から平塚駅までは直線距離で十五キロ以上ある。最短距離を走ったわけではないだろうから、ハーフマラソンくらいはした計算にはなる。が、まあ、彼女に限って言えば驚くにはあたらないかもしれない。
 接客用のソファで、ソニアとルリは向かい合っていた。安心した反動か、ルリは相当なハイピッチでビールを胃袋に送り込んでいる。ろれつもすこし怪しい。
「ソニア、懲りてないか。うぃ」
「逆です。すごく刺激的でした。くせになりそう」
「捕まるのが? あぶねー女だな。わはは、ういっぷ」
 たみはソニアのひざにすがって寝息を立てている。その頭を、美しい手が優しく撫でつづける。
 たみが小さく寝言を言った。ソニア、と。
 そのとき、ルリの脳裏にひとつのイメージがありありと浮かんできた。
 ソニアが走っている。明けゆく空のもと、一心に。自分たちのもとへ。
 こみあげてきたなにかが、ルリの身体を動かした。小さなテーブルをまたぎ越える。蹴散らされた空き缶ががらがらと床に転がる。
 ソニアをかき抱いていた。目尻には、かすかに光るものがある。
「無事でよかった・・・・」
 首筋に顔を埋めたルリからは、ソニアの表情は見えない。しかし、きっと微笑んでいるだろう、とルリにはわかった。

 後日談になる。
 枕崎なぎさは、ナビゲーションシステムに記録されたパトカーの運行記録を、車体ごと海に捨てた。自らの保身というより、ルリたちの身を気遣ってのことだ。如月カーミュージアムをおとずれる前にウェスタン・ガーデン探偵社をおとずれていることは、ドライビング・トレーサの記録にしっかり残っている。襲撃事件との関連を、万が一にも連想されたくなかった。
「居眠り運転です」
 自信満々にそう主張するなぎさを、彼をこころよく思っていない石嶺横浜臨港署署長は疑わしげににらみつけていたが、ひとことこう言っただけだった。
「始末書」
「もちろんです! それと、パトカー弁償したいんですが」
 めずらしい生き物でも見るようにしばらくなぎさの顔を眺めたあと、石嶺は吐き捨てるように言った。
「却下。そんな前例はない」
 なぎさは慌てた。弁償しさえすれば税金の無駄遣いにはならないと、単純に思いこんでいたのだ。資産家の息子らしい、やや世間知らずな発想である。
「ちょ、ちょっと。それじゃあんまり・・・・」
「この話はこれ以上したくない。仕事にもどりたまえ」
 手を振り、あっち行けのサイン。
 以来、なぎさはやや精彩を欠いている。そのくらいのほうが扱いやすいのも事実だったが。
 少女らしい執着心を発揮して、たみはソニアにべったりである。本人は気づいていないかもしれないが、常に視線はソニアを追っている。視界から外れると不安になるようだ。だから、出かけるときもいつもソニアを誘う。ねえソニア、服を見に行こうよ。ねえソニア、アキハバラにつきあってくれない? ねえソニア、ねえソニア。
 家族、というものに縁のなかったルリは、そんな様子を見て柄にもなく目頭が熱くなったりするのだった。
 ソニアは一度だけ、変装して如月の見舞いに行った。そこでどういうやりとりがあったかは語らなかったし、ルリもたみも無理に聞こうとはしなかった。
 そしておよそ二ヵ月後、如月は死んだ。医師もためらうほどリスクの大きな手術を受け、そのさなかに急変したのだという。新聞の訃報欄で知ったソニアは、しばらくのあいだ黒以外の服を着なかった。
 如月の死からさらにひと月ほど経ったころ、見知らぬ法律事務所からソニアあてに封書が届いた。読み終えた顔には、よろこびと憂いがないまぜになったような不思議な表情が浮かんだ。そして、毎週土曜の夜になると、着飾って出かけるようになった。どうしても気になったルリがたずねると、ただ『デートです』と言ったきり、いたずらっぽく微笑むのだった。
 さて、時期を同じくして、箱根をステージとするストリートレーサーたちのあいだでひとつの噂が語られるようになった。
 毎週土曜、古い、黒っぽいスポーツカーがどこからともなくあらわれ、バトルを挑むクルマをことごとく置き去りにしてどこかへ消えてしまう。そして、ステアリングを握るのは息を飲ほどの美女である、と。
 真偽のほどは定かではない。

END

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「蜃気楼こねくしょん、5,4,3,2,1,0!」

第二話 ディアブロ救出

 この界隈でソニアを知らぬものはいない。今日も例によって、通りすがりに声をかけられる。
「よう、ソニアちゃん、今日もべっぴんだねえ。サバのいいのが入ってるけど、どうだい。おじさん、安くしちゃうよ」
 横浜、野毛界隈。港方面から徐々に再開発の手が伸びているとはいえ、いまだ下町の空気を色濃く残している。威勢のよさと愛想が一番の売り物、という感じの店も多い。ここ『魚政』もそんな店だった。
 ソニアはまばゆいプラチナブロンドを揺らし、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます。でもわたし、光りものが苦手で・・・・」
「そうかい? 本人は光り輝いちゃってるのにねえ。俺といっしょで。なんちて、がはは」
 そう言って自分のはげ頭をツルリとなでる。
 オヤジのさぶいジョークは好意のあらわれ。それが理解できているソニアは、軽くあしらったりしない。
「まあ、おじさまったら。うふふ」
 顔の広い彼だが、知り合いの中で『おじさま』などと呼んでくれるのはソニアひとりである。彼の鼻の下は、四十センチくらい伸びた(イメージ映像)。
「えへへ」
「では、ごきげんよう」
「おう!」
 今日もソニアの『ごきげんよう』を聞けた。
 彼は、おおいに満足した。
 顔見知りの人々に次々と声をかけられながら、ソニアは商店街を進む。彼女の顔を見ると、知人たちは老若男女を問わず表情を緩めて話しかけてくる。人徳(?)であろう。
 ソニアは酒屋の前で足を止めた。
「ごめんください」
「あらあらあら、ソニアちゃん! 今日もきれいねえ」
「奥様も」
 酒屋のおかみは明らかに太りすぎており、もちろん自分でもそれに気づいていたが、ソニアのほめ言葉はなぜか素直に聞くことができた。わずかに耳が赤らんでいる。
「いやだよ、ほほほ。・・・・で、いつものでいいのかい」
「はい」
 ソニアは先に金を払い、店内に平積みされた『スーパードライ・クラシック』の五百缶二ケースをひょい、と持ち上げた。
「では、ごきげんよう」
 三十キロ近くある荷物を軽々と抱えて歩み去るスリムな後姿を見ながら、やっぱりあれかねえ、異人さんてのはみんな力持ちなのかねえ、などと、そのおかみは考えていた。

「ただいま帰りました」
「やあやあ、ご苦労ご苦労」
 ルリが満面の笑みでソニアを、というよりビールを出迎えた。もちろん、彼女が使いにやらせていたのである。
 ソニアはにこにこと笑って席につく。人間に奉仕すべき存在として造られた彼女らロボットは、誰かにつくすことをいとわない。犬には服従本能というのがあって、飼い主や群れのボスに従うことに喜びを感じるというが、それに近いメンタリティが与えられているようだった。
 ここ『ウェスタン・ガーデン探偵社』にソニア・カークライトが面接にあらわれたのは、開業してから約四ヵ月後のことである。
 西園寺たみも逆瀬川ルリも、比較的動じないタイプの人物だった。それでも、ドアをあけてあらわれたソニアの美貌にはさすがに息を飲んだ。
 映画好きのたみは『天使とデート』のときのエマニュエル・ベアールをを想像した。
ひそかに自分のバストに自信を持っていたルリは、ソニアのそれと見比べてにわかに自信を失った。
 彼女は自分を『性転換して女性になった人間』だと信じていた。事実、セクシャル・マイノリティ特有の優しさ、心遣いの細やかさに近いものを、ソニアの人格から感じ取れなくもない。
「ルリさん、あまり飲みすぎないでくださいね」
「う、うん」
 ソニアたちロボットと人間とを決定的に隔てている要素は実はそう多くないが、『相手に見返りを求めない』というのはそのひとつであろう。ゆえに、彼女が誰かに忠告をするときは、本当にその身を案じているのだ。それが最近わかってきたルリは、ソニアの言うことに素直に従うことが多くなっていた。
「今日は、五本くらいにするよ」
 二千五百。鯨飲おんな、とたみに評されるルリにしては、それでも相当に控えめな量であった。

 例によって客はない。電話もない。メールも知人か広告のものだけ。ここのところ、調査依頼なしの最長記録を更新中である。さすがにヒマな空気が漂っていた。
「テレビでも見るとしますか」
 たみがコンピュータのディスプレイをTVに切り替え、三人で見える角度に向ける。ニュース番組。ルリはちらりと視線を向けただけで眼を閉じた。寝る気らしい。彼女は、自分たちのことを報じたニュース以外興味がない。
《・・・・なるほど、今後減少し、歴史の遺物となってゆくガソリン車を可能なかぎり保存しよう、というわけですね!》
 どうやら、クルマの博物館に関する話題のようだった。妙にテンションの高い女性リポーターにマイクを向けられているのは、よく言えばエネルギッシュな感じの中年男性だった。ずいぶんと派手な、いまどきレジメンタルストライプのネクタイをしている。
 焼肉とか好きそうなオヤジだわ、とたみは思った。
《いやあ、保存しようとか、歴史がどうとかなんて立派なものじゃなく、ただ好きだから手元においておきたいってだけですわ。わはは》
 テンションの高さではこの人物も負けていない。
 カメラはふたりを追って館内を順に映し出してゆく。希少なクルマ、とくに大型のスポーツカーが中心にコレクションされているようだった。
 その、館長らしき人物が一台のクルマの前で足を止めた。
《わたしのもっとも好きなクルマです。スタイルとエンジンのためにすべてを捧げた、馬鹿馬鹿しくも愛すべき一台》
 なんの気なく視線をめぐらせたたみは、息を飲んだ。
 ソニアが泣いていた。
「ソニア、どうしたの」
「・・・・あのディアブロは、わたしの友達です」
 ランボルギーニ・ディアブロ。悪魔の名を持つクルマ。
 クルマが環境ヒステリーの矢面にたたされる直前、幸福な時代に咲いた最後のあだ花。五七〇七CC、十二シリンダーDOHCという馬鹿げたエンジンを、異様なまでに低く幅広いボディの中央に搭載した、本物のモンスターマシン。当時の市販車の中でも、運転のしにくさでは群を抜いていたという。
「・・・・と、友達ぃ?」
「ええ。木田作之進くんていうんですけど、彼とはソっちゃん進ちゃんと呼び合う仲でした」
「・・・・???」
 たみは混乱した。ソニアは何かのたとえ話をしているのだろうか。それとも、単純に自分が聞き間違いをしているのだろうか。あるいは、あるいは・・・・本当の本当に、ソニアはクルマと話ができるのだろうか。
 ばかな、と一瞬考えたが、ソニアの顔を見ているうちに、いや、彼女ならそのくらいのことはできかねない、と思いなおす。
《このクルマ、動くんですかあ》
 画面の中では、リポーターが頭の悪そうな質問をしている。
《もちろん、動きますよ。でも、何十年も前の、あってないような環境基準で造られたクルマですからね。とてもこのご時勢に走らせられるような代物じゃありません》
《排気ガス、きたないんですか》
《今のクルマと比べたら、相当ね》
 前世紀末頃、高性能化を文字どおり突っ走ってきたクルマは、ほとんど唐突と言えるほどの方針転換をはかった。開発競争の矛先が、環境適合性、省燃費性、安全性へと向けられるようになったのである。おおっぴらに最高出力を誇ったりするのははばかられるような雰囲気になっていった。
 そんな時代の流れにあって、スポーツカーは肩身の狭い立場に追いやられてゆく。誰が見ても野蛮なディアブロなど、その最たるものといえた。安全性に乏しく、大食いで、排出ガスもただごとではない。反社会的、と言われても(実際言われたが)返す言葉もない。ただ、それだけに魅力も大きかったと言える。
《じゃあ、このクルマ、二度と走ることはないんですね》
《残念ですが、そうせざるを得ないでしょうな》
 それほど残念そうには見えない。この人物にとっては、走らせることよりも所有することのほうが大事なようだ。
 たみはソニアの表情を盗み見る。
 つらそうな顔をしていた。

 その日の夕方、ついに依頼主があらわれた。たいしたものではない。二十九才の独身女性が、つきあっている男性が浮気をしているので調べてほしい、と相談を持ちこんできたのである。
「あのひと、だまされてるのよ。そうに決まってる」
 メガネの奥で小さな眼をしばたかせ、虫歯に響きそうなきんきん声でその女性は言った。
「相手は若くて見た目がいいだけがとりえの、しょうもない小娘なのよ。わたくしのような家柄のしっかりした者が負けるわけがありませんわ。そう思いませんこと?」
 思いません。
 正直すぎる感想のかわりに、たみは曖昧に微笑んでみせる。遠慮のない物言いでずいぶん仕事(表の、だ)を棒に振ってきた。さすがに多少は自制することをおぼえた、ということだろう。
 ルリが調査料をふっかけ、最終的にはソニアが話をうまくまとめ、悪くない条件で折り合った。
 相談したことで胸のつかえがおりたのか、客は上機嫌で帰っていった。
「気に食わない女だけど、まあ、金づるではあるわな」
 ルリが全員の感想を要約した。
 そんなこんなで、たみはディアブロ、もとい、木田作之進くんの一件をすっかり忘れてしまった。
 もちろん、ソニアは忘れてなどいなかった。

「この男に結婚を約束した人がいるの、知ってる?」
 直球である。
 男はあきらかに落ち着きを失い、視線を泳がせていた。浮気相手の女のほうがまだ度胸がすわっているようだったが、ルリが相手では迫力負けするのも仕方のないところだろう。
 めずらしくルリは隙のない装いをしていた。黒いミニのワンピースにハイヒール、メイクもしっかりと施し(と言ってもソニアの手によるものだったが)、色の濃いサングラスで表情を隠している。赤いルージュがなまめかしい。
「・・・・知ってるわよ」
 女はぶすっとした顔で言うと、そっぽを向き、続ける。
「だからどうしたってのよ、オバサン」
 ルリの眉がぴくん、と跳ねた。ゆっくりとサングラスをはずす。
 男の口があんぐりと開いた。女も一瞬息をのみ、顔に敗北感をにじませる。
 自分の美貌の効果をじっくり確かめてから、ルリは仕事の詰めにかかった。
「あたしのクライアントはね、この男があんたと別れないなら、婚約を解消するそうよ」
 男の顔色が変わる。
「当然、彼女がこの男にあたえてるカードもクルマも、もしかしたら仕事だって取り上げられるかもね。そうなってもこの男についていくってんなら、あたしは止めない」
「冗談じゃない。お金がないならサヨナラよ。ずっと見た目のいいのをキープしてあるもの」
「おい!」
「なによ! あなた、お金も仕事も捨ててわたしをとる気あんの」
「そ、それは・・・・」
 ルリは、女の瞳に一瞬だけ悲しみの色がよぎるのを見逃さなかった。
 ・・・・第一印象ほど、嫌な娘じゃないかな。
 ルリは評価を改めた。
 女に言う。
「あなたは、金はないけどみてくれと中身のいいボーイフレンドと幸せになる」
 男のほうに向きなおる。口調は自然ときつく、皮肉混じりのものになった。
「・・・・あんたのほうは、金持ちの女と元のさやに収まって、豊かな生活を維持する。それでいいんだろ。それとも、三人で直接話し合う? 保証するけど、修羅場になるよ」
 男はぶるぶると首を振った。
 女は、蔑みもあらわにその様子を一瞥すると、すたすたと歩み去った。
 ルリとふたりになったところで、男がおずおずと言った。
「あの、よかったら食事でも・・・・」
 言い終えることはできなかった。ルリの正拳を食らって失神したからだ。

 いまさら言うまでもないことだが、ウェスタン・ガーデン探偵社の三人は、みな探偵業に関しては素人である。調査は行き当たりばったり、自己流、思いつきの組み合わせ。それでもどうにかここまでやってきている。おそるべき幸運といえよう。
 今回も、ルリの速攻によって調査(調査?)そのものは無事に終えることができた。あとはそれらしい報告書をたみがでっち上げ、ソニアが依頼主に都合よく説明しておしまい。あきらかにやっつけ仕事だったが、依頼主の女は思いのほかはやい解決をよろこび、調査料に色をつけてくれた。さすが、恋人に自分名義のカードを渡してしまうだけのことはある、とルリは妙な感心をした。
 さて、調査料の分配である。
 まず、全体の半分は会社の維持費に充てられる。残りの半分を三人で均等に分ける。一円単位まできっちりと。非常に民主的かつ大雑把なやりかたである。
 金を受け取り、さあ今夜は関内あたりにくりだすとするか、などと考えていたルリは(オヤジか)、ソニアの切羽つまった声に顔をあげた。
「あの、お休みをいただきたいんです」
 ルリは驚いた。たみも驚いて聞き返した。はじめてのことだったからだ。
「いいけど、なんで」
「・・・・ちょっと、箱根に」
「何しに」
 他人のプライバシーに干渉するたちではないたみだが、さすがにわけがありそうだ、と追及する。
「あのう、クルマを買いに」
 ようやくたみは思い出した。例のディアブロの件に違いない。
「木田くん?」
「・・・・はい」
 ソニアとたみの顔をかわるがわるのぞきこんでいたルリは、我慢できなくなって聞いた。
「ちょっとちょっと、話が見えないんだけど?」
 あんたが寝てたからでしょ、とたみは言おうとしたが、先にソニアが答える。
「実は・・・・」
 かくかくしかじか。
「・・・・なるほどね。それで旧友を買い戻して自由にしてやろう、ってわけか」
 その旧友がイタリア製スポーツカーだということをどう受け止めたのか、ルリは疑問をさしはさまない。彼女もまた、その思考形態において常人と少なからざる差異が認められる。ありていに言えば、おおいに変わっている。
「でもさ、高いぜ、きっと」
「ええ、おそらく。でも、いまのわたしには多少のお金はあります」
 ソニアは預金通帳を取りだしてふたりに見せた。
「なっ・・・・」
「なんじゃこりゃあ!」
 とても多い桁数の数字を見て、ルリはめまいをおこした。自分が一日に飲むビールの金額何年分に相当するか暗算しようとして失敗する。
「これだけあれば、買えますよね」
 それは間違いなかった。しかし。
「ちょっとお待ち!」
 ルリは立ち上がっていた。
「ソニア、あんた、自分たちが何者だか忘れてるんじゃないでしょうね」
「はあ」
 ルリは夕陽(があるであろう方向)を指さし、声も高らかに宣言した。
「あたしたちは、天下の怪盗『蜃気楼コネクション』なのよ! 欲しいものがあったら盗む! やるわよ!」
 言うと思った。
 たみは気づかれないようにため息をついた。

 ルリはひとりで盛り上がると、ばかすかビールを飲んで寝てしまった。『よう、びしっとした計画、たのむぜ』とたみに言い残して。
 脳天気なルリの寝顔を見ているうちに、たみの胸にむらむらと殺意がこみあげてきた。視線が無意識にひも状のものを探す。
 ルリの命は救われた。ひもはなかった。
 しかたなく、たみは計画を立てるべくコンピュータに向かう。そして、画面に表示されている地図を見ながら、はて、と根本的な問題に思い当たった。
「あのさ、ソニア」
「はい」
「クルマ、じゃない、木田くんを盗みだしたあと、どうすんの」
「運転します」
「・・・・あ、いや、そうなんだろうけどさ、保管場所とかさ」
「・・・・」
「考えてなかったのね」
「・・・・はい」
 冒されている、とたみは思った。そのウィルスに冒されると、極端な楽観性がものごとを深く考えるのを妨げるようになる。ロボットさえ感染させる、その名をルリ・ウィルスという。
「運転、できるの?」
「練習します」
 重症だ。
 たとえば免許を取るとして、そのとき戸籍の写しなどが必要になるのではなかったか。そのへん、ソニアはどのようになっているのだろうか。いやまて、外国人登録か。まあいいや、まずは盗みだしてからあとのことは考えることにしよう。
 そこまで考えて、たみはぎくり、とした。
 わたしも、ウィルスにやられ始めている。
 その夜、たみは大学時代のテキストをひっぱり出し、夜の更けるまで勉強していたという。

 ふだんから決して落ち着きのある人物ではなかったが、その日の枕崎なぎさ警部の浮つきかたは、ただ事ではなかった。
「ねえ西本くん、愛って何だと思う?」
 声をかけられた婦警は絶句した。
 まともに取りあっては危険だ。
 その婦警、西本さつきはとっさに的確な判断をし、ジョークで応じた。
「Hの次にくるものだと思います」
 それを聞いて、なぎさはみるみる顔を赤らめた。さつきはアルファベットのことを言ったのだが、何か穏やかでない勘違いをしたらしい。
「ふ、深いな。西本くん、きみ、見かけによらず大人だねえ」
 なぎさの勘違いに気づいたさつきも、顔を赤くした。
「やだ、副署長、いやらしい」
 ばかくさい光景であった。
 なぎさのこのハイテンションは、当然ルリがらみである。非常にめずらしいことに、ルリのほうからなぎさの携帯端末あてに電話があったのだ。内容は『クルマを出せるか』というだけのものだったが、なぎさはすっかりルリとふたりきりのドライブに出かけるつもりになっていた。
 それでこの舞いあがりかたである。たまに見せる明晰さなど打ち消して余りある脳天気ぶりと言っても、さしつかえあるまい。
 なぎさは自分の想像の世界にもどった。時折含み笑いなどもらしながら、にやけた表情を浮かべている。好ましからざることを思い浮かべているのは、誰の目にもあきらかであった。

 ウェスタン・ガーデン探偵社に、クルマはない。ルリが免許を持っていたが、乗っているのは大型のバイクである。たみは免許の取得年齢に達していないし、ソニアは免許が取れるのかどうかさえわからない。クルマが必要なときはレンタカーを手配したりするのだが、今回はなぎさを頼ってみた。
 行先は箱根。例の個人自動車博物館、『如月カー・ミュージアム』まで木田くんに会いに行ってみよう、ということになったのだ。
 旧友との再会に恥ずかしくないよう、ソニアはいつも以上にドレスアップしている。おそらくはシルクであろう、シンプルなラインのタイトなドレスは純白。美しく白い肌の持ち主でしか決して着こなせないものだ。波うつプラチナブロンドの髪には濡れたようなつやがあたえられ、唇のグロースとあいまって眼のやり場に困るほどのセクシィさを醸している。よく見れば、目許にはかすかなスパンコール。
 これほど派手ないでたちでも下品に堕すことがないのは、彼女が生来そなえた気品ゆえであったろう。同性のたみやルリでさえため息をつきたくなるような、それはゴージャスな美しさだった。
「ソニア、今日は一段ときれい」
 たみの言葉に、ソニアは満足げに微笑むと、言った。
「おふたりも、とても素敵です」
 ついでと言ってはなんだが、ふたりもそれなりにめかしこんでいた。ソニアの友人に敬意を表したつもりである。たみはレースをあしらった花柄の長いワンピースで令嬢風にまとめ、おとなしくて利発そうな美少女に化けている。ルリは身体の線がはっきりあらわれるスーツに躍動的な身をつつみ、髪を結いあげて高級コールガール風(?)に決めていた。
 ドアがノックされた。
「枕崎です。ルリさん、お待たせしました!」
 ドアをひらいたなぎさは、あんぐりと口を開けて言葉を失った。無意識に眼をしばたくほどのまばゆい光景。
「よう、ご苦労」
 ルリの声で、宇宙をさまよっていたなぎさの意識は地球にもどってきた。
「・・・・こ、これはみなさん、なんともあでやかな・・・・」
「そーゆーオメーのカッコは何だ」
 ルリが言うのも無理はない。インパクト、という点ではなぎさの装いも負けていない。
 タキシードであった。
「や、何といっても今日は男・枕崎なぎさ一世一代の晴れ舞台、ルリさんとのラブ・ドライブですからね。や、このくらいは当然」
「ラブは余計」
 ルリはなぎさの勘違いに気づいていたが、面倒なので訂正しない。
「ささ、いざ参りましょう」
 緊張ゆえか、なぎさの口調はどこかおかしい。
 彼に続き、三人は三階ぶんの階段を降りる。エレベータなどという気の利いたものは、この老朽ビルにはない。
 なぎさは、ルリだけでなく全員が自分についてくるのを見て、おかしいな、とちらりと思ったが、努めて気にしないことにする。
 外に出ると、妙な雰囲気が漂っていた。誰もルリたちと眼を合わせようとしない。にもかかわらず、自分たちの身に関心が集まってるのがなんとはなしに感じられる。
 理由はすぐにわかった。
「枕崎」
 なぎさに向き直ったルリの顔からも、声からも、一切の表情が抜け落ちていた。
 なぎさはひっ、と息を飲み込んだ。雪女、という単語を連想した。
 雪女の顔に表情が浮かんだ。鬼の。
「パトカーで迎えにくるやつがあるかあ!」
 飛んできた平手を、なぎさは奇跡的にかわした。しかし、かわさないほうがよかったのだ。
「ぬん!」
 攻撃をさけられたことでほとんど自動的に本気モードに入ったルリが、腰の入ったストレートを放つ。見事なコルクスクリュー・ブローは、吸い込まれるようになぎさの顔面にヒットした。
 なぎさは前歯四本と、意識の連続性を失った。つまり失神した。

「ふぉらは、ひゃっぱりひ、はひゃかったれしょほ」
 ほら、やっぱり、早かったでしょ。
 鼻にティッシュが詰めてあるのと前歯がなくなったせいで、なぎさの言葉はききとりにくい。
 パトカーなんか絶対嫌だ、カッコ悪い、レンタカー借りる、金は枕崎、おまえが出せ、といきり立つルリを、なぎさはひとことで説得した。
「ルリひゃん、ヒャイレン鳴らひぇば飛ばひ放題れふひょ」
 ぴく、とルリの肩が動く。
「・・・・あたしが運転しても、いいのか?」
「もひろん」
 ギラリと、ルリの瞳にぶっそうな輝きが宿った。
「よーし、行くぞ、みんな。ぐずぐずすんなよ!」
 たみとソニアは彼女の気まぐれに慣れているので、肩をすくめただけで何も言わずにパトカーに乗り込む。
 その様子を、なぎさが悲しそうに見ていた。
「・・・・はは、そうれすひょね。うん、みんなのほうが楽しひれふひょね・・・・」
「おら、枕崎、ちんたらしてっとおいてくぞ」
 というようなわけで、あらゆる赤信号を突破し、第二東名高速道路では常時二百キロ以上のスピードでやってきたのだった。
 極端に乗り物に弱いなぎさは、自分で運転するとき以外はビニール袋が手放せない。僕、子供のころから乗り物に弱くて、と言うなぎさに向かってルリはきっぱりと保証した。
「いいか、あたしが運転すんだ。酔うわけない!」
 なぎさは本当に酔わなかった。高速を降り、箱根のワインディングロードに入っても平気だった。愛の力(?)も、案外あなどれない。
 思う存分飛ばしまくったルリは上機嫌でクルマを降りる。
「いやー、こりゃあ病みつきになるぜ。いい経験をさせてもらった。枕崎、サンキュ」
「いやいや、パヒョカーくらひひふれもお貸ひひまふひょ。ひゃひゃひゃ」
 警察官のモラルは?
 ああ、このあいだ質屋で見かけましたよ。
 たみは自分の思いついたジョークに絶望してため息をつき、クルマを降りる。
 場所は箱根、強羅の有料駐車場。さすがに、目的の博物館にパトカーで乗りつける神経は、少なくともなぎさをのぞいた三人にはない。
 とはいえ、駐車場から如月カー・ミュージアムまでの道のり、彼女たちは目立ちに目立った。惜しかったのは、三人ばらばらなスタイルながら危ういところでバランスが取れていたのが、なぎさの頓狂な格好でぶち壊しになっていたことだ。が、誰も気にしている様子はなく、周囲の注目を平然と浴びながら行進する。
 目的の建物は正直、あまり魅力的な外観ではなかった。コンクリート剥き出しで、形も無愛想。大きさだけがやけに目につく。きらびやかなのは駐車場で、入場者たちが乗ってきたらしい古今東西の名車が並んでいる。カーマニアなら、この駐車場だけでも興奮できそうだった。
 たみはセキュリティシステムをチェックする。カメラの存在、警報機が発する赤外線や電磁波、そして警備員の配置。それほど高くない入館料を払って館内に入ってからも、さまざまなセンサ類をひそかに駆使して様子を探る。
 このような施設に保管されている場合、クルマというのは決して盗みやすいものではない。建物の外に出すのに特殊な手段が必要な場合があるし、、バッテリや燃料が抜かれていたら、盗もうとする者がそれを手配しなければならないからだ。
 それにしても、とたみは思った。
 ザルにもほどがある。結局、発見できたのは入口の監視用カメラと、申しわけ程度の赤外線センサ。警備員も、駐車場の交通整理係の華奢な若者と、入口に立っていたあきらかに定年後の再就職とわかる老人のみ。やる気がないのか、クルマ自体に金をかけすぎてセキュリティシステムまで手が回らなかったのか、あるいは、こんなところに盗みにくる酔狂な泥棒などいるはずはない、とたかをくくっているのか。
 たみのボルテージは下がった。盗むのが困難だからこそ燃えるのであって、これでは彼女にとってコンビニで万引きするのと(したことはなかったが)大差ない。クルマが好きなわけでもない彼女は、入館十分後にはすでに退屈しはじめていた。
 乗物全般が好きなルリは、けっこう楽しんでいる。
「お、R32型GT―Rだ! はじめて見た。あ、初代ユーノス・ロードスター! かわいいなこれ、枕崎、買ってくれよ」
「はひ!」
「冗談だ、ばかたれ」
 そんな中、ソニアひとり、あきらかに緊張していた。パンフレットでイタリア車コーナーを確認すると、決然と歩き出す。他の三人も慌ててそれにならった。
 その区画だけ、他のコーナーとくらべて際だって華やかだった。赤いクルマが多いせいだけではない。クルマたちのスタイル自体が芸術的で、官能的で、個性的なのだ。イタリア人がクルマに傾ける情熱は、日本やドイツ、アメリカあたりとはあきらかに方向が違うようだった。ルリが言った言葉が、あんがい本質を突いているかもしれない。
「うひょー、さっすがイタリア、女にもてるためだけにクルマを選ぶだけのことはある」
 フェラーリ512ベルリネッタ・ボクサー。アルファ・スパイダー。マゼラッティ・クワトロポルテ。フィアット・バルケッタ。どれひとつ取っても似た形はなく、自分こそいちばんスタイリッシュなのだ、と主張しているようだった。
 その中に、他を圧するように一頭の猛獣がいた。ガンメタリックのボディを静かに横たえ、眠っている。
「進ちゃん・・・・」
 それが、木田作之進こと、一九九二年式ランボルギーニ・ディアブロだった。

 再会の感慨にひたるソニアに気を遣い、三人は遠くから様子をうかがう。
「なんかさあ、それっぽい雰囲気じゃん」
 ルリが言うのももっともであった。
 美女と野獣。絵になっている。
 たみは、ちらりと眼にしたスペック表を思い出す。
 V型十二気筒DOHC、五七〇七CCエンジンを車体中央に縦置き。最高出力は四九二馬力、最高到達速度三〇〇キロ以上。経済効率優先の電気自動車が主流となり、アウトバーンの速度制限が年々下げられている現状から考えると、正気の沙汰とは思えない。
 低い柵をはさんでクルマと対峙していたソニアが、ふと動いた。
「やばっ」
 柵を乗り越えようとするソニアに、ルリが突進する。
 ドアノブに手をかけた瞬間、ルリがはがい締めにして止めた。耳元でささやく。
「ソニア、やめろ。命令だ」
 もがいていたソニアがぴたりと動きを止める。ロボットである彼女は人間の命令に逆らうことはできない。命令だ、という言葉は万能の呪文だった。
「おやおや、美しいご婦人方が、穏やかではありませんな」
 ルリが振り向くと、ひとりの中年男性が苦笑を浮かべて立っていた。彼女は知るよしもなかったが、この博物館の館長、如月大介であった。一見して金のかかった服装をしている。が、それとセンスとはまた別の問題であろう。
 離れて見守っていたたみは舌打ちした。下見の段階で騒ぎを起こすのは、いかにもまずい。
「この女・・・・」
 ちょっととろくて、と続けようとしたルリをさえぎって、如月がソニアに話しかける。
「お好きなんですか、ディアブロ」
「・・・・はい」
「めずらしいですな。このクルマ、はっきり言って女性には人気がないのですよ。フェラーリなんかは万人受けするんですが」
 彼が言うのは間違っていない。イタリア製スポーツカーの代表であるフェラーリは、流麗でそつのないスタイルをまとう。誰が見ても美しいと思うような。くらべてディアブロのスタイルはあまりに個性的だった。異様なまでに低く幅広いボディは直線基調で、エッジが効いている。正面から見ると、エンジンに大量の空気を送り込むためのエアインテークが、左右ドアの後方に巨大な口を開けている。迫力のある外観であることは確かだが、華麗、優美といった表現からは程遠い。
「よろしかったら、乗ってみますか。室内なのでエンジンはかけられませんが」
「よろしい、のでしょうか」
「特別ですがね」
 ソニアはしばらくためらい、そして言った。
「いえ、けっこうです」
「・・・・そうですか。では、毎週月曜から水曜まではここに滞在していますから、その気になったら声をかけてください。ディアブロのよさがわかる女性は貴重だ」
 如月はぶらぶらと歩み去った。ソニアに対して下心があったのかもしれないが、それを表情に出さなかったのはほめられるだろう。
「よかったのか、ソニア」
「ええ。彼に乗るのは、今じゃありません。いっしょに走るときです」
「そうか。そうだな」
 たみが言う。
「わたしもこのクルマ、気に入ったわ。悪者、って感じするもの」
 なぎさも同意する。前歯のない状態に慣れたらしく、多少聞き取りやすい発音になっていた。
「そうですね。このクルマを造ったランボルギーニってメーカー、スポーツカーに乗るということの罪を隠そうとはしなかった。二人しか乗れないクルマに巨大なエンジンを乗せて、大量のガソリンを爆発させてガスを吐き出す。その引き換えとして狂気じみた加速を垣間見る。それがスーパースポーツカーというクルマなんだ、言い訳などしようもないんだ、って。ポルシェやフェラーリでさえ環境がどうとか言い出しても、ランボルギーニは態度を改めなかった。ある意味、潔い」
「枕崎、おまえカーマニアだったのか」
「クルマの嫌いな男の子はいませんよ」
 とりあえず目的は遂げた。一同は博物館をあとにした。

「今回は、力わざよ。ガーンと襲撃してサッとかっぱらってピューッと逃げる」
 言いながら、どんどん緻密さが失われているようなのは気のせいだろうか、とたみは考える。かまうものか、世の中、ガサツなやつの勝ちなのだ、とも。
 ひとことで方針を告げたたみは、翌日から自宅にこもりきりになってしまった。おそらくは、彼女好みの奇抜なメカでも作っているのだろう、とルリは想像していた。まあ、表の仕事の依頼があるでもなし、たみ抜きで困ることもない。
 友人の救出に向かって事態が動き出したためか、ソニアの表情は眼に見えて明るくなった。いっそう美しくなったようにも感じられる。さらには、持ち前の奉仕精神を今までにも増して発揮し始めたものだから、いっしょにいるルリの居心地はよくなる一方だった。
 はつらつとしたソニアに引きずられてルリも妙にやる気が出てしまい、必要以上に高いテンションを維持したまま当日がきた。
 えてして、こういう時にトラブルは起きるものだ。

 そのニュースを見た枕崎なぎさ警部は、飲んでいたスイカジュースを霧状に吹き出した。そばにいた婦警がのけぞってよける。
「やだ、副署長、きたないー」
 背中をばしばしどつかれる。署のナンバーツーとしてはあんまりな扱われ方だったが、ふだんからこうである。最高に好意的な言いかたをすれば、『親しみやすいキャラクターで慕われている』ということになるだろうか。
《今日未明、神奈川県箱根町にある自動車博物館『如月カー・ミュージアム』に何者かが侵入し、展示中の車一台を盗んで逃走しました。また、滞在していた博物館のオーナー、如月大介氏も行方がわからなくなっており、小田原西警察署は犯人に拉致された可能性もあると見て捜査を進めています。なお、犯人グループが連続窃盗犯『蜃気楼コネクション』だと名乗るのを、複数の警備員が聞いていたということです》
 これが盗まれた車です、と映し出されたのは、まぎれもなく、例のランボルギーニ・ディアブロだった。
 まずい。最高に、まずい。
 なぎさの背中を、ウォータースライダーのような汗が流れ落ちる。
「副署長、顔色紫になってますよ。大丈夫ですか」
「わはは。平気平気。もう、マイク・タイソンくらい平気。じゃあ、ちょっとやることできたから、失礼!」
 真新しい差し歯を不自然にきらめかせ、逃げるようにその場を離れながら、なぎさは当然思い当たっていた。
 あれは、下見だったに違いない。もし彼女たちが捕まるようなことがあったら、自分もただではすむまい。
 この難局を乗り切るべく、彼の頭脳は急速に回転を上げはじめる。
 まず向かったのは、駐車場だった。

つづく
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前編はこちら

「枕崎、あんた今度の水曜日何してる?」
 なぎさはがば、と立ちあがった。
 場所は小洒落たカフェテラスである。ルリの趣味ではないが、なぎさはこういう場所につれて来たがる。恋人同士と錯覚したいのかもしれなかった。
 なぎさは語尾を震わせながら言った。
「か、感激だあ! ルリさんからデートに誘ってくれるなんて」
 人目が多いのはなぎさにとって幸運だった。でなければ、正拳のひとつももらっている。
「・・・・妙な勘違いはやめて答えろ。水曜日は、何してる」
 ありありと落胆の表情を浮かべ、ふたたび席につく。風船がしぼむ様子を連想させた。
「まあ、仕事、してると思いますけど」
「そうか。じゃあ、別にいっか」
「なんでです?」
「うん、うちの会社、社員旅行で誰もいないから。一応教えとこうって思ってさ」
 来ても無駄だぞ、という意味だ。
「社員旅行! いいなあ! 公務員って、そういうのないんですよね。有給とって、ついて行っちゃおうかな」
 ルリは慌てた。なぎさなら本当にやりかねない。
「ばかやろう、ちゃんと働け。だいたい女同士の旅行について来ようたあ、破廉恥にも程が・・・・っておい、聞いてるか」
 なぎさは遠い目をしながら口を半開きにしてふやけた笑みを浮かべていた。旅行の様子でも想像しているに違いなかった。
 ルリはパンプスのかかとでなぎさの足を踏んだ。より詳細に記するなら、思いきり体重を乗せ、ひねりを加えて踏みにじった。
「あぎゃ」
「聞いてるか」
「はいはいはい! 聞いてます聞いてます! ちゃんと職務に励みます!」
 ルリはひとまず安心した。
 しかし。
 彼女は、枕崎なぎさという人物の評価を誤っていた。
 そして、決行の水曜日が来た。

 その女子大生らしき人物、流行の服を着、サングラスを頭にのせ、ブランドもののブリーフケースを抱えた彼女は、街の景色に溶け込んでいた。
 速すぎず、遅すぎもしない足取りで人波に乗り、とある電話ボックスの前で足を止める。その迷いのなさは、そこに電話があるのを知っていたことをうかがわせた。
 ボックスに身を滑り込ませると、彼女はブリーフケースからラップトップコンピュータを取り出し、電話に接続した。見る者が見れば、そのマシンが一女子大生が持つにはあまりにも高性能かつ高価な機種であることに気づいたかもしれない。
 そして、フリージャズのピアニストのような指さばきで猛然とキーボードを叩き始めた。動体視力の限界を試すような速度でコマンドラインがスクロールする。それを追う瞳には、ある種の天才が集中力の極限を超えたときに見せる、感情の抜け落ちたような光。
 西園寺たみ。
 後世、稀代のハッカー『トリックスター』としてその名を歴史に残すことになる彼女は、この時まだ十五の少女に過ぎなかった。

 やや背が高いことを除けば言うべき特徴のないその中年女性は、清掃員の服がよく似合っていた。あまりにも似合っているために、かえって顔の印象が残らないほどだった。
 彼女は女子トイレの前に『清掃中』の看板を立てると、用具一式を持って中に入った。
 しかし掃除を始める様子はなく、個室の一つに入る。そして、懐からそれを取り出した。
 蜘蛛を機械で模したような形。よく見ると、CCDカメラと、『ACETYLENE』『OXYGEN』と記されたごく小型のボンベらしきもの、そしてバッテリーが掌におさまる程度の大きさに効率よく配されている。さらに裏返せば、そこに十本の足を動かすためのステッピングモータとを見出すことができた。
 蜘蛛型マイクロマシンの尾部のコネクタにケーブルをつなぐ。そして、右手首に貼られた絆創膏をはがすと・・・・そこには、コンピュータに装備されるものと同じ、通信機器接続用のコネクタがあった。
 ソニア・カークライト。
 人間なみの複雑さと、スーパーコンピュータ級の演算速度をそなえたロボット。
 天井に開いた空調ダクトに『スパイダー』を放ちながら、彼女はたしかに、言いようのないスリルを感じていた。

 風はない。
 太陽はほぼ真上にある。
 海はベタ凪、さざなみひとつない。
 釣りのコンディションとしては、最低に近い。かれこれ二時間、竿先は微動だにしていなかった。
 ムーミンがプリントされたバケツに入っているのは、海水だけだ。顕微鏡で見れば、プランクトンくらいならいるかもしれないが。
 頭上を影がよぎる。見上げると、羽田に向かう旅客機が驚くほどのろのろと飛んでいる。エンジン音が少し遅れてついてゆく。
 ほぼ真上にある横浜ベイブリッジに飛行機の姿がさえぎられたとき、腕時計のアラームが鳴った。立ちあがる。
「おい、そこのカップル」
 声をかけられたふたりは、周囲を見まわしてほかに二人連れがいないことを確かめると、おずおずと自分たちを指差した。
「そうだよ。あんたらにこれ、やるよ」
 竿を男の方に押しつけ、ジャケットだけをつかんで立ちあがる。
 呆然とするカップルに一瞥もくれず、そばに止めてあったバイクにまたがる。空ぶかしをひとつくれると、野太い排気音とともに走りだす。
 逆瀬川ルリ。
 彼女は、竿先を見つめながらイメージトレーニングを終えていた。戦いの予感に、彼女の身体は静かに熱を帯びはじめている。
 いまなら、百人を相手にしても負ける気はしなかった。

 いまごろ、みんな楽しんでるかな。そろそろ現地に着いたころかな。温泉かなんか、入ってたりして。てことは、服は、服は・・・・。
 暴走しかけていたなぎさの夢想は、いらだたしげな声でさえぎられた。
「副署長。枕崎警部」
 捜査会議中であることを思い出し、署長の怒りを含んだ視線にも気づいて、なぎさは慌てて表情を引き締めた。
「あー・・・・なんでしたっけ?」
 署長は苦虫を噛み潰したような顔になった。彼は、なぎさに対して良い感情を抱いていない。名前からして気にくわなかった。
 枕崎なぎさ? ふざけた名だ。
 署長の石嶺孝之警視は、ノンキャリア、いわゆるたたき上げだった。彼には、この頼りない青年が東大卒のキャリアであり、あと二年もすれば五十三歳の自分と同じ階級になるということが我慢ならなかった。これまで数々のキャリアを見てきたが、この人物は最低ランクだ、と思っていた。
 しかし、なぎさ自身はそういった署長の感情にこれっぽっちも気づいていなかった。
 隣の席の者の助け舟で話の内容を把握すると、なぎさは緊張感の欠如した声で話し始めた。夕食のメニューについて話すような風情。
「言うまでもないですけど、『蜃気楼コネクション』は完全な愉快犯です。得られる利益より、いかに面白いか、世間をあっと言わせられるかが大事なんでしょう。そして、おそろしく頭が切れます。証拠や目撃者を集めて犯人に迫って行くのは難しいでしょうねえ。もし逮捕できるとしたら」
 なぎさは署内であからさまに軽んじられていたので、真面目に聞いている者は少なかった。が、何人かは彼が核心に触れつつあるのに気づき、身を乗り出した。
「逮捕できるとしたら、現行犯しかないんじゃないかな」
 ひとりが手をあげて質問した。
「しかし、やつらは神出鬼没です。警報システムを作動させたことはないし、犯行時間すら特定できていないケースが多い」
「そうだね。でも、次に狙われるところと日時なら、高い確率で予測できると思うよ」
 ここでようやく、部屋中の注目がなぎさに集中した。半信半疑ながら、石嶺署長が先をうながす。
「枕崎警部、君の予測とやらを話したまえ」
「はい。まず、タワーシティの『ラ・グランダーム』。いま、いちばん狙われる可能性がたかいのは、あそこでしょう」
「ああ、『ハーツ・オブ・ゴッデス』ですね」
 質問した警官は知っていたようだ。
「うん。それとね、これは暇つぶしで調べてみたんだけど、標的にされた被害者はほとんどがその後脱税で検挙されるか、されないにしても疑いはかけられてる。例外もあるけど、これは賭けてもいい、発覚してないだけでやっぱり脱税してるはずだ。『ラ・グランダーム』もそう」
「あの店も? なんでそんなことが分かるんです?」
「うん、大学の時の同級生が国税庁にいてさ。在学中にずいぶんノート貸してあげたりして恩を売っといたから。これはここだけの話にしておいてほしいんだけど、いわゆるマル査による内偵も始まってるようだね」
 なぎさが口を閉じると、会議室内は妙なざわめきに包まれた。言っていることは筋道が通っている。しかし、彼を軽んじてきたぶん、素直にその意見に従うのはためらわれた。
 そういうこだわりの少ないのは、やはり柔軟な若い世代だった。この部屋で最年少と思われる刑事が手をあげ、この場の誰もが気になっているであろうもう一点をたずねた。
「あのう、日時のほうは?」
 いまや、すべての視線がなぎさに注がれている。
「僕なら、今日あたり、襲うけどな。開店三日目、そろそろ警備陣も緊張感が薄れてくる。人出も一段落してる。とくに、昼食時なら店員も交代で食事に出ているだろうから、手薄になってると予想できる。理想的だよ。ああ、正午まで、あと三十分くらいだね」
 ざわ、と会議室がゆれる。今度は、視線が署長に集まっていた。
 渋々、という感じで石嶺署長は口を開く。
「・・・・たしかに、一理なくはない。念のために私服警官を二十名、要所に配置して警戒に当たらせよう」
 少ないな、となぎさは思ったが、口にはせず、かわりにこう言った。
「僕も同行していいですか」

 最初に気づいたのは、宝石などに興味のない、子供だった。母親は食い入るようにショウケースを覗きこんでいて、彼の存在をなかば忘れている。ひまを持て余してきょろきょろしているうちに、眼にとめたのだった。
「ママ、煙出てる」
 母親は我に帰り、息子の指さす方向を見た。
 天井の換気口らしき隙間から、黒い煙が微かに流れ出している。
 火事ではないか、と声に出す前に、店内のスピーカから緊迫した声が発せられた。
《只今、店内に爆発物を仕掛けたというメッセージがネットワークを通じて届きました。爆発予告時間まであとわずかです。店内の皆さん、慌てず、落ち着いて安全な場所に避難してください。もうすぐ警察と消防が到着します。繰り返します・・・・》
 タイミングを合わせるように、わずかだった煙が奔流となって店内に吹き出した。
 瞬時に、店内はパニックに陥る。
 客も店員もなかった。入り乱れて出口に殺到する。警備員さえも例外ではない。
 彼、最初に黒煙を発見した男の子は、母親に手を引かれながら、気になって振り返った。そして、そこに奇妙なものを見た。
 換気口から噴き出す煙の中から、ピンク色の、蜘蛛のような形のものが飛び出してきて、店内中央のショウケースに取りついた。それはしゅう、という空気の漏れるような音を発したかと思うと、突然青い炎を吐き出し始めた。
「ねえママ、ピンクの蜘蛛が火を出してる」
 彼の言葉は一顧だにされなかった。
「なに馬鹿なこと言ってるの! いいから逃げるのよ! 手を離しちゃだめ」
 他に、それに気づいている者はいない。

「馬鹿野郎、なにやってんだっ!」
 主警備室でモニタを眺めていたスタッフたちは、ドアが乱暴に開け放たれる音と、次いでぶつけられた罵声に仰天した。
「・・・・なんですか、いきなり」
「なんだじゃねえだろう! 店が大騒ぎだってのに、なにをのんびり・・・・」
 飛び込んできた人物、現場担当の警備スタッフは、モニターに眼をやった瞬間絶句した。
 そこには、いつもと何の変わりもない、店内の様子が映し出されていた。
「・・・・どう、なってんだ?」
「こっちのセリフです。何かありましたか」
「何かって、いま爆弾が仕掛けられたって放送があって、店の中は煙の渦だ。大騒ぎだよ。さっきの放送、ここからじゃないのか?」
「はあ? 個人あての業務連絡以外、なにも放送してませんよ。だいたい、ほら」
 モニタを指さす。そこにあるのはやはり、いつも通りの店内の映像だった。
 狐につままれる、とはまさにこのことだった。いくつもの怪訝そうな視線を浴びせられ、彼は言葉を失った。
 そこにまたひとり、現場のスタッフが飛び込んできた。
「おい、スプリンクラーが作動してないんじゃないのか!」
 どうやら尋常ではない事態が進行しているようだ、というのが、主警備室の者たちにもようやく理解されはじめた。
「あっ!」
 モニタを凝視していたひとりが、椅子を蹴って立ちあがった。
「もしかして!」
 今度は乱暴に椅子に腰を下ろすと、猛然とマウスを操作し始めた。注目が集まる。
「ああっ、やっぱりだ! やられた!」
「どうしたんだ?」
「このモニタの映像、昨日のだ」
 さらにマウスとキーボードを操り、システムの復旧を試みる。
 と、突然画面が切り替わった。
 ビデオクリップふうの画面に三人の女性が入れ替わりにあらわれ、最後にテロップが流れる。
《HELLO,WE ARE THE TIGHTSKIRT CONNEXION.OR.SU.》
 そして、すべてのコンピュータシステムがダウンした。

 タワーシティに向かう覆面パトカーの中で、なぎさたちはその知らせを受けた。
《横浜タワーシティ内の宝石店『ラ・グランダーム』に爆破予告があったらしいとの通報、複数あり。急行願う》
「悪い予想ほどよく当たる。うれしくないですねえ」
 となりで顔色ひとつ変えずに言うなぎさを横目で見ながら、石嶺警視は、ボンクラという評価は改めなければならないのだろうな、と考えていた。しかし、極度に乗り物に弱いなぎさが蒼白な顔でビニール袋を握り締めているのを見ると、その考えも揺らぐのだった。
「ところで、爆弾は百%ですよ。賭けてもいい。彼女たちはテロリストじゃない。混乱が必要なだけです。爆弾そのものは幻でじゅうぶんでしょう。うぷ」
 なぎさがぶちまける寸前に、車は現場についた。ゆれない地面に降り立ったなぎさはみるみる血色を回復した。
 わずかに早く現場に着いた警官たちは、野次馬の整理をするふりなどして、お茶を濁していた。爆弾に対して腰が引けていたのである。警察官とて人の子、死ぬのは怖い。
「や、ご苦労さん。現場はあっち? そう、サンキュ。じゃあ署長、行きましょうか」
「い、行きましょうかって枕崎君、爆弾が」
「大丈夫ですってば。盗むのに手間取ってたら、本人が吹っ飛んじゃうんですから。そんな危険なことはしませんよ。ハハ」
「し、しかし、そんな保証はあるのか。責任とれるのか」
「いっしょに吹っ飛んだら責任なんかとれませんよ。大丈夫、死んじゃったらもう痛くありません」
 石嶺署長は早くも先ほどの考えを改めた。
 こいつは、恐怖心の欠如したバカだ。付き合っていられない。
「爆発物処理班を待つのが常識的対応ではないだろうか。ねえ。そうしようそうしよう」
「そんなことしてる間に逃げられちゃいますってば。そうだ、みんなで行けば怖くないですよね」
 言うがはやいか、手をメガホンにして叫ぶ。
「おおい、爆弾は大丈夫だ! みんなで蜃気楼コネクションを捕まえに行こう! 警視総監賞もらおう!」
 事態を正確に予見してみせたなぎさの言葉は、あっさり信用された。士気が高揚する。
 警官たちは雪崩をうつように、言いかえればやや統率を欠いたままタワーシティに突入した。

 早すぎるじゃない。
 現場に集まってきた警官たちを高みから見下ろしながら、ルリは舌打ちした。
 たみが警備の中枢であるセキュリティシステムをダウンさせてから、まだ一分半しか経っていない。警察の対応は、自分たちの行動を予測していたとしか思えなかった。
 ソニアが仕事を終えるのに、あと二分弱。その間に、警官たちはもっと増えるだろう。脱出は力ずくのものになる。
 ま、たまにはあたしも活躍させてもらわないとね。
 ルリは、日ごろバックアップ及びソニアの回収という脇役に甘んじているうっぷんを晴らす機会を得て、不敵に笑みを浮かべた。
 再びバイクにまたがると、ソニアを緊急ピックアップするための地点に向けて、ゆっくりとハンドルを向けた。

 ソニアは、マイクロマシン『スパイダー』のハイレゾCCDカメラを通して店内を見ていた。オプティカルケーブルを通じてソニア自身とされたスパイダーは、いまや彼女の分身となり、自在に動き回っている。
 爆弾という牽制球が功を奏し、店内には誰もいない。保安用のビデオカメラも、たみのハッキングで役に立たなくなっている。事の次第を目撃されることはなかった。
 仕事はあらかた終わっている。
 獲物が納められていたショウケースは、アセチレンガスの高温の焔で焼き切られていた。衝撃に強い超超硬質ガラスが使われていたが、融点は普通のガラスと変わらない。あっけないものだった。
 スパイダーは十本足のうちの四本でふたつの宝石を抱え込んでいる。残る六本の足でケーブルを伝って天井の換気口にもどると、空調ダクトを引き返し始めた。
 そのとき、ばたばたと荒々しい足音とともに、警官たちが飛び込んできた。なぎさを先頭に。
 スパイダーがソニアのいるトイレにたどり着くまで、約一分半。

 ハンカチで口を覆って店に足を踏み入れたなぎさは、ショウケースの前で足を止めた。
「やられちゃったねえ。あざやかなもんだ」
 なぜか、うれしそうな口ぶりに聞こえる。
 きれいな円形を描いたガラスの切断面は、まだ熱を帯び、うすく煙を上げていた。
「警部、やつら、やっぱり客にまぎれていたんでしょうか」
「まあ、常識的にいったらその可能性が高いんだろうけど、うーん」
 なぎさは店内をうろうろと歩き回った。何かを調べているというより、思考をめぐらせているらしかった。
「彼女たちの犯行には、侵入経路がわからないケースが多い。ほとんど密室、なんてのも少なくないよね。だけどさ、それって人間が侵入する前提でものを考えた場合でしょ」
 何を言わんとしているのか。
 なぎさの思考の飛躍についていけず、警官たちは困惑の表情を浮かべた。
「人間サイズの者には密室だとしても、じゃあ、たとえばねずみは? あるいは、ねずみサイズのマイクロロボットだったら?」
 そう言って、天井の換気口を見上げる。
 そこには確かに、ねずみ程度の大きさであれば通り抜けられるであろう間隙が開いていた。
「そうか! じゃあ」
「うん。換気系統のどこかで、ロボットを回収しなければならない。誰にも見られない個室が理想」
「トイレ!」
「うん。空振りかもしれないけど、調べる価値はあるよね」
 なぎさは携帯端末を取り出し、タワーシティの総合案内の電話番号を検索すると、コールした。
「あ、こちら横浜臨港警察です。どーもどーも。あの、『ラ・グランダーム』からいちばん近いスタッフ用のトイレはどこになりますか。・・・・ああ、爆弾は大丈夫です。ええ、ええ、わかりました」
 通話を切ると、警官たちの顔を見渡す。そこには、高揚感を漲らせた表情が並んでいる。
「さあ、デートだ。待ち合わせ場所に急ごう」

 ルリはソニアのいるトイレに滑り込んだ。
「あたしよ、開けて」
 す、といちばん奥の個室の扉が開く。
「警官が集まってる。あとどれくらい?」
「もう少しです。あと約十七メートル」
 スパイダーの歩行速度は、全脚を使い、何も持たない状態で毎分およそ三十三メートル。四脚を獲物の保持に使っているいまは、おそらく二十四メートル程度だった。足歩行のマイクロマシンとしては優秀な速度だが、この切迫した状況ではあきれるほど遅く感じられる。
「ルリさん、足音が近づいてきています。人数は六名、距離およそ三十メートル」
 ソニアの高感度振動センサが警官たちの接近を感知した。
「さあて、ちょっくら運動してくるか。ソニア、急いでね」
「はい。ルリさんも、やり過ぎないで下さいね」
「ほいほい」
 ひらひらと手を振ると、トイレを出てゆく。散歩にでも行くような気軽な足取りだった。
 ルリはソニアと同じように特殊ラテックスで顔形を変え、濃い目のメイクを施していた。服装は白のタンクトップに、黒いレザーのジャケットとパンツ。そして、拳を保護するための、やはり厚手の革のグローブ。全身の無駄のないラインが強調され、美しかった。獣のようなそのたたずまいから、全身から発せられる気から、高い戦闘力がうかがえた。
 やがて、ルリの耳にも、切迫した足音が近づいているのが聞こえてきた。

 なぎさを先頭にした警官たちが通路の角を曲がると、ひとりの人物が壁に寄りかかっていた。巨大な多目的ビルのいわば楽屋部分、華やかさとはかけ離れた事務的な雰囲気に、その人物はあきらかにそぐわなかった。
「怪盗『蜃気楼コネクション』というわりには、パンツルックですね。お目にかかれて光栄です。で、ほかの方は? まだトイレですか」
 黒ずくめのその女性は、なぎさの顔を見て一瞬複雑な表情を浮かべた。が、それもつかの間のこと、すぐに不敵な表情に戻ると、言う。
「警察も馬鹿ばっかりじゃなかったようだ。で、捕まえる気なんだろうな、やっぱり」
「まあ、僕個人的には会えただけでもいいや、って感じなんですけど。まあ、一応仕事ですからね。給料分は働かねば」
「熱心で結構だ。さあ、捕まえな」
 そう言うと壁から身を離し、左足を心持ち前にして両拳を視線の高さに構えた。
 警察官には武道の心得のある者が多い。そんな彼らが、彼女の構えを見た瞬間に緊張した。
 隙がない。
 この女性は強い。もしかしたら、いままで出会った誰よりも。
 ひとりで多数を相手に格闘する場合、通路状の場所を選ぶというのがセオリーといえる。その狭さにより、一度に襲いかかることのできる人数が制限されるためだ。
 しかし、彼女はそんなことなど意図してはいなかった。警官の群れの中に自ら飛び込んだのだ。
 人並みはずれた腕力を持っているわけではない。スピードも瞬発力も優れてはいるが常識の範囲内である。しかし彼女は強かった。圧倒的に。
 神が彼女に与えた稀有な才能は、相手の行動を予測する能力、『読み』だった。達人と呼ばれる人々が厳しい鍛錬の果てにようやくたどり着くことのできる境地に、彼女はやすやすと到達していた。これをして、天才という。
 空手の有段者であり、学生時代にはボクシングでインターハイに出場したこともあるその警官は、夢を見ているような気分を味わっていた。無力感にとらわれてさえいた。彼の人生で初めての経験だった。
 すべての打撃が、ことごとくかわされる。ひそかに自信を持っていた左のジャブは首の角度のわずかな変化で空を切らされた。フェイントは無視され、蹴りは放つ前に防がれた。なすすべがなかった。自分のする攻撃を、知っているとしか思えなかった。
 ほかの警官たちも、努力などというものでは決して埋めることのできない力の差を、身を持って経験することになった。つまり、次々と戦闘不能に陥って床に転がった。
 立っているのは、なぎさひとりになった。
 床に転がって失神している、あるいはうめき声を上げている警官を見下ろして、なぎさは考える。
 累々、って表現は死体にしか使わないんだっけ。
 彼がこの状況下でどうでもいいようなことを真剣に考えているのは、より強い感情を頭の片隅に追いやりたいがためだった。
 しかし、失敗した。
「るるる・・・・」
「るるる?」
「ルリさん、好きだあっ!」
 なぎさは、カエルのように飛び跳ねて彼女の腰にしがみついた。その動きと速さは、天才ルリの予測を超えていた。
「結婚して下さいい!」
 彼女はものも言わず、無防備ななぎさの後頭部に肘を打ち下ろす。
 なぎさは昏倒した。
 最高学府を卒業し、難関の国家公務員Ⅰ種試験をクリアしてキャリアとなり、そしてたぐいまれな論理的推理力を持っている彼、枕崎なぎさ。この人物もまた、ややこしいトラウマを抱えているようだった。
 つわものの警察官を相手にして息ひとつ乱さなかったルリが、なぎさとのやりとりで脱力していた。その背中にソニアの声がかかる。
「終わりました。ただ・・・・」
 ルリは気を取り直して振り返る。
「ただ?」
 ソニアは大粒の宝石を差し出した。
「これは、おそらく偽物です」
 宝石の真贋など見分けられるルリではなかったが、それでも確かめずにはいられない。光にかざしてみる。
「ほんとに?」
「九十九%以上は」
「・・・・ふん、『蜃気楼コネクション』をはめようってわけかい。いい度胸だ」
 ふたつの石を無造作にジャケットのポケットに放り込む。
「後悔って言葉の意味をたっぷり教えてやる。・・・・が、なにはともあれ、まずはここから脱出だ。行くよ」
「はい」

 ふたりは人目につくことが少ないよう設定したルートを走り、地上に降り立った。
 しかし、予想していたことではあったが、集結しつつある警官たちに進路をはばまれた。
「窃盗犯から立派な強盗犯に格上げだな。ハクが付くってもんだ」
 警官たちを蹴散らしながら、ルリは苦笑する。
 警官たちは当然拳銃を携行していたが、使うそぶりを見せなかった。日本の警官が発砲するのは、威嚇射撃であってもまずめったにない。よほどの凶悪犯相手でもない限り、銃が使用されることはなかった。まあ、ルリであれば、相手が銃を使おうと歯牙にもかけなかったろうが。
「きゃあ!」
 戦いに没入していたルリの意識が、ソニアの悲鳴で現実に引き戻される。
 ソニアが三人の警官に囲まれていた。
 しまった。
 ルリはほぞをかんだ。ソニアの重大な弱点を失念していた。
 ソニアは、ロボットに例外なく施されている『ロボット工学の三原則』というプロテクトによって、人間に危害が加えられないように制限が加えられているのだった。
 ソニアは腕をつかんだ警官を怪力で振り払うと、走り出した。が、そこでも警官たちに囲まれる。
 ルリが決断した。
「ソニア、エマージェンシーコードCだ」
 言いながら、自身も走り、エンジンをかけたままのバイクにまたがる。
 フォアアン、とブリッピングをくれると、前輪を高々と持ち上げて急発進する。
 ソニアは自分の頭をつかみ、そして・・・・外した。すぽん。
 ずさ、と警官たちがあとじさる。
「ろ、ロボット・・・・」
「ロボットなのか」
「ロボットかよ」
 緊迫した場面であることを忘れ、ソニアが嘆く。
「いくらホントの事だからって、みんなしてオカマオカマって・・・・ヒドイ」
 泣きながら彼女は、絵に描いたようなジャンプシュートのフォームで自分の頭を投げた。それは美しい放物線を描き・・・・そして、ルリの腕におさまった。
 これは、ソニアが危機に陥ったときのための非常手段であった。頭部さえ無事であれば、身体はどうにでもできる。既製品で代用してもいい。
 しかし、世界でただひとつしかない、特別なボディ。失わずにすめばそれに越したことはない。ルリが咄嗟に機転を利かせた。
「おーい、それ、爆発するぜ」
 嘘だ、と頭ではわかっていながらも、警官たちは飛び退かずにはいられなかった。身体は正直である。危険です、下がってくださいなどと照れ隠しに叫ぶ者もいた。
「ルリさん、顔をあっちに向けてください」
 ソニアがささやく。
 人間は、身体のバランスを保つのに視覚が大きな役割を果たしている。ソニアも同じように、ボディバランスに視覚情報をフィードバックしていた。
 ソニアは外から自分の体を見ながら、バランスをとって走らせた。ロボットならではの離れ技である。
 首なしのソニアが走る。人垣が割れ、その先にルリ(とソニアの頭)が乗るバイク。
 タンデムシートにおさまったソニア(の身体)はいとおしそうに頭を持ち上げると、あるべきところにそれをおさめた。すぽん。
「アデュー!」
 ふたりを乗せたバイクが抜けのいい排気音とともに走り出してようやく、警官たちはかつがれていたことに気づいた。慌ててパトカーに乗りこみ、サイレンも高らかに走りだす。
 あとからあとからあらわれるパトカーを引きつれ、ルリとソニアを乗せたバイクは横浜のウォーターフロントを疾駆する。
 これはパレードだ。凱旋だ。
 ルリは思い、ソニアにそう言ってみた。
「不謹慎ですね」
 不謹慎なのは最初からだ、と言おうとしたとき、背中からくすくすと忍び笑いがもれた。ジョークだったのだ。まったくたいしたロボットだ、とルリは思い、彼女も笑った。
 スロットルを思いきりひねる。静粛性などはなから考慮に入れていないマフラーが雄叫びをあげる。
 ルリのバイクはたみの手によって過激なチューニングが施され、けた外れのトルクとピークパワーを手にいれていた。ひきかえに扱いやすさは犠牲にされている。クセの強いそのバイクを、しかしルリはやすやすと乗りこなす。
 暴れるリアタイヤをねじ伏せながら、バイクは新しい埋めたて区域に向かってゆく。
 先頭を走るパトカーのステアリングを握る警官は、疑念を抱いた。この先は行き止まりのはずではなかったか。
 バイクは埠頭の建設予定地に入った。さらに進んだところ、行き止まりの少し手前に簡単なバリケードが築いてあったが、その一部が壊され、一メートルほどの隙間が開いている。しかたなく停車するパトカーを尻目に、バイクはその隙間をすり抜けた。だが、その先には灰色に濁った海があるだけだ。
 ふたりを乗せたバイクがスピードを緩める気配はない。
 警官たちが、あっ、と思う間もなく、バイクは海に向かって身を躍らせた。ひゃっほう、という声がサイレンの音を割って耳に届いた。
 岸壁のふちに駆け寄ってきた警官が目にしたのは、ぼろい漁船が外見に似合わぬ気狂いじみたスピードで遠ざかってゆく姿と、三人の美女の投げキッスだった。

 ルリからニセの宝石を渡されたたみは、さも楽しそうに笑った。
「あたしたちを利用しようって奴がいるとはね。この宇宙も案外退屈しないわ」
 あの宝石店、『ラ・グランダーム』のオーナーは、偽の宝石を盗ませて保険金をせしめることを思いついたらしい。今ごろ、うまくいったとほくそ笑んでいることだろう。
「本物はどこに保管しているんでしょうか」
「そんなもん」
 考えるまでもないというように、ソニアの疑問にルリがこたえる。
「手元において、毎晩眺めて悦にいってるに決まってる」
 いかにもありそうな光景ではある。
「それも今日で終わり。宝石も、脱税で貯めた金も、大事なワインも、まとめて失うことになる。被害届が出せないのは、自業自得」
 そう言ってたみは、石ころをサイドスローで投げた。二度、三度、と水面を跳ねたそれは、揺れながら沈んでゆく。
 たみが過激な改造を施した偽装漁船は、多摩川の河口近くに浮かんでいる。右手には、羽田空港。ひっきりなしに旅客機が往来している。
 付近に他の船の姿のないのをいいことに、彼女たちは大胆に素肌をさらして水着に着替え、その上にウェットスーツを着こんだ。
「さあ、さっさと仕事を終えて、ニュースでも見ながら打ち上げをしましょ」
 そう言ってたみは舵の横にあるコックをひねる。するとぼこぼこ、という音がして、船は浸水し始めた。
 三人はボンベを背に水に飛び込むと、水中バイクを使って車を隠した地点へ向かった。

 ある予感が、なぎさの足取りを重くしていた。不用意な一言で、大切なものを失ったかもしれない。それを自分の眼で確かめるのが怖かった。
 しかし、いつもの角を曲がったとき、彼は走り出していた。『ウェスト・ガーデン探偵社』には、明かりがともっていた。
 階段を三段飛ばしで駆け上がり、見なれたドアの前で呼吸を整える。そしてノック。
「ハイ」
 いつもと変わらぬ、ソニアの涼やかな声に導かれてドアをくぐる。出迎えたのは、やはりいつも通りの光景だった。
 たみはコンピュータのディスプレイ注視して顔を上げるそぶりもない。
 ソニアはにこやかな笑顔で会釈する。
 そしてルリは、持っていたワイングラスをちょっと持ち上げ、よう、と言った。グラスとデキャンタからは、華やかで濃厚な香りがたちのぼっている。ボトルが見当たらないので銘柄はわからないが、かなりの逸品のようだ。
 なぎさには、彼女たちが『蜃気楼コネクション』であるという確信があった。そして、自分がそう思っていることは彼女たちも気づいているはずだった。当然だ。我を忘れたなぎさはあの時、タワーシティでルリの名を呼んだのだ。
 しかし、彼女たちはここにいる。気負う様子もなく、ごく自然に、いつもどおりに。
 そう、証拠などありはしないのだ。
 しかし、それにしても、彼女たちのこの堂々とした態度はどうだろう。もはや、尊敬するしかないではないか。
「いやあ、やられましたよ。怪盗蜃気楼コネクション、鮮やかなもんでした。最高に格好良かった。・・・・ところでこれ、なんのパーティです?」
 口の端に笑みを浮かべ、ルリは答えた。
「仕事の成功を祝って」
 なぎさは苦笑する。それはそのまま彼の仕事の失敗を意味するものだったからだ。
 しかし、彼はなぜか爽快な気分を味わっていた。強くあること、正しくあることに憧れ、強い女性にどうしようもなく惹かれてしまう自分。その自分が彼女たちに好意を抱くのは、当然のことに思えた。
「僕も、混ぜてください」
 ソニアからグラスを受け取ると、なぎさは三人の輪に加わった。

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