今更ながら運命開花

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強くなったな、というのが最初の感想だった。 強くたくましくなったね、と。
かれこれ14年ほど聴いてきて、それは強く感じた。 運命が複雑骨折してた頃は、社会が悪い自分も悪い、だから世界は残酷だ、みたいな空気だったけど、強くなったねと。
笑う才能がないって嘆いてた(イキルサイノウ収録ジョーカー)のに、成長して、何回りも強くなってしっかりと地に根を張ったのかな。そんな感覚。
悪人は「創作としての余裕」が見られていいなと思うし、その先へにはギターとベースによるうねり(個人的にこのサウンドこそバックホーンだと思う節は多々ある)も残っているし。
控えめに言って最高か。
胡散に見られるゴリゴリのベースラインだとか、絡むカラフルなギターだとか、たまらないな!私には音楽の専門知識が無いから精一杯の文学表現で誤魔化しちゃうよ!

現在ツアー中なので、思い出したようにふと書き留めるのでありました。
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雑記

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麗らかな12月の午后、って書こうと思ったけどまだ時間的に早かった。
気にせずいきましょう。

最近は思考が纏まりが更に悪くなっていって、言語化していかないと混乱しそうで久々にブログを書いてみる。
足掻きますよ、できる限り。

冬になって例年は思考がクリアになるのだけど、今年はそうでもないようで、日々言葉が絡まっている。
症状のひとつであることは理解してるんですけどね。
社会生活に支障を来さないことを願うばかりだ。若干支障は出始めているけれど。

相手の話す内容が理解できないことがある。
なんども聞き返しそうになる。
よく働けているなとは思う。
回復するのならきちんと治療しなければ。

日記みたいになっちゃった。


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共有するっていろいろあるけど

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 ふと思ったので纏まる自信ZEROなりに、書いてみる。


 ある日の白昼、Twitterにて。ひとりのミュージシャンが「聴いてみてくださいね」とデモ作成過程の欠片と称した音源をsoundcloudに投稿した旨ポスト。私はその人のファンでもあるので、聴いて、良いなぁなどと十人並みの感想を抱いて仕事に戻った。
 それから一時間も経たないつい先刻。音楽情報アカウントが、そのツイートを基に記事を書き、ニュースとして配信していた。


 別に公式アカウントで投稿したんだからいいじゃん、知られた方が良いじゃないか、という意見もわかるのだけど、どうにも個人的にもやっとした。これはまた別のミュージシャンの話ではありますが、ラジオでの弾き語り音源を動画サイトに(公式で)アップされたことをニュースサイトで配信されるのが嫌だ、と言っていたのを思い出してしまって。
 後者はおそらく「ファンのために」アップロードしてくれる、それをニュースにするのはどうなのだろうな、と感じるし、冒頭に書き始めた今回の件もそこまで大々的にシェアする為に彼はツイートしたのかな、とも思う。自分を好きな人だけに聴いてもらいたいっていうのはまた違うのだろうけど、拡散されるべく然るのかな、って個人的にもやっと。

 ほら、纏まらない!笑
 webのニュースコンテンツ制作も大変なのでしょうが、なんでもかんでも記事に、コンテンツにしすぎている感は否めないな、と。そんな風に思うんです。


 わかる人だけ最後の一文で笑ってくだされば、是幸い。
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ART-SCHOOL

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 ART-SCHOOLの活動休止前ラスト、新木場studioCOASTへ行ってきた。2011年に前任のドラマーとベーシストの脱退を受けてのライブもここだった。更に遡れば、ELLEGARDENの休止前ラストもここだ。
 このハコには、色々と個人的な思い入れや感慨がある。夏は暑く冬は寒い、そんな場所。

 結論から書くなれば、こんなにも穏やかな心持ちで見守ることが出来るとは思ってもみなかった。一曲一曲を噛み締めて、そして消化していくことが自分に出来るとは。幾分かの成長なのか、とも思う。全く成長が見られないようであってもその実、本人の知らぬところでメンタリティは強化されていたらしい。意外だね。人は知らず知らずのうちに順応したり、成長したりするらしい。この年齢になってそれを実感するのも笑える気がするね。
 後方のPA卓前に立ち、開演を待つ空間にはRadioheadの「Kid A」が流れ、トムの歌声に心地好く揺れた。開演前の場内BGM、相変わらず好きだよ。

 暗転する瞬間は、どのバンドやアーティストでも気分が高揚する。これから始まるのだという期待と、暗闇が齎す少しの不安感。それが堪らなく好きだ。
 空間を引き裂くように響くリフに、なんとも表現し難い感情が襲い来る。高揚でありつつの安堵。安心する、とでも言えばいいのだろうか。彼らの音楽は私にとってそんな立ち位置だった、今も昔も。どうしようもなく人生に迷って、下北沢を流離っていた頃に出会った音楽、それがART-SCHOOLの音楽で、木下理樹という存在だったように思う。救い、というのは些か大袈裟かも知れない。主観的に、こちらが勝手にそう感じた、ただそれだけのことだ。

 アンコールの最後に演奏された「しとやかな獣」は、今でも耳に、そしてあの空間は胸に、深く残った。
 そして、彼らが帰ってきてくれる日を待つのだ。
 書きたい事があったから開いたんだけどな、どうも纏まらなくて投げてしまう。
という事が数回に渡って起きたので、今回は纏まらなくても肚を括って書こうと思い立った次第。

 まったく具体性を伴わない書き出し、毎度お馴染みになりつつあって宜しくないなあ。

 文章を書く事そのものは苦ではないし、寧ろ好きなのだけど、"これは曲がって伝わってしまうのでは"みたいな危惧がね、あって。
杞憂だろうと笑いたいねえ、もう少し神経が強靭でも良かったじゃんねえ。
「きょうじん」の一発変換が「狂人」だった辺り、もう諦めろというお達しか。
すみませんでした~~。

 何を書いていたのだっけ。

 好きな物は好きだと言いたいよね。(唐突に本題に入るのもいつものことだ。)
 好きなものや人について好き!って大声で言ったっていいじゃないの、何を遠慮しているんだよ。寧ろ誰に遠慮しているのだよ、と。
そこですよ、そこ。
"誰"の視線を気にしているのか。友人や知人か?それとも漠然とした第三者か?
疾しい気持ちがないのなら、そして他者を不快にさせなければ、自分の好きな気持ちをこそこそと隠す必要なんてないよなあ。
 そんな訳で、ここまで思い至るのに、結構かかりました自分は。他人にどう見られているのか、を気にし過ぎってぇ奴です。そんなに意識する程に、他人は自分の事なんぞ見ちゃいないのにね。それでも気に懸かってしまうのは、最早性格だから諦めているけれど。若干の悟り。
でもあれだね、不特定多数が閲覧出来る場で書く言葉には、多少の配慮も必要よね。

 何を書いてもどんな注釈をつけようとも、誰かが傷ついたり嫌な思いをしたりしそう、といった類の妄念に囚われた時期もありました。
そんなことないのにね。もっと自由で良いのにね。
 怒られちゃったら、素直に謝れば良いのだ。自分に非がある場合はその部分を認めて謝罪して、明らかにただの言いがかりを付けられた場合には完全スルーか徹底的に戦えばいいんじゃない。
 私は面倒が嫌いなので、自分に非がない(と自己判断した)場合はスルーを決め込もうとは思うけれど。
もっと楽で良いんだよなあ、発信者だって。肩の力を抜いていこう、ってな。

 明確な悪意を向けられたらそりゃあ分かり易いまでにしょんぼり落ち込むし、敵意むき出しにされてもこれまたしょんぼりするし、他者との係わり合いが面倒になることも多々ある。それはもう、度々ある。これは実際に一人の人間として社会で(多少アイソレーション気味であれど)生きていて思う。
 それでも他者との関わりを断絶することは出来ない。多くの場合は仕事がなくなっちゃうね。生きていけないね。扶養の身でもその対象に関わらないのは無理よね、親でも伴侶でも。何だかんだ生きるには他者との関わりが必要な訳だけども、それが時々とてつもなく面倒になることもある。正直な話、ある。皆、そうなんだろうな、きっと。SNSは気軽に楽しんでいるし、何かを発信したくなったらまた此処にでも書くと思います。
 
 ぐだぐだと纏まらない文章を書いてはいますが、とても元気!

2014.0722-23,湾岸で思う。

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タイトルが全く浮かばないのは困った。
ライヴレポートの類ではなく一個人の主観的な感覚の記録。

昔とは感性も多少変わったし、物事の感じ方も変化しているけど、好きなものを好きだと大声で言えるのは唯一好きな部分かも知れない。
好きだとは言うけど、直線的な表現じゃないのは仕方無い。
ただ捻くれてるだけな気がする。
好きだ!っていう気持ちは確かなんだけどね。

the HIATUS
Keeper Of The Flame Tour 2014、セミファイナル・ファイナルの新木場studio COASTへ行ってきました。
ライヴに行く度に幸せな気持ちになったツアーだった。

初日の千葉LOOKから約3ヶ月かぁ。
LOOKの名物店長がツアー初日のバンドに作ってくれるという、あの大きなポスターも全国各地を旅してきたんだな、と。
そんな風に思えるくたびれっぷりのポスターが、ロビーに展示してありました。
細美武士が見事な背からのダイヴをキメやがらっしゃった(なけなしの敬語)あの千葉LOOKから3ヶ月、早い。

そんなツアーファイナル、只管に熱いオーディエンスの一員に。
搬出されてしまう子も居たから、ちょっと心配した。
23日の「sunset off the coastline」は、中断してもおかしくはない状況だった。
前方でちょっとしたセキュリティアクシデントがありまして。
SCもあれだけ横に広く、且つキャパシティの大きいハコだと大変なのは分かるけれど。
呼んでも来ない!ってなってる所に、細美さん自ら救出に乗り出したので、後日談ですがフロアの最後方でモニター越しに眺めていた知人は、なんで歌っていないんだろう?喉に何かあったのか、と心配していたようです。
下がるに下がれない場所っていうのもあるけど、そういう時は自力で動けるうちに、ちょっと頭上をお邪魔して出て、下がればさ、最後までライヴを観られるから。
まぁ個人的な感覚ですこれも。意見ではなく、感覚。
自分はそうするよ、的な。


響く轟音、会場一体のシンガロング、凄く幸せな空間だった。
最初こそ、「theFlare」や「Insomnia」を笑顔で歌われるとつらい、と思っていたけど、あの空間に居た自分は確かに笑顔だった。
歌詞だけ読むと勝手に共鳴してつらいけど。笑
煽られるわけでもなく、自然と歌いたくなる、っていうのは凄いよね。
歌や演奏を聴きに来ているから、観客に自分の近くで歌われるとあまりいい気分ではないな、っていうバンドやアーティストも存在するけれど。
それでもさ、普段そう感じている人間ですら、下手くそな発音で歌ってしまう。歌いたくなる。
なんだろうなぁ、あの感覚。
隣の全然知らないお兄さんとハーモニー奏でちゃったりしてね。
毎回号泣してしまった「something ever efter」も、今聴いているととても温かく響く。


失うばかりで、今の自分を幸福だと思えるなんて、15年くらい前の自分は想像も出来ないんだろうな。
立ち直った、とか、這い上がった、っていう訳じゃない。
まだまだメンタルは脆弱だしすぐ勝手に傷ついて落ち込むし、面倒臭い人間だし、自分自身を好きになれないのだけど、それでも良いのかもな、と思えるようになった。
今後も勝手に考えては悩むんだろうけど、やっと生きている実感を伴えている、というか。

思考が迷路カテゴリにすれば良かったかなこれ。っていう纏まらなさだけど、そのままポスト。
今日も西陽が眩しい。

つたえる。

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 ブログもそうなのですが、Twitterでも自分の考えている事や感じた事を、纏めるのが下手であるな、と感じます。
この記事は全て自分自身の事について書いています。
こんな前置きを書くくらいには、現代のwebに畏怖を抱いています。
所謂繊細チンピラという方々の存在もあるのでしょうか。

 感じた事、考えた事。
それらを書き留める・伝えるのに、webは最も手軽でそして単純な仕組みを持っているから、私は度々このweblogに纏めようと試みます。
残念ながら、巧い具合に纏まった試しは殆どと言っていいほど無いのですが。
それでも、と、何度でも記事を書いてしまうのは、最早自己顕示欲なのか何なのか、自分の事ながら判別はついていません。
 字数制限140字内で簡単に出来るTwitter、これにすら気を遣って投稿をするのは、矢張り神経が過敏なのでしょう。何となくの自覚はあります。
自分のアカウントのフォローユーザは決して多い方ではありません。
どれくらいの人数を以てして多い、というのかは判断しかねますが、少なくとも自分は300と少しのユーザにフォローされているだけですので、多くはないですね。
 
 口外憚られるような病があります。数年前に診断されました。正確には、診断されていた事を知りました。自分から訊く事がなかったもので、知るのが遅かったのですね。
その病は、徐々に言語中枢に影響を齎し、言葉と言葉の結び付きが解かれていってしまうと聞きました。
つい先日、新宿駅の東口と南口の話をしていて、「東口を出たら、ほら、羅生門があるじゃない?」と。何処から出てきた羅生門……アルタビジョン、と言いたかったのに、何故か羅生門。これだけ読むと完全にアホの子な笑い話ですけれど。
言葉と言葉の結びつきが、徐々に綻びているのでしょうか。自覚症状はあるのでしょうか。この辺りは素人なので、皆目見当がつきません。
 調べてみても、その病は"改善"はするようですが、"完治"の例は見た事がありません。
一生付き合わなければならない、という覚悟はこの数年間にしました。
ここまで書いてしまうと、臨床現場の方々には察しがついてしまうかもしれませんね。

 そんな病のこともあり、物事を発信するのには少々の躊躇いを感じてしまうのですよね。おかしなことを書いてはいまいか、私の言葉はしっかりと通じているのか。
そんな不安が押し寄せてしまうのです。
 それならSNSやweblogを辞めれば良い、というご意見もあるかと思います。
人と関わることが、たとえ活字だけの世界であっても、その活字を入力した血の通った人間は確かに存在しているし、そういった交流は自分にとっての救いなのです。
普段、一人で家に籠って仕事をしている身である、というのも要因の一つでしょうか。
たとえそれが文字のみの交流であっても、幸福な心持ちになることもあります。
ありがとう、という温かな気持ちになることも。
勿論、良いことばかりではなく、これは見たくはないといった悪い側面もあります。それは自身の取捨選択なのだな、とは思いますし、流してしまう(スルー)という、長年インターネットに親しんでいる為、嫌でも身に付いたスキルを活かしてしまえば、然程問題でもありません。私の場合は。

 自分の発信している言葉や文章の不安、そして、他者との交流。
その間に挟まれながらも、今日も何とか、伝わっていると信じて言葉を発信していくのだと、そう思います。

創作とか表現

テーマ:
とっ散らかったまま書きたいことがぼんやりと浮かんだ状態で、ブログサービスにアクセスしようとしたら延々カーソルがレインボーぐるぐるだったので何を書きたいのか、全く具体性を伴わない書き出しになってしまいました。
レインボーぐるぐる、って何を言ってるんだという感じですが。
Macユーザの方ならきっと笑って許してくれると信じてます。
記事ごとに文体や語調が違うのも面白いね自分。
笑えない、から、寧ろ笑っておく。ははっ。

じゃなくて。

辛うじてエントリーのタイトルは思い出せたのに、書こうとした内容を忘れたので「思考が迷路」という新カテゴリを追加してみました。
迷路というか……ただ纏まってない思考と、乱雑な文章ってだけです。

何を書こうとしたのかちょっとだけ思い出せたので、唐突に始まります。
言葉で表現するもの、小説であったり詩であったりまたは歌詞であったり、色々とありますが、書き手の内面を垣間見られてしまうのはその中でも歌詞なのかな、とぼんやり思ったんです。
仕事しながらね、唐突に。思ったんですよ。
音楽聴きながら仕事してるからですかね。

総て創作としての歌詞を書いたとしても、言葉の選び方であったり歌詞の中での感情・心情は、やはりその書き手の感覚が強く、色濃く出てしまうものなのかなー、と。
あくまでも一個人の勝手な印象です、これらは。
逆に、事実を淡々と詞にしているケースもありますけれど、それはもう装飾をするまでもなくその人の事が分かってしまうじゃないですか。
解る、ではなく、分かる。

小説はフィクションとしての肉付けが沢山出来ますけど、歌詞の場合って言葉の情報量が限られている分、受け取った側による"ああなのかな""こうなのかな"、といった想像の部分が大きいと思うんですよね。
その作詞者に興味がある場合は、"この人ってどういった人なんだろうな"くらいは考える……場合もあるよなー、自分の場合、と。
"ミュージシャンの歌詞は過去の日記のカットアップ"といったような表現に、成る程となったこともあり。
何気に内面を晒しているのは、歌詞なのかも知れない。言語が何語であろうと。

今回書いているのは、全て個人の感覚の話なのであれですけども。
管弦楽もポピュラーミュージックのインストゥルメンタルも好きだけど、今回は歌詞のある曲を聴いていて、なんとなく浮かんだから書き残しておこうかな的なsomethingなので、特に何かを伝えたいとかそういった仰々しい目的がある訳じゃないのです。
というか、このブログがだいたい毎度そんな感じです。
日々の思考の中でも、ちょっとだけ纏まりが取れたものを気が向くままに書いてます、的な。

自分自身の混乱しがちな思考を文章にして整理するっていうのもあるんですかね。

感覚で生きる。

テーマ:
前回の続きのようで、続いていない記事。

アクセス制限をかけなければ、基本的に誰でも閲覧可能なのがwebの良い部分であるなぁと思っているのですが、自分が発信者側として物事を綴る際にはすこし身構えて、そして、すこし考えてしまう。
・その情報は発信するに値するものなのか
・情報に間違いや思い違いはないか
上記は標準的な「情報」を発信する際の物なので、私にはあまり関係が無い。
ですから今回はこの項目には触れず、唐突に本題へと進もうかと思う。

私は度々ライブに足を運ぶ人間だ。
その回数は、一般的な平均値を知らないので人様と比較のしようがないけれど、あくまでも自分の周囲の友人知人を見ている限りだと、多い方なのではあるな、と感じる。
そして大抵が、一人での行動だ。これは前回も書いた気がする。
一人だと、ライブで得た感想や感動を誰かと共有したい気持ちが強く、それをツイートしたりもする。
そんな時も、考えてしまう。

このameba-blogは一先ず措いて、常日常のようにポストを重ねているTwitterで自分が陥りやすいのは、以下である。
・この感想は、他人の目に触れてもいいものなのだろうか
・楽しかった、という想いは誰の目に触れようとも疾しい事はないが、それ以上の内容を書く事に対する不安感
一点目は完全に自分自身が神経質になりすぎている、とも考えられる。
そして問題なのが、二点目である。
感覚で物事を語る悪癖を自覚しているからこそ、固有名詞を避けて、ライブでは会場名やバンド・ミュージシャン名だけを出し、「楽しかった」「お疲れ様でした」という表現だけに留める。

平たく言うと、自分の"感想"は気色の悪いものしか出てこないからだ。
重い、とでもいうのか。
それゆえ、そこまでの愛情があるわけでもないバンドやミュージシャンのライブに行った際には固有名詞を出して感想を呟くのか、と問われたならば答えは否である。
そういう問題ではないのだ、自分の中では。

どこまでも不器用なのだ、と感じる。
その自覚はある。
それでも感覚で生きることは、最早自分自身の業になっていて、それをやめることは出来ない。

自分が嫌いなのだろうね。
それでも、昨年あたりから漸く人生が楽しいと思えてきたのは確かだ。

いつ死んでも良かった。
でも今は、いつ死んでも最後に耳にした音楽が心地の好いものであったことを、希うばかりだ。

在る感覚

テーマ:
私は度々ライブへ足を運ぶのですが、大体が一人で、なんですね。
でも、現代って友人でも知り合いでもない、全く知らない人々の感想も、いくらでも知る事が出来るじゃないですか。
オンタイムに近い物だとTwitterであったり、少々ラグがあるなら個人のブログであったり。

確かに自分と、その名前も知らない人々は、同じ空間で同じものを見て聴いている。それは確かな事実だ。
そこで出てくる感想が、全く自分と異なっていたりするのが、凄く面白いと思うのです。
観点の違いや重点的にどの部分を聴いていたのか、そういった当たり前な違いもそうなのだけれど、何と言うのかな。
楽曲やバンドに対する思い入れが違うのも当たり前だし、どの部分に感動をしたり感銘を受けたりというのも違う。
更に言うなれば、感覚。
その人の生まれ持った感性やそれまでの人生で築き上げられた、その感覚。
同じ空間の空気や、熱や感動を、自分では思いもしなかった視点で語られたりしているのが、とても好きなんです。
他の方々がどう感じているのかは分からないけれど、私個人としてはそういった、”自分には感じ得なかった感想"というものが、好きで。
前述の通り楽曲やその演者に対する思い入れがまったく異なるといった要因もあるし、純粋に感性や感受性の度合いが違ったり、"他人であるからこそ感じられるもの”であったりするんですよね。

それらを知る手段が、沢山のツールによって増えた事を嬉しく思うんです。
一昔前ならばそれこそ個人のブログ、weblogが普及する前ならばhtmlで打ち込まれた日記サイトでしか知る事が出来なかった、そしてそれらは敷居の高さや物事を発信するといった事柄への、向き不向きもあってなのか、数が少なかったように感じます。
あくまでも主観ですけども。

手軽に情報発信が出来るようになった分、同じくらいにマイナスの感情を目にする機会も増えましたが、良い部分だって沢山ある。

自分と他人、その違いがまた、愛おしく感じます。
こういった感情が、今現在の自分の中にあることに、すこしだけ驚く。
あれだけ人間が嫌いだったのにね、と。
結局は人に救われて、また人に絶望して、きっとそんな繰り返しなのだろうな、なんて感じながら、穏やかな日曜の夕刻にこれを書きながら思っています。