ゆるされざるもの

ゆるされざるもの

須磨の海と空・365日

お知らせ


<テーマ>


1.ゆるされざるもの・・・日記のようなもの。定点撮影、須磨の海と空の写真。


2.映画・・・映画のレビューです。



 Webサイト:Shunji Takahashi Photo Gallery

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全く聴かなくなったわけではないけれど、しばらくkissFMから少し遠ざかっていたこともあって、今年のアコフェスは耳に馴染みのアーティストが少なかった。それゆえか、タイムテーブルが発表になっても、気になるアーティストばかりで回りきれない!という感じにはならなかった。逆にそれゆえ、アーティストを絞りやすく、遅れて行って定員オーバーで入れないということもなさそうだった。あらかじめ予定したアーティストは、新しいアルバムが発売されるという岬ちゃんのアカシアオルケスタ、軽快に春らしさを楽しめそうなシンリズム、それとほっこりできそうなハンバートハンバートの三組。空いた時間は、アドリブな出会いを楽しもうというくらいの余裕のある気持ちでの参加となった。

今年の会場はniji cafeやBO TAMBOURING CAFEなど、小規模なカフェが減ったのは残念だけど、すぐに入場規制がかかってしまうから仕方ないよね。その代わり、クラブ月世界が増えたのは大歓迎!かつて有名なキャバレーだった場所。そこでの浜端ヨウヘイくんはとても似合いそうで聴きに行きたいけれど、オルケスタとシンリズムの間だから、中途半端になっちゃうだろうなぁ…。ユーチューブでチェックした中ではヒグチアイが気になった。春らしく軽快に聴けるアーティストばかり予定していたので、ずっしりきそうなメッセージソングを中に混ぜてみたくなったのだろう。

さて当日。例年よりもこの字気にしては肌寒く、空気は青白い。雨の予報だったが、何とか天気は保っている。余裕を持って家を出て、東急ハンズにはリストバンド交換時間の少し前に到着。すでに1階から並んでいたが、それほど待たずに6回の交換所までたどり着く。すぐにVaritに向かえば既にずらりと人が並んでいたが、十分に中に入れる位置につけることができた。会場入りすると、今年はステージを見下ろす二階に階段状の段差が設けられていて、後ろからでも見やすいように工夫されていた。去年までは2列目以降は客の頭越しでほぼステージは見えなかった。そんな工夫のおかげかすでに場所は埋まっていて、まだ余裕のあるステージ前の一階に下りていくことに。ステージを前に左手に進めば、しっかり見られる前の位置に立てる。

いつも以上に気合いの入ったアカシアオルケスタ。岬ちゃんは、ラジオでのトークそのままに。話が前後したり、言い淀んだりも熟練の回避技で笑いに変えてランディング。メンバーからいつもより緊張してない?と突っ込まれるも、そのびりびりしている緊張が周囲の空気を震わせて、いつも以上に彼女を輝かせているのかもしれないね。セットリストは新曲多め。ダンサブルというか、これまで以上にノリが良くなった。気持ちよく体が揺れる。新曲なのに、聞き慣れた愛着の曲みたいにすんなりと入ってくる。もう終わり?ああ!!…先行発売されたアルバムを買い、余韻を残しながら会場を出ると、涼しい風が少し汗ばんだ体を冷やしてくれる。

まっすぐにシンリズムのスポルテリアへ向かえば開始30分前、場所に余裕はあるものの、既に席は埋まって立ち見になる。座ることができれば、ドリンクだけでなく、いい匂いをさせている唐揚げも頼みたかったが…。シンリズムは既に前に立って念入りに機器のセッティングやバランスのチェックをしている。エレキギターや特殊な音響効果をもたらす機械を導入していて「アコースティック」というくくりには疑問符がつくが、アコフェスは年々アコースティックな縛りからは開放されてきているので今年はそれほど違和感を覚えない。

本番では、しかしさすが、その場で鳴らす音にはこだわってライブ感を出してくる。ループマシンというその場で吹き込んだ音をくり返す機械を使ってボイスパーカッションやコーラスを重ねていく。単独演奏だが、歌を歌い、ギターを弾き、ループマシンを操作し、スーツケース!(見えなかったが…)をバスドラとして使うなど、一人何役もこなしてカラフルな音を作り出していく様は、まさに音の実験場。

高校生デビューした彼は天才の類いだろう。様々な楽器を演奏し、プログラムまでこなして音楽を作り上げるという。独りで音を造り、トラックを重ねて音楽を作るということで音源で聴くような音楽かと思っていたが、思いもかけず、こんな科学実験的なライブも楽しい。

次は、会場であるクラブ月世界が気になって、演奏途中のTHE CHARM
PARKをのぞきに行く。先客はテーブル席にゆったり座って音楽を聴いているが、途中で入った僕はもちろん立ち見。いいなぁ。こんな場所でゆっくり食事でもしながら音楽を聴いたら最高だろうなぁ…と思えば急激におなかがすいてくる。音の続きは気になったが、食事を求めて外に出ることにした。

 今年で四回目になる神戸アコースティックフェスティバル。いくつかライブハウスに加え、おしゃれなカフェや旧小学校の講堂(現・北野工房)など、日常的に利用される施設でアーティストがパフォーマンスを行うサーキットイベント。移動の際の寄り道も楽しい、ジャストサイズで気の利いた街並みの、まさに神戸ならではのイベント。毎年この時期だけれども、今年は遅かった桜の残る街の中で行われた。今年一番の陽気、デニムのシャツの上にはなにも羽織らず、寒がりの自分が、腕まくりさえして家を出た。

 

 時間を間違え少し遅れ気味の出発で、まずは 南壽あさ子が歌うスポルテリアに到着。案の定、すでに建物から人がはみ出して、通りで耳を傾けている人たちがいる。スポルテリアの普段はスポーツカフェバー。床面積もそれなりなので、ある程度名の知られている人なら既に一杯になってしまっているだろうというのは折り込み済み。でも、一度彼女の歌声を生で聞いてみたかった。
 どこにも尖ったところの無い、優しいけど細くは無い歌声が通りの外まで流れてきた。ささくれだった胸の内をなめらかにして、腹まで落ちてくる。ここまで優しい歌声は、これまで聴いたことが無い。ラジオで曲は聴いていたものの、その癒やしの力は生で聴く方があらたか。三曲ほど聴いたが、最後にお目当てのフローラも聴けた。こんな声で歌う人はどんな人なのだろう、知りたい。次に行きたい会場もあったのだが、サインもしてもらえるCD販売の列に並ぶことにした。
 多少ジリジリしながら15分ほど、彼女の前に立つと、折れそうなほど細く、大勢の前で歌うにしては、人を前にどこかぎこちない様子の女性が立っていた。はっとした。あの優しい声は、自分自身を傷つけないために極度に完成されたものなのかもしれない。遠くの誰かにも届くような声を出し続ければ、喉を枯らしたり、その人の体の内側だって傷つくだろう。もちろんプロの歌手なら負担をかけない発声を習得していくのだろうけど、ここまでか弱き人ならなおさら細心。だからこそ極めたやさしい声。そのやさしい声で、世界がやさしくあるようにと祈っている―。

 

 二軒目はロックでギターなREIちゃんの予定だったが、開始時刻を大幅にオーバーして、もう入れないだろうなと思いつつ会場に向かう。案の定、人が表にまで溢れている。music live cafeなるSTUDIO KIKIは、防音もしっかりしていて、外まで音は流れてこない。あきらめて次の予定、あいみょんの待つVaritへ向かう。ライブの始まる15分ほど前に会場入りできた。しかし、最大で400人入るという触れ込みの会場は既に二階にも人が一杯で、ステージを観るのが難しいほどになっている。Varitが既に温まってた?春からアコフェスを主催しているKISSーFMに番組も持っているし、神戸での知名度は去年に比べてもぐっと上がったのかもしれない。
 今回のフェスでは、強い言葉を聞きたいと思ってアーティストをピックアップしていた。あいみょん、アコフェスの出演者に目を通すまでは知らなかったけどヒグチアイ、それから金木和也あたりに目星をつけた。中でもあいみょんは最右翼。声にパンチがあるし、歌詞はちょっとどぎついくらいで時に敬遠したくなるほど。でも、何かそういうむきだしの強い言葉に対する渇きがあった。
 生で聴けば、ダイレクトに体の奥まで響く強い声。でも刺したり脅したりする凶器では無かった。確かに怒気を孕んでいる。しかしその怒りの底には、哀しみが流れているようだ。見捨てられたもの、誤解されるもの、忘れ去られてゆくものの哀しみが、声と言葉の底にある。人一倍強い感受性、どうしようも無く掬い取ってしまう彼女は、崖っぷちにいながら上手く言葉を発することのできない人の代わりに、強い声で、強い体で代弁している。
 さて、ヒグチアイが次の時間割、会場はレンタルスペースであるARTRIUM。今回一番小さな会場で、開始時間になったら一杯では入れなくなってるだろう…とVarit立ち去りかけたのだけれども、彼女のトークに少し引き留められてしまった。バリバリの大阪弁で、ラジオよりも一層こなれた感じは、人が前にいるほどに舌が回るのかもしれない。話を受ける相方、標準語のちょっとおたおたする感じが対照的で、会場はクスクス笑いが止まらない。楽しいねぇ。22歳のトークとも思えない、きっと学校やら家族やら、デビューする前からずっとこの調子でトークしてる10年選手。ちょっと名残惜しいけど…と、会場を出て我に返れば、次行かなくても良かったんじゃ無いかと少し後悔。都合の合うのがあれば、ワンマンとか、ライブに参加しようと決める。間違いなく楽しませてもらえる。
 結局ARTRIUMに着いた時には、既に長蛇の列ができていて、少し並んで待っていたが、時間になっても会場には入れないとわかる。あれもこれもと欲張って中途半端なことをしてしまった。

 

 その後、手頃なカフェに入って昼食を済ませてから、VARITへ。神戸のご当地アーティスト、ワタナベフラワー。人もそれほど多くないんじゃ無いか?笑わせてもらいながらビールでもゆっくり飲もうかと目論んだが、けっこうな人だかり。あいみょんよりは少ない?いやでも、賑やかだね。いつものトークで湧かせながら、いつもの歌を歌ってる。思ったよりは窮屈だけれども、ビールと定番をゆったりと味わう。やっぱこんなのもいい。
 ビールを終えて会場を出ると、東急ハンズへ向かった。ここはチケットを持たない人でも観られるオープン会場で、主に神戸、KISS-FMにゆかりの深いアーティスト達が参加している。当初は、北野工房のSOFFetに行く予定だったのだけど、ワタナベフラワーを聴いていたら、岬ちゃんにも会いたくなってしまった。彼女はKISS-FMの看板DJ(サウンドクルー)の一人であり、なおかつアカシアオルケスタのヴォーカルである。リスナー(Kissner)からは岬ちゃんと呼ばれて親しまれている。ここ一年、聴く機会はぐっと減ってしまったのだけど、それまで職場のラジオで八年間聴き続けてきた馴染みの人である。トークも歌も安定感があって、お客さんとアーティストとの距離がとても近い。会場は親近感、一体感があってとてもいい雰囲気。あれ?声、前より滑らかになってない?残念ながら、天井が高く他のフロアとも繫がるオープンな会場で、少し遅れてやってくる反響もあるから声の芯が通らない。次回は、もう少し音の管理された会場で、きちっと聴きたい。オルケスタは他のメンバーの演奏も確かで、じっくり腰を据えても聴き応えがある。

 

 その後、再びVARITに戻ってビッケブランカを覗いた後に、STUDIO KIKIに向かった。実は少し疲れたので、座れる場所に行きたかったというのがその理由。立ち仕事をしていた時は、一日中立っていてもなんてことはなかったが、一年以上のブランクでそういうわけにもいかなくなった。ビールが入って腰に疲れがたまっている。いいくぼさおり。アーティストの名前に馴染みはないし、曲も知らないし、恐らく座れると踏んだ。思った通りスタート15分前に、選べるほどに席は空いていた。それでもアーティスト登場時には、ガラガラということはなく、ほどよく席が埋まって少しほっとする。ピアノの弾き語りは、ショートカットの元気な感じ。張りのあるトーク、ノリのいい曲で、客に声を出させて湧かせてしまえとスタート。アウェイなのに頑張るなぁ。言われるがままに声を出しながらも、あいみょんからワタナベフラワー、岬ちゃんと関西をホームとする人たちを渡ってきた後だけに、少し空回りしている印象は否めない。その路線、今回他にも宇宙まおとかD.W.ニコルズとかの芸達者達が裏でやってるから、厳しいのでは…などと冷静に分析。しかし、二曲目三曲目と、何だか様子が違う。引きよせられて離れがたくなっていることに気づく。何だろうこれ?ピアノだ。ピアノがすごいんだ。何がすごいって、演奏は本当に上手いのだけど、にもかかわらずすごいでしょ!と主張しすぎないところがすごい。通る声で伸びがあって押し出しも効いているのだけれど、やっぱりそれだけで飛び出すことが無い。ぴったりと、楽器とひとつになって溶け合ってる。こんなピアノの弾き語りって、もしかしたらこれまで聴いたことが無いかもしれない。
 辺りを見回せば、いつの間にか立ち見がぐるっと囲んでいる会場全体がそんな雰囲気。きっと同じように感じている。縛られているわけでは無い、これといったショックもフックもあるわけじゃ無いけど、動けない、離れられないでいるその感じ。心地い音の調和、いつか自分がそれと一つになっている。詞だってアイガクライネとかの狙い打ちもあるけど、全般にわりと自然で、ひとつひとつの言葉は止まらず、感じ入るということも無く流れていく。なのにでも、最後の曲では、涙がこらえきれなかった。映画ではしょっちゅう泣いてしまうけれども、音楽を聴いて泣くのはSuperBeaverの愛するを聴いて以来。前触れも無く突然やってくるから、ほんま困るよね、こういうの。そんな後ろ姿も、若い女性なら絵になるかもしれないが、おっさんだとみっともないだけ。
 最後の曲が入ったCDを買ってサインしてもらう。三枚目風のジャケット写真と異なり、目の前で観たらとても素敵な美人さんだった。握手をする。目がこちらを追う。演奏と同じく、全身が止まるところ無くひとつになって流れていて、漲っている。それにしても、毎年アコフェスでは、こういう予期しない出会いがある。

 

 そのままSTUDIO KIKIでリリィ、さよならを聴き、脚に力が戻った後はVaritに戻ってSpecial Favorite Musicに参加した。その後、金木和也に後ろ髪引かれつつも、ラストのSalleyに備えて早めにnomadikaに向かう。ここでいろんな人の曲を聴いていれば、名前は知られていなくても、とてもいい歌を歌う人たちがいることがわかる。じゃあメジャーデビューしてそれなりに売れている人は、どこが違うのだろうと気になったのだ。Salleyは、何年か前、メジャーデビュー曲の「赤い靴」がラジオや有線で流れていた。確かに一度聴くと耳から離れないメロディーや声があって、それが、実際ライブではどれほどの力で響くのだろうかってところを知りたくなったのだ。
 nomadikaはイタリアンのお店。ちょとした結婚式もできそうなくらい、今回のフェスでは、北野工房、varitに次いで広い会場。でも、知名度のあるアーティストが入れば一杯になる。そう見込んで前のwacciの時にたどり着けば、人は外まで溢れかえっている。次のSalleyまで居座るつもりかなと思ったのだが、出番が終わると、大半は会場を出て行く。残ったのは会場の前半に100席ほど並べられた椅子に余裕で座れるくらいの人数だ。次まで30分ほどあるとはいうが、思ったより少ない。音合わせで、ギターの上口くんがまず顔を出す。あれ、彼って確か…。その後、ヴォーカルのうららが顔を見せる。あ、やっぱりそうだ。お昼にVaritの前の通りを渡っていた二人だ。その時は、男性はsalleyの片割れみたいだなと思っていたが、女性の方が小柄だったので、やっぱ違うかもと思い直していたのだった。
 二人の写った写真は何枚か目にしていたが全身が映ったものは無く、ヴォーカルは、スラッと背の高いキレイめの女性を思い描いていた。実際は、小柄で愛嬌を感じさせるかわいらしい人である。いずれにせよ見栄えのする、華のある容姿であることは間違いない。
 時間になった。会場は、意外にも後方に空きがある。トークは、標準語で思っていたより大人しめ。ゲスト出演していたラジオで、突っ込み厳しい大阪のお姉さんなイメージだったが、それも一年以上も前の話。東京中心で仕事をしているからなのか。もしかしたらずいぶんと直されたのかもわからない。当たり障り無く心地よいとは思うけど、ちょっと構えていたから肩すかし。歌が始まる。声にはやはり特徴があって、一度聴いたら耳に残る。沖縄民謡にも似た独特の節回し、喉の使い方の上手い、技巧の勝った人なのかという予想は良い意味で裏切られた。体の奥底から声を出し、指先や目線まで使って曲の世界を表現しようと努めている。地元関西のライブでは泣いてしまうことも多いというエピソードを聴いても、気持ちを込めて、魂のあるのがわかる。ギターはさすが、多分技巧は相当なものなのだろうけど間違えない。彼女にぴったり寄り添って、前に出ず控えめにリードしている。安定感のある堂々としたパフォーマンスだけれども、決して自信に満ち溢れているわけでも無いことは、トークを聞いていて感じてしまった。特に矢面に立ってるうららの方に弱気を感じる。いや、形をなしてそれが見えているわけでは無いから勘違いかもしれないけど、実はトークのうわずっている上口君が、裏ではしっかり支えている、なんていう逆転を想像してみたりする。

 

 足を運んでみないと、わからないことがある。音を堪能するだけで無く、数々の思惑を上回ってくるサプライズに出会うのが、アコフェスの醍醐味。今日も無数の発見があった。

 華のある人たち、特別な力を持った人たちが、それぞれのやり方で世界に働きかけている。それでも思うほどに響かなくて、迷子になることもありそうだ。悩みつつ自らが描く理想を追い求める中で、また新しい何かが生まれてくる。…そこからすぐに、世界は広い、そして美しい、と短絡的に飛躍する。辛くて苦しいことばかりといつもあきらめていた暗闇に灯りがともる。帰途に就く。寒くも暑くも無い春の夜。

参院選、自民の大勝。世間を冷静に眺めてみれば、この結果は予想できる。そしてこの結果を受ければ、この国はますます弱いものをいじめる方向へと舵を切っていくのだろうという暗い予測しかない。弱い者がさらに弱い者を攻撃するという、広がった格差が格差がもたらす必然的な継起は、しかし海に浮かぶ箱船的な潔癖主義の国家において、起点となった強者をも脅かす。ついに崖っぷちまで追い込まれた最後の人々は、海の向こうへと憎悪をたぎらせる。
 大企業や行政の傘下にいる人たちがアベノミクスの恩恵を受けて、自民に投票することは頷けるところであろう。彼らには、自らの生活が向上している実感がある。中小企業や非正規雇用の社員、年金生活者、あるいは沖縄や福島に住む人々がアベノミクスでわりを食っている現実を知りつつも、いや、そのような他者の苦しい現状を見ればこそ、強く意識するかは別としてそこには陥りたくない、それらを切り捨ててでも自らは浮かび上がりたいという人情も影を落とすだろう。余裕のなさの裏側で、正義は勘定から外される。しかし人口比からして、もちろん彼らが大多数というわけでは無い。この自民支持という投票行動は、わりを食っている人たちからの投票を考えなければ、究明できない。 一番の原因としてちまたで語られるのは「他の党よりはまし」という理由である。今では、民主党政権が散々だったという評価が定着している。確かにあの時期、民主党は失策と無残な内部分裂を露呈した。あのしくじりがあったからこそ、他の党には投票できないという機序は理解できる。しかし私は例の三年間を、彼らだけの責任にすることは到底できない。自民政権ではできなかったであろう政策も行われた。なにより事業仕分けによって官僚の厚顔、浅ましさなどが浮き彫りになった点が鮮烈だ。その官僚達は新しい政権を盛り立てようとしただろうか。彼らが、公僕として国のために身を切る覚悟をもって事に当たっていれば、加えてもし彼らが本当に「優秀」なのならば、必ずや違った展開があっただろう。いくらかはましな方向に進んでいたはずだ。しかしそうはならなかった。彼らの自己保身、元の政権に戻そうという意思が、国を犠牲にしたのではないかと怪しんでいる。いや、彼らのことをそれほど「優秀」な人たちなのだと、買いかぶりすぎているのかもしれないが。とにかく無能であるにせよ、手前勝手であるにせよ、そのような官僚と蜜月関係を結ぶ政党が、現在がっちりと政権を押さえているという現状である。 ただしこのことは、今回の自民支持、そこに繫がる日本の現況を解き明かす手がかりとして表面的なものに過ぎない。主柱となるのは、ここから分け入った内にある。
 中小企業にしろ、非正規社員にしろ、辿ってゆけば結局は大企業や官とのつながりがある。自らを追い詰めてくる相手を、しかし真正面から反抗すれば、刃は自らに返ってくる(しかし沖縄や福島の人々は自民を拒絶した)。上が不調に苦しめば、しわ寄せは必ずそれ以上の苛烈さを持って下に降りて来る。それは、増えた利益が上からしたたり落ちるよりも百倍確実である。 グローバルエコノミーの激しい競争の中で、現在は手加減なしの「合理的」な経営が許されている、どころか推奨すらされている。倫理や人情が人を守らなくなった以上は、法律がそれにブレーキをかけるよりほかないのだが、その法律は逆に、アクセルの役割を果たすようになっている。現状、景気回復の為、あるいは国を強くするために、大企業を守り、富裕層を優遇する、一方底辺では個々人の権利が奪われ、弱体化させるような政策が続けられている。個々人や少数からなる共同体は、そのようにどんどんと権利を失い裸になってゆくことで、ますます自らを圧迫する「お上」に頼らざるを得ない現況が出来(しゅったい)しているのである。しかしそのことは意識下に抑圧されている。そしてその不都合な真実を目を背けることで、ますます従順になっているのである。経済さえ持ち直せば、すべては変わる。そう信じて耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、日本国が席巻する日、バブルとまでとは言わずとも、それに近い繁栄・・・というかむしろあれは狂乱だが・・・の到来を望んでいる。 経済的な繁栄よりも優先すべきは、むしろ貧しくとも誇りを持って生きられる、人々がお互いを信じ、思い遣ることのできる穏やかな社会であろうと思われるが、それは現実には実現不可能なのだろうか。現状、金と誇りがほとんどイコールで結ばれていて、貧しくとも矜恃を保つというのは難しい。合法的に認められている範囲であれば、どんな風にコストダウンしても罪の意識すら感じることの無い非常さが勝ち組になる必須条件、それが現代のビジネスである。上層では、大きな金のために己を殺す人々がいる。しかしそれは底辺において、わずかな金の為に己を殺すことを強いることとも連動している。人々の気持ちは荒んだものになり、金さえあればという気持ちにもさせている。このことは一点、消費者として払う側に回ったときに尊大になる現象、クレーマーなどの増加ともつながりがあるだろう。 追い詰められている人々は、もちろん内なる攻撃性を高めている。ベクトルは上から下。大企業のますます厳しくなる業務が、中小企業への締め付けに、それが今度非正規社員の締め付けに。オアシスはただ、家族や友人同士のつながりや、職場いえば現場レベルのような小規模な形でのみ出現しうる。もちろんそこですらいつでも潤いを失って干上がってしまう可能性に晒されているわけだが、さらに深刻なのはオアシスを失って、常に砂漠にいる人々である。浮き草のようにさまよう乾ききった単独者。中でも最下層で追い詰められた内の一部が、テロのような事件を起こして憎しみを世に解き放つ。 もっとも日本は求心力のある宗教もなければ銃器の所持も認められていないので、アメリカのような大量虐殺に結びつくことはあまりない。また攻撃性は外よりも内側に向かい、自殺という形をとることのほうが多いだろう。
 しかしもちろん、上でも下でも、このように身内を攻撃することは、回り回って自らを滅ぼすことに無意識的にでも気づいている。必然攻撃性は、外へ向かう。韓国、中国へと。あるいは同族として認めなくとも差し障りが無いと思われる国内の少数者、在日朝鮮人などへの圧迫・差別といった形を取って。2000年代半ば以降、逆に彼の国らが政権主導でナショナリズムを煽り、反日を先導したことは、政権にとって利用価値のあるものだったのである。しかし民主政権は、それらに対して控えめの抗議、時には譲歩する姿勢を示すことで、下手を打った。抜け目なく手段を選ばない一党独裁の大陸に揺さぶりのきっかけを与え、劣等感を抱えた半島の嗜虐心にも火をつけた。しかしなによりもそれが、そのような行き場の無い怒りを内在させた国内の個々人にどういう影響を与えるのかということに無頓着であった。 中韓の反日運動に対抗するかのように燃え上がったヘイトは、それまで右翼と呼ばれる人たちに限られなかった。生活の抑圧状況において、一般の、一見良識ある人々が、実は内側に偏見に基づく激しい怒りや憎しみを内在させていることも少なくないのだろう。彼らはそれを実生活上で顕わにすることが今のところ「はしたなく」差し障りのあることと考えられているから、あるいは直接の反撃を恐れているから、普段は表に出さない。匿名で特定のされないネット上でのみ、憎しみを爆発させた。その人達は半ば嘲笑気味にネトウヨと呼ばれるようになった。
 もちろん、ネット限定の右翼を含んだ右翼全体であっても、まだまだ少数派であろう。しかしそれを超えて、嫌悪の裾野は広い。いわゆる一般の人たちにも行き渡っているのである。「どの国が嫌い」というような調査(このようなステレオタイプを前提とする「おおざっぱ」に「感情」を問う意見調査を行うということ自体、メディアが調査対象を低く見積もっている証左であろう)をメディアが行えば、中国・韓国について過半数が嫌いという結果が得られる現状である。ちなみに中国に関しては、政権主導の反日運動が一段落し、観光客の増加と「爆買い」により潤っている現実もあってか、警戒心は抱きつつもいくらか好感度は持ち直している感触がある。しかし韓国に対してはまだまだ苛烈である。ネットで検索してみると、ぞっとするような書き込みが見られる。他者に対するあのようなこき下ろしや中傷が、かえって自らの誇りを傷つけることに、彼らは気づいていない様子だ。誇りある人々達があのような発言はしないだろうことは、冷静に振り返ればわかることだろう。・・・いや、今は右左に関わりなく、名士と呼ばれる人達、あるいは知識人でさえ、理性というより感情に基づいたと思われるようなあざといこき下ろしを辞さない。誇りや品格といった言葉を使って彼らに襟を正すことを望むのは、難しいことなのかもしれない。  統計結果を見れば、いや、身近にいる素朴な人たちを見ていても、それらの国を嫌う人の数が、一時ずいぶんと増えたと身近に実感したことがある。竹島の問題からはじまり、韓国で行われているという反日教育の実態、外交の場における朴槿恵大統領の不躾な態度など、それらの報道に日々接すれば、嫌悪感が高まるのは当然と言える。それらの国に断固とした姿勢を示すことで安倍政権は、それ以前との政権との違いをも見せつけ、怒りと憎しみを内に秘めた国民の人気を得ることに成功したのである。

 格差を広げるような政治・経済的な構造が、排外主義へとつながる仕組みには、もっと目を向けて良いだろう。その機運を政治的に利用しようとする政権によって、海外への挑発行為が増え、それに呼応するかのように対抗運動が高まれば、ますます差別的な風潮は強まる。隣国の政権の挑発に対しては、もちろん断固とした姿勢を示し、あらゆる手を尽くすことが求められる。しかし彼らと同じようにすること、いかに国民の人気が得られようとも、こちらからの挑発は、止める手立ての無い螺旋的発展をもたらす。そのような差別主義を最も上手く利用したのがナチスである。ナチスは、国内におけるユダヤ人差別とシンクロしていたことが追い風となった。政策によってユダヤ人らを虐げることが、国内で圧倒的な支持を得ることに繫がった。しかし、その必然的な帰結として、600万人の虐殺という人類史上最大の犯罪を犯した上で、破滅の道を辿ることとなった。 日本とて、大戦中の政治は酷いものだったのである。もちろん朝鮮人に対する差別はあったにせよ、ドイツほど政治的に利用できる十分な数の差別対象はいなかった。しかしその代わりに日本では、国政に同調しない者達に対し「非国民」とする烙印を押し、差別・虐待する流れを助長した。結果、国民は一つにまとまった。そうして批評を失い、硬直的になった政策が、その後日本を壊滅的な敗戦へと導いた。このことは、今後同じことを起こさないために記憶にとどめる必要がある。
 しかしそれを自虐史観と決めつけ、当時の開戦は欧米列強の悪行に対抗するため、植民地化された東南アジアを解放するための仕方の無い行為だったのだと、当時の政権に肩入れするかのような修正を試みるような動きがある。 これは一部の過激な動きではなく、政治的にも、特定秘密保護法が施行されるなど、それを可能にしうる足場を備えつつある。実際歴史教科書など、今のところ歪曲と言えるほどでも無いが、それの下準備を整えるかのような細かい修正が加えられている。例えばそのことに対する批評的な文面が削られて、事実の列挙だけにとどめるような改訂である。欧米の目があれば、そう簡単に大規模な改訂には踏み切れないだろうが、過去の過失をなんとか切り離したいとする気配は濃厚である。しばらく前、イギリス政府が独立組織に調査を命じ、その委員会が湾岸戦争へと舵を切った前政権の非を裁断する調査結果を発表した。かの国でもやはりEU離れなど排外の気配はあるが、しかし一方でそれらと切り離されて別の立場からの判断が行われる。果たして今の日本で、我が身を振り返って、内側から非難や反省が行われるようなことが可能だろうか。 教科書の歴史修正といった官のレベルでは無く、民のレベルでも怪しげな気配がある。NHKが政府の御用メディアになりつつある状況は、キャスターの交代、番組の変遷などを眺めていると、どうやら当たらずとも遠からずといったところだ。国内大手メディアがこぞって批評精神を失えば、外国の新聞に目を通すことのできるような一部の人のみが客観的視点を保てるという状況になってしまう。もっと俗にわかりやすいのはTVメディアにおいて日本を賛美するバラエティー番組が乱発されている現状である。好評を博しているのは、反面、日本人が自身の自信を失っていることにも由来するのだろう。自尊心をくすぐって、確かに観ていれば良い気分にもなる。しかしもちろん、やりすぎれば恥ずかしい。飽きっぽい国民性だから、逆の方向に針が振れることも十分に考えられるわけだが、今の状況は少々異様である。個々人の心理状態として、もうこれ以上非難されることには耐えられないような状況にあって、それが、このような褒めちぎり番組を後押ししているのかもしれない。乾ききった大地に身をさらす日常の中で、批評を受け入れ、改めてゆくだけの余裕が無くなっている可能性については検討してみるべきであろう。 もともと同調圧力の強い国柄である。ぎりぎりと締め付けられ抑圧状態にある国民が、いったんお墨付きとなるような既成事実を得れば、雪崩を打って一つの方向へ向かうことは大いにあり得る。そのときには、誇り高き日本人を旗印に掲げつつ、実際には人間としての誇りを失った存在が誕生することになる。批評や反省を捨て去ってしまえば、そのように先の大戦と似たようなルートを進んだときに、歯止めが無くなることになる。
 ただ実際には、身近には雪解けの気配もいくらか感じられる。まず最初に起こったのは反動である。反日運動に敵対心を覚えつつも、ヘイトスピーチやあまりにも差別的な書き込みに生理的な嫌悪感を覚えて、そのような危険な団体から距離を置きたいという思いが広がった。危機感を覚えた一部は反ヘイト運動を行うことともなり、政治的にも、反ヘイト対策の法案が検討されることになった。それに加えて、ごく最近になるが、経済の一時的な持ち直しが、寛容な精神を取り戻すのに役に立っているようだ。もちろん一般的、一律に語られることの多い「景気回復」は、地方によって、あるいはその「身分」によってもだいぶ異なる(有効求人倍率は一倍を上回ったというけれども、地方別の「正社員」のみの有効求人倍率を調べてみれば、もっと本質的なことがわかるだろう)。またごく一部だけれども根本的な変化もある。海外の人が身近になったことから偏見から解放される例である。政治的にはともかく、個々人はまた別の話である。 身近で、普段から偏見が強く、差別感情も強く持っているだろうなと思われた人が、意外にも中国人を擁護するような発言を行ったことがあった。詳しく聞いていると、以前彼女には中国人の同僚がいた。日本人とは違う感性だが、逆にそれ故に頼もしく感じるところもあったようだ。来日する中国人の数が増え、個人と個人との交流が増えれば、偏見を和らげる方向に繫がるという例である。反日的な行為がなりを潜めれば、このような個々人の交流における雪解けは進むだろう。
 もちろん、その針がまた逆に振れることもある。差別的な言動を与えられ続ければ、被差別者が棘を出すのは当然の理。その棘に刺された者がさらに偏見を強めるという悪循環である。異なる国民性がプラスに働かず、マイナスに働くこともありうるだろう。 ただし一部でもっと恐ろしい懸念がある。ネットや小規模の集団の限られた空間の中で、差別が純粋培養されることについてである。偏見が当然のものとして流通する空間に属する者達は、世界の多くが自分たちと同調していると思い込む傾向がある。最近街中で「おまえ朝鮮人だろ!」と当然のように罵ったり、捨て台詞を吐く者を目にする機会が重なった。公衆の面前。今のところ、そのような発言をする人こそ卑劣漢で、彼らこそが嫌悪されることの方が一般的だが、もちろん彼らはそのことにまったく気づいていない。そのような発言が最も相手を侮蔑する言葉であり、周囲も同調してくれると信じきっているような態度である。このような勢力がじわじわと拡大を続ける要素は、今の日本には揃っている。 格差がもたらす抑圧の内に孤立する者にとっては、ネットの中で不満を他に帰する排外的なコミュニティーのみがオアシスとなる。そこでは「どうやら安倍首相も、自分たちと意を同じくしているようだ」との共通認識。そして「その政権を、多くの人々が支持しているじゃないか」・・・実際にはそれは消極的な支持であり、反面でその強権的な姿勢に怖さを覚えているという側面すらあるのだが、その都合の悪い部分は潜っている人の目には見えない。どっぷり浸かりきってしまえば、彼らにとって、それこそが世界なのである。
 砂漠をさまよう人たちがますます増え、彼らがそこにしかオアシスを見つけられないとすれば、いつしかそのオアシスは他の小さなオアシスを圧倒するほどに成長する可能性がある。


 昨日、AKBの総選挙があった。普段彼女たちに注目しているわけでは無いが、この日ばかりは気をそそられる。順位の行く末も気になるが、どんなスピーチがなされるのか、そこに関心の中心がある。同じような人は少なくないようで、AKBなんてほとんど興味の無い人が、翌日職場でスピーチ内容を話題として取り上げていたこともあった。
 今年は、気持ちの余裕もあまりなくて、あらかじめ観る予定にはしていなかったのだが、食事の時間と重なってチャンネルを合わせた。10位から見始めたが、印象に残ったのは二人。8位の島崎遥香が去年までとは違った雰囲気で、成長したのだなと思わされた。ぶつかる子ほど、多くを学ぶ。折れたり、退場させられたりしなければだが。7位の須田亜香里の深い内容には、今回一番心打たれた。幸せそうな笑顔がまぶたの裏に焼き付いた。

 彼女たちのスピーチももちろん印象深かったが、しかしそれが吹っ飛んでしまうほどの強いスピーチに出会った。テキサスの高校で、卒業生が行ったものだ。CNNのサイトに載った記事。彼の地では話題になっているようだが、日本のサイトでは、取り上げられているのを見かけなかったので、ここで紹介することにした。日本では、若い人がスピーチするのを目にする機会は、それこそAKB総選挙くらいしか無いが、アメリカではわりと日常的なことのようである。高校や大学の卒業式でも、選ばれた卒業生代表が数人壇上に立ち、それぞれスピーチを広げるという習慣があるようだ。しかし彼女のスピーチはその中でも、異例のものだったようだ。

記事はこちら。いつまであるかわからないのでお早めに。
http://edition.cnn.com/2016/06/10/us/texas-undocumented-valedictorian-trnd/

臨場感を味わいたい方はビデオでどうぞ。記事からもリンクがあるが、こちらだと彼女のスピーチだけが見られる。それと、コメントから賛否両論あることもわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=WsC5fHwo7lQ

 彼女はスピーチで、自身がan undocumented immigrantであることを打ち明けた。英語を直訳すると、証明書類を持たない移民(彼女の場合メキシコからの)ということである。私の知識は拙い。スピーチだってちゃんとは聞き取れていないし、そもそもundocument immigrantとillegal immigrant(違法移民)がどう違うのか、それともどの程度に同じなのかよくわかっていない。しかし、それが公に認められた存在ではないことは確実だ。それを、堂々と同級生や来賓の前で、あるいはビデオを通して全米に宣言した。
 アメリカにはあからさまな差別がある。ドナルド・トランプが「メキシコとの国境に壁を作る」、しかも「メキシコに金を出させる」と選挙戦で突拍子も無いことを宣言し、しかしそんな発言をする彼が、共和党員の強力な支持を受け、大統領選における党の代表候補者となる国である。とりわけ保守の勢力の強いテキサスで、恐らくこれまでにも様々な差別を肌に受けてきただろう。公にするなら今しか無いと覚悟した、その切迫した感じは、映像からでも伝わってくる。
 もちろん全体的にすばらしい内容だったが、個人的には、学校が安息の場所(haven)になったという、その表現に打たれた。自分にも似たような経験がある。それが重なったのだ。インターネットが無くても、洗濯機が無くても(朝から晩まで働くシングルマザーの家庭で妹の面倒を看るなど、家では家事を相当手伝っていたようだ)自分自身のベッドを持って無くても(ベッドルームは家族三人で一つだったらしい。日本では珍しくないが)、学校では勉強することができた、図書館に感謝しているという彼女とはまた違う理由ではあるものの。私の場合、偏見に足を引っ張られること無く人々と自由に交流できたのが、35歳で入った大学だった。日本には、アメリカと同じようにはっきりわかる人種的(例えば朝鮮人に対する)差別もあるが、それとは違った、もっと目に見えにくい隠微な形の差別がある。大学で私は羽根をもらった。2年で170以上の単位を取った(編入学における認定分の50単位あまりを除いて)。だけでなく、深夜のアルバイトをしながら、拙いものだが写真で3回も個展を開いた。年齢的に色眼鏡で見られることも少なくなかったにせよ、それは比較的穏やかなもので、毎日のように新しい知人ができた(悲しいことに少なくない若い学生達が、その特権に気づかず享受せず、灰色の日常を送っていたようだが)。夢を見ているように素晴らしい期間だった。いや、それはもしかしたら彼女と同じ形なのかもしれない。ある種の記号によって分類され、偏見にさらされる者にとって、学校が安息の地となることは。そしてだからこそ、その場で他の者とは異なる羽ばたきをすることができる。もちろん彼女が卒業生代表[valedictorian]になったということは、トップクラスの成績を収めたことをも意味しているのである。
 このところ、先の見えない状況、いろいろと行き詰まっていた。しかし、子供のような年齢の彼女のスピーチに、勇気をもらった。

6:37 f8・1/2 60 0℃

0℃以下は、先月末の寒波以来。冬が最後に力を振り絞った。そんなに頑張らなくてもいいのに。光の春は、もう既に来ている。
太陽の上に柱が立った。今回400日あまりの撮影を通して、一番くっきり出た太陽柱かもしれない。