〜Crossing〜岡崎直子の新時代スピリチュアリズム&フィロソフィア

タロットや星、カバラ、アルケミーなどの伝統神秘学は、ただ吉凶を占うためのものではなく、意識的にあなたの現実を豊かに・幸せに・ロマンティックに創造するためのツール。
あなたの幸せが世界を輝かせる、新しい時代のためのスピリチュアリズムをお伝えします。


テーマ:

 

 

2017年を生きている私たちは、今から何を目にしようとしているんだろう。

 

私たちはこの「創造時代」に人間として生きて、ドラスティックな歴史の転換を目にしようとしている・・・・・

 

 


いいや、違う。

 

 

 


フランス革命を生きた人や、世界大戦を生きた人は、「歴史の中から」歴史が変わっていくのをきっとまざまざと体感したのだろう。

 

 


だけど私たちの目の前で未だ針を刻み続けているように見える、この「2017」という数字・年号は、

 

サッカーのロスタイムよろしく、ドラマ本編終了後の次回予告よろしく、すでに何かが終わった後の時間を、さながら時間の亡霊のごとく刻み続けているに過ぎないのかもしれない。

 

 


その列車には、もう私たちの意識は乗っていない。

 

 


意識の革命は、潜在意識的にもうすでに開始されていて、

 

新しい命のヴィジョン、

新しいリアリティのヴィジョン、

新しい「ほんとうの」時間のヴィジョンが、

 

まるで海の底から上がってくる冷たく新鮮な潮流のように、集合意識を通して、潜在意識を通して、私たちの顕在意識の足の指先に、そろそろ触れようとしている。

 

 

 

 

「小さいものが寄り集まって、大きなものを作る」という、

至極常識的な物質のルールは、私たちの心の中ではすでに形骸化している。

 

 


誰もがもう、それにうんざりしている。

 

 

 


救いの手や、思いやりや、本音の心からの言葉。

 

誰もが平和のうちに、何もいつわる必要などなく、誰かの友達としてそこに居ること。

 

 

 

そういう繊細で、当たり前に備わった心の機微の中に、

本当の世界があるということに、

 

もうとっくに、みんなが気づいている。

 

 

 


生まれた命の中に、誰もが当たり前に持っているもの。


買う必要も、教わる必要も、助けてもらう必要もないもの。

 

 

 

 

なぜなら生きているということは。

 

肉体を持っているということは。

 

 

そのまま、あなたの周りに鮮やかな世界が、空間としてひらけているということだから。

 

 


そしてその空間の中に、たくさんの「あなた」が、懐かしい友達の顔をして、確かに住んでいるということだから。

 

 


私たちは「物質」じゃない。

 

 

 

だから「物質」をより集めるように「人材」をより集めようなんて、どだい無理な話。


「物質」をつなぎあわせるように、平面上で手を繋がせて、それが「平和」だなんて、全くおかしな話。

 

 


私たちは一人一人が世界なのだ。

 

 


そのことに心底気づいたなら、手を繋ぐまでもなく、私たちは当たり前につながっている。

 


そしてそのことに心底気づくには、自分が、自分自身の「ほんとうの位置」に戻るしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎創造時代論ベーシック最終回・総集編

 

 

 

さて、6日連続で語ってきた「創造時代論ベーシック」も、一応今日で一区切り。

 

今回は今までの内容を、Q&A形式でおさらいしてみようと思います。

 

ここまでおつきあいいただいた方は、これまでの内容を反芻しながら、

 

今日初めて見たよ、という方はこれが総まとめですので、さらに詳しく知りたいと思ったら、過去記事をぜひ読んで見てください。

 

 

 

 

 

 

前回までの記事はこちらからどうぞ

↓ ↓ ↓

_____________________

 

第一回目【創造時代論ベーシック】変わる「五感」と日本文化

 

第二回目【創造時代論ベーシック②】思いは必ず、事に触れて来る

 

第三回目【創造時代論ベーシック③】宇宙でいちばんの謎

 

第四回目【創造時代論ベーシック④】ブラックボックス

 

第五回目【創造時代論ベーシック⑤】「わたし」という特別な呼び名

_____________________

 

 

 

 

 

それではQ&A行って見ましょう!

 

 

 

 

 

 

 

 

Q なぜ物質中心のものの考え方はいけないのか

 

 

 

なぜなら、それは虚構だから。

 

第二回目(【創造時代論ベーシック②】思いは必ず、事に触れて来る)に書いた通り、

 

「物質」というのは概念上、ある3Dのかさばりを持っていると認識されています。

 

 

 

そしてそれは、五感の中では「触覚」中心に組み立てられた概念です。

 

手で触って、「かさばり」を感じている。

 

しかしよくよく検証してみるならば、触っているのはあくまでも「物質の表面」です。

手指が感じているのは、実は「それ以上先に進入できない」という、「不可知ゾーン」

 

 

「かさばり」とは、つまりその内部を感じることができない「ブラックボックス」なのだ。

 

 

 

 


物質中心にものを考える「小さいものが集まって大きいものができる」ルールとは、「ブラックボックスを集めて積み上げる」ことと全く同じ。

 

 


その内部を見れない、触れない、聴けない・・・五感の知覚というリアリティの場に存在していないもの。


それが実は「物質」という概念です。

 

 

 


この物質の本性を突き止めようと、人間は科学で持ってその構造を解き明かそうとしてきました。

 

つまり、分解して、分解して、「ブラックボックス」の中身を取り出そうとしてきたわけです。

 


そうして最終的に見えてきたのが素粒子・量子というとんでもない領域だったわけですが、この話はここでは踏み込まないことにしておきます。(私の科学的理解が追いついていないので)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Q 自我とはなにか

 

 

物質化された「わたし」のこと。

 

 

ブラックボックスの迷宮に閉じ込められてしまった「わたし」と言ってもいい。

 

 

当たり前に目の前にひらけている、

五感を通した知覚世界が「わたし」そのものの位置だったのに、

「ブラックボックス」の中身はなんなのか? という妄想に取り憑かれ、想像と願望によってその中身を捏造している状態。

 

 


これは、科学が行ってきた「物質」という「ブラックボックス」の中身を取り出そうという試みが、一人の人間の意識に投影されたもの。

 

この二つは「見えないものを見たい」という欲望から発しているという点で全く同じ行動


さらにいうなら、「見えない神を求める」という宗教活動も全く同じもの。

 

 

 

 

 

 

個人の意識の領域においては、「見えないもの」「ブラックボックス」とは、主に「他者の心」である。

 

 


肉体の表面は見えているのに、その中に宿っている(と思われる)心についてはわからない。

わからないから知りたいし、妄想する。

 

 

 


そこからさらに妄想が進んで、「じゃあ自分は相手からどう見えているんだろう」
「こう見えていて欲しい」というように複雑化
していく。

 

 

 


こうして出来上がった、「他人(ブラックボックス)にどう見られるか」という、意識から組み立てられた仮想人格が「自我」である。

 

 

 


この構造の中には、「ほんとうのわたし」も「ほんとうのあなた」も、もはや存在していない。

 

 


ただし、こうした想像・妄想なしに「固体化」の次元を体験することはできなかったので、この構造はある意味人間時代の必然でもあった。

 

しかし、これからはこの仮想的な「自我」が解体されていくときである。

 

 

 

 

「わたし」の意識が「自我」の迷宮に完全に囚われると、世界との一体感が失われ、自分は肉体というくっきりと輪郭を持った、一個の存在であり、世界とも他人とも関係ない、という感覚が強まる。

 

 


反面、「ほんとうのわたし」「ほんとうのあなた」を取り戻したいという、無意識の強い強迫観念も持っているため、
その葛藤が様々な欲望になって人生に現れる。

 

 


それらは全て、「ひとつになりたい」という欲望である。
世界と一体だった、本来の状態に戻りたいという切望。

 

 


食欲は食べることで外部の世界と一体化する欲。

 

物欲は所有することによって物と一体化する。

 

性欲はそのまま、相手の肉体と繋がり一体化する。


名誉欲や、お金に対する欲、人から認められたいという欲も、還元すると「世界から受け入れられ、世界と一体化する」という自我の欲である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Q 道徳が弱者の復讐とはどういうことか

 


ニーチェの「ルサンチマン」の概念を言い表したもの。


第5回目の「♦︎道徳とは弱者の復讐である」の項目を参照。

 

 

 


人生を謳歌できないものは、勝者・強者・成功者に対して抱く激しいジェラシーを、相手を「道徳的に」非難することで消化しようとする。

 

 


しかしジェラシーを抱いている時点で、実は自分も成功したい、人生を謳歌したいと望んでいることになるので、実はその非難は自分自身が自分の欲求に従って行動することをも一緒に否定してしまう。

 

 

 

ルサンチマンに陥ると、人間は生きる喜びを失う。

 

 

 

前項で示した通り、自我として生きる人間は必ず
「世界と一体化したい、世界に認められたい」という強い欲望を持っている。

 

 


それはまさにエゴイスティックな、虚構の中で作られた欲であるのと同時に、「ほんとうのわたし」「ほんとうのあなた」に戻りたいという霊的な希求でもある。

 

 

 

しかし人間は「道徳」の名のもとに、こうした自我の欲求を常に悪しきもの、下劣なものとして抑圧してきました。

 

 

 

性的なものは汚らわしい

 

お金を欲しがるなんて強欲だ

 

有名になりたいなんて目立ちたがりのエゴイストだ

 

表現者になりたいなんて身の程知らずだ

 

 

 

「ルサンチマン」は弱者が強者に抱く憎悪の念ですから、そうした「欲望」を押さえ込んで我慢して、「道徳的な正しさ」に従っている「弱者」こそ、実は成功者たちよりも高尚な人間なのだ、という、ひねくれた優越感をもたらします。

 

 


しかし「欲」は、表面上押さえ込んだところで蓄積する一方。

 

 

 

だからこそ、「道徳的に正しくあるべき」とされている人間ほど「抑圧された欲望の暴走」による反動の犯罪や暴力などの危険性が高くなる。

 

 

 

 

ルサンチマンは、非常に危険なのだ。

 

同じように、欲を抑え込む一方の「道徳」は非常に危険なものです。

 

 

 

 

では、ただ自分の欲望に忠実に、快感だけを追って生きればいいのかというと、基本的にはそうなのですが、それだけではただの快楽主義です。

 

 


ルサンチマンから脱出する方法として、ニーチェは【積極的ニヒリズム】の重要性を説いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Q 積極的ニヒリズムとは何か

 


ニヒリズムとは、「虚無主義」

 

人生に生きる価値や意味など何もない、という考え方です。

 

 

一見するとただのひどいネガティブにも見えますが、ニーチェの【積極的ニヒリズム】は、虚無主義という言葉から感じられるイメージとは、ある意味で真逆の強烈な躍動するパワーを持っています。

 

 


最初に述べた通り、「自我」というのは「物質化されたわたし」のこと。

 


「物質化されたわたし」とは、
五感の知覚として実際に目の前に見えている景色・空間・風景ではなく、その風景の中の「ブラックボックス」、つまり「虚無」の中に落ち込んでしまった意識のこと。

 

 


その意味で、道徳的ルール、法律や国家といった、道徳的社会構造の中で「自我」として70億もの人間が生きている、という現行の人類一般の「世界の認識」とは、全てが虚無によって作られた、虚構だと言うことができます。

 

 

 


例えば、国境は実際には引かれていません(描いているところもありますけどね)。

それは概念の中に引かれています。

 


つまり(五感的)リアルではなく、(想像的)虚構だということです。

 

 

 

例えばあなたが、誰にも見つからずに万引きに成功したとしましょう。

 

しかしその後あなたは制服の警官の姿を見るたびにビクビクして、罪悪感に怯えるようになる。

 

リアルに刑が執行されたわけでも罪が露見したわけでもなく罪悪感が湧くのは、「ルール」が意識の概念の中にセットされているからです。

 

 

 

知覚の世界ではなく、概念の世界に作られているもの。

 

 

 

それが実は、私たちが「社会」だとか「国」だとか「世界」だとか呼んでいるものなのです。

 

 


人類の共通概念によって作られた壮大な虚構。
知覚的リアルにはどこにも存在していないものです。

 

 

 


ニーチェはだからこそ、その文脈において「人生には何の意味もない」と言ったのです。

 

 


その壮大な虚構、言い換えれば「嘘」を支えているのが「道徳」、そして道徳の論拠である「神」という概念です。

 


【「神」の名の下に、人間は清く正しく社会のために生きなければならない】

という大嘘を痛烈に批判して、
ニーチェは「神は死んだ」と言ったのです。

 

 


社会なんてものはどこにもないじゃないか。

 

ないものをあるように見せかけて、生の躍動を抑圧し、欲するままに喜びに生きようとする人間を矮小な自我に閉じ込めようとする「道徳」のくだらなさを、ニーチェは批判しました。

 

 

 

ニーチェの「積極的ニヒリズム」とは、このように、「自我的な人生の中に本質は一つもない」ということを、積極的かつ肯定的に受け入れる姿勢のことを言います。

 

 


決して厭世的になって快楽主義にズルズル流され、ルサンチマンに飲まれきるだけの「消極的ニヒリズム」のことを言っているのではないので注意。

 

 

 

 

「積極的ニヒリズム」は、ルサンチマンの跋扈する浮世に軸足を置くことをよしとせず、「ほんとうの生命」が輝くリアリティの場に移動することを目指す、これ以上ないほどアクティブかつ情熱的なものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Q︎ 実際に見えているものとは何か

 

 


物質や自我、そこから派生する社会という概念がブラックボックスの虚構だとするならば、「実際に見えているもの」は何か?

 

 

 


それは、「空間」と「物質の表面」である。

 

そこには虚構ではないリアルがある。

 

 

 

 


そこに見えている「物質の表面」を、

虚構としての物質の一部と見なすのではなく、

 

「空間」と一体になって空間に色付けをしている、

自分の「記憶」や「感情」だと思って眺めてみてほしい。

 

 

 

 


ひとつひとつのものに対して、それにまつわる思い出や、そのものの名前や、そこから連想される感情や感覚、記憶が湧き上がってくるはずである。

 

 

 


「じっさいに見えている世界」とは、見ている自分の心そのものである。

 

 


迷宮に堕ちた虚構としての自我ではなく、「ほんとうのわたし」がそこに息づいている。

 

 


そしてその「空間」の中には、太陽も、月も、はるかかなたの銀河も、映し出されている。

 

 


太陽や星も、「ほんとうのわたし」の心なのだ。

 

創造時代の占星術とは、こうした意味での惑星や星座のエネルギーを取り扱うことを言う。

 

 

 

 

そして、その感覚のまま、「ほんとうのわたし」としての目の前の空間の中に住んでいる他者を見てみてほしい。

 

 


すると、肉体を持つ存在としてあなたの心の中に住んでいるその他者もまた、あなたと同じように宇宙全てを「心の世界」として持っていることが分かる。

 

 

 


そしてその心の世界には、肉体を持った「わたし」が住んでいることになる。

 

 


わたしの中に住むあなたと、

あなたの中に住むわたし。

 


私たちは生まれてこのかた、一人になったことなどない。

 

 

 

 

 

さて、この感覚の中で、改めてもう一度、


「わたし」


と自分自身に呼びかけてみてほしい。

 

 

 

 

できれば目を閉じて、何度も繰り返してみてほしい。

 


「わたし」
と言う呼びかけが意味している領域を、感じてみてほしい。

 

 


「わたし」

と言ったとき、そこに太陽と月と、星々が瞬いているのを感じるだろうか。

 

 


「わたし」

と言ったとき、そこに70億の「あなた」が住んでいるのを感じるだろうか。

 

 

 

 

 

 

種々様々な事象・事物を映し出して、しかしそれ自体は永遠に不動の、命の舞台としての空間


「わたし」とは
「あなた」とは

 


生命の舞台となる永遠の空間の中に、大地と天空を持つもの。

 

 

 

その認識が拓けたとき、わたしたちは虚構の迷宮の中で生産された、さまざまな対立概念が意味を無くしていくのを体感する。

 

 


光も闇も。
優も劣も。
善も悪も。


すべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎メッセージ

 

 

 

あなたはわたしのガーデンに根付いたひとつの樹だ。

 


わたしはあなたの音楽の中のひとつのフレーズ。

 

 


あなたの中の「わたし」を解放しよう。
それは「あなた」に属するものだから。

 

 


わたしの中の「あなた」を抱きしめよう。
それは紛れもなく、「わたし」の一つの姿、
ひとつの角度、
ひと鳴りの倍音、
ひとつの相。

 

 

 

 

見られるものの世界の中で、あなたの鏡に映るわたしを探し求めて、もう随分長いこと迷宮をさまよってきたけど、

 

ようやく出口を見つけられそうなんだ。

 

 


見つめているわたしの目によって見つめられている世界。

 

その場所に最初から、あなたは居たんだってこと。

 

片時も離れることなく、わたしに姿を見せてくれて居たんだってこと。

 

ようやく分かったんだ。

 

 

 


髪を撫でてくれたこと、
笑ってくれたこと、
声をかけてくれたこと、
わたしと友達になってくれたこと、
わたしと、出会ってくれたこと、
わたしに、存在を与えてくれたこと、

 

 


ひとつひとつの思い出が、
そこにまつわるたくさんの想いが、
「もの」の姿をしてわたしの目の前にいつだって居てくれたこと。

 

 

なんて呼んだらいいのかわからないけれど、
それを愛と呼んでもいいのかもしれない。

 

 


新しく生まれた風を吸い込むとき、あなたのことを思い出すよ。

 

手のひらに置いた桜の花びらの中に、あの日のときめきが宿っているよ。

 

カーテンを引くとき、月の光がわたしを未来に運ぶ。

 

太陽が昇ると細胞が目覚めて、長い長い精神のリレーを、昨日のことのように振り返るよ。

 

 


息を吸って、吐いて。
わたしは生きている。

 

 


そこにこんなにたくさんの、たくさんの・・・
記憶、想い、愛が


脈動している。
宿っていることに。

 


迷路から這い出してきて、ようやく今、気がついたんだよ。

 

 

 


だから、今別れてきた人のことは、もう心配しない。

 

 

また逢える。きっと。

 


だってわたしは生きているから。

わたしの生命を成り立たせているのは、紛れもなくわたし以外のすべてだから。

 

 

 

 

それでようやくわたしは、頭で知っていることを実際に体験するための、旅を始める。

 

 

ここから。

 

 

生きている、「ほんとうのわたし」がいる場所から。

 

 

 

 

 

 

 

岡崎直子

 

 

 

 

 

 

※こちらの「創造時代論ベーシック」の連載記事は、ヌーソロジーを基底に考察しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_________________

INFORMATION

 

 


4月15日(土)・16日(日)開催
【アストロロジー基礎講座】創造時代の占星術
 

私たちは一人一人の意識の内側に宇宙を持っています。
そこには階層構造があり、星々の魂が息づいています。

 

自分の意識の広大な構造を知って、星と繋がることは、
創造者として生きるものにとってとても大切な叡智となるでしょう。

 

バビロニア時代発祥と言われる占星術は、

いわば人類史の始まりと共に生まれた意識哲学。

その本質は、よく知られる「占い」ではなく、
内なる神々や精霊、天使たちとつながって交流するための
不可欠の知恵だったのです。

あなた自身の霊を知るために。
あなたの魂のレシピを知るために。
あなたの人生のシナリオを描くために。

星の叡智はあるのです。

 

 

 


5月13日(土)13:30-19:00
【ライティング講座】言の葉の魔法
 

ご要望にお応えして、2回目の開催となります。
日本語の精神、言霊の中に宿る魔法について、
その哲学についてレクチャーする特別なONE DAYプログラム。

創造時代の言葉の操り方について、
言霊について学びたい方におすすめいたします。

 

 

 

 

 

 

Youtubeラジオ

「岡崎直子の言の波ラジオ」公開中です。

 

 

第一回「自我の解体とアストロロジー」

 

 

Contents

♦︎はじめましての自己紹介

♦︎神秘学を学ぶとは

♦︎自我の解体とアストロロジー

 

 

 

【Webで聴く】

http://crossing-healing.com/admin/wp-content/uploads/2017/03/radio1.8-20170330-4.37.mp3

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

【YouTubeで聴く】

 

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

 

【関連ブログ】ぜひ合わせてお読みください。

自我を解体するアストロロジー

 

 

 

いいね!した人  |  リブログ(2)

テーマ:

 

 

 

自分からは見えない「他者の心」は想像して(捏造して)

 

他者からは見えない「わたしの心」に至っては、

「想像上の他者の心から見たらわたしの心はきっとこう見えるだろう・こう見えて欲しい」という「想像のさらに想像」という虚像に堕として

 

 


もはや訳が分からないくらい混乱に陥っている私たちの「自我」。

 

 

 


そろそろ、この迷宮の中で見失ってしまった、

いちばん大切なものを取り戻すべき時がやってきています。

 

 

 


【創造時代論ベーシック】。

 

長々と語ってまいりましたが、ようやくまとめに入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

前回までの記事はこちらからどうぞ

↓ ↓ ↓

_____________________

 

第一回目【創造時代論ベーシック】変わる「五感」と日本文化

 

第二回目【創造時代論ベーシック②】思いは必ず、事に触れて来る

 

第三回目【創造時代論ベーシック③】宇宙でいちばんの謎

 

第四回目【創造時代論ベーシック④】ブラックボックス

_____________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎道徳とは弱者の復讐である

 

 

「神は死んだ」とニーチェは言いました。

 

 

 

キリスト教的世界観・道徳観が社会通念だった19世紀、

ニーチェはキリスト教的道徳をきっぱりと否定し、

【能動的ニヒリズム】の重要性を訴えました。

 

(「能動的」ニヒリズム、と言うからには、

「受動的」ニヒリズムもあるのですが、それは後述します)

 

 

 

 

ニーチェの訴えた「ルサンチマン」の概念は強烈です。

 

分かりやすく訳すなら、嫉妬や妬み、被害者意識といったところでしょうか。

 

 

 


富めるもの、勝者、生を謳歌するものに対する嫉妬と羨望の入り混じった憎悪の気持ち。

 

人間は誰しも、この激しく昏い感情を持っています。

 

 


ニーチェが鋭く喝破したのは、「弱者が強者を批判するときには、必ず【道徳】の名を借りる」というところです。

 

 

 


【道徳】。

 

 

それは別名【常識】と呼ばれたり、
【社会】であったり、
【世間】であったりします。

 

 

 

しかし【道徳】の論拠の担い手として最強のものとしてあげられるのは、

やはり【神】という概念でしょう。

 

 


特にキリスト教はその歴史において、

「貧しいもの」「弱きもの」「虐げられるもの」こそ「神の試練に耐えるもの」であり、

幸いであるという美学を説いてきました。

 

 

 

 

だからこそ、弱者が権力者や成功者を批判するときには、必ず声高に、神の名を使う。道徳で持って批判する。

 

 

 


金ばかり稼いで、誰にも分け与えないなんて品性下劣だ。

運に恵まれただけで努力していない。

人の言ってることをパクってばかりで、売れたのは客に媚びたからだ。


等々・・・・・・

 

 

 

 

それらの弁説は、成功していない、負けている、しょぼくれた現状の自分自身を肯定しようと必死である。

 

 

 

すなわち、お金も稼がず、有名にもならず、成功もせず、認められない、それこそ道徳的で、慎ましく、真理を真摯に追求する、神の認めたあるべき姿である、と。

 

 

 


しかしその内実、誰よりも成功を欲し、勝ちたいと思っている。

 

 

 

胸にくすぶる嫉妬の炎を、もっとも自分を高められる方法で排出するのが、【道徳】に名を借りたルサンチマンなのです。

 

 

 


ニーチェはそこを鋭く批判しました。

 

そしてだからこそ、道徳の主人である「神は死んだ」と言ったのです。

 

 

 

 

 

 

なぜ、ルサンチマンがそんなに問題なのか。

 

それは、欺瞞に満ちているという以上に自滅的な問題を孕んでいるからです。

 

 

 

 


ルサンチマンは生きる喜びを弱体化させる、とニーチェは言います。

 

 

 

 

 

成功者を嫉妬し批判し切り捨てることで、自分の内側で燃える「喜びを追求したい」という原初的欲望までも、一緒に否定してしまっているからです。

 

 

 

 

 

成功することは悪である。

 

 

 

他者に突きつけたその指先は、その実、自分自身の心に向けられている。

 

まさに自縄自縛です。

 

 

 

 

 

 

 

 

何か新しいことをやってみようと思うとき。


自分の感じたことを外に向かって発言しようと思うとき。

 

 

 


「人にどう思われるか怖い」
「批判されるのが怖い」

 

 

 


と言いますよね。

 

 

そう嘯く心のうちに、ルサンチマンがチロチロと燃えていないか、

私たちはよくよく注意する必要があります。

 

 

 

なぜ批判されるのが怖いのか?

 

 

 

それはあなたの心の中に、

成功すること、表現すること、欲しいものを求める生き方に対する嫉妬と、

それを悪だと弾劾する気持ちがくすぶっているせいかもしれません。

 

 

 

 

大人しく、社会のルールに従って、慎ましく生きること。

 

 

 

その生き方にどこかで飽き飽きしながら、

挑戦することを恐れている時、

 

 

私たちは、私たちの内なるルサンチマンと戦っているのです。

 

 

 

その激しい批判と憎悪の目。

 

 

 

【道徳】を振りかざして挑戦を差し止めようとする、自分の中の被害者意識と戦っているのです。

 

 

 

 

 

ようやく勇気を振り絞って、少しずつ自分自身を世界に向かって開示して、だんだんと結果も出るようになってきて・・・

 

 


しかしその段階にあっても、「ルサンチマン」は全てを台無しにするくらい強烈なパワーを持っています。

 

 

 


あなたが苦労して登っている階段を易々とかけていくライバルを目にしたとき。

 

あるいは、あなたのやってることを一切評価しない、歯牙にも掛けない人に馬鹿にされたような気分になったとき。

 

気合を入れて発表した作品が、期待したよりも全然、誰からも、評価されなかったときに。

 

あるいはあなたがそうやって必死で、仕事で身を立てようとしているときに、あなたの好きな人が別の誰かに盗られてしまったときに。

 

 

 


ルサンチマンの強烈な黒い炎は、容易に心を焼き尽くし、焼け野原にしてしまいます。

 

 

 

嫉妬の炎で相手を批判し尽くした後に残るのは、

自分には何の価値もない。才能もない。見向きもされない。頑張っても無駄だ。もう死んでしまいたい。

という、卑屈な、空っぽの、虚無の心だけです。

 

 

 


ルサンチマンは喜びを喰らう。

 

 

 

それまで、小さな喜びとともに積み重ねたステップを、意地悪い賽の河原の鬼のように、無に帰させてしまう。

 

 

 

 

 

だから、とてもとても危険なのです。

 

 

その危険性をまず、認識しなければいけません。

 

 

 

 

あなたが誰かを羨ましいと思う時。

 

自分には大したことはできないと謙遜して見せる時。

 

 

 

あなたは自分がとても「危険な発言」をしていることに気がつかないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてその上で。

もっと重要な大前提を思い出さなければいけません。

 

 

 


前回の記事で、この世のありとあらゆることは「妄想ゲーム」だと書きました。

 

 

 

これを日本語では「浮世」と言いますが、
水面に浮かんでは消える泡沫ほどにもはかない、実体がないのが自我で埋め尽くされたこの世界です。

 

 


そもそも「自我」自体が鏡に映った鏡像なのですから。

 

 

 

 


成功したい、手に入れたい、評価されたい、愛されたい。

 

 

 

全てブラックボックスを欲するがゆえに、そしてブラックボックスの中身を妄想するがゆえに生まれた、虚像の欲望です。

 

 

 

 

「妄想ゲーム」と言う言い方があまりに悪い意味に感じるようなら、別の表現をしましょう。

 

 

 

 

 

以前通っていた、モダンミステリースクールのファウンダー、グッドニー氏は、よくこんな表現をしていました。

 


「この世は遊園地だ」と。

 


生まれて死ぬまでの間。好きなアトラクションに乗って楽しむ、アミューズメントパーク。

 

 

 

 

 

だから、人生で起きるいかなる出来事も、あなたの真の実体に深刻な影響を及ぼすことなど、一切ないのです。

 

 

 

 

 

 

これをニーチェはもっと有り体に「人生には一切なんの意味もない」と言い切りました。

 

だからルサンチマンなんぞに振り回されるほどの価値もない。

そこまで深刻に悩まなければいけないようなことなど、ここには何一つない。

 

 

 

 


「成功したい!」
「うまくいきたい!」
「幸せになりたい!」

と思っているのも「自我」と言う仮象の妄想なら、

 


「私なんてなんの価値もない」
「もう死にたい」

と思っているのも「自我」と言う仮象の妄想です。

 

 

 

 

 

女優が舞台で演技しているのと同じ。

ほんとうのことではありません。

 

 

 


さて、「人生に意味なんてない」ことを心底受け入れたとき、
人の取る行動は二つある、とニーチェは言います。

 

 

 

 

 


それが、

【消極的ニヒリズム】と【積極的ニヒリズム】。

 

 

 

 

 

【消極的ニヒリズム】とは、
どうせこの世になんの意味も価値もないなら、何をやっても仕方がない。死ぬまで適当に生きればそれでいいじゃん。

 

 


という、ちょっと一昔前の典型的現代っ子みたいな、人生に投げやりになる態度。

今が良ければそれでいい、と言う快楽主義にも走りやすくなります。ルサンチマンに飲み込まれきった後の焼け野原と言ってもいでしょう。

 

 

 

 

 

そしてもう一方。これがとても大切。

 

 

 

【積極的ニヒリズム】。

 

「自我によって成り立ったこの世」がもたらすありとあらゆる価値を追い求めることを鮮やかに否定して、永劫回帰する妄想ゲームの外に脱出すること。

 

時間の外に出ること。
自我の外に出ること。
世界の外に出ること。

 

 

 

これを成し遂げる者を、ニーチェは「超人」と呼びました。

 

 

 

 

 


2017年からの創造時代。
私たちの自我はまさにニーチェの言う「超人」になっていこうとしています。

 

 


それは、描かれたシナリオの外に出ていくということ。

 


起承転結があり、障害を乗り越えて幸せになる。
そんな定番の人生ストーリーの、外部に出ていくということ。

 


そして、このシナリオの外部にいる自分自身の方が、シナリオの内部で生きている自分自身よりもずっとずっとリアリティのある存在であると、認識するようになっていくということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎【わたし】という特別な呼び名


さて、ここでようやく、前回の「鏡から生まれた私」・「仮面」の話に戻ります。

 

 

ニーチェの言う「超人」。

 

シナリオと時間の外部に主体の位置を見つけるためには、順を追って自分自身の意識を解放していく必要があります。

 

 

 

 

そのファーストステップは、まず、「妄想の中のさらなる妄想」、「鏡から生まれた自我」に気がついて、そこから脱出する必要があります。

 

 

 

 

 


前回私は、


「この世にいるすべての他人は、あなたの顔を見ることができる。
たった一人、あなただけがあなたの顔を見ることができない。」


と書きました。

 

 

 

 


この事実とちょうど反対の関係のあるのが、【わたし】という呼称です。

 

 

 

 

【わたし】という呼び名が外側から耳に入ってきたとき、それは決して【わたし】のことを指し示していない。

 

 

 


それは【あなた】が【あなた自身】を指し示す呼び名として聞こえてくる。

 

 


【わたし】が自らのことを呼称する時、【わたし】という言葉は内的存在の全てを包括した呼称として、【わたし】の内側に響き渡る。

 

 

 


【あなた】は【わたし】を【わたし】と呼ぶことはできない。


世界で唯一、【わたし】だけが、【わたし】を【わたし】と呼ぶことができる。

 

 

 

 

 


さて、ぜひここで一度文字から意識を離して、「わたし」と声に出してみてほしい。

 

 

 

 


「わたし」

 

 

 

 


その呼び名が響き渡る領域を感じてみてほしい。

 

何度もなんども、目を閉じて、魔法の呪文のように唱えてみて欲しい。

 

 

 

 


【わたし】。
その言葉は、何を指し示しているのだろうか。

どんな領域を指し示しているだろうか。

 

 

 

 

自我意識に強く縛られた状態ならば、

「わたし」と言うと、自分自身の顔面が強く意識されるはずだ。

 

 

 


だけど目を開けて、周りを見渡してみると、そこに色々なものが姿を現してくる。

 

 


お気に入りのコーヒーカップ。携帯の画面。読みかけの本。猫が引っ掻いた壁紙。窓の外に舞う桜の花びら。差し込んでくる光。

 

 


それが、ほんとうの「わたし」だ。
その風景がそのまま。

 

 

 

「みている世界」をそのまま見ると、そうなってる。

 

 

 

 

初回に書いた通り、その空間の全体性そのものが、「わたし」の心。

わたしそのもの。わたしの本当の表情なのだ。

 

 

 

 

だからこそ、そこに写り込んでくる「もの」が変わると、空間全体の雰囲気や、匂いや、イメージが変わる。

 

 

 


空間には命があるから。

だから変化する。

 

 

 

 

 

 

 


稀代のバレエダンサー、シルヴィ・ギエムがかつて語っていた。

 

 

「初めて舞台に立ったとき、ここには何かがある、と思った。そしてわたしはそれが何なのかを知らなければいけない、と思ったの」

 

 

 

私たちはこの人生という舞台に、登場人物として出演するために、「鏡」に映った仮想の「キャラクター」を創った。

 

 

 

 

それは確かに自分自身の分身だったのだけど、

いつの間にか本体がなんだったのかを忘れてしまった。

 

 


いみじくもギエムが言った通り。

 

 


「わたし」とは本来、人生の舞台そのものとしての空間。
展開するすべての出来事、歴史、物語を、外側から眺めている存在。

 

 

 


「わたし」はもともと、超人なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


♦︎自我の迷宮から脱出する

 

 

 


人生の悩み事は大別すると二つ。

 

 


この世の中で、どうやって幸せに生きていくかという問題と、

どうやったらこの、妄想ゲームから抜けられるんだろう、という問題がある。

 

 

 


スピリチュアルなあれこれを始め、

世の中にあるほとんどのカウンセリングや、

慰めの娯楽というのは、基本的に前者にしか対応していません。

(まあ、当然ですが)

 

 

 


そしてこの世の中で幸せになる!というこの考えを推し進めていくと、世界平和に行き着きます。

 

 


世界平和はもちろん、全人類の悲願ですが、

 

あえて水を差すようなことを言うならば、

それさえも、世界にバラまかれた自我としての人類が手に手をとって、みんな仲良くする、というイメージからなかなか出られないのが現状です。

 

 

 


しかし、それではまだ、みんな鏡の迷宮の中。

 

 

 

 

世界から孤立して、「わたし」と言う存在が成り立っている、と言う幻想から目を覚まさない限り、世界平和はやってこないでしょう。

 

 

 


戦争も、ヘイトクライムも、暴力も、差別も、

 

すべての原因は、主体の位置が「自我」の迷宮から出られなくなっていることにあります。

 

 

 

 


空間そのもの、世界そのもの、宇宙そのものが自分であるということに、心底私たちが目覚めたならば、そこに住んでいる他者は、もはや他者ではありません。

 

 

 

 


さて、長々語ってまいりましたが、このシリーズは明日で最終回です。

 

 

 


その前に、今回のまとめを。

 

 

 

 

 

「見られている」自分が自分なのではなく、

「見ている」自分。そして「見ている自分」から「実際に見えている風景」そのものが、自分なのだと言うことに、心底気がつくこと。

 

 

 


これは一体何を言っているのかというと、「世界平和」も「創造時代」も、一人一人の徹底的な内側の行動から起きる、ということです。

 

 

 

 

「わたし」という領域の認識を変えていくこと。

 

 


意識を肉体(物質)の位置から脱出させること。

 

自分の「顔」はあくまでも仮象にすぎないことを受け入れること。

 

 

 

 

 


そして、この文脈において、一人一人が徹底的に「わたし」を大事にするということ。

 


他者のブラックボックスの中に落ちてしまった、ほんとうの「わたし」を取り戻すこと。

 

 

 


それは、目の前の風景の中に数多の「あなた」を含みもつ、世界そのものとしての「わたし」

 

 

 

 

そしてその「わたし」は、「あなた」の見ている世界の中に、宇宙のミステリーを内包した存在として、確かに息づいている。

 

 

 

 


だから、「あの人が何を考えているんだろう」「わたしのことをどう思ってるんだろう」と想像をたくましくするのはそろそろ控えよう。

 

 

 


そこはブラックボックスの迷宮。
「そちら側から」侵入しても、自分を見失うだけ。

 

 

 


そんな不安や妄想が頭をよぎった瞬間、顔面に「自我」の仮面が貼り付けられて、目の前のほんとうの風景が見えなくなってしまうから。

 

 

 

 

 

 

 

 


次回、いよいよ総まとめ。最終回です。
明日に続きます!


岡崎直子

 

 

 

 

 

 

※こちらの「創造時代論ベーシック」の連載記事は、ヌーソロジーを基底に考察しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_________________

INFORMATION

 

 


4月15日(土)・16日(日)開催
【アストロロジー基礎講座】創造時代の占星術
 

私たちは一人一人の意識の内側に宇宙を持っています。
そこには階層構造があり、星々の魂が息づいています。

 

自分の意識の広大な構造を知って、星と繋がることは、
創造者として生きるものにとってとても大切な叡智となるでしょう。

 

バビロニア時代発祥と言われる占星術は、

いわば人類史の始まりと共に生まれた意識哲学。

その本質は、よく知られる「占い」ではなく、
内なる神々や精霊、天使たちとつながって交流するための
不可欠の知恵だったのです。

あなた自身の霊を知るために。
あなたの魂のレシピを知るために。
あなたの人生のシナリオを描くために。

星の叡智はあるのです。

 

 

 


5月13日(土)13:30-19:00
【ライティング講座】言の葉の魔法
 

ご要望にお応えして、2回目の開催となります。
日本語の精神、言霊の中に宿る魔法について、
その哲学についてレクチャーする特別なONE DAYプログラム。

創造時代の言葉の操り方について、
言霊について学びたい方におすすめいたします。

 

 

 

 

 

 

Youtubeラジオ

「岡崎直子の言の波ラジオ」公開中です。

 

 

第一回「自我の解体とアストロロジー」

 

 

Contents

♦︎はじめましての自己紹介

♦︎神秘学を学ぶとは

♦︎自我の解体とアストロロジー

 

 

 

【Webで聴く】

http://crossing-healing.com/admin/wp-content/uploads/2017/03/radio1.8-20170330-4.37.mp3

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

【YouTubeで聴く】

 

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

 

【関連ブログ】ぜひ合わせてお読みください。

自我を解体するアストロロジー

 

 

 

 

いいね!した人  |  リブログ(0)

テーマ:

2017年からの創造時代、

私たちの意識がどのように変わって行くかを書いた連続記事。

 

 

本日はその第4回目です。

 

 

 

 

 

前回までの記事はこちらからどうぞ

↓ ↓ ↓

_____________________

 

第一回目【創造時代論ベーシック】変わる「五感」と日本文化

 

第二回目【創造時代論ベーシック②】思いは必ず、事に触れて来る

 

第三回目【創造時代論ベーシック③】宇宙でいちばんの謎

 

_____________________

 

 

 

 

 

さて、早速前回の続きから行きますね。

 

 

 

 

(あなたの)心は内側にあり、見えない。

(あなたの)身体(物質)は外側にあり、見える。

 

 

 

 


決して見ることのできない「あなたの見ている世界」。

それはいわば「ブラックボックス」です。

 

 


絶対に中を見られないけれど、そこに「ブラックボックスがある」ということだけは分かっている。

 

 

 

 


そして、ここが重要なポイントですが、

 

 


他人から見ると、「わたしの心の世界」「わたしが見ている世界」こそが「ブラックボックス」になっているという事実です。

 

 

 

 


あなたの見ている世界(心)が、わたしからは見えない。

わたしの見ている世界(心)が、あなたからは見えない。

 

 

 

 

ただし、「ブラックボックス」としての肉体はお互いの目に見えている。

声は聞こえている。表面に触ることはできる。匂いもする。口付けられる。

 

だけど、中は見ることも、触れることも、聞くこともできない。

 

 

 


この「内側」と「外側」の境界線をよく感じて見て欲しいのですが、
自己と他者では、この関係性がひっくり返っていることが分かります。

 

 

 


さて、ここから私たち人間は、とんでもない行動に出ます。

 

 

 


それは、どうしても見えないお互いの「ブラックボックス」の中身を「想像する」という行為です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎箱の中身はどうなっているのかしら?

 

 

 

 

 

「想像」は「創造」と同じ音が当てられていますね。
(日本語の同音異義語は、基本的に同じ意味(の別の側面)を示す)

 

 


つまり、見えないブラックボックスの中身を勝手に想像して作り上げるわけです。

 

 

「あの人はこう思ってるに違いない」

 


というやつですね。

 

 

 

 

 

 

もちろん、その想像のヒントになるのは、相手の「ブラックボックス」の表面に見られる色々な変化です。

 

 

 

 


つまり、表情や、仕草や、発言や、行動。


それを元に、心の中身を当て推量で妄想しているわけです。


相手のLINEの語尾に絵文字があったかなかったか、
LINEの返信がどれだけ早かったか、


そんな些細にすぎる情報からでさえも、相手の心を勝手に想像します。

 

 

 

 

 

 

さて、ここからさらに人間は想像をたくましくします。

 

 

 

「じゃあ相手は、わたしの心の世界をどう妄想しているんだろう?」


と、想像するわけです。

 

もっとシンプルに言えば、


「あの人はわたしのこと、どう見てるんだろう?」

 

です。

 

 

 

 


自分だって相手の心を勝手に想像しているわけですから、
相手だって自分の心を勝手に想像しているだろう、というわけです。

 

 

 

 

 

 


これは、前回取り上げた、

「あなたの見ている世界が見たい」


という原初の欲望から、さらに迷路に入り込んでいます。

 

 

 

 

 

見たい見たい、と思ってもどうしても見れないから、想像する。

あなたはこんな風に思っているんじゃないかしら?(想像)

その(想像上の)あなたの心は、わたしのことをこんな風に想像しているんじゃないかしら?

 

 

 

 

ね、迷路でしょ。

 

 

 

この妄想の迷路の中には、もはや本当の「あなた」も本当の「私」もどこにもいません。

 

 

 

完全な妄想の世界。虚構です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


♦︎最強の嫌悪と最強の欲望

 


わたしの長年の友人で、とても美人で知的でグラマラスな女性がいます。

 

 

とてもセクシーで、それでいて上品なので、ものすごく異性にモテるのですが、その彼女が興味深いことを言ったことがあります。

 

 

 

 

「声をかけられたり、デートに誘われたり、口説かれるのも嬉しいし楽しいけど、相手が本気を見せて一歩踏み込んで来ようとした途端、ものすごく嫌悪感が湧く」

 

 

と。

 

 

 


やっぱりこちらも本気で好きな相手じゃないと、踏み込まれるのは嫌だよね、

など軽く返したのですが、

 

 

「嫌悪感」という強い表現が印象に残って、その会話はよく覚えていました。

 

 

そして、その彼女の気持ちはすごくよくわかる気がしたのです。

 

 

 

 

 

 

つまりそれは、「本当の自分」ではないところに向かって欲望を向けられたから「気持ちが悪い」のです。

 

 

 

 


目の前で、あなたの「ハイヒール」に対して、それがまるであなた自身であるかのように愛を語られ、欲望をぶつけられるちぐはぐ感。

 

 

 

 

そしてこのままその人の想像通りのストーリーが進めば、あなた自身はあなたの「ハイヒール」の身代わりにその人に抱かれることになる、というような、妄想に対する嫌悪感

 

 


そしてもっと踏み込むなら、自分もまた「本当の相手」ではないところに向かって、同じように欲望を向けたことがあるから、

 

その自分自身の姿を想起させられて、本当に「気分が悪い」のです。

 

 

 

自分の醜態を他人を通して見せつけられるほど嫌なものはありません。

 

 

 

 

この「嫌悪感」という感情は、

世界情勢においても戦争の要因になったり、

ヘイトクライムを生み出す温床ですが、

 

 

 

 

それは言い換えるなら、最も見たくない自分自身の姿に他なりません。

 

 

 

 

 

 

 


ひざまづいて、ダイヤの指輪でプロポーズして、一生お姫様か女神様のように愛して、とろかして欲しいという欲望は、一体どこからやってきたものなのか。

そして誰に向かって、その欲望を投げつけようとしているのか。


そこに本当に、その人はいるのか。

 

 

 


わかりやすい例を挙げたけれど、妄想の例は千差万別です。

 

 

 

 

だから最近はやりの、
「ガチンコで正面からぶつかり合えるカップル」というストーリーだって、
「運命が結びあわせたソウルメイト」というストーリーだって、

 

 


恋愛に限らず、何か夢を成し遂げて幸せになる、という文脈に則って語られるあらゆる物語が、

 

 

 

全て全て全て。

 

 

「憧れ」という美しい名前でごまかされた、欲望と妄想の産物なんだということに、

そろそろ気がつかないといけない。

 

 

 

 

とは言え、それが悪いことだとか、いいことだとかはここでは言っていません。

 

 


先ほど述べた通り、「想像」とは「創造」につながるもの。

 

イマジネーションが現象世界を作る種であることは間違いないのです。
(引き寄せの法則、というやつですね)


だから、同じイマジネーションを共有できる相手がいるのならば、それは素晴らしい創造にもなるでしょう。

 

 

 

 

実際、人間の歴史というのは、まさにこうした無自覚な「想像による創造」の歴史でした。

 

 

 

 


しかし、2017年・創造時代とは、こうした無自覚の妄想ゲームが一体どこから生まれてきたのか、というその原点に立ち返る時でもあるのです。

 

 

 

 


無自覚な妄想ゲーム。

それは、「人間の歴史そのもの」と言い換えてもいいものです。

 

 

 


絶対に見ることのできない「他者の見ている世界」。

 

 

 

それを「神の意志」だと呼べば宗教になるし、
「宇宙の法則」だと呼べば科学になるし、
目の前にいる誰かに重ね合わせれば「恋愛」になる。

 

 

決して手に入らないものを渇望して、渇望して、狂うほどに欲しがって、

 

ついには妄想の迷宮で自分自身を、全てを、見失ってしまった、

寂しい寂しい、人間たちが紡いできた歴史。

 

 

 

 

私たちはそろそろ、見失ってしまったいちばん大切なものを取り戻さなければ。

 

 

 

 

 

 


その大切な話をする前に。

今まで「見たい」という欲望について語ってきましたが、
それと対になる欲望について、もう少し踏み込みたいと思います。

 

 


それは、そう。

「見られたい」という欲望です。

 

 


私たちが今これが「自分」だと信じて疑わない「自我」とは、この「見られたい」という欲望から生まれてきたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎「見られたい」という欲望

 

 

 

とある有名な引き寄せの法則関連の著者の方が、

恋愛に関してこんな感じのことを言っていました。

 

 

 


「何だかがっかりするかもしれないけれど、

人は、相手の目に映った自分自身の姿に恋をするんです」

 

 

 

 

だから相手に愛されたかったら、その人の素敵なところ、輝いているところ、最高のところだけを目に映して、キラキラした目で相手のことを見つめなさい、と。

 

 

相手は、あなたの目に映るヒーローのような自分自身の姿に、そしてそんな風に自分を見てくれるあなたに、恋をするのだ、と。

 

 

 

 

私はこの話を聞いた時、「何と正確で鋭い分析!」と感心するとともに、

なぜ自分が「恋愛」がこんなに苦手だったのか

その根本的なところを見せつけられて心底自分にうんざりしました。

 

 

 


思い切って恥を晒しますが、私は「恋愛」が本当に下手です。

 

 

 


なかなか好きにならないし、なってもうまく行った試しがない。
好きになってもらうのも苦手だ。全力ダッシュで逃げたくなる。

 

 

フラれて心臓が破れるような辛い思いをするのも、もう二度とごめんだと毎回思うし、
自分のことを好いてくれている人をフるのも(言い方は悪いけれど)懐いて付いてくる子犬を蹴っ飛ばすような、これはもう本当にフラれる以上に最ッ低最悪の気分だ。

 

 

 


だから恋愛の匂いが香った瞬間速攻で心のシャッターを下ろすようにしている。

 

 

 

 

・・・のにも関わらず、ある特定のタイプの男性が目の前に現れた途端、

そしてその人が少しでも私のことを褒めたり評価してくれた途端

(別に恋愛っぽくなくても、「仕事が早いね」とか、下手すると「ありがとう」とか「なるほどね」程度であっても)、

 

 

もーーーー全然ダメになってしまう。

家畜の牛が鼻輪に縄つけられて引きずられるが如し。

 

 

 

もっと見て!もっと褒めて!私もっと色々できる!もっと素敵に魅力的になれる!見て!見て!見て!見て!

 

 

 

見て、評価して、褒めて、愛して欲しい欲望にぶんぶんに鼻面引きずり回されてしまう。

 

 

 

 

【その人の目に映る私】を女神様にしたくて、魔性のファムファタルにしたくて、清楚可憐な乙女にしたくて、慈愛とエロスを併せ持つ理想の女にしたくて、必死になってしまう。

 

 

その虚構を作り上げようと躍起になってしまう。

 

 


お寒いことに、私は長年にわたって、そうした状態のことを「恋」だと勘違いしていたわけだ。

 

 

 

 


まあでも自己弁護するわけじゃないけれど、引き寄せと恋愛ハウツーの人気作家がそんな発言をするくらい、世の中のほとんどの人々だって同じような盛大な勘違いをしている。

 

 

 

 

 

何も恋愛に限った話じゃない。

 

 

ここにくっきりと肉体という輪郭を持っている【私】がいる、という感覚そのもの。

 

 

【I am】の感覚そのものが、こうした【他者の目という鏡】の虚構から生まれてきているものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♦︎【私】は【鏡】から生まれてきた

 

 

 

 


古今東西あらゆる神秘学や魔術や宗教の世界で「鏡」は重要なモチーフとして扱われてきました。

 

 

 

そこに映る自分自身の顔は、しかし私たちが生まれてこのかた、一度も実際には見たことのない顔です。

 

 

 


「自分自身の」顔を、私たちは一度たりとも見たことはない。

 

 

 


それなのに、この世に溢れるありとあらゆるものがこの【自分の顔】を中心に組み立てられているのは冷静に考えるととても奇妙な、奇怪なことのような気がしてきます。

 

 

 

 


「面目を保つ」
「面子が揃う」
「顔を立てる」
「顔色を伺う」
「会の顔役」

 

 

 


慣用句に出てくる「顔」や「面」は、面白いくらいに「社会的役割の中でのその人」を意味するニュアンスで使われます。

 

 

 


自分が一度も見たことのない自分の顔を、当たり前に見ているのは「他人」です。

 

 

 

 

 


この世にいるすべての他人は、あなたの顔を見ることができる。
たった一人、あなただけがあなたの顔を見ることができない。

 

 

 

 


そしてあなたの顔を見ている無数の他人が、好き勝手に色々と、あなたの顔について形容するのを、あなたは一生懸命組み合わせながら、自分の顔を想像するのだ。

 

 

 

 


完成されたあなたの肉体の中で、唯一欠けているピース。

 

 

 

決してあなたの目に映ることのない、だけど他の誰もが当たり前に見ているそのピース。

【顔】。
(頭部と言ってもいいけれど)

 

 

 


そのうちにあなたは、どうしてもその欠けているピースを見たくて見たくてどうしようもなくなる。

 

 

 

 


あなたは、あなたの周りにしっかりと【顔】を持って、完成された肉体の全体像として登場してくる、たくさんの【他人】を見る。

 

 

 


そして妄想するのだ。私の【顔】はあんな風だろうか?
それとも向こうのあの人のような感じだろうか?

 

 

 


期待は高まり、あなたはもしかしたらあなたの【顔】が、あの、あなたの視界に映る中でも一番すてきな、一番特別で、一番美しくて、一番輝いている、あの人のような感じかもしれないと、ドキドキしてくるのだ。

 

 

 

 

そしてあなたは、ついに洗面台の鏡の前で、あなた自身の【顔】らしきものを見る。

 

 

 

 

 


さて、どう感じるだろうか?


がっかりする?

 

期待以上で誇らしい気持ちになる?

 

 

 

 


どちらにしてもあなたは「ああこれが、私の【顔】なんだ」と思うわけだ。

 

 

 

 


そして街に出る。
たくさんの人とすれ違う。

 

 

 

 

その人たちはみんな、あなたの例の【顔】を見ている。

 

 

あなたからは見えないけれど、多分きっと、今朝鏡で見たあんな感じの【顔】を、見ているんだろうと想像する。

 

 

 


だけどやっぱり、あなたの目にはあなたの【顔】は常に見えないから、鏡を見ていられない時は、想像の中で自分の【顔】を補いながら行動する。

 

 

 


私が見えないものを、いつも見ている【他人】たちは、今私の【顔】をどんな風だと思ってるんだろう?

 

その目に私の【顔】は、どう映ってるんだろう?

 

 

 

 

今朝見た鏡の中の像なんて、すぐにぼやけてよく思い出せなくなる。

 

 

だからむしろあなたは、あなたの目の前に座るその人の目を通して、

その人のあなたに対するありとあらゆる態度を通して、

自分自身の【顔】が今この人の目にどう見えているのかを想像するのだ。

 

 

 

 

 

だからあなたは、いつの間にか目の前に座る人ごとに、たくさんの【顔】を持つようになる。

 

 

 

お母さんの前に座る時は、いつまでも子供っぽい娘の【顔】。

女友達の前に座る時は、知的で現代的な女らしい【顔】。

そして憧れのあの人の前に座る時は、絶世の美女で、天使のように清らかで、女神のように麗しい、最高の【顔】。

 

 

 

 

これらの無数の【顔】は、

「あの人は私をこんな風に見ているんじゃないだろうか?」という妄想と、「あの人に私をこんな風に見てもらいたい」という願望の混ぜ合わせで作られた【仮面】だ。

 

 

 

 


それは、実際に他者が見ているあなたの【顔】とも違う、
鏡に映ったあなたの【顔らしきもの】とも違う、

虚構の中に作られた、この世のどこにも存在しない【顔】だ。

 

 

 

 

だけどあなたはその虚構の【顔】を作ることで、ちょっと安心するのだ。

 

 

これで大丈夫。ちゃんと私にも【顔】があるじゃないか、と。

 

 

 


だけど実際には、あなたはやっぱり自分の【顔】なんか見たこともないのだ。

 

 

 

こうして妄想と願望で練り上げられた仮面、仮想人格が誕生する。

 

 

ないものを求めて、ないものをあるように見せかけるために、自分自身を騙すための嘘から、それは生まれた。

 

 

自我のはじまり。

 

 

 

 

 

 

続きはまた明日(たぶん)!

 

岡崎直子

 

 

 

 

 

 

※こちらの「創造時代論ベーシック」の連載記事は、ヌーソロジーを基底に考察しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_________________

INFORMATION

 

 


4月15日(土)・16日(日)開催
【アストロロジー基礎講座】創造時代の占星術
 

私たちは一人一人の意識の内側に宇宙を持っています。
そこには階層構造があり、星々の魂が息づいています。

 

自分の意識の広大な構造を知って、星と繋がることは、
創造者として生きるものにとってとても大切な叡智となるでしょう。

 

バビロニア時代発祥と言われる占星術は、

いわば人類史の始まりと共に生まれた意識哲学。

その本質は、よく知られる「占い」ではなく、
内なる神々や精霊、天使たちとつながって交流するための
不可欠の知恵だったのです。

あなた自身の霊を知るために。
あなたの魂のレシピを知るために。
あなたの人生のシナリオを描くために。

星の叡智はあるのです。

 

 

 


5月13日(土)13:30-19:00
【ライティング講座】言の葉の魔法
 

ご要望にお応えして、2回目の開催となります。
日本語の精神、言霊の中に宿る魔法について、
その哲学についてレクチャーする特別なONE DAYプログラム。

創造時代の言葉の操り方について、
言霊について学びたい方におすすめいたします。

 

 

 

 

 

 

Youtubeラジオ

「岡崎直子の言の波ラジオ」公開中です。

 

 

第一回「自我の解体とアストロロジー」

 

 

Contents

♦︎はじめましての自己紹介

♦︎神秘学を学ぶとは

♦︎自我の解体とアストロロジー

 

 

 

【Webで聴く】

http://crossing-healing.com/admin/wp-content/uploads/2017/03/radio1.8-20170330-4.37.mp3

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

【YouTubeで聴く】

 

 

※注意!リンクをクリックするとすぐに音声が流れはじめます。

 

 

 

 

【関連ブログ】ぜひ合わせてお読みください。

自我を解体するアストロロジー

 

 

いいね!した人  |  リブログ(0)