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嵯峨天皇
在位809年から823年
即位早々、からくも薬子の変を乗り切った嵯峨天皇は、平城上皇の皇子高岳親王を皇太子から廃嫡。新たに同母弟の大伴親王を皇太子とした。
実は大伴親王は、どういう理由か臣籍降下[皇室を離れる]を望んでいたのに、半ば強引に立太子させられた。
この事が、後の承和の変[842年]の遠因となる。
その後、表向きは平穏で様々な宮廷文化が花開く。
自らも平安の三筆とよばれ、書に歌をよくし、華道嵯峨御流を創始するなど、文化面ではなかなかの才人であった。
治世では荘園の整理、整備、新田開発の奨励で収入を殖やす努力をした。
皇室といえども、財力の有るものが強かった。
善政を敷き、人々の尊敬を得る必要も有り、818年弘仁格を発して死刑を廃止した。
以後、保元の乱まで347年もの間、この法はいきていた。
然し、訳の分からぬ事も多い。
嵯峨天皇は子沢山で、皇室の出費を抑えるため苦肉の策として、子女の臣籍降下を進めた。
この様にして、嵯峨源氏が誕生した。
またその一方では、823年藤原冬継等廻りの意見[上皇が二人になると、またもや出費が倍増するという事]を聞き入れず大伴親王に譲位する。
此処に淳和天皇が誕生した。