カウンセリングかコーチングか|杉本良明(心理カウンセラー)

カウンセリングもコーチングもその目的は結局、心が元気になることです。心を元気にする「うんちく」を書いています。


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3泊4日の四国遍路から戻りました。四国遍路は観光バスやマイカーの老人会と少数の歩き遍路に分かれます。もちろん小生は歩き遍路です。今回は先達さんと呼ばれるガイドについてもらいました。なにせ笠のかぶり方も知らないど素人でしたので。街中の寺院はさほどには思わないのですが、山奥の札所は四国遍路の面目躍如、「遍路ころがし」と呼ばれるきつい山道で、歴史と伝統を感じました


今回は88ヶ所のうち17ヶ所を制覇、総行程80キロでした。夜は宿坊やど田舎の民宿に泊まるのですが、ひなびた感じが四国の良さです。現在脚は筋肉痛でへろへろです。

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とにかく年齢50を超えて、人生余すところあと20~30年になると、老後や死を考えざるを得ない。


以前は生涯現役で会社経営に邁進している人を尊敬していた。それがあるべき姿だ、と信じていたわけだ。


社会人として企業で働いていると、「利益」は至上価値で、だれも疑問を挟まない。価格引下げを要求して、いかに出入りの業者が困ろうと、そんなことに頓着していてはいけない。トヨタ自動車を見習うべし、と厳命される。


しかし、それはそういうゲームだから仕方がない。永年やってると、このゲームをやり続けることに疑問を持たなくなってしまう。個人の価値観として取り込んでしまうわけだ。私もそうだった。


経営陣のひとりとして、企業活動をやってきたわけだから、「事業経営」という価値観を総決算の意味で極めるのも悪くないな、と思った。それで経営学をeラーニングで受講し、3年半かかってMBA学位を取得したのである。


しかし、修了してしまうと、事業経営ということ対して、今となっては少々情熱を失ってしまった。事業を立ち上げて経営していくにはそれこそ、全人生をかけなければならない。


MBAでは起業プランを作らされたが、そんなこともやって、今ではリスクを取ってまで老後に起業したい、とは思わなくなってしまった。それはどうも自分のやりたいことではないな、と思い始めたのである。


個人にとってもお金は至上価値、命の次に大事と思って来たが、お金はあくまで幸せになるための手段だ。個人から見たら、必要なお金さえあれば、後は同じだ。


私は決して金持ちのうちに入らないと思うが、かといってお金に不自由しているわけでもない。贅沢をしなければ、今の財力で十分なのだ。幸せになるためには、お金というハードよりも、心の持ち方というソフトを極めることのほうが大切だと思うようになったのである。


そんなことは今さら言うまでもないことで、始めからわかっていたはずだが、事業経営という世間的価値感に浮かされていたのだと言える。MBAをやる前は、事業経営という世界にもっと自分の知らない素晴らしいことがいろいろあるに違いないと思っていた。しかし、そうでもないことがわかったのだ。


お金というハードよりも、心の持ち方というソフトを極めることのほうが大切だと思い至ったのは、MBAをやった結果でもある。その意味で、MBAをやったことには後悔していない。


人生残り少ないのは事実だし、この際、自分に正直に生きるのが正解だな、と思い始めた。そのためには気の進まないことはやらないに限る。


今となっては、世間的価値観に影響されて、自分の価値観を取り違えていたな、と思うわけである。しかし、世間的価値観の洗脳はそうは簡単に解けるものではなかった、とも痛感する。

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成功哲学に代表される「成功」という概念がある。世間的に言うと、これはもう金持ちになって、経済的自由を達成することと、社会的尊敬を獲得することに尽きる。金持ちになれない成功はあまり一般大衆を引きつけない。


しかし、これが果たして成功なのだろうか。個人的にはそう羨ましい状態であるとも思えない。金はある程度あれば、あとは一緒だ。


たとえば私は、一流ホテルのサービスとか、一流料亭の料理だとか、これっぽちの共感もない。ビジネスホテルやファミレスで十分だと思う。必要以上に大きい家に住んだところで、掃除やメンテナンスがたいへんだし、都会人にはクルマは不要だ。着るものだってユニクロや青山レベルで十分すぎると考えるのである。


社会的尊敬はいいと思うけれど、それで日々の生活のQOLが上がるわけでもない。いかに社会的尊敬があっても、夫婦仲がうまくいかない人はいるし、家族関係が悪い人もいる。子どもが不登校になれば同じようにアタマを悩ますことだろう。


交友関係に非常に恵まれている人がいる。これは結構羨ましいと思う。けれど、俗にいう顔の広い人に果たして自分がなれるだろうか、と思う。自分は人づきあいが好きでたまらない、というほどでもない。宴会後の二次会なんかはできたら勘弁してほしい。ゴルフや釣りといった趣味があるわけでもないし、やろうとも思わない。


では、自分の場合は何が成功か。つらつら考えると、それは人生の謎が解けることだ。だから知的好奇心は極めて旺盛である。そして何でもよく知っている人は尊敬する。そして自分もそんな人になりたいと思う。


何をよしとするかは、人それぞれなのだ。交流分析的に言えば、富を志向するタイプはParentで、交友を志向するタイプはChild、知的好奇心を志向する私はAdultなのだろうか。もちろん誰だって、富も交友も知的好奇心もある程度の欲求はあるに違いない。しかし、成功を語るなら、何が自分にとって一番の成功のファクターかきちんと押さえる必要があると思う。


その上で、今楽しい、そして、今の継続で将来も楽しいに違いない、というのなら、他人がどう思おうと立派な成功者だと言えるのではないだろうか。


世の中ではまだまだ「成功=金持ち=有名人」のステレオタイプが蔓延しているように思う。しかし、成功は自分なりに十分カスタマイズする必要があるのだ。自分にとって、大した価値が認められない他人の成功をやたら羨ましがったりするのは、ストレスの元で精神衛生上よろしくない。


自分にとっての成功が十分理解できていないと、羨む必要がないことを羨んで、余計な心労を招くことになるのだ。これに気が付いていない人が多い。


自分にとってさして成功とも言えないことを、世間的価値観にとらわれて羨んだ結果、自分の幸せを見失ったり、過小評価しているとしたら、見当違いもいいところではないか、と最近思うのである。

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「生きているのが辛いんです」

「人間なんのために生きなければならないのでしょうか」


いきなりこう問われると、答えに窮することだろう。こうした問いを発する人はとくに若い人に多いに違いない。かく言う私だって、たまに生きているのがイヤになることもあるわけだから、その気持ちはよくわかる。


しかし、こういっては失礼だが、その人の言い分がいかに説得力があろうと、考え違いをしていることは間違いない。はっきりしているのは、自分がつくりあげた自我が自分だと思っている限り、この迷妄は解けない。自分とは宇宙生命から与えられた命である、という発想の転換が必要なのだと思う。


といって、悩める人にいきなり


「宇宙生命を感じなさい」


などと言ってもムリある。反発されるのがオチだろう。まず、相手の言い分をわかってあげることが不可欠なのだ。


人間、不思議なもので、自分の話を他人にわかってもらえることで、自分の気持ちに素直に向き合えるものなのだ。つまり、自分自身の内面に素直に耳を傾けることができるわけだ。


だから、十分相手に気持ちをわかってあげたうえで、相手の反応を見ながら、


「生かされて生きているという発想でもう一度考え直してみませんか」

「自分の経験から言えば、自分がアタマのなかでつくりあげた自我でその答えは出ませんね」


と月並みだがやんわりいくしかない。


この意味から言うと、ただ聴いてあげれば、本人自分で気が付く、という能天気な考え方には与しない。自分とは宇宙生命から与えられた命である、という納得を得るには、私もずいぶん時間がかかっている。だから必要に応じて、その経験をシェアして差し上げることも時には必要だと考える。


上から目線で相手を教育しようとすれば、反発を招くことが多いが、同一目線でシェアすることは問題ないはずだ。といってその場で受け容れられるとは限らない。


「ま、とりあえずボクの話を聞くだけ聞いておいてよ」


といって問題提起しておけば、後になっていろいろ気づくこともあるに違いない。もともと、人間とは宇宙生命から与えられた命であるわけだから、気が付かないほうがおかしいのである。


悩みをきっかけに「宇宙生命」という概念に目覚めていくのが、人間というものなのだ。

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私は若いころ、手持ちぶさたで退屈、というのが辛かった。人生の空虚感というのだろうか、それを正視するのがイヤだったのだ。なにか刺激があって、この空虚感と向き合わなくていいと安心したものだ。そんなふうに何もすることがない時間を忌み嫌ったのである。


しかし、だんだんと何もすることがない時間を負担に感じなくなった。今は何もすることがない時間は人生にぜひとも必要なもの、と思っている。


人間、何もすることがない空白の時間が生じたら、やるべきことがあると思う。それは宇宙生命に思いをいたすことである。


宗教的に言えば、神を思うとか、仏を憶念するとかいうことになる。自分の命の源である実在界と交流するということである。もっと具体的に言えば、


山川草木悉皆成仏


と感じることだ。すべての存在の背後にある宇宙生命と対話すること、と言ってもよい。


人間、生きているのがいやになることはたまにある。しかし、宇宙生命と対話することができていれば、そうはおかしなことにならない。いずれ正しい思いに立ち返ることができるものである。


宇宙生命と対話することはとりもなおさず、「生かされて生きている」という感謝をかみ締めることでもある。退屈な空白時間が生じたら、これをやっておればよいのだ。宇宙生命の末端である自分が、宇宙生命に思いをいたすことは当然のことであるはずだ。


私には冥想する習慣はない。禅宗などはただ座れというけれど、宇宙生命と対話することなくただ座っても辛かろうと思う。しかし、宇宙生命と交流するためにただ座れ、と言われると大いにわかる気がする。


ただ座れというのは、五感を研ぎ澄まして宇宙生命を感じよ、ということなのである。この考え方で間違いないものと思う。ただ、宇宙生命を感じるためには座る必要は必ずしもないと思っている。

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自分に正直であれ、とよく言われる。


なるほど、これが一番大切なことであることは同感だが、どう理解するかは、結構難しい。たとえば、社会に出て、組織からあてがわれる仕事は、それこそ大概不本意なものであり、「自分に正直」なら職場を辞めるしかない。しかし、それではあまりに非現実的だ。


こんな場合は、気が進まなくても、やる気でやるしかない。そこで「演じる自分」をつくってしまう。その結果、自分に正直であるとはどういうことか、だんだんわからなくなってしまう。


私の最近、思うことを書いてみよう。


自分に正直であれ、というのは人生の大きな選択において、ということと考えている。小さな選択においては、できれば正直なほうがよいが、それができないことも多い。


身近なところでは、行きたくもない飲み会は行かなければいいのだが、一度くらいは顔を出さないと義理を欠く、という局面はあるはずだ。そんな場合は敢えて自分に正直でなくてもよいと思う。職場の仕事なんかもそうだ。


しかし、大きな選択、たとえば結婚するとか、起業・転職するとか、何かライフワークをはじめるとか、では絶対自分に正直であるべきだ。


ここで、他人がそうだからとか、他人がそうやって大成功しているから、という事実に幻惑されてしまうことが多い。私たちは多かれ少なかれ、社会的通念によって催眠(洗脳?)状態にあるからだ。


こんなことを書いている私だって、社会通念を理由に自分を偽ってしまいそうになる。


しかし、気の進まないものは、社会通念がどうあれ、気が進まないのだ。それを無理にやっても絶対うまくいかない。ちょっと凝った言い方をすると、自分の無意識が自分に味方しないのである。自分が内部分裂していては、うまくいかなくて当然だ。


さて、結論。「自分に正直」であるとは、気の進まないことはやらない、ということである。とくに、人生の大きな選択においてはそうなのだ。

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「苦悩のない人生などない。また苦悩から逃れたところに幸せはない。本当の幸福は苦悩のなかにあって、苦悩を苦悩としない心のなかにある」


中村天風の言葉だが、この人らしい豪快な言い方だ。


小乗仏教では「一切皆苦」という言葉がある。人生は苦しみの連続だが、その苦しみと表裏一体なのが、幸福である、と仰ってるわけだ。「苦悩を苦悩としない心」が覚りだとすれば、それは静的に安定した状態ではなくて、苦悩との葛藤のなかで生まれる動的なものに違いない。


つまり、人生とは苦悩の連続だが、それが実は幸福である、ということらしい。要は「何があってもいつも幸福」、これが人生あるべき姿なのだ、私はこう理解したい。


そう考えると、今日という一日を耐え忍んで、将来の成功に備える、という発想では、人間あまり幸福になれないのは明らかだ。将来成功したあかつきの幸福感なんて、せいぜい2~3日持てばいいところなのだ。


やっぱり、今日一日が楽しくなければならないし、そのために工夫する必要がある。将来の理想のために今が犠牲になるのはよろしくない。


といって、今日一日が刹那的に楽しいだけでは、本当に楽しくはならない。人間、五感に集中すれば、一瞬は苦悩を抜け出せる。しかし、今の瞬間を生きるだけで、幸せというのも無理があると思う。それは聖人の境地であって、凡人はついていけない。


やっぱり、自分なりの将来を設計する必要は断然あるはずだ。今日一日楽しくて、それが将来につながるのがベストだ。


凡人が苦悩を苦悩としない心を持つには、今日一日楽しくて、それが将来につながるという設定(つまり人生設計)が不可欠なのだと思う。それでこそ、苦悩のなかにあって幸福を無理なく感じることができるのだ。

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私は若いころ、システムエンジニアをしていた。職場の上司はよく言ったものだ。

「仕事をやり終えた達成感はなにものにも代えがたい」


そうなんだ、と若かった私はこの上司を尊敬したものだった。


それ以降、私はいろいろな局面でそれなりに達成感を味わうことになる。しかし、達成感はほんの一瞬だ。結局、達成感というのは、今を犠牲にしてがんばった見返りに味わう一瞬の開放感に過ぎないというのがわかった。これは実に割りに合わない損な取引だ。


だから仕事は楽しんでやるべきだ。そうは思うのだが、技術についていくだけで精一杯、日々の生活では納期に追いまくられ、残業・休出は当たり前、それに加えてクレーム対応に悩まされる毎日に私は結構つかれ切っていた。その中で「婚活」までこなさなければならなかった。


現代の都会の生活とは、こんなもので似たり寄ったりだと思う。こういう前に前に追い立てられる原理をドロモロジーというというのだそうだ。ドロモスというのはギリシア語で、「前進・競争」という意味とのことである。


現代人はこのドロモロジーに支配されているのだ。今を楽しめずに夢うつつの人生を送っていると言えようか。


この対極がスローライフだ。のんびりと今を楽しんで今を積み上げていく。未来のために今を犠牲にするという発想が希薄なのだ。今だって後進国ほどスローライフだ。いや、世界の大半はスローライフだ。歴史的に見ても、産業革命で工業生産が始まるまではスローライフだったわけだ。


といって、現代都会人の私たちが過去に逆戻りしたり、後進国の真似はできない。しかし、時間に追い立てられることの異常性には気づくべきだ。今の生活で、もっと今をしっかり味わうべきなのだ。


その意味ではラテン系人々のありようはたいへん参考になる。たしかに仕事はいいかげんだ。しかし、彼らにとって今という時間は私たち日本人よりも豊饒だ。食事に時間をかけ、好色で、おしゃべりだ。じつに楽しそうに笑って陽気である。イタリアにこんなことわざがあるそうだ。


「ゆっくり行くものが遠くへ行く」


要は、今を楽しめば結果は自然とついてくるという考え方だが、うつで倒れないうちにしっかり身につけておくべきだ。つまり、


「先を急ぐものほど、どこへもたどり着かない」


からである。男性からみれば、今を楽しむスキルはずっと女性のほうが長けていると思う。女性はしぶとく長生きするが、男性は定年後に早々とあの世に行く人が多い。これは長年先を急いだ結果に違いない。

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イエスの説いた本質は煎じ詰めれば、「神は愛なり」ということだ。いわば救いの教えである。


釈迦の教えは、


・諸行無常(すべての現象は流転する)

・諸法無我(すべての存在は実体がない)

・涅槃寂静(煩悩を超越すれば安らぎの境地にいたる)


と一見、虚無的で救いがないように思える。平家物語とか、涅槃図とか、葬式仏教とかが連想されて、「世の中空しい、結局死ぬしかない」みたいに短絡してしまうのだ。少なくとも私はいままでそう思ってきた。しかし、最近ようやくその真意に気づき始めた。


釈迦の考え方は、Aが起こり、その結果としてBが起こり、その結果としてCが起こり、・・・というイベントの連続がこの世だというものである。イベントは永遠に起こり続け、尽きることがない。


そこには永続するモノもなければ、自我もない。宇宙の本質は命という無形の概念なのだ。実はこの考え方が素晴らしい。その結論は、


山川草木悉皆成仏(大自然はことごとく仏である)


仏という文字で、宇宙生命が表現されているが、要はすべての(流転する)存在の裏には宇宙生命がある、素晴らしいではないか、ということなのだ。仏教こそ命を最も肯定する教えなのだ。すべての存在は宇宙生命の見えざる息吹が息づいているのである。


だからどうなんだ、それがどうしたと思うのがフツーの人間である。しかし、よく考えると、これは途方もなく素晴らしい発見なのだ。全世界は輝いて見えないか。


全世界が輝いて見えた瞬間に、私たちは涅槃寂静(煩悩を超越した安らぎの境地)にいることになる。決して、死んで意識がなくなることを言っているのではない。残念ながら、凡人にとっては、涅槃寂静の境地は永続せず、生活のひとコマに垣間見ることしかできない。いわば「瞬間芸」なのだ。


だから、涅槃寂静は聖人の専売特許でも何でもない。涅槃寂静は凡人にとっては瞬間芸であるけれども、日常生活でだれでも多かれ少なかれ経験していることなのである。


しかし、それでもいい。その「瞬間」を少しでも持ち合わせる人と、はなから全く持ち合わせない人とでは、人生の味わいという点でだんだん差がつくのである。その「瞬間」を持ち合わせる人が、その「瞬間」を日常生活で増やしていくにしたがって、徐々に「生きるのが楽しくてしかたがない」というふうに変わっていくわけだ。


聖人と凡人の差はこの瞬間が多いか少ないかだけの違いである。


その意味で、釈迦の教えは覚りの教えだ。自分で気づく必要がある。そうすれば宇宙生命(神)が愛である、というイエスの教えも真理を別の角度から述べたもので、釈迦の教えと見事に融合するということがわかるのだ。


釈迦の教えはわかりにくい。しかし、わかってしまえば、決して難しいことを言ってるわけでもない。人間、幼いころはみんな涅槃寂静していたのである。

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仏教もキリスト教も現在の宗教団体が説く内容は、釈迦やイエスが説いた内容と同じではない。


特に仏教は大乗仏教が日本に伝わり、真言宗・禅宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗と分かれてしまい、その説くところも全く異なる。わずかに釈迦の教えの片鱗が認められるという程度のものなのだ。


「なぜ仏教は漢文のお経をむにゃむにゃと音読するのですが」


と一度仏教の僧侶に問うてみられたらいい。これに対して納得のいく答えを得られることはないだろう。


私のみるところ、仏教が日本に渡来したころは「鎮護国家」の呪術であり、すでに釈迦の教えの片鱗をとどめるに過ぎなかった。唐に渡って仏教修行した最澄や空海にしても、密教という呪術を日本に伝えたのであり、それを和訳するという発想はなかったに違いない。


キリスト教はずっときちんとイエスの教えを伝えている。聖書のなかで福音書は最も重要な経典で、しかも現代語訳されて礼拝に使用されている。しかし、キリスト教会の説教を聴いてみればわかるが、信徒を罪人と刷り込んで、教会に依存させ、旧約聖書のエホバ信仰を奇妙なやりかたで整合性を取り付けようとする。常識的な社会人ならおかしいと思うはずだ。


現代は、釈迦やイエスの教えの原点に立ち返る時代なのだと思う。その意味で世間の仏教やキリスト教の宗教団体が説くところは一旦リセットしたほうがいいと個人的には思っている。


そこへいくと神道はいい。祝詞はあるが、事実上教義がない。だからあれこれ教義を押しつけてこない。釈迦やイエスの教えの原点に立ち返って自由に絶対者を思念できる。その上日本の風俗習慣に溶け込んでいる。


最近は断然、神道ファンに変わってしまった。神社では絶対者と素直に対峙できて、すがすがしい気持ちになれるからだ。

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