ロイヤル顧客を創造する経営管理術

マーケティングコンサルタントとして独立起業したはずが、相談範囲が広がり、いつの間にか人材育成、組織再編まで。さらに、ベンダーや業者の紹介・選定なども。
そこで、経営者の名参謀役として「主治医型 経営顧問」を始めました。困った時の向川頼み!(笑)


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ビール市場をテーマにした記事が続いていたので、ここで戦後のビール業界の変遷について、軽くおさらいをしてみましょう。


戦前におけるビール業界のリーディングカンパニーは、1906年大阪麦酒日本麦酒札幌麦酒の3社が合併して誕生した大日本麦酒でした。
しかし、戦後の「過度経済集中排除法」による財閥解体のため、1949年に大日本麦酒はアサヒビールニッポンビール(後のサッポロビール)に解体されたのでした。
一方、ノルウェー出身のウィリアム・コープランドが1864年に来日後、横浜山手で創業したスプリング・バレー・ブルワリーというビール会社の事業を継承して1907年(明治40年)に設立された麒麟麦酒株式会社は、同じく1949年に出荷制限が解除され、商標「キリンビール」を復活して販売を開始しました。

この時点で、アサヒビールにシェアは36.1%、キリンビールは25.3%。しかしその後、形勢は逆転、キリンビールがシェアを伸ばしたのに対して、アサヒビール、キリンビールは徐々にシェアを低下させ、1976年、1976年63.8%のシェアを確立し、1985年まで60%以上のシェアを維持しました。

この間のキリンビールの躍進は、商品へのこだわりと営業力による成果でした。商品に対するこだわりは、たとえば価格の高いチェコ産のホップを使用するなど味への研究を怠らなかったこと。また、高度成長により、これまで贅沢品だったビールを一般大衆もたしなむようになり、その市場環境の変化に迅速に対応したのがキリンビールの営業です。業務用から家庭用への流れ、また、同じ業務用でも大衆居酒屋、町の酒屋など新たなマーケットに地道に営業努力を重ね、これらのマーケットを制圧するに至りました。

一方、アサヒビールのシェアは低下し続け、1985年には9.6%と10%を割り込み、ビールを本業としないサントリーにも迫られる状況になりました。1985年のキリンビールのシェアは61.4%なので、6倍以上開いたことになります。

アサヒビールは、戦後スタート時点で分割された上、サッポロビールは東、アサヒビールは西と、それぞれテリトリーが敷かれ、工場、特約店網が分散するという営業上の不利益が生じ、「ビールを売るな、自分を売れ」の掛け声の下、小売店、問屋、飲食店をまわる営業活動など並々ならぬ努力を重ねたものの、大衆商品化したマーケット構造の変化に対応が遅れるなど、かつての名門ゆえの発想の転換を行なうことができなかった結果といえます。
また、苦みを強くしたり、渋みを弱くしたり、味への工夫を重ね、いくつかの新製品もありましたが、どちらかといえば職人主導のこだわり商品、メーカー主導の作れば売れるという方針のもとづく商品戦略でありました。

しかし、1973年のオイルショック以降、既にシェア60%の寡占型リーディングカンパニーであるキリンビールに、公正取引委員会の触手が伸びます。
キリンビールは公正取引委員会の分割要請をかわすために、1973年に設備投資を削減、広告の自粛を約束。これによりキリンビールの開発力、営業力が弱体化していったのでした。


一方、1985年シェアが10%を割り込み9.6%に落ち込んだアサヒビールは。。。


次回、アサヒビールとスーパードライの戦略について軽くおさらいをします。



※この記事は、「超図解ケースで学ぶMBAマーケティング」を基に、
キリンホールディングスのキリンの歩みを参考にしながら作成しました。


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