野田MAPの新作、『逆鱗』を観てきました。
幻想と笑い、言葉遊び、斬新なアンサンブルの動き。
鋭く、美しい世界を堪能できるのは、やはり野田さんならでは。
やがて、謎が解けた後にくるものは、これ以上ないくらいまっすぐな主張で、ストレートに観客の胸を刺します。
そしてそのストレートさと余白の少なさに、私個人としては複雑な思いにもなってしまったのでした。
以下、すっかりネタバレしていますので、観劇前は、お読みにならないでくださいね!
2016年2月12日(金)ソワレ
東京芸術劇場プレイハウス
作・演出 野田秀樹
出演 松たか子 瑛太 井上真央 阿部サダヲ 池田成志 満島真之介 銀粉蝶 野田秀樹
冒頭、松たか子演じるNINGYOー人魚ーの、何かを伝えなくてはならない、とのモノローグのあと、場面は変わって、
とある海中水族館。
アンサンブルが、魚の回遊を美しく表現しています。
水族館の館長の娘で、人魚を研究している鵜飼ザコ(井上真央)は、人魚学者の柿本魚麻呂(野田秀樹)とともに、海底から人魚を捕獲することを計画します。
館長の鵜飼綱元(池田成志)は、人魚を捕獲できたら、水族館の演しものとして人魚ショーを開催しようとしていますが、念のため、オーディションで人魚役を選ぶ予定にもしています。
そんな折、郵便配達人のモガリ・サマヨウ(瑛太)が、大事な電報を届けに水族館にやってきます。モガリは、人に見えないものが見えるらしく、それを知ったザコが、電報を奪ってしまいます。
人魚を捕獲するための潜水チームが作られ、水族館の職員のサキモリ・オモウ(阿部サダヲ)や、イルカをこよなく愛するイルカ・モノノウ(満島真之介)、それにモガリも巻き込まれて、海に潜ると、そこは人魚のいる世界。
海底には、松たか子演じる人魚がいて、16才の時にモガリと会ったことがある、と言います。人魚は今、86才だとも。
また、その人魚の母親(銀粉蝶)もいて、人魚の世界では、子どもの方が親より早く死ぬ、などと言います。
そして、人魚に喰われそうになったところで意識を取り戻すと、モガリは助けられて陸に上がっている自分に気がつくのでした。
人魚を研究しているザコは、
「人魚は、魚を二つに切った中から生まれる。」と言い、これが何度かくり返して主張されます。
一方、オーディションには、陸に上がってきた松たか子演じる人魚もやってきて、自分は人魚だ、と主張しますが、聞き入れられません。
でも、どうしても伝えなければならないことがある、と、再び、モガリ達を伴って、海の底に潜ります。
と、そこは、第二次世界大戦末期の海軍。
モガリ、イルカを始め潜水チームの面々は、自ら志願してきた海軍の特攻隊員になっています。
そして、阿部サダヲ演じるサキモリは、彼らの上官。
そう、人魚とは、人間魚雷のことで、魚雷を切って貼り合わせ、その中に人間が入って敵艦に体当たりする、特攻兵器「回天」のことでした。
そうとは知らず志願してきた隊員達がそれを知ったときの驚きと絶望。
決して口に出せない本当の想い。
それを作った技術者がいて、
命令をくだす者がいて、
命令に従わざるを得なかった者達がいて、
我が子の帰りを待っている母がいた、というあの時代に、観客は連れて行かれます。
人魚は、人の心を読むことができる。
出撃前の、隊員達の声にできなかった想いを、松たか子の凛とした声が代弁します。
モガリは、この作戦の無意味さを、暗号として上層部に届けようとします。冒頭部の、モガリが届けようとしていた電報は、この暗号なのでした。
そしてまた、モガリが隊員の母親(銀粉蝶)に戦死の電報を届けるシーンも挟まります。
上層部への暗号は届かず、
隊員達は、一人、また一人と、脱出装置のない魚雷に乗り込んでいきます。
モガリもまた、その魚雷に乗り、命を落とし、海の底に沈みます。
魚雷であった松たか子の人魚が、モガリを抱き、モガリの想いを今に届けるべく、語ります。
その想いは、泡となり、海上に、そして観客へと放たれ、観客は、若くして命を落とした彼らへの、鎮魂歌を胸に刻むのでした。
私が野田さんの作品を観たのは、『キル』の再演からで、その後、『パイパー』、『ザ・ダイバー』、『ザ・キャラクター』、『表に出ろいっ!』、『南へ』、『THE BEE(再演)』、『エッグ』、『MIWA』と続きます。
夢の遊眠社時代の作品も観ていないし、野田MAPになってからも数えるほどしか観ていませんが、その作風が、『ザ・キャラクター』の頃から変わってきた感じがして、
『南へ』、『エッグ』、そして今回の『逆鱗』と、これらの作品は、観客を、
ともかく過去へ、過去へ、過去へ、
と強い力で連れて行こうとしているように思えます。
そして、忘れるな、忘れるな、忘れるな、と。
この3作品は、前半は笑いや遊びがあるけれど、後半はその謎が解けて、野田さんのメッセージに集約していく。
この構造が読めてしまうと、そこに強引さも感じるようになってきて、ちょっと騙されている感もしてしまう。
野田さんなりのこの国の未来への強い危惧があってのことと理解しますが、いつも過去に連れて行かれることに、違和感も感じるようになってきました。
いつも、70年前にワープされて、過去に足止めをされるような・・・
70年を経てもなお、混沌とした世界で生きざるを得ない私達に、
これらの作品は、
希望を、
夢を、
未来を、
与えてくれているのだろうか、との思いにもかられます。
ずっと前、まだ芝居を観始めて間もない頃に、茂木健一郎さんと野田さんの、『パイパー』に関する対談を聞きに行ったことがあるんですが、その時に、野田さんが、「啓蒙はしない。」と言ったのが印象に残っています。
芝居って、暗い閉鎖空間の中で行われるから、それは洗脳に近くなる危険性がある。だから、「啓蒙はしない。」と。
今は、どうなんだろう。やはり、「啓蒙はしていない。」のでしょうか。
私は、今回の『逆鱗』を観て、もしかしたら、野田さんは、自らを、芝居を通じた戦争体験の語り部になることに定めたのかしら、と思いました。
過去を忘れた先の未来はない、と繰り返し語っていく語り部に・・。
以前、野田さんが25才の頃に3日で書き上げたという『障子の国のティンカーベル』(マルチェロ・マーニ演出)を観に行きましたが、今思うと、“野田秀樹全部乗せ”みたいな話だったなあ、と思います。
あの戯曲には、神話や、狂気の世界と行き来できる希有な誇大妄想があったような気がします。それができるのが、野田さんで。
今回の作品にも、コダイモウソウという台詞が出てくるんですが、何か、無理矢理感があった気がして、
夢の遊眠社も観ていない私が言うのもなんですが、ちょっと淋しい。
でも、劇作家だって、今という時代を生きる一人の人間だし、
人はいつまでも少年ではいられない、のだし?
書く物が変わっていくのも当然なのかも。
あとは、観客側の受け止め方によるのでしょうね。
と、なんか、もやもやした感想になってしまいました。
ただ、
俳優さん達の演技には満足したし、
美術といい、
照明といい、
アンサンブルの動きといい、
こんなに美しく哀しい世界を創れるのは、やはり比類のないことだなあ、と思います。