ソフトシェル

テーマ:
やりたいことを
やるというのは
簡単なようでいて、
難しい、

こともある。

人生は時に
やりたいことができるほど安易な
設定になっていないことがあるからね。

なぜなら、
ひとそれぞれカスタマイズされれているから。

ひとの簡単は自分の簡単ではないし。

すごい奥底の方では
今いる自分も
やりたいように
いきているのだけど。

その認識でおわっては進化は起きない。

ただ、難しいは旨味がある。
そして、難しいは
実は簡単である。

最短の道でゆくもあり、
回り道で奥底で楽しむのもあり、

ひとそれぞれ、、、、

ただし、
ぼくがここであきらめたら
ぼくの宇宙はおわり。

べつにおわりがわるいってわけじゃない。

またやり直しってなだけだ。

やりたようにやったって
くりかえすものもいる。

それが、どこまでが自分かの認識がなければ
ただのジタンダにすぎない。
楽しいようでさほど楽しくないたのしみ。

踊ってぼくが想う自分を壊せ。

どこまでが自分か?

自分の輪郭がこわれ
ソフトシェルな自分がひろがる。

絶えず、脱皮し、

過去の自分がやりたいとおもっていたことなんて
ぜんぶ排泄だなって
想いもしつつ、、

それもまたわるくないなんて
想いもして、

やりたいことをすることを訴える輩の
虚しさをも飲み込んで

ゲップする。





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観察

テーマ:

教えたがりで

なにがわるいんだろう?


そもそも、教わるのを決めるのは

自分自身だし。


教えたがりの魂を封鎖するほうのが

よっぽどからだに悪い。


ただ、

まぁ、めんどくさいしね。

余計なお世話だしね。

わかるわ(笑)


でね、教えたがりやマウンティングを

嫌う人の精神にも

その教えたがりやマウンティングの

波動があったり。


氣がつかないだろうけど

包容力がたりない。


万物、

好きになったり、

好きになってもらう事でしか

教授されないようなところがある。

ある意味、王道だね。


ただ、「押し付け」や「強制」という

思い込みさえ非現実的な認識であったり。

そんな現象の中に愛が明滅していたり。


どう変換するか?


これをどうとらえるか。

現象にどう意味を与えるか?

水のように流れるままにながれるか?

しみこむままにしみこむか?



観察せよ!


と、響きわたる青く見える空。


これも強制?







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ノーサイド

テーマ:

否定スイッチを切る。


歳を重ねたぼくは

いろいろ否定したがるようになる。


この時世や、政治や、気にくわないアーティストとか

良い事しか言わないコメンテータ―とか

隣のパーマくるくるのすっぴんなおばちゃんとか

いつも穴が開くのは左足の靴下とか、

麦茶のボトルの注ぎ口がみつからないとか

優しさもなくなんでもかんでも否定する人とか

パンツのがらぐらいいろいろなことに

否定したくなる。


だからこそ、

そんな否定から入る

自分の頭のおもみを

否定する、

ことなく受け入れるんだ。


否定を否定しても

肯定の皇帝にはなれない。

否定をたしなめて、腑に落ちて、

良い事いっているつもりでも

意外とこの否定の否定の罠に

心地よくはまる。


だから、

むしろ、くじらのように

全部、呑みこんじゃう。


きみが嫌いな人やぼくがなんとなく支持している人、

彼がきらいなエネルギー元や、

落ちる不安のオスプレイも壁にこすりつけた鼻くそも

流し忘れた便や、日々のため息、彼女や彼の浮気相手も

路上キスも天井のシミも

はずかしくなるよな想い出のかけらも

そのものは臭いたっぷりで

呑みこめないけど!?


すべて一度はすっと呑みこんじゃう。


そして、すっとしてから

自分がどんな生き方をしちゃうのかを考える。


否定も肯定もあっちもこっちもない。



最近、否定する自分があらわれると

観察するんだ。


観察されると照れくさくなる。

照れくさくなると

「なんだよぁ、照れるじゃないかぁ」

と想ったりする。


想った瞬間にそんな自分を抱きしめて

まるのみする。


これが否定スイッチの切り方だ。

ノーサイドな生き方だ。


と、言って見て

かなり有効な力技だったりする。


もう、そんなに病みたがるなよって。









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