いかにも小馬鹿にしたタイトルですが、
最近覚えた言葉を使ってみたかっただけで
あまり意味は無いです。


― Sleeping Workers ―-ecm catalog


やれやれ今週も終わった終わったと思ったのも束の間、明日からまた仕事ですが、
「終わった終わった」という気の緩みと共に出てくるのは、金でも使うかという気分。
時間が合わないので、職場の人とは飲みに行けないし、
こうなったら、ここ数ヶ月タワレコで嫌でも目についていた少しお高いアレ (というかコレ↑)でも買っちゃうか、と。

行ったら無かったので、ムキになってamazonで1クリック。
届いたのが今朝。
コレ、良いですよ!楽しい。
美しいジャケット群にため息が出ます。
カタログというか、ECM初心者の自分にとってはガイドブックです。
というわけで冒頭に戻って、コレはいわゆる「自分へのご褒美」ってやつかもな、と思ったけどやっぱ何か違うな。


このミスや何やらに疎くなって久しいですが、前回の日記の補遺もままならぬ中、
2、3年ぶりくらいに「今年の~枚」でも選出してみようと思います。震災もあったので。
今年の漢字は選ばれたら2回目とはいえやっぱり『災』じゃなかろうか、と思う今日この頃。

AD
もしくは『鷺と雪』を読むにあたって。


「自分に何が出来る? そう自問した時、どんな人間よりも貧しい生活を送るのは、神様が自分に科す、至極、誠実な罰じゃないかな。 ーー俺はね、そういう神様となら、手を取り合って泣ける気がする」

「神っていうのは、限りなく無力で、哀れなんだろうな。だからこそ、その悲しみを知る目で、人を見つめる。 ーーそういう目で見つめられるから、人は救いを感じられるんじゃないかな」



今年の3月の未曾有の天災と、依然続く文字通り降り掛かる災厄に対して、
あまりに無感動で、見ているのに見えていない状態が未だ継続している自分を今更、
諌めるつもりもなし、出来もしないのですが、
既に"三月の水" に在ったアントニオ・カルロス・ジョビンの個人的な復興の予兆を知るに、
謳われる石ころや枝葉、時間や空間、絶望や歓喜、希望に遍在する神性を知るに、
そしてその神性とは多分、上に記した『破璃の天』にて、とある登場人物が
悲しいかな悲痛な叫びと穏やかな狂気を孕みながら口にする言葉に現れているのではないかと思ったら
涙が止まりませんでした。

私は詩も曲も作ることができないのですが、
その形容しがたい思いをこれらの素晴らしい曲や文章に託すことができるということに気づきました。

おそらく『鷺と雪』では、戦争という最大最悪の人災へ日本がなだれ込んでいく
その気配を前作よりも更に明確に切りとって描かれるのだと思います。
それは明白な悲劇でしょう。
ただ、私が1つ確信しているのは、北村薫という作家はきっと希望、
もしくはまだ起こっていない悲劇からの復興の予兆も同時に描いてくれるハズだ、ということ。
「本当にいいものは、太陽の方を向いている」と記すほどの作家が、そうしないわけがないからです。

私は、この震災に対して(そして16年前の震災に対して)語る言葉を持ちませんが、
その思いは数多の素晴らしい曲や詩、物語に託すことにします。

AD

百まで

何がきっかけか分からないけど、
近頃、SING LIKE TALKINGを聴き漁っています。

バンド名を聞き逃したミュージックスクエア(中村貴子時代ね)で曲名"Flame"を
「フレーム」と聴き間違えて、その上、家族に「透明感のある声の男性歌手て誰だか知らん?」
と必死になって尋ねまわったら

「徳永英明じゃないの?」
「それはたぶん徳永英明だ」
「徳永英明に違いない」

と無駄に正解まで遠回りをさせられたものでした。


自分でも驚いたのは
特に7thから9thまでの3枚に入っている曲は、
今でもパーペキに歌詞を口ずさめること。

三つ子の魂何とやらですなあ。。
カラオケ行こ、カラオケ。
AD

呟き

「蓋然性」という言葉が気になってgoogleで検索すると、「蓋然性」と「可能性」を混同して使用しているメディアが多すぎると嘆くどこかの大学教授の コラムを見つけ、ふんふんと読んでいると要するに日本語の乱れについて憤っているわけで、話題は「蓋然性と可能性」から謙称へ移り、「拙著」「拙稿」が拙 い文章ではなく、拙なる私が書いた文章なんだと、ここまでは良い、「愚妻」をmy foolish wifeと訳すのはどういうわけだ、と激しい口吻で語られるのを読み、自分の中にハーテナーを伴う違和感を覚えたので記憶の手引きに従いその?を紐解いていく と、中坊時代の本棚に並んだ安能務訳「封神演義」の土行孫が鄧嬋玉と結婚した後、姜子牙に紹介せよと言われた土行孫は「師父、愚妻(ノイエン)です」と答 えたシーンに行き着いたと思えば、さらにその先に崑崙十二大師をはじめとする仙人たちがお互いを「賢兄」「賢弟」と呼ぶのは何故なのかと飛躍した思考が、結論は、つまり、「愚」と 「賢」は「私(の)(一人称)」と「あなた(の)(二人称)」にかかる謙称と敬称なのですね。なるほどね、たぶんそうだ。