明日、牛、来襲。
懲りない奴だ、お前も、俺も。

本日定時をもって今年度のサマーヴァケイションに突入したので
仕事を切り上げてPCの電源を落とし椅子にダラーっと凭れて軽く体と精神をしばらく弛緩させて
まだまだ頑張っている後輩たちに「じゃあなさいなら」となめた声で挨拶。
もうfelicity night2日目に行くのも面倒くさく、、
ああ、そう昨日はfelicity night1日目に行ったんですよ、SCLLの音盤目当てで。

若干そんな予感はしていた、まさかの"Rollin' Rollin'"を聴かずに引き上げる暴挙。
というのも七尾旅人のステージが素晴らしくて、
特にドリアンのデモを流しながら歌い上げる新曲"サーカスナイト"。
もうQueenばりのコーラスでも何でも良いので、早く音源化してください。
"圏内の歌"も良かったよ。
9.11では分からなかった、この人の振り幅が3.11以降に身に沁みるようになってきた。
いつの日かさだまさしのようにMCだけのCDでも出して欲しいような、出して欲しくないような。
出して欲しくはないかな(笑)
この人のライブはMCが直後の曲に密接に関わるそういうライブなので、そういうライブ盤が欲しい。
しかし、Queenといい、家に入り浸っていたオカマの話といい、
明らかにMCのテーマが"felicity"ではなく"おかま"だったとしか思えない。

その後のドリアンのステージも良かったです。
もっともっと売れて、ケミカルブラザーズみたいにド派手な演出できるようになれたらいいね。
そういえばドリアンの時、真横に七尾先生がいました。ビール飲んでて羨ましかった。

やけのはらは、せっかちな感じでちょっと興が削がれた。もうちょっとchillをくれ。
"ロックとロール""自己嫌悪"が聴けたのは良かったけど、このアルバムで何が一番良いかって

― Sleeping Workers ―-this night is still young

ジャケットだと思ってるんで、マジで。
すんませんね。
だが、この点はドリアンも見習うべきだと思う(どーでもいいけど)。

で、今日はそんな素敵なfelicity night2日目にも行かずラーメン屋に行ったわけです。
SCLLの音源が予想以上に良かったです。
熱量少ない感じで、『New Season』の熱気の残滓が感じられるようで(賞賛しています)。

隣で食ってた2人組の会話。

先輩「ラーメン好きなん?」
後輩「はい。一蘭って知ってます?」
先輩「イチラン?カタカナ?」
後輩「いや、漢字の一に、お花の蘭です」

わし(・・・花を『お花』って言うと、一気に馬鹿っぽくなるね。)

先輩「独りでラーメン屋行ける?」
後輩「全然、行けますよ!寧ろ独りの方が好きなくらいです」

わし(・・・それ、今言ったらいかんよ。)

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①キリン秋味のCM。
②月見バーガーのCM。
③イチローの200本安打へのカウントダウン。

年を追うごとに「え、もう?」の嘆息が深くなる。
ウソ、嘆息はしてない。驚いただけ。
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このところ当たりが多くて何から記すか迷って、レキシ(レキツ)の興奮冷めやらぬ中の小林大吾。

TempleATSのページではいつまで経っても降神は3rdを作成中だが、
分かっちゃいるがamazonで再度検索する降神。
下のリストに挙げられる小林大吾。
レコ屋に1枚だけあった『詩人の刻印』


― Sleeping Workers ―-shijin no kokuin


手に入れたその次の日は、各曲を3回づつ聴いたものです。
特に"ガーゴイルの言いかけたこと""三角バミューダの大脱走""話咲く種をまく男"は。

週に一度のセンセイの講義(10月から金曜2時間枠だ)の翌日の昼休みは
番組のブログをチェックするのが週課だ(たいてい更新は2日後だ)。
センセイの前のセンセイのHAPPY SADをチェックするのも週課だ。
おや?おや?よく見れば、このロゴは、良くないか?
というより、つい最近似たデザインを目にした気がするが、小林大吾。
世界は狭い世界は狭い。


で、引き続いて『オーディオビジュアル』に針を落としている(比喩だ)わけだが
"ジャグリング"の淡々とした優しさには思わず落涙しそうなほどだ。
詩は口から音にして何ぼだ。グッドミュージックが添えられていれば尚更だ。

― Sleeping Workers ―-audio visual

この日記を読み直した時に、自分のミーハーぶりに気恥ずかしくなるのが目に見えるようで
またそれも楽しい。
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レキシ!レキシ!!レキシ!!!レキツ!!!!レキシ!!!!!レキシ!!!!!!レキシ!!!!!!!レキシ!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!!!!


― Sleeping Workers ―-rekishi ― Sleeping Workers ―-rekitsu

レキシ!!レキシ!!!レキシ!!!!レキシ!!!!!レキシ!!!!!!レキシ!!!!!!!轢死!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!レキシ!!!!!!!!!!レキツ!!!!!!!!!!レキツ!!!!!!!!!!!レキツ!!!!!!!!!!!!レキツ!!!!!!!!!!!!!

呟き

「蓋然性」という言葉が気になってgoogleで検索すると、「蓋然性」と「可能性」を混同して使用しているメディアが多すぎると嘆くどこかの大学教授の コラムを見つけ、ふんふんと読んでいると要するに日本語の乱れについて憤っているわけで、話題は「蓋然性と可能性」から謙称へ移り、「拙著」「拙稿」が拙 い文章ではなく、拙なる私が書いた文章なんだと、ここまでは良い、「愚妻」をmy foolish wifeと訳すのはどういうわけだ、と激しい口吻で語られるのを読み、自分の中にハーテナーを伴う違和感を覚えたので記憶の手引きに従いその?を紐解いていく と、中坊時代の本棚に並んだ安能務訳「封神演義」の土行孫が鄧嬋玉と結婚した後、姜子牙に紹介せよと言われた土行孫は「師父、愚妻(ノイエン)です」と答 えたシーンに行き着いたと思えば、さらにその先に崑崙十二大師をはじめとする仙人たちがお互いを「賢兄」「賢弟」と呼ぶのは何故なのかと飛躍した思考が、結論は、つまり、「愚」と 「賢」は「私(の)(一人称)」と「あなた(の)(二人称)」にかかる謙称と敬称なのですね。なるほどね、たぶんそうだ。