2006-02-05 19:22:08

スラッカンの言説

テーマ:哲学

シャッター祭り

(実家近くのシャッター街 すごいよ)


こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?



俺だってスラッカンのチェゴサングン様のようになりたい!!!



いや、なんでもないです (`Θ´)スルーシテ
                 
↑「チャングムの誓い」欠かさず見ている





2006年がスタートして早いもので1ヶ月以上が経過しました。

ところが私がこれからはじめようとしているのは、やはり正月の話です(笑

くどいようですがお聞き頂ければ幸甚です(`Θ´)





私が毎年足しげく帰省する理由の大きな部分に、古くからの友人に会えるということがあります。

もうすぐ30歳を迎えようとしていますが、この年齢で15年のつきあいがある友人がいるというのは本当に有り難い話。




毎年必ず大晦日の夜になるとやってくる二人の友人は、いつも通り私の実家で年を越します


そもそも「自分の実家にいなくてもいいのか?」という疑問も湧くのですが、もうかれこれ10年くらいこうして我が家で正月を迎えるのが恒例。

どんな話題にでもやたらと切り込みたがる私の父親も、彼らがほどほどに相手をしてくれるので(笑)この日を楽しみにしているようです。





この友人のうちの一人は今でも大学で勉強をしているのですが、何故か毎年必ず違う友人を連れてきては私に会わせてくれています

今年彼が連れてきたのは大学の仲間で、既に結婚している二人の男女でした。


私の友人を含めて彼らは3人とも文学を勉強していて、私は私で海外の文学に興味がありますので、わりと話が合ったりもします。


「風と共に去りぬ」が取り扱う黒人奴隷の問題、いったいどっちが裏でどっちが表なんだろうか・・・とか・・メルヴィルはクジラを魚だと思ってたとか・・

極めてマニアックでアカデミックな話題に花が咲きました(`Θ´)





さて、この大学の仲間夫婦・・・実は彼らは社会的にマイナーな選択をしている興味深い人たちでした。

具体的には、男性が家事を受け持つという・・・つまり主夫ってやつですね。

そんなわけで必然的に料理の話題にもなったりして・・(`Θ´)





今の日本では男性が外で働いて女性が家事を担うというのは多数派の選択だろうと思います。

ところが、少し考えてみると分かることなのですが、これはもともと社会が規定するような範疇の話ではありません。



本当はもっとシンプルですよね。

合理的であったり、当事者がよく話し合って「こっちがいいな」と思う方を採用すりゃいいです。

なんつっても誰にも迷惑がかかりませんので、本来は「どっちでもいい話」だと思っています。



ところが・・・


実際、(いわゆる)一般家庭のモデルケースに合致しない人生は制度的に損をすることがあります。

例えば家族を養っている人は税金が安くなります。また、サラリーマンは非常に優遇された税金の控除を受けることができます。

つまり、そうでない人は別段正当な理由がないのに損をしていると見なすこともできます。



しかし、だからといって「こうあるべき」という話には到底なり得ません。


扶養控除を受けてサラリーマン特別控除を受けることが正義ではありません。
そんなもん、好きなほうを自由に選べばいいだけの話です。





そんなこんなで私たちは「自由ってなんだ」みたいな話をし出したんですね。

私に言わせれば、この主夫になる決断をした彼は極めて自由な人です。





私たちの社会は一定のモデルケースを確かに提示していて・・

男性ならば「大学を出て会社に入って嫁さん貰って年金を貰う」
女性ならば「大学を出て会社に入って寿退社して二人子ども生む」


このモデルケースがあなたにぴったりフィットしていれば選択は楽かもしれません。



ところがこのモデルケースがフィットしていない場合に問題が発生することがあります。

葛藤があるかもしれません。社会が提示する「当たり前」から外れていて、疎外感を感じるかもしれません。人のせいにしたくなるかもしれません。他人にとやかく言われることもあるかもしれません。


だけど本当のところ、社会が提示する「当たり前」のモデルケースなんてものは「所詮一例に過ぎない」ことは誰でも知っています。


誰でも知っているけど・・分かってはいるけど、それでも私たちがそうしたものにとらわれてしまうのは何故でしょうか




私は、自分にたいして制限をかけているのは社会ではなく、自分自身であることのほうが多いのだと考えています。

人と自分が違うことに対して、恐れを抱く必要はありません。

後ろめたく思う必要もありません。




主夫を選択した彼は既存のナラティブ(物語としての自己)に縛られない、極めて勇敢で自由な人なのだと思いました (`Θ´)





ちなみに私、eiさんの受け売りでナラティブとかいう言葉を使っていたらずいぶんカンゲキされました。


「グランドナラティブ知ってる高卒ってフツーじゃねぇ」



(`Θ´)ハハハハハハ ← 一応専門卒なんやけどね




に飛び級出来るとまで言うて下さって・・・誉められ上手の私としては諸手を挙げて喜ぶ他ありません。



興味深い話も沢山聞けたし、なかなか刺激的な出会いでした (`Θ´)




あ、それと申し訳ありませんが、正月の話あと一回させてもらいます(笑

よろしくお願いします。







この日覚えた単語 : 言説 (げんせつ)
 
フーコーさんのディスクールという言葉から来ているようです。私の理解で簡単に申し上げると、思いこみ・・偏見・・既存のイメージ・・みたいなことか?←極めて自信なし

くだんの彼は言説に縛られずに自由な選択を行ったということです。

余り物で料理をしなければならないのに、民が買うことのできない高価な牛乳を使って汁を作ったチャングムは言説に縛られていたのです。←わかったわかった

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2005-11-23 14:00:00

与える人と奪う人

テーマ:哲学

日本刀

こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?




本日は人との関わりについて私なりの思想をお目にかけたいと思います。



人をカテゴリー分けする際は、いろんな切り口でどうにでも複数のグループにまとめることが出来るものだと思います。


背が高い、低い。腕が太い、細い。肌の色が黒い、白い。




外見だけであればそうした分類は可能ですが、内面を考慮すると人の性質は多様ですのでなかなか区切ることが出来なくなるものです。




例えば悪い人、良い人っていうありきたりな分類。


良い悪いという価値観は誰かと比べて初めて成り立つものですから相対的なものです。


身長が高いか低いかというのも同様に相対的な価値基準ですが(誰かと比べて初めて言えることなので)、平均身長などの客観的な指標を使えば誰から見ても納得!の分け方をすることができます。


しかし善し悪しという分類は「誰にとってか」ということが最大の問題になりますので非常に主観的な基準に左右されてしまうでしょう。


善し悪しは「相対的だし主観的」な価値観だと言えます。




優しいか厳しいか、頑張り屋さんか怠け者か。


このように人間の内面を取り扱ったとたんに「相対的で主観的」なものになり、自信を持って「こうだ」と言い切れない曖昧さが現れてしまいます。



そして私たちがそうした曖昧な価値基準の上に立って生きているのも事実だと思います。


「だからこそ難しい」という面が大いにあるのは間違いありません。




私は「相対的で主観的」な現実を仕方が無いことだと思っています。


だったら「絶対的で客観的」なものを追い求めたりしないで、もうそんなもん手放しちまえばいい・・というのが私の考え方。




その代わりに私は「関係」の中で一定の価値基準を持っていたいと思うんです。







世の中には


・Giver(ギバー)


・Taker(テイカー)


の二種類の人が存在していると私は思います。



GiverはGiveする人。つまり与える人です。


満足感や知識を誰かに与えたり、笑いを与えることだってGiverの行為だし、与えるものがプレゼントやお金だっていいと思います。


とにかくなにかを与える人をGiverと定義します。




TakerはTakeする人。つまり取る人です。


Giverが与えた笑いや満足感を受け取ったり、もっと極端な場合は「奪う人」になることもあるでしょう。


ここでは後者の「奪う人」という意味において話を進めたいと思います。




さて私は、世の中にはGiver(与える人)とTaker(奪う人)のみが存在しており、この基準に則って世の中の人を二つに分けられると考えています。



この価値基準は「相対的で主観的」ですが、「相手がいるから成り立つ」という面もあります。


「関係の上ではじめて成り立つ」ものであって、たった一人で奪ったり与えたりすることはできません。






例えば生まれたばかりの赤ん坊は、客観的に見ると完全なTaker(奪う人)です。


まぁ当然よね・・・自分のことすら出来ない存在なわけですから。なんでもかんでもやってもわないといけないし、育てている人は本当に沢山与える必要があります。




しかし、関係の中においては一言で赤ちゃん=Takerとは言い切れない場合があるのです。


私は子育ての経験がありませんが「子どもから教えられることのほうが多い」という意見はよく耳にしますし、私の母も「親は子どもが育てるものだ」と言っています。


赤ちゃんは第三者の客観から見るとTakerですが、親子という「関係」の中にあってはGiverであると言うことが出来るんです。




ブログでなにかを書いている人の多くはGiverだと思います。


それが論文であっても複雑系日記でもダイエット日誌でも、誰かが読んで何かを感じてくれれば・・と思って書いているわけですから、読者との関係においてブロガーはGiver(与える人)です。



ちなみにブログをされていない方でもブログとの関係でGiverたりえるのは言うまでもありません。


誰だって読んで貰いたいと思って書いているわけで、それを満たしてくれる人はブロガーにとってはGiver。つまり読んでくれる人はブロガーに与えています


つい先日もブログを書いていらっしゃらないけどブログで知り合った友達から衝撃的な品物が届きました。これはまた記事にしますが、その方は明確にGiverです。






ブログにおけるTaker(奪う人)の例をいくつか申し上げると、例えば最近やたらめったら飛んで来るエロTBなどがそうです。


そんな腐れた方法じゃないと商売できねぇならやめちまえ!と思いますし、彼らは私に何一つ与えることが出来ていません。


私のブログにたまたま訪れた人からいくばくかのアクセスを稼ぐ目的でやっているわけで、そういう意味で彼らは完全なTaker(奪う人)です。



また、たいして読んでもないくせに


「すばらしいブログですね。お互い更新がんばりましょう。是非僕のところにも来てくださいねー」


とかいうコピペ読者登録もTakerです。どこがすばらしか言ってみろ。

私はこういうのは非公開にしています(笑






誤解のないように申し上げますが「受け取る」ことが悪いと言っているのではありません。


与える人と受け取る人は瞬間的にはパチパチと入れ替わっている状態で、水が水蒸気になったり氷になったりするのと同じように、人間にとっては一種の状態変化だと考えています。


たとえば誰かと二時間くらい話をするだけで10回くらいは与えたり与えられたり・・切り替わりながら時間は過ぎてゆきます。



そうではなくて、私が論点にしたいのは奪うことクレクレ行為


Takerは奪うばかりで与えることが出来ません。







私は誰かとの関係において、自分がどのような貢献ができるのかを常に意識したいと思っています。


誰との関係においてもなーーんにも与えることが出来ない人が生きていけると思えない。私だったら自分のことが嫌いになってしまいます。



家庭で料理を作ったり、職場でお金を稼いだり、笑える話をしてみたり、誰かの相談に乗ったり、誰かの労をねぎらったり誕生日をお祝いしたり・・・。




そうしたことを一切行わないで、生きていくことが出来るのか?


私だったら自分なんていてもいなくてもいい存在だと思うだろうな。





こうしたことを意識しているからこそ私たちは誰かの役に立ちたいと思うわけですし、なにかを受け取ったときは有り難いと思えるし、純粋にお返しをしたいと思うことが出来るのでしょう。









私は自分がGiverでありたいと思っています。


常に与える人なんて存在しないと思いますが、かといって逆に自分が受け取ってばかりだとストレスになる(`Θ´)




自分が存在する意義を見出すために私はGiverでありたい。


つまりは結局自分のため・・というところに落ち着きます。




また、私にとっての良好な関係というのは、お互いがGiverであるような状態です。


私も与えて、そして相手も私に与えてくれる。



人は寄る辺のない自分の存在意義を見出すために、与えて与えられて、より掛かり合って生きていくものかもしれません。



だってほら人という字は・・(略




私が誰かになにかを与えた場合、実は私も「生きる価値」与えてもらっていると思うんです。


こうしたGive-Giveの関係は私にとって非常に重要ですし、大切にしたいと心から思います。





「客観的で絶対的」なものを手放すと、必然的に誰かとの関係の中でしか価値を見いだせなくなるものでしょう。


しかし私はそれこそが、無駄にでかい脳みそを持った私たちにとって、唯一の生きる道だと思います。(`Θ´)



私は自分がGiverでありたいと思います。

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2005-10-14 13:00:00

「当たり前」の妥当性

テーマ:哲学

おいおい

こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?




昨日は彼女と二人で、いつも仲良くして下さっている海さん をお見送りするために成田に行ってきました。


5時間以上にわたってほぼノンストップでしゃべり続ける我々・・



恐らく私は男性の中ではトップランカーのおしゃべりだと思います。



それこそ10年来の友人達とも平気で6時間とかしゃべることが出来る・・・20代前半までは24時間ぶっ続けでしゃべり続けたことが何度もあるんです。男3人とかで(笑



「もしかして俺たち24時間しゃべりよった?」


「あ・・そろそろ帰るか」




自分の好きな人と会うときは、時間がどれだけあっても充分ということはありません。


そして話のネタが尽きるということもまぁ、経験がない(笑




昨日はアメリカっていったいどんな国なんだ?っていうことをかなり具体例を交えて教えてもらって、彼女と二人で理想国家の一旦をかいま見たような体験をしました。


あ、もちろん課題もあるようですが。




公務員でもクビが存在することを知って驚く私たち・・(笑


この時点でかなり日本的な思想・・・「当たり前」ということに毒されているのがよく分かります。



最初にこの話を聞いたとき、意味が分かりませんでしたから。



(`Θ´)(‘Θ‘) 「クビって、誰が?」


みたいな。



私は常々「一度なってしまったらもう安泰」なんていう商売はクサレてしまう運命にあると考えています。


公務員に現時点でクビがないのもそうですが、免許の更新がない医者とか、ある種の下請け会社などもこれに含まれます。



で、これはズバリ!システムのせいなんですね。


ちゃんと評価される場があれば誰だってもっと懸命に貢献しようとしますし、逆に評価されるシステムがなければ誰も頑張ろうとしません。合い見積もりや入札など、市場原理に晒されない下請け会社がいい加減な仕事をするのは当然のことだと思います。




だから、その中にいる人達を一方的に責めることは出来ません。


こんな思想を持っている私であっても、同じ立場に立てば場に流されて・・つまり適応してしまう可能性は極めて高いのです。



逆にそうした環境で全力を尽くして仕事をしている方々の勇気はすばらしいと思います。


頑張る人にとっても、頑張らない人にとっても、そうした「安泰」という環境は悪い方向に作用することのほうが圧倒的に多いと考えています。





システムに難があると常々考えている私・・・


そんな私でさえ公務員とクビとが脳の中で繋がるまでに時間を要しました。シナプスが途絶えています




私たちは本当に「当たり前」にとても縛られて生きているのだと思います。


それは十把一絡げに悪いことと言うことも出来なければ、完全に善いこととするのもまた無理があるでしょう。






例えば世界ふしぎ発見のパネラーとして名高い野々村真は、常に本気なのか冗談なのかにわかに判断しかねる珍回答でお茶の間を湧かせ、視聴者の優越感をほどよく刺激する憎めない人物です。


彼はすべてのヒトシ君人形を没収されるのが当たり前。

デフォルトでボッシュート。



しかし私は彼がパーフェクトを達成し、優勝する姿を一度だけテレビで見たことがあります。


あのときは番組始まって以来だと言っていましたが、その後ももうないだろうと思ってしまいます。




しかし野々村真が常にオケラ状態であるという「当たり前」は、時として通用しないことがあるのです。


野々村真は良い物を見せてくれました。


私はテレビの前で拍手喝采し、彼の姿を見て不覚にもウルっときちゃった。





私たちが当たり前だと認識していることが、いかに不安定で不確かなものであるか・・・なんだか話の内容に飛躍があるように思われるかもしれませんが、それは気のせいです。




文化の違うところで生活されている方の話はなおのこと、誰とお会いしても少なからず多少は「当たり前」の違いが存在します。


私は自分の当たり前を覆されることに対して喜悦を感じるタイプの人間なのかもしれません。





昨日は海さんと沢山お話をさせて頂き、日本がいかに伝統的な封建社会のに成り立っているかということを痛感しました。


フツーだろ!?って思っていたことも、そうやって言われてみたら確かにちょっと変だな・・みたいな感じ。


良い部分もあるけど、勇敢になりきれずに変化を恐れて後回しにしていることも沢山あるんだなぁ・・・



ドナルドがバーガーキングに行ったっていいじゃないか!


本当にそんなことがあったら、私はドナルドの変化を恐れない勇気を賞賛したい!



そんなことを考える昼下がりでした(`Θ´)

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2005-09-10 13:50:00

私にとっての分かち合う技術 その2

テーマ:哲学

労働2

こんにちは。複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?



本日は昨日 の続きで私にとっての「分かち合う技術」についてお話させていただきます。


技術なんていうと非常に偉そうですが、単純に今の私が使っている方法論をご紹介したいという程度です。




昨日お話した私なりの結論は、



・真の客観は存在しない。


・第三者の意見はそれ相応の重さで取り扱えばいい。



この二点に集約されます。



以前の私は客観的な視点を重視したいと思っていたのですが、それだと当事者間の歩み寄りをする上でははなかなか解決には繋がりませんでした。


私の場合は特に客観を振りかざすような行為で相手と対峙してしまうことが多かったんですね。


例えば「だけど一般的には」とか「あなたはそう言うけど客観的にはさ」とか・・・こうした言葉は相手の方向性を修正しようという試みですが、建設的な場合ならまだしも私は利害の相反でこのような論理を使っていました。



実はこれを行うと、相手と自分の距離はますます離れていく場合が多いのです。




私は必ずしも誰とでも仲良くしようとは思っていません。


しかし自分の好きな人を「一般的」だとか「客観的」という言葉で傷つけたくない・・・今はそう思っています。




では今の私がどのようにして利害の不一致を解決しているかというと、それは


分かち合い


です。



お互い理解し合う・・というのとは私の中では微妙にニュアンスが違っていますが、相手の事情をよく把握するという意味においては似たようなものです。


そしてもう一つとても重要なのが、こちらの事情を相手にしっかりと伝えるということ



相手のことばかり考えていては分かち合うことになりません。私はあくまでも分け合うことを大事にしています。








さきほど「理解し合う」と「分かち合う」はニュアンスが異なると申し上げました。



理解というのはあくまでも自分を中心にした行為だと思っています。



あ、ちなみに私は自己中心的であることを悪いことだと思いません。

だって世の中、自分を中心にしないでどこを中心にするんだ?みたいな(笑


グリニッジ中心主義とか仰る方がいたら恐いです。(`Θ´)



自分を中心にして理解しあうことは可能だとしても、分かち合うためにはそれでは少し足りません




私にとっての分かち合うという言葉の意味は、一瞬だけものごとの中心を相手に移すことを言います。


この一瞬というのがミソです。







昨日に引き続き話が漠然としてきたので具体的な例で説明させていただくと・・・





 現在トイレの中で踏ん張っている(10分経過)


 今すぐトイレに行かなければヤバイ(リーチ)


コピペ(笑



ちなみに昨日は「母 それを見ている」と最後に書いていましたが、当事者間での問題解決を題材としていますので母は登場する必要がありません。




さて、は当然ながらトイレのドアをどんどんと叩きます。非常に深刻な事態ですので。


この時のの行動は極めて自分を中心に据えたものだと思います。ああああああ・・うまれる・・・・うまれる・・・


「はやく出てきやがれこの長グソオヤジ!!」


このくらい言うたとしても不思議ではありません。




どんなに優しい人であったとしても、この瞬間に修羅の世界に転落してしまうのは無理からぬこと。

鬼の形相となりすべての目に入るものはうんこと化します。



恐らくこの状況をリアルに想像できない人はいないのではないでしょうか。誰しもトイレに困った経験をお持ちだと思います。





一方でと比較してわりと優位で余裕のある立場であることは明確でしょう。


ところがにもの都合があり、タイミングによっては中断が非常に困難であることも事実です。

出てこいと言われたからといって出てこれるものではない・・・まだ出てきてないから出てこれない・・・これもまた誰もがリアルに想像できるのではないでしょうか。



この両者は極めて切迫した都合を抱えており、おいそれと相手の言う通りにすることは出来ません。


この状況で相手のことを優先しすぎると災害が起こります。







じゃあ、もし私だったらどうするか。



もし私が父であったとしたら、恐らく


「どのくらい待てる?」


ってまず聞くと思います。まずは基本的な相手の状況を理解することから始めます。


そして十分に状況を把握したら、今度は私の抱えている状況を相手に理解してもらいます



お互いの状況を理解し合った上で、ここから分かち合いの作業が始まります。




ものごとの中心を子(相手)に移動してみるんです。




「相手がどう思っているかな、どう感じているかな」というのとは違います。そうではなくて


「私だったらどう感じるかな」


という方向で考えてみるんです。



考えるという言葉には語弊がある・・・感じるという言葉が適切です。








私は人間のちょっとした表情を読み取るのが結構得意です。


少しの動作が多くを語る場合があるということは、とりたてて言うまでもありません。




ではあなたが相手の表情を読み取るときに「この人いったい何を感じているんだろう?」っていう風に考えるでしょうか?



恐らくそうではないと思います。


その方法はあくまでも自分を中心としたものであって、これも大事だと思うけど、それだけではなかなか本当のところに気づくことは出来ないと思います。




そうではなくて私の場合、相手の表情を読み取るときに


私がこの表情をする瞬間ってどんな時だろう


という方向で感じているのです。




「自分だったら」と感じることが、私が考える「分かち合い」の第一歩なんです。





ちょっとした相手の変化を敏感に察知するために、私たちは日常的に分かち合うという行動をとっています。


そうした能力を使うことによって相手になりきり、相手の事情を一旦自分のものとする・・・・


そして相手にも同じように、私がどんな状況であるかを感じて貰う努力をします。





有り体に言うと、これは「感情移入」という言葉に近いだろうと思うんですよね。


こう言われてどのくらい悲しいかな、自分だったらどんなに嬉しいかな、辛いかな・・・





相手をよく知っていれば、その人の性質に従って特定の感情をブーストしたり減らしたりも出来ます。


例えば、この人は恐がりだから私が感じているよりもっと恐いだろうな・・とか、この人は心配性だから私が感じている以上にもっともっと心配だろうな・・とか。



相手になりきることも相手の性質を考慮することも、旺盛なイマジネーションを求められる大変な作業です。





自分を中心に物を考えるのは悪いことではないと思いますが、お互いが気持ちよく歩み寄ろうとした場合は想像力を働かせて


一瞬だけ相手の立場になりきる


ことが大事だと考えています。






これをしないと簡単に人を傷つけてしまったり、逆に相手のことを異常に甘やかしたりしてしまうのだと思うんです。


(特にこの「甘やかす」という点においては、感情移入に手加減を加えているせいだと思っていますが、これはまた別の機会にお話させてください)






もしも相手になりきることが出来なかったとしたら、それはもしかすると情報が不足しているのかもしれません。


「この人がどうしてそういうことを言っているのか」が感覚的に納得できない場合、私は沢山質問をします。






以前は「あなたはそう言うけど客観的にはさ」という言葉を多く使っていた私ですが、こういうことを考えてからは


「じゃあ、あなたはどうしたいの?」


っていう言葉をよく使うようになりました。


人から見てどうか?という話ではなくて、相手のことにちゃんと興味を持てるようになったのだと思います。






人間はたった二時間の映画で泣くことが出来るんです。


十分な情報が得られさえすれば、目の前の相手がどんな風に感じているか分からないはずはありません。




そんなわけで、私は相手と利害が相反したときは特に、分かち合うことを大切にしたいと思っています。






とか言っていますが・・・自分が完璧にそれを出来ているかどうかと言われると、決してそんなことはありません。


気のゆるみが自分の好きな人を傷つけてしまう場合が多々あります。また、そのことに私が気づいていない場合もあると思います。




また


対面>電話>文字(ブログとかメール)


という順番で情報量は格段に減っていきますので、特にメールやブログのコミュニケーションは私にとって課題山積の世界・・・


だからこそ面白いっていう面もあります(`Θ´)

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2005-09-09 13:15:00

私にとっての分かち合う技術

テーマ:哲学

労働 こんにちは。久しぶりにイラストを描いたけど昨日、一昨日と髪の毛を描くのをすっかり忘れていた複雑系自営業者のコンプレクソロジストです。ごきげんいかが?



今日は私なりの「主観・客観」に対する考え方をまとめてみたいと思います・・・まとまるかな(笑



私はあまり「自分は!!自分は!!」と言う人間になりたくないと思っています。


自分の意見を主張することは大事だと思いますが、反面で相手の都合を斟酌(しんしゃく)する度量を持たないと単なる利己主義に陥る危険性があるからです。



自分の都合を振りかざす度が過ぎれば、そこには分かち合いが存在しません。



互いの都合を分け合って、なるべくなら双方が納得できる方法論を採用することを大切にしたいのです。




表現方法は多少違うかもしれませんが、恐らく多くの方が私と同じように考えておいでではないでしょうか。


押しつけたくない、利己的になりたくない、しかし自分を失いたくない。



人が二人以上集まると、なかなかバランス感覚を求められるものだと思います。







お互いが「分かち合う」ことに尽力しない場合、その先に待っている結果はわりと明確に予想出来ます。


・ 論破されて屈服する

・ 立ち去る

・ 腕ずくで解決する



このくらいしかないんじゃないでしょうか。



しかしお互い「分かち合おう」とすることによって選択肢は無限に増えます


意見を分かち合って痛みを分かち合って、お互いが納得できるルートをさぐる・・・これは社会に所属している我々が当然のように行っていることだと思います。




そうした円滑で平和な社会を構築するために必要なもの・・・それは


客観的なものの見方


だと私は思っていました。



AとBの利害が相反していてお互い一歩も譲らない場合に、Cの意見が必要だと思っていた。




私は自分の中にCを設定し、他の誰かが我々(AとB)のことを見たらどう思うだろう、どちらが正しいと言うだろう・・そう考えて解決の道を探っていたのです。



AとBは対立した主観を持っており、私はそこにCという客観を設けて正しい判断を導く努力をしていました。




【主観 しゅかん】

(2)自分ひとりだけの考え。

「―だけで言うのは困る」

⇔客観



【客観 きゃっかん】

(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。

⇔主観





どのくらい前か覚えていませんが、私はそれまで採っていた「問題解決のために客観を設定する」という解決方法があんまりナイスではないということに気づきました。




なぜなら、私が設定しているCはあくまでもCの主観で物を言うはずだからです。






ちょっとややこしい話になってきましたので例を示します。



 現在トイレの中で踏ん張っている(10分経過)


 今すぐトイレに行かなければヤバイ(リーチ)


 それを見ている




父と子の利害が相反していることは明確だと思います。


そして現時点で父は子よりも強い立場であると言えるでしょう。トイレは鍵がありますし、その気になればいくらでも立てこもることが可能です。



以前の私はここで客観としての母の意見を尊重するということを行っていました。



「お父さん、もうだいたいひねり出したでしょ?そろそろ代わってあげなさいよ」



と、まぁこうなるわけですね。


ところがこの母の意見が妥当であると担保することは出来ません



なぜなら、これはあくまでも母の主観だからです。


ややこしい言い方をすると、客体の主観・・・



第三者の主観が当事者(父と子)の利害相反を解決する良い手だてになるかどうかは場合によると思います。


ナイスなときもあれば、そうでないときもある。



つまり客観なんていうものは、そもそもたいした価値がないと思うんです。






データとして客観的なものが存在するじゃないか!という反論がおありかもしれません。


しかし多くの場合、客観と呼ばれているものは


主観の集合


でしかあり得ないと考えています。




例えば小泉さんの支持率は客観的なデータのように見えますが、一つ一つの要素は主観の集合であって社会全体の傾向を表しているにすぎません。

どっちがどのくらい多いか程度の意味しか持たず、妥当かどうか判断する材料にはならないと思うんです。




さきほどご紹介した客観という言葉の意味の冒頭に


特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。


という部分がありますが、特定の認識作用を超えたものの見方・・というのは言葉そのものが矛盾しているように感じられます。




そのような考察から、私は今現在の結論として



真の客観なんてものは存在しない



という風に考えています。




私が客観という言葉を使うのはもう一つの意味である


主観から独立して存在するもの。


を示す場合に限っています。


しかもこの場合でも第三者の主観でしかあり得ないので、単純に「当事者から独立している」に過ぎません。


さきほどの例で申し上げれば「母の意見」は「第三者の意見」として参考にしてもいい・・その程度であって、ことさら重く扱うような・・・例えば当事者の意見より重大に扱うような価値はないと考えています。





で私の思想をまとめると




真の客観は存在しない。


第三者の意見はそれ相応の重さで取り扱えばいい。




という2点に集約されます。



それでは、客観を必要以上に重視しなくなった私が現在どのように分かち合いを行っているのか、明日はその点についてお話させていただきます。

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