万年野党待望論
453・お別れブログ(12)
要するに、これが日本の社会なんだな、と思った。
声の大きな者の言うことが通る。弱者は追われる。政治が弱者を救うことができない。
三年間、ブログを続けてきたが、民主党の政権交代で、日本の社会はいくらかでもよくなったのだろうか。自民政権よりはましだと言う政治を期待しながら、このブログを終わるにあたって、「万年野党」の意味をあらためて確認しておきたい。
それは「常に政権の外にいて、永久に政治を監視し続ける政党」のことだ。国民がその気になれば、そういう議員を育て、そういう政党を拡大していくことができる。その万年野党は勢力を拡大することによって、常に「まだまし政権」を選択し、「まだまし総理」の選出に決定権を行使することができるようになるだろう。
そのような「万年野党」は、常に政権の外にいるということで、常に国民の利益を最高の行動原理にすることができる。もしも国民の利益に反するようなことがあれば、国民から見放されるだけのことだ。
今年の一月、アメリカの大手格付け会社スタンダード・アンド・プアーズが、日本国債格付けを一段階引き下げたが、政治の世界でもこういうことができるはずだ。ただし、よその国のことをとやかく言うのはよくないから、国内のことだけに限り、政党がどれだけ国民の利益のために活動しているかを具体的に評価していく。
そういうことを続けていけば、政治も、少しはまともに機能していくようになるだろう。それを万年野党の主たる活動としていけば、日本は少しずつでも住みやすい国になっていくに違いない。
私は現在の政党の中で、共産党ならそういうことができるのではないかと思っているが、今のところは、あまり期待ができない。
共産党が政権をとろうとすることは大きな間違いだということが、彼らにはわかっていない。毛沢東はその最も優れた著作である「矛盾論」の中で、「すべての事物は矛盾を含んでいて、矛盾を含まない事物は存在しない」といい、さらに、「事物の発展や運動はその矛盾を解決するプロセスである」といっている。
これを国家にあてはめれば、「国家は支配者と民衆との矛盾対立で成り立っている」のであり、したがって政権をとると言うことは、明らかに民衆と対立する側に立つことになる。そのことは歴史が証明しているのに、世界中の共産主義者がそのことを理解していないのは、不思議というのほかはない。
でも、コミュニズムがだめでも、チュニジアやエジプトで成功した革命のように、新しい民衆の力が、武力や権力でなくコミュニケーションという連帯の力で、三権分立ではなく「永久野党」による「監察権」を加えた「四権分立」を政治システムに取り入れた、新しいタイプの民主国家を作っていくという可能性はあるだろう。
未来に期待してこのブログを閉じることにします。 2011年9月
小路保来 このペンネームの読み方は、こみち・やすき または、 コロボックル