アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第6回目です。「自分を責めないで」

P56で、青年が「トラウマなど存在しないし、環境なんか関係ない。何もかもが身から出た錆なのであって、お前の不幸は全てお前のせいだ。」と断罪された気になる、と言っていますが、

アドラー心理学に、本人を責めたり、断罪したりする意図は全くありませんし、勇気づけに始まって勇気づけに終わる心理学なので、逆に「自分を責める必要はないよ」と語りかけます。

トラウマと人々が呼ぶような記憶がないと言っているのではなく、「トラウマに残るような経験」が原因だという決定論を否定しているだけです。でも経験の影響までも否定していませんし、環境も「関係ない」とまでは思っていません。

環境の影響はあると思っています。だからこその「やわらかい決定論」なのです。

ましてや、子どもの頃は環境に対して比較的無力な場合が多く、「ライフスタイルはお前が子どもの頃選択したのだから、お前が悪い」だなんて、これっぽっちも思っていません。

むしろ、子どもの頃、生育環境を目の前にして、そういうライフスタイルを選択・決定したのは仕方ないと思っています。

だから、どんなライフスタイルを選択してきたとしても、あなたは自分を責める必要はないのです。

でも、自分で選択・決定したのだから、「今から」変えて行くことが出来るよ。という未来への希望を語っているのです。

人間の自由選択と自己決定を重視する、つまり自己責任だと思っているのです。

自己責任の責任という言葉の意味を、日本人は悪いから責めることだと勘違いしているようですが、「責任」という言葉は「responsibility」の翻訳語で、悪いから責めるというニュアンスは全くありません。

責任は、本来「自由に反応し続ける」という意味なのです。あなたは自由に反応し続けることが出来て、今からライフスタイルを変えて、幸せになっていくことが出来るよと言っているのです。

だから、哲人は、「今ここ」で決まると言っているのです。過去などもう無いのだから。

自分を責めないで。

今の自分を受け入れましょう。

そして、未来に向かって、「今ここ」から、ライフスタイルを変えて行こうと希望に向かいましょう。

あなたならできます。

私たちはそう思っています。

引用元:本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説6 自分を責めないで

 

本郷ひろなかのカウンセリングを受けて、未来の希望に向かいませんか?

熊本こころ相談室

 

AD

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第5回目です。 ライフスタイルを変える

さて、哲人と青年の話は、怒りの話、感情の話から、ニヒリズムの話になっていくのですが、

アドラー心理学ほどニヒリズムからかけ離れているものはないでしょう。

だって「たとえ不治の病になっても、死ぬまでの時間を嘆き悲しんで無駄に過ごすこともできれば、明るく周囲の人々に感謝して、家族や友人たちと他の良く過ごすこともできる。」と主張するくらいですから。

感情だって、否定しているわけではなくて、私たちは感情をコントロールできるし、怒りのような不幸な感情を使う癖を直して、親密な感情や穏やかな感情のような幸せになれる感情を使う癖を身につけましょう。と主張しているだけなのですから。

私本郷ひろなかのお師匠様であるジョセフ・ペルグリーノ博士と何度もお会いして親しく話させていただいて、すごいなと思ったのが、ペルグリーノ博士が、一度も不機嫌になられないことでした。

いつでもユーモアたっぷりで、機嫌良くて、温かくわれわれの話を聞いてくれました。

で、一度博士に聞いたのです。「ジョセフは、生まれつきそうなの?」と。

すると博士は、「とんでもない。私は、たくさん努力して、こういうライフスタイルを作り上げたんだよ。ヒロも自分の理想的なライフスタイルにすることが出来るよ。」と。

そうなのです。人生なんていつでも変えられる。性格だっていつでも変えられると考えている時点で、ニヒリズムの対局なのです。

原因論で考え、過去に決定されていると考えるから、ニヒリズム的になっていくのです。

自分の自由意思、決定権を信じましょう。

「大切なのは何が与えられてるかではなく、与えられたものをどう使うかである」アルフレッド・アドラー

「何が与えられているか」に執着すると、遺伝や過去や環境に支配されてしまいます。自分の自由意思は使わないということになります。

でも、実は子どもの頃(哲人は10歳前後と言っています)に、自分の自由意思で「ライフスタイル」=「意味づけの方程式」を選択したのだ。自分で決めたのだ。ということに気づくと、

じゃあ。自分で決めたんだから、決めなおすことが出来る。選択しなおすことが出来る。ということになっていきます。

子どもは、遺伝の影響や、目の前に繰り広げられる生育環境を前にして、自分ていうのはこういう存在なんだ(自己概念)とか、人間(他者)っていうのはこういう存在なんだ、だからこの世はこんなところなんだ(世界観)とか、だから、私はこうなりたい(自己理想)という思い込み=意味づけを選択します。

そして、この思い込み=意味づけをもとに人生を生きて行く作戦を立てるようになります。

これが、その人のライフスタイルになります。

子どもの頃ですから、環境などの影響を大きく受けて思い込みを選択するでしょう。遺伝や環境の影響を否定しないのです。だから、アドラー心理学のこの考え方を柔らかい決定論と言うのです。

さあ。多くの人は、子どもの頃選択したライフスタイルを変えたがりません。むしろ、積極的に維持しようとします。大きな抵抗感を感じるのです。

ライフスタイルを変えるとはどういうことか?それは未知の人生を歩むことなのです。真っ暗な洞窟を歩いて奥に進むようなものです。

それよりも、人は、慣れ親しんだいばらの道を歩くことを選択するのです。

子どもの頃選択したライフスタイルを使えばどうなるかは嫌というほど経験しています。とても慣れ親しんだ道なのです。

その慣れ親しんだ道を歩くことを捨てて、勇気をもって未知なる洞窟の奥に進みませんか?そこに幸せがありますよ。

と私たちアドレリアンは提案するのです。

引用元:本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説5 ライフスタイルを変える・・・

 

勇気をもって本郷ひろなかのカウンセリング(対面・電話)を受けてみませんか?

熊本こころ相談室

AD

本郷ひろなかの「アドラー心理学を生きる」第12回です。

今回は、アドラー心理学がしっかりと私にしみわたる前、うつになっていたことを書きます。かなり恥ずかしい過去を書きます。

アドラー心理学を生きる1
アドラー心理学を生きる2
アドラー心理学を生きる3
アドラー心理学を生きる4
アドラー心理学を生きる5
アドラー心理学を生きる6
アドラー心理学を生きる7
アドラー心理学を生きる8
アドラー心理学を生きる9
アドラー心理学を生きる10
アドラー心理学を生きる11

20代の頃、初めてのクラス担任をし始めた頃、最初のうつ状態になりました。当時は、自分がうつ状態になっているという自覚がありませんでした。

中学校でクラス担任を始めたのですが、まったくうまく行きませんでした。

もうあまり覚えていませんが、生徒相手に、かんしゃくを起こして叱ったり、自分のことを延々と威張ったり、比較して比べたり、生徒との約束を破ったりしていましたから、そりゃ、生徒にしてみたら、嫌な先生だったに違いありません。

男子生徒とはまだましだったのですが、女子生徒たちから総スカンを食らってしまいました。無視されたり、言うことを聞いてくれなくなりました。

それに、同僚の先生たちとのコミュニケーションも下手で、同僚の先生に対して感情的になることもあったし、事務的な仕事も滞るようになった来ました。まあ、事務的な仕事が滞るようになったのには、うつ状態の影響もあったと思うのですが、事務的な仕事をきっちりと仕上げること自体がもともと苦手でした。

生徒たちからの悪評と、PTAの事務的仕事を滞らせたことと、それを責任転嫁したこと、部活の大会参加の手続きでいくつかの大失敗をしてしまったこともあって、保護者からの評判も最悪になって、気の強い保護者は、直接文句を言ってきたり、「クラス担任から外れろ」というような圧力もありました。

すごいストレスを感じるようになった私は、うつになっていきました。

まず、夜寝れなくなりました。大量の飲酒をして寝るようになりました。それでも朝早く目が覚めました。

食事が味がしなくなりました。砂を食べているようで、一か月で12,3kgも体重が一気に減りました。

仕事の約束をすっかり忘れたり、友人との約束も忘れて反故にしたり、業者に「きょう店に来ますね。」と約束していたのに、すっかり忘れて家に帰ってビールを飲んでいたり、

覚えているけど、引き延ばしをしたではなくて、まったく意識になくなって、忘れて反故にしていました。

私の意見に過ぎないのですが、うつ病という病気はないと思っていますので、過ストレス状態で、処理が出来なくなる状態にして、その過ストレスから逃げようとしていたのだと思います。

何とか克服できたのは、のちに妻となる人との出会いと、病院に行って薬を飲んだりしなかったことと、同僚の仲間の助けがあったことでした。やはり、仲間は大事です。

のちに妻となる人は、私の話を色々と聞いてくれて、共感してくれて、「あなたは大丈夫よ。」と言ってくれました。

そのクラスを次の年は担任させないような圧力があったのですが、色々と相談していた年配の学年主任の先生が「担任は頑張っている。次の担任も本郷先生でないとダメだ。」と全力でかばってくれました。

違う学年を担任していた同僚は、私の持っていたクラスの次の学年の候補にされていたのですが、この同僚も、「本郷先生は頑張っている。次も本郷先生が担任すべきだ。」とかばってくれました。

そのおかげで、次の年も担任を持ちました。

私が担任になったことで「担任おろし」の圧力が弱まったこともあって、私自身も新学年で心機一転頑張ろうという気になって、うつは一気に解消したのでした。

共感して「大丈夫よ」と言ってあげることや「本郷先生は頑張っている。次の担任も本郷先生でないとダメだ。」というように、ありのままに認めてあげることを、アドラー心理学は「勇気づけ」と呼びます。

実は、アドラー心理学は勇気づけに始まって、勇気づけに終わるくらい、勇気づけの心理学なのですが、

まだ、私は、アドラー心理学は学んでいなかったのですが、妻と、同僚の勇気づけによって救われたのです。

しかし、追い込まれるとうつ状態になるというのは私の良くやる作戦だったらしく、その後もうつ状態になりました。なぜなら、妻と同僚たちの勇気づけのおかげと、圧力がなくなったおかげで、うつ状態は脱しましたが、「ライフスタイル」(人生のシナリオ、人生のプログラムのようなもの)はそのままだったのですから。

続く

引用元:本郷ひろなかの「アドラー心理学を生きる」12 私がうつ状態だ・・・

 

本郷ひろなかのアドラーカウンセリング(対面・電話)で人生のシナリオを変える

熊本こころ相談室

AD

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第4回目です。

「人は怒りを捏造する」なんとまあ、扇情的な言い回しでしょう。

「トラウマは、存在しない」もそうですが、物語の中に引き込ませるために、わざと扇情的な言い回しを使っているようです。

批判しているわけではありません。「嫌われる勇気」(ダイヤモンド社)のおかげで、人びとはアドラー心理学に目を向けてくれたのですから。

ただ、青年が主張するように、「感情というものが衝動としてどうしようもなく噴き上げてくるものだ。」という説は、アドラー心理学は明確に否定します。

「本能的衝動」や「感情」が吹きあがってきて、なんとかそれを「理性」で抑えようとして、うまく抑えられるときもあれば、抑えられなくて行動に出る時もある。

世間の人は、このように理解しているのではないでしょうか?

これは、言葉は「イド」「エゴ」「スーパーエゴ」などの言葉を使いますが、フロイト精神分析的な、人間の精神はいくつかの部品で出来ていて、構造を作っている、そして部品同士で葛藤していて、葛藤の結果行動として現れるという考え方とよく似ています。

アドラー心理学は、人の精神がいくつかの部品で出来ていて、それらが独自の動きをして、ぶつかり合って葛藤を起こすという説を明確に否定します。

アドラーは、フロイトと一緒にやっていた「精神分析学会」の会長を辞して(アドラーが会長をしていたのです。)、

仲間たちと脱退して、新しく作った自分たちの心理学の名前を「indevidual psychology インディヴィデュアル心理学」と付けました。

直訳しちゃうと個人心理学なのですが、「indevidualインディヴィデュアル」という言葉には、「分割できない」という意味を持っているので、個人心理学という訳語はちょっと不適切だと私は思っています。

つまり、アドラーは、人の精神は部分や部品に分かれてなんかいなくて、ひとまとまりになって、機能していると主張したのです。

だから、感情もある相手役に対して何らかの目的をもって、作って使うと考えています。

お母さんが、宿題をしない子どもに怒って「早く宿題をしなさい。」と怒鳴っていたとしたら、そのお母さんは、子どもに支配的に宿題をさせるために、怒りを作り出して、怒って怒鳴っている と解釈します。

自分の主観的な意味づけの中での理想的な異性が表れて、その異性に近づきたいなあという目的(意図)を持ったら、「好き」という感情を作り出し、「好き」という感情をエネルギーに積極的な行動に出ていきます。

理想的だと思っていた異性が、とても幻滅するような行動や態度を見せたので、この人から離れたいなという目的(意図)を持ったら、「嫌い」「嫌悪感」という感情を作り出して、その感情をエネルギーに離れていきます。

狭い路地を歩いていて、向こうからやくざ屋さんかな?と思えるような雰囲気の男が三人横になって歩いてきたら、自分の安全を確保したいという目的を持ったら、「怖い」という感情を作り出し、横道に逃げていきます。

このように、私たちは瞬間的に感情を作り出して使ったり、あるいは我慢したりします。(相手に怒りを感じても我慢する人は多いものです。でも、この場合も自分が怒りを作り出しています。)

しかし、その感情の前に私たちは、ある意図=目的をもっています。瞬間的だから気づいていないだけです。

この青年の例もそうです。

コーヒーをこぼしたウエイターに対して「怒鳴って懲らしめたい」という意図=目的をもって、怒りを作り出して、怒鳴ったのです。

瞬間的に作り出すので、衝動として噴き出すように感じる人がいるのは、分かりますが、間違っています。

感情は出し入れ可能な道具だし、自分のライフスタイルでやっているいつもの作戦を変えて、アドラー派のカウンセラーやSMILE勇気づけの親子・人間関係セミナーのようなアドラー心理学のプログラム学習コースから習った新しい作戦を使うと、

怒りじゃない穏やかな感情を使えるようになります。

例えば、大事な電話をしていたら、自分の子どもが横で大騒ぎするので、電話が聞こえないので、「うるさい。そんなに騒ぐと大事な電話が聞こえないだろ。黙ってろ。」と怒っていた人が、

大騒ぎをしている子どもに、「今、パパは大事な話を電話でしてるんだけど、キミにそこで騒がれるととても困るんだ。しばらく静かにするか、離れたところで遊んでくれないかな?」と理由を説明して、穏やかにお願いするように、行動変容することが出来ます。

これは、感情が相手役に対して、ある目的をもって、自分が創り出している道具だ。と主観的な意味づけを変えるから、

新しい作戦を学んで使えるようになるわけです。

目的論で考えると、混沌がこのようにシンプルに整理されてきます。

私本郷ひろなかのようなアドラー派のカウンセラーは、クライエントさんの認知=意味づけが、幸せな意味づけになるように援助するのです。

引用元:本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説4 人は怒りを捏造する

 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室

本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第3回です。

 

哲人が、原因論で考えるから「人は変われない」ということになってしまうのだ。と言います。

原因論というのは、過去の成育環境が原因で、今の人格が出来上がったという決定論のことです。

一般的な心理学で言うところの「遺伝と環境の輻湊説」のことです。

人の性格や人格は、原因である遺伝と環境の二つの複雑な絡み合いで決まってしまうという説です。

人の自由意思とか自己決定権を否定する考え方です。

そりゃ。人の自由意思や自己決定権を100%否定すれば、原因論は成り立つし、「人は変われない。」ということになるでしょう。

遺伝と環境の原因に人は支配されているわけですから。

わたしには納得いきませんし、アドラー心理学は、「遺伝や過去の成育環境は影響であって、どういう性格になるか、どういう人格になるかは本人が決定する。」と思っているのです。

遺伝や環境の影響は否定しません。

でも、自由意思や自己決定権の方がずっと大きいと思っているのです。アドラー心理学の思想です。

解説1で出した例なのですが、
例えば、向こうから、良く知っている女性が近くまで寄ってきて笑いました。

Aさんはバカにされたと思って、「なに、俺の顔を見て笑ってんだよ。このやろ。」と怒って怒鳴りました。

Bさんは、「あら、Hさん、今日は機嫌良さそうだね。何かいいことあったの?」と笑い掛けました。

Cさんは、「ああ。また女が一人俺に惚れたか。」と思って「何だい。Hさん、私に何か用かい?」と格好つけました。

このように、「良く知っている女性が近くまで寄ってきて笑った。」という出来事を、必ず主観的な意味づけを通して認知するのです。

実は主観的な意味づけの傾向は、たいていは無意識的なもので、しかも、一つ一つが無意味に意味づけているのではなく関連されて、一つの物語として、一つの方程式として、その人の性格を決めています。

例えば、Aさんは、人が笑った時だけでなく、よく感情的になって人ともめてしまう傾向があるかもしれません。

アドラー心理学では、この意味づけの方程式のことを、変えられるという意味合いを込めて、人生を生きて行くのスタイルという意味で、「ライフスタイル」と呼んでいます。

いわば、その人が人生を生きて行くうえでのプログラムのようなものです。私はよく「人生のプログラム」のようなものですよ。と説明しています。

アドラー心理学は、人は子どもの頃(8歳頃と言われています)遺伝の影響を受けて、子どもの頃の環境を目の当たりにして、自分てこういう存在なんだ、この世はこんなところなんだ、こういう目的で生きて行くぞ、というような主観的ない意味づけの方程式(ライフスタイル)を決定すると思っているのです。

遺伝や環境の影響は大きいです。特に子どもですから、生育環境からの影響は大きいと思います。

でも、「こういう意味づけの方程式(ライフスタイル)を使って生きて行くぞ。」と決めるのは本人なのです。

本人が決めるから、本人が変えることが出来るのです。

そして、アドラーは、自らのカウンセリングで、多くの人々がライフスタイルを変えて、神経症や精神的な病を治して、幸せになっていくのを実践して見せたのです。

ライフスタイルの中には、その人がよく使う作戦が入っています。そして、その作戦には必ず目的があるし、人は何らかの行動をするときに必ずある目的を持って行動します。

だから、哲人は、原因論で考えることをやめて、目的論で考えることをすすめたのです。

哲人は、自室にこもりっきりになっているという神経症を、その友人が、ライフスタイルをもとに作り出した作戦で、その作戦には目的があるのではないかという視点を示したのであって、

だから、本人が勝手にやっているのだから放っておけという冷たい突き放す見方ではありません。

私の所にも、うつやパニックや神経症で困っている人がたくさん来ますが、きちんと10数回通ってこられた方々は例外なく神経症を克服されていきます。

アドラー心理学カウンセリングは、神経症で困っている方のライフスタイルも幸せなライフスタイルに変えることで、その人が神経症を克服し、幸せになるのを確実に援助するのです。

また、哲人が否定したのはトラウマが症状の原因だ、トラウマのせいで今の性格になったんだという原因論を否定したのです。

多くの人々が「トラウマ」と呼んでいる、思い出すとつらい気持ちになるような記憶を持っていることを否定しているのではありません。

過去の私を含めて、思い出すとつらい気持ちになる記憶を持っている人はたくさんいます。

哲人はそれを否定したわけではないのです。

アドラー心理学が否定しているのは、トラウマ原因論、過去の原因に人間が支配されてしまうという、決定論なのです。

思い出すとつらい気持ちになる記憶は、ある目的をもって記憶を保持しています。ですから、無意識的なその目的を意識的に理解していくことと、ライフスタイルの作戦を変更していくことで、

辛い記憶も楽になっていきます。

引用元:「嫌われる勇気」解説3 原因論を否定する

 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室

アドレリアン本郷ひろなかの「嫌われる勇気」解説 第2回目です。

さて、「嫌われる勇気」の著者の岸見一郎先生は、ギリシャ哲学がご専門です。そして本の中でも、哲人がアドラー心理学は私にとって哲学だと言っています。

これは、私にとっても理解できます。

なぜならば、もともとアドラー心理学は、アドラー心理学を「真理を追究する科学」だとは考えていないからです。

真理を追究するために、次々と仮説を提唱して発展していくのが科学なのですが、

解説1でも、われわれアドレリアンは、自分たちの意見を「真理だ。」「正しい。」と主張して、違う意見の人たちと争う趣味はない と書きました。

なぜかというと、アドラー心理学を真理を追究する科学だとは思っていないからなのです。

私たちは、アドラー心理学のことを、人間が幸せに生きて行くための思想とそれに基づく実践的な技術とで構成された 実践学だと思っているのです。

人びとが幸せに生きて行くためにちゃんと役に立てばいいのであって、真理かどうかなんてどうでもいいのです。

ですから、「工学」や「建築学」により近いかもしれません。

例えば、明治時代に日本の各地に石の眼鏡橋をかけて回った、種山石工という熊本の石工集団がいるのですが、

彼らにとって大事なのは、丈夫な眼鏡橋をかけて、その眼鏡橋のおかげで人々が便利に生活していくことです。

同じように、アドラー心理学にとっても、大事なことは、アドラー心理学の思想と技術が、人びとが幸せに仲良く貢献し合って生きて行くための常識=コモンセンス(共通感覚)として普及して、社会がより民主的になり、人びとが争うことなく、仲良く貢献しあって、みんな幸せに生きて行くことなのです。

エレン・ベルガ―の「無意識の発見」という著作があるのですが、フロイトやアドラーなどの無意識を発見した4人の業績とその思想を紹介しています。

そして、アドラー心理学について、「共同採石場」というニックネームを付けています。

それは、だれでも、アドラー心理学の思想や技術を「これはアドラー心理学のモノを参考にしました。」と言わないで、勝手に使っているというのです。

 

私も、「認知行動療法」の本を初めて読んだとき、「あれ?これってアドラー心理学の理論を模倣しているよね。」と思いましたし、「7つの習慣」を読んだ時も、「アドラー心理学の思想や理論とずいぶん似ているなあ。」と感じました。

それは、アドラーが「わたしの名前を誰も思い出さなくなるときがくるかもしれない。アドラー派が存在したことすら、忘れられてしまうかもしれない。」そしてそれでもかまわない、と言ったことと関係しているかもしれません。

アドラー心理学が目指しているのは、アドラー心理学の思想と技術が人々の常識になることなのです。

 

ですから、哲人が「アドラー心理学は私にとって哲学だ。」とおっしゃるのに同感してしまうのです。

引用元:「嫌われる勇気」解説2 心理学?哲学?

 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室

木曜ドラマ「嫌われる勇気」が始まりましたね。まだ、1回目や2回目では、その全貌は見えないでしょう。主人公もただの自分勝手な人物だと思われたりして。

 

本郷ひろなか(博央)は、アドレリアンです。アドレリアン歴25年のアドレリアンです。

 

アドレリアンというのは、アドラー心理学を日常生活の中で実践している人という意味です。

 

アルフレッド・アドラーもアドレリアンですし、アドラーの息子のクルト・アドラー(ニューヨーク大学心理学教授)もアドレリアンです。

 

クルト・アドラーの弟子で、カナダのモントリオール個人心理学研究所所長のジョセフ・ペリグリーノ博士もアドレリアンです。

 

そして、ペルグリーノ博士の弟子である私 本郷ひろなかもアドレリアンです。私の先生である岩井俊憲先生もアドレリアンです。

 

私 本郷ひろなかが、32歳の時に受けたアドラー心理学基礎講座の講師をしてらっしゃった 岸見一郎先生もアドレリアンです。

 

そして、岸見一郎先生がお書きになった「嫌われる勇気」の本を、アドレリアン本郷ひろなかが解説しようと思うのです。ドラマではなくて、本の方を解説します。

 

世界はシンプルで、誰でも幸せになれる

 

「嫌われる勇気」(ダイヤモンド社)の最初に、哲学者の「世界はシンプルで、誰でも幸せになれる」という主張が出て来て、悩み多き青年が「到底受け入れられない」と反発します。

 

「悩み多き彼の目には、世界は矛盾に満ちた混沌としか映らず、ましてや幸福などありえなかった。」とあります。

 

だから、青年には到底受け入れられないのですが、これが意味づけ=「色眼鏡」(=思い込み=認知)の働きなのです。

 

「われわれは、われわれが与えた意味づけを通してのみ現実を体験する」とアルフレッド・アドラーは言っています。

 

私たち人間は、現実そのものを認識することはできません。必ず、ある主観的な意味づけを通して認識します。

 

青年の目に、矛盾に満ちた混沌としか映らないのは当然なのです。彼が、そのような主観的な意味づけを通して認識しているからです。

 

だから、哲人は、5ページで、「あなたが世界を複雑なものにしている」と言い、「人は客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。」と言ったのです。

 

例えば、向こうから、良く知っている女性が近くまで寄ってきて笑いました。

 

Aさんはバカにされたと思って、「なに、俺の顔を見て笑ってんだよ。このやろ。」と怒って怒鳴りました。

 

Bさんは、「あら、Hさん、今日は機嫌良さそうだね。何かいいことあったの?」と笑い掛けました。

 

Cさんは、「ああ。また女が俺に惚れたか。」と思って「何だい。Hさん、私に何か用かい?」と格好つけました。

 

このように、「良く知っている女性が近くまで寄ってきて笑った。」という出来事を、必ず主観的な意味づけを通して認知するのです。

 

 

これを認知論と言ったりして、現在の心理学各流派では常識ですが、アドラーは100年以上前に「現象学」から、この認知論を取り入れました。

 

そして、アドラー心理学の基本的な思想では、「この世は人々が貢献しあって、協力して生きている世界で、人はその世界にうまい具合に居場所を作れば幸せを感じる。」だと思っています。そういう意味でシンプルなのです。

 

そして、「このアドラー心理学の思想と合致するような意味づけを使うようになると幸せを感じるよ。」と主張するのです。

 

「意味づけ」=認知は、ただの道具にしかすぎません。不幸になるような認知を使って、この世を見ているから不幸を感じるのであって、幸せを感じるような意味づけ=認知を使ってこの世を見ると、幸せを感じるよと思っているのです。

 

ちなみに、アドラー心理学は、基本的な思想「この世は人々が貢献しあって、協力して生きている世界で、人はその世界にうまい具合に居場所を作れば幸せを感じる。」を真理だとは思っていません。

 

とりあえず、「そう思った方が幸せにうまくいくと思うよ。」と意見として提案しているだけなのです。

 

自分の意見を「真理なのだ。」「正しいのだ。」と主張して、違う意見と競争したり、戦ったりする趣味はアドレリアンにはありません。

 
本郷ひろなかは、「この世は人々が貢献しあって、協力して生きている世界で、人はその世界にうまい具合に居場所を作れば幸せを感じる。」と信じています。
 
だから、日常の中で人々と協力的に調和しながら生きています。そして、カウンセリングを通して、クライエントさんの人生が幸せになるように、「仲間」として援助しています。
 
多くの対面や電話カウンセリングのクライエントさん、そして、SMILE勇気づけの親子・人間関係セミナーを受講した人が、アドラー心理学流の幸せな思想と技術を覚え、実践して、うつや神経症やパニックなどの症状を克服し、
 
幸せになっていかれます。それが何よりもうれしいのです。

 

引用元:「嫌われる勇気」解説1 世界はシンプルで、誰でも幸せになれる・・・

 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室

自分一人で、あまりにも色々と考えすぎると、


今の自分を変えたくなくなります。カウンセリングをやめたくなったり、受けたくなくなります。


面倒くさくなったり、急に「意味がない」と思えたり、怖くなったり、不安になったり、

訳の分からない抵抗感を感じたり、

これは、アドラー心理学では、「ライフスタイルの反乱」と呼んでいます。

実際は、ライフスタイル(人生のプログラムのようなもの)が反乱を起こしたりしたりはしないのですが、

自分一人でいろいろと考えすぎる時、今までのライフスタイルをフルに使って考えてしまします。

ですから、今までのライフスタイルを変えない方向性へ、変えない方向性へと、考えていきがちになるのです。

自分を変えて、幸せになるためには、考えすぎないで、エイって、カウンセリングを受けること、受け続けることです。

すると、今までのライフスタイルに惑わされないカウンセラーと話ができて、最終的には、あなたは幸せなあなたに変わるのです。

私たちは、そう信じています。

引用元:自分だけで考えすぎると 変えたくなくなる カウンセリングを受・・・

 
アドラー心理学を学んでいく中で、「すべてはあなたの責任なのだ。」「自己責任なのだ。」と言われたときに、「なんとまあ、厳しい心理学だ。」と感じた私でした。
 
「お前のせいだ。」と責められたように感じたのです。
 
ましてや、当時の私は、他人のせいにしてしまう癖がありましたし、自分が苦しいのは過去の成育環境や親のせいだと思っていましたし、「こうなったのには何らかの原因がある」という原因論で考えていましたから
 
「全ては自己責任なのだ。」と言われて、抵抗も感じたし、「お前のせいだ。」と責められたように感じて、イヤな気持になったのです。
 
責任という言葉は、英語では「responsibility」というのですが、「responsibility」という言葉には、まったく責めるという意味合いはないのです。どうして、日本語には「責める」の漢字が入ってるのか理解できません。
 
まあ、「自己責任」と言われて、自分を責められるような感覚を持ったのは、まったく見当違いだったわけです。
 
「responsibility」の「respons」というのは「対応する」というような意味合いなので、
 
「responsibility」というのは「あきらめないで対応し続ける」という意味であって、
 
「はい。あなたの責任です。あなたが悪かったのです。」という意味合いはないわけです。
 
私たちアドレリアンは、人間という存在を全体論で「一つのまとまった存在」としてとらえるので、衝動や本能のせいにしたりしませんし、
 
「実存主義」的に考えるので、自分が自分の人生の主体であって、遺伝や環境や他者からの影響を主体的にさばき、決定して創造していくのだ。と思っているので、遺伝や生育環境や他者のせいにしたりしません、
 
ということは、必然的に、「自分の人生をどうしていくかは私の責任だ。」と思うようになるわけで、アドレリアンとして生活していけばいくほど、
「自己責任だ。」と思う方が楽に感じるようになって行くのです。
 
当然、誰の課題であるかということはきちんと分けますので、他人の責任は取りません。いわゆる「嫌われる勇気」を持って、他者の感情の面倒は見ないし、必要以上に他者のご機嫌取りもしません。
 
人からどう思われるかということも気にしませんし、人から嫌われないように自分の言いたいことを我慢したり、やりたいことをあきらめたりもしません。
 
当然なのですが、他者とは十分に仲良くしようとしますし、他者に貢献し、協力しようとします。ただ、人から好かれるために仲良くするのでもないし、嫌われないために、貢献し、協力するわけではないということです。
 
「嫌われる勇気」といって、「わざと嫌われるような行動や態度をとること」と勘違いしないでくださいね。
 
私たちは、純粋に自分の責任のうえで、他者と仲良くして、協力して、他者や社会に貢献しようとするのです。これをアドラー心理学では「共同体感覚」と呼びます。
 
他人の課題のために行動するのではなく、自分の責任として、共同体感覚の方向性に行動していくことを、私たちは「自己責任」と呼ぶのです。それは、私たちにとって、厳しいことでも、辛いことでも、嫌な感じがすることでもなくて、
 
むしろ喜びを感じることなのです。
 
「自己責任だ。」と言われて、最初は責められるように感じて、嫌な感じがしていた私は、アドラー心理学的な考え方の練習とか、SMILE勇気づけの親子・人間関係セミナーに出てくる人間関係の取り方などの練習をし続けるうちに、
 
自己責任と受け取る方が楽になり、自己責任で他者に貢献していくこと、他者と仲良くしていくことが、いつの間にか喜びになっていったのです。
 
そういえば、教師(24歳~45歳 今は57歳です)だったころ、特に30代までは、宴会などがあると、宴会中に突然一人になって、ひどい孤独感を感じていました。自分としては、訳の分からない孤独感でひどくさびしい感覚を感じていました。
 
それが、いつの間にか、宴会などで全く孤独感を感じなくなっていました。
 
孤独感を感じなくする作業などしなかったのにです。
 
私がやったのは、全ては自分の責任だと考えるとか、過去を振り返らないで、未来も不安に思わないで、思考を「今ここ」に集中させるなど(他にもたくさんありますが)の練習をして、自分のライフスタイル(無意識の中の人生のプログラムのようなもの)を変えて行く作業をしただけだったのですが、
 
「孤独感を覚える」という症状はいつの間にか消え去ったのです。
 
私だけではありません。あらゆる人が、症状を消そうと努力すると失敗します。
 
症状を生み出しているのは、自分の無意識下にある「ライフスタイル」です。ライフスタイルを変えないで、症状だけを消そうとすると手を変え品を変え 症状は出続けます。
 
誰かに治療してもらおうとするのも、まずはうまく行きません。問題を作り出したのは自分です。自分だけが問題を解決できます。自分だけが、自分のライフスタイルを変えることが出来るのです。
 
ただし、自分一人だけでやろうとすると、きっと失敗します。
 
それは、自分一人でやっていると、古いライフスタイルが活性化して、その古いライフスタイルを変えないように、変えないようにとしてしまうからです。
 
良いアドラー心理学カウンセラーとタッグを組むか、SMILE勇気づけの親子・人間関係セミナーのようなライフスタイルを変えるためのプログラム学習コースを受講して、日々練習し続けてください。
 
あなたがあきらめない限り、あなたは絶対に幸せになります。
 
私たちはそう信じています。
 
続く
 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室

 
アドレリアン本郷ひろなかの「アドラー心理学を生きる」 第10回目 です。今回は、メモ「葛藤はない 全体論」です。
 
本郷ひろなかが理解するのに、というか体感するに至るまでに、時間が少しかかったものに「全体論」があります。
 
アドラー心理学は徹頭徹尾 論理的 です。そして、人間という存在を論理的に見ていくと、この「全体論」に行くのです。
 
簡単に言うと、「人間という存在は、個人全体で一つだ。」というとらえ方です。
 
アドラーは、1900年代の初期、ジグムント・フロイトと一緒に水曜勉強会という「精神分析」の勉強会(のちの精神分析学会)をやっていました。どういう経緯かは、明らかになっていないのですが、フロイトがアドラーを勉強会に招待したからです。
 
のちに、「アドラーは、フロイトの弟子だった」というデマが出てきたときに、アドラーがフロイトからの水曜勉強会への招待状を示して、
 
「アドラーはフロイトの弟子ではなかった」ということを明らかにしたという話が伝わっています。
 
アドラーは一時期、フロイトと同じ勉強会で精神分析の論を意見交換していたのですが、アドラーがその勉強会=精神分析学会の会長に就任したことから、フロイトの説とのあまりの違い(正反対とも言えるほど)が顕在化して、
 
アドラーとフロイトは袂を割ったのでした。
 
そして、その大きな違いに、フロイトは人間精神内における「葛藤」を積極的に認めたのに対して、アドラーは、人間精神内の「葛藤」を認めなかったのです。
 
フロイト精神分析では、人間精神は「スーパーエゴ」や「エゴ(現実に対処しようとする働き)」や「イド(本能的衝動のようなもの)」という独自の働きを勝手にする「部分」で構成されているという「構造」を持っていると主張しました。
 
そして、それらの「部分」が別々の動きをして、ぶつかり、葛藤を引き起こしているのだとしたのです。
 
アドラーにとって、この説は全く受け入れられないものでした。
 
アドラーは、一見葛藤を引き起こしているように感じても、それらは、本人がアクセルとブレーキを一緒に踏んでいるようなもので、ある作戦の元に本人がやっているだけであって、「葛藤」などではない。と主張したのです。
 
この、その人独自の作戦が「ライフスタイル」の一つの表れなのです。
 
例えば、他人が怖いので外出したくなくて閉じこもりたいのですが、外出しようとすると胸が異常にドキドキして、息苦しくなって、立っていることが出来なくなってしまういう症状を作り出して、「だから外出したいんだけど、外出できない」という理由付けをしたりするのです。
 
このような、神経症的な「行き詰まり」は、本人がある作戦の元にやっているのだ、いわば、本人が「イエス」と言いながら、「バット」と言い続けているのだと、アドラー心理学では考えるのです。
 
これを「イエス・バット」と呼びます。葛藤が生じているのではなく、本人が「イエス・バット」を演じているだけだと考えるのです。
 
フロイトは、神経症は、葛藤の中で突き上げてくる「イド」の衝動から自分を守るための防衛だと考えましたが、
 
人間の精神内に独自の動きをする部分などあるわけがないと考えたアドラーは、神経症は、課題から逃避するための作戦だと考えました。「イエス」も「バット」も、ある作戦の上に本人がやっていると分析したわけです。
 
当初 私本郷ひろなかは、自分の中に葛藤がある気がして仕方ありませんでした。まあ、当然です。「精神内には葛藤がある」という色眼鏡を使っていたのですから。
 
制御できない衝動とか、制御できない気分の上下とか、制御できない感情とか、機嫌が勝手に良くなったり、悪くなったりするような気がしていました。
 
そして「早目にやった方がいいと分かってるんだけど、なぜだか引き延ばしてぎりぎりにしてしまう。」とか、
 
「アルコールを飲みすぎちゃいけないと分かっているんだけどつい飲みすぎてしまう。」とか、
 
いわゆる「分かっちゃいるけどやめられない」という感覚をよく持っていました。
 
今では分かっています。私の中に制御できない衝動なんかありませんし、気分を上げ下げしているのは私ですし、この感情を今使っているのは私ですし、私は、相手役にある目的をもってこの感情を使っています。
 
機嫌が勝手に悪くなったりすることもなく、自分が機嫌を良くしたり悪くしたりしていると自覚しています。
 
引き延ばしているときは、「早目にやった方がいいとは全く思っていなくて、引き延ばしたくて引き延ばしている」と分かっています。「アルコールも飲み過ぎたいと思って飲みすぎているだけ」だし、
 
いわゆる「分かっちゃいるけどやめられない」などという現象は、存在しないと分かっています。「やめられない」のではなくて「やめようと思っていないので、やめない」だけなのです。
 
葛藤のせいにしたり、「分かっちゃいるけどやめられない」現象のせいにするのをやめて、全て全体としての自分が決めて、行動しているのだと、そして、理想的な行動をしていない自分を受け入れる練習をしていったのです。
 
理想的な行動をしていないのをありのままに認めて、受けいれることを、信頼と呼び、大きな勇気づけとなるものです。
 
「こうあるべきだ」という理想を、自分にも押し付けないで、ありのままに認めて受け入れる練習を通して、私は、全体論的理解を少しずつ体感していったのです。
 
最終的な行動が、その人が全体で決めて出した答えです。
 
私の最終的な行動が、私が個人全体として決めて出した答えなのです。それを認めないというのは、自己矛盾です。私個人全体に対する意識の反乱です。
 
意識を反乱させ自己矛盾をやっていたから、私は全体論がいまいちしっくりこなかったのです。
 
「人間という存在は、個人全体で一つだ。精神構造が部分部分に分割などされていないし、精神内で部分が独自の動きをして葛藤を生じさせたりしていない」という前提で考えていくと、
いろんなことがすっきりとシンプルに見えてきたのです。
 
世の中には、「制御できない○○」とか、「分かっちゃいるけどやめられない」とか、「分かっているんだけど、出来ない」と感じている人が、たくさんいらっしゃると思うのです。
 
それは、そういうものがあるんだという思い込み=色眼鏡を使う癖があり、そう思い込んでいるからそう感じていいるにすぎないのです。
 
行動があなたが出した答えです。意識が「本当はそうしたくないのに」と言っていたら、意識が間違っています。「この行動が私がしたくてした行動だ。」と意識を修正する練習をされることをお勧めします。
 
自分をありのままに認めて、受け入れる練習をされることをお勧めします。
 
ちなみに、例えば、「あの人にこんなことを言ったら、私のことを嫌いになるんじゃなかろうか?」と悩んだりして、実際に相手に本音を言えなかったりしたら、また言い方がまずくてもめたりしたら、
 
これは葛藤です。
 
え?葛藤はないと言ったじゃないか!と言う人がいるかもしれません。
 
個人の精神内には葛藤はないのですが、このように人間関係の中では、葛藤は生じるのです。
 
人間関係においては、一人一人が別の存在ですから、別の存在同志の間には葛藤が生じます。
 
その葛藤を平和的なものにして、仲良く協力し合っていくために、コミュニケーションが大事になってくるのです。
 
アドラーは言いました。「人間同士というものは決して完全に分かり合えることはない。だからこそ、言葉を尽くして分かり合おうとしようじゃないか。」
 
続く
 

本郷ひろなかの電話アドラーカウンセリングを受けて幸せになる

熊本こころ相談室