さて、また韓国の旅に戻ります。

次は今回の旅のテーマのハイライトともいえる

朝鮮時代後期の書芸の大家、金正喜(号・秋史)の故宅へ。

忠清南道、礼山にあります。



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秋史・金正喜は韓国人であれば誰でも知っていると言われるほど有名な人だそうです。

「字が詩であり、詩が絵である」という「秋史体」という独特な書体を作った

朝鮮末期に活躍した大学者兼芸術家で



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高祖父は領議政(総理大臣)、曾祖父は英祖(朝鮮21代王)の義理の息子、

父は礼曹判書(儀礼や祭事、外交などを司る官庁の長官) という名高い名家の出身です。



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ちなみに

曾祖父の奥さん(英祖の娘)和順翁主は

夫である金漢蕁が38才の若さで亡くなった後

飲食を断って後追い死をしてしまったそうです。オモオモ・・



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彼女は朝鮮王朝から出た唯一の烈婦。

英祖は慰留したにもかかわらず父の命令に従わなかったことを遺憾に思い

烈女門を建てませんでしたが

その後の正祖が和順翁主の貞節を誉め讃えるために旌閭門を建てました。

お墓や旌閭門は故宅の近くにあるようですが、あいにく訪れることはできませんでした。



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ちょっと脱線しました。

秋史・金正喜の話に戻ります。

幼い頃から非凡な才能を表した秋史は

朴齊家の門下で北学派とよばれる実学を学び

24才で科挙に合格すると副使になった父について北京に遊学しました。

そこで書道を純粋造形芸術にまで昇華させた翁方綱、阮元などと交流し

経学、仏教、詩文学、絵画など、多様な分野で研究と業績を積み

19世紀東アジアを代表する知識人となっていきます。



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1819年には文科(文官を選抜した科挙試験)に合格し官職につくようになり

優れた才能と幅広い人脈とで順調に出世街道を走っていきました。

ところが1840年反逆事件に関わったということで済州島に流されてしまいました。

権力争いの末の無念の流刑だったでしょうが

何が幸いするのか、流刑9年間の間に学問と芸術を深め

結果として

伝統にしばられない自由な造形美といえる「秋史体」という独特な書体を完成させました。



この扁額もいいですねえ。扉の向こうの室内にも扁額がかかっています。



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韓国の文人画の最高峰だといわれる名作「歳寒図」も済州島時代に描かれました。


「歳寒図」(記念館)



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「子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。」

論語の一節からの文言です。

子曰く、歳(とし)寒くして、然る後、

松柏(しょうはく)の彫む(しぼむ)に後るる(おくるる)を知る。

先生が言われた。

「寒さの厳しい年に、初めて松と柏の葉が、他の樹木よりも遅く枯れ落ちることが分かるのだ。」



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諸侯からの弾圧や差別などに負けず

最後まで孔子のもとを去らなかった弟子たちの信義と誠実に対して

晩年の孔子は冬の寒さに耐え緑の葉を保っている松柏の姿に重ね合わせています。



(故宅にも掲げられていました。)



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そしてそれは

美も、花も何もない時にはじめて変節しない本当の美がわかるという

東洋の独特な世界観を極めた朝鮮の儒者たちの

清廉端正な精神を表している言葉でした。



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秋史の故宅はそんな儒者の清々した雰囲気に包まれていました。



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流刑地から戻った秋史は2年後またしても咸鏡道に流され

晩年は京畿道、果川で過ごし、71歳で亡くなりました。



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(秋史の姿の描かれた掛け軸のある祠堂)



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祀堂の横の壁。美しい!



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秋史の書体は朝鮮内だけでなく清朝の文筆家たちからも賞賛されたそうです。

雅趣にあふれた素晴らしい扁額がたくさんありました。



さて、次に珍しいものがあるから、と案内されたのは「白松」



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天然記念物第106号の白松です。

中国北部地方が原産地で、韓国には数本しか生えていない希少種だそうです。

この白松は、秋史が清から帰国する際に白松の種を筆軸の中に入れて持ち帰り

高祖父、金興慶の墓の入口に植えたものです。



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本当に白い松でした。ビックリしました。






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