昨晩、1月刊のためし読みの残りをアップしようとしたところ、会社のサーバーが落ちるという事態が生じました(((( ;°Д°))))
したがってブログ更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。
サーバーは朝方復旧したようです。メンテナンスの方クリスマスにありがとうございますm(_ _ )m
本日のためし読みは、毛利志生子先生の久々の新作
編集(て)
『宋代鬼談 梨生が子猫を助けようとして水鬼と出会うこと』
(毛利志生子 イラスト/宵マチ)
——こんなに暑くなければ、風の心地よさにも気づかなかったかもしれないな…。
梨生が微笑み、水筒代わりの竹筒の栓を抜いたとき。
ふ、と視線を吸い寄せられた。
河の中ほどにある大ぶりな石の上に、小さな子猫が座っていた。
「なんで、あんなところに…?」
梨生は首を巡らせた。
近くに、親猫がいないかと考えたのだ。
けれども、最初に気づいた子猫の他は、なにもいなかった。
子猫は、とくに怯えている様子はなかった。それどころか、梨生の視線に気づくと、みぃ…、と愛らしい声で鳴き、おぼつかない足取りで梨生に近づこうとしはじめる。
「あ、危ない…!」
梨生は立ち上がり、子猫に向かって足を踏み出した。目視したかぎり、自分と子猫のあいだの流れは、さほど深そうに見えなかった。その感覚が、梨生の反射的な行動を加速させていた。
だが——。
ばしゃばしゃと水を踏んで流れを渡り、石の上の子猫を両手で捉えた瞬間、梨生の最後の一歩が、ずぶりと深みに沈んだ。
あまりに落差の大きな深みだったため、浅瀬に残ったもう片方の足が、強すぎる衝撃に負けて、梨生の体を支える役目を放棄した。
つまり、膝が抜けた状態になったのだ。
かっくん——とまぬけな感覚が膝から全身に広がり、梨生は、しまった、と思った。
そのときには、もう水の中に倒れ、さほど強くもない流れに押されて、川の中央まで運ばれていた。
けっして大川ではないが、それなりに川幅は広い。しかも、上流で雨でも降ったのか、真夏にしては水量が多い。
加えて、梨生は、きっちりと衣服を着こみ、靴を履いていた。
さらに、両手で子猫をつかんでいた。
あるいは、子猫を放せば、なんとか岸まで泳ぎ戻れたかもしれない。
けれども、梨生は、子猫を水から出そうと両腕を上げた。
梨生と子猫は、ほどなく水に没した。
——すまない、子猫…。
鼻から、口から、耳からも、目からさえも水が流れ込む。恐ろしいような苦しみと圧迫感を覚えながら、梨生は頭の隅で詫びた。
もう自分は死ぬのだ、と思った。
死の瞬間には、いま以上の苦しみがあるのだろうか。それとも、人の世を抜け出て、別の世界に行くような感覚——たとえば門をくぐるような、かるい緊張と高揚が胸に生じたりするのだろうか。
それとも、光が見えるのか——?
そう考えたとき、絶え間なく水に洗われ、痛みをともないながらふやけた梨生の視界に、本当に淡い光が広がった。
光は、ほのかな温みをもって梨生の体を包んだ。
ふっ、と呼吸が楽になり、梨生は水の中にいながらも、空気の膜につつまれて、息ができる状態になっていた。
——猫は…!?
あわてて手元を見ると、子猫は梨生の手の中で、心地よさそうに喉を鳴らしている。
どうやら、子猫も陸上にいるときと同じように呼吸ができている様子だ。
梨生は、淡い光を帯びた空気の膜に包まれ、水の中を揺蕩いながら、ゆるりと首を巡らした。その視線の先——わずか一寸の場所に、ふいに赤黒く膨れ上がった男の顔が現れた。
「……っ!」
梨生は息を呑んだ。
同時に、目を凝らして、男の顔を見つめた。
男は、膨れた顔から押し出されかけているかのように飛び出た目と、口角から鋭い歯の覗く、大きく裂けた口を備えていた。ざんばらの髪は長く、風に揺れる枯れすすきのように水の流れに揺れている。
衣服は、簡素で暗色だ。官吏や商人ではなく農民のもののようだ。
——水死体…、…じゃない…な。
梨生は、自分の出した結論にうなずく。
水死体にも鬼にも似た、その人物は、灰色の濁った眼で、しっかりと梨生を見つめていた。
梨生が、その人物を見つめているように。
「すまないな、旦那」
水死体に似た男がだしぬけに詫びた。
「あんたに恨みはないが、ここで死んでもらう」
水死体に似た男は、苦しげだった。
梨生は思わず、くるりと眼球を動かした。
「つまり、わたしはまだ死んでいないのかな?」
男は顔をしかめた。口が歪んで、恐ろしげな顔が、いっそうの凄みを帯びる。
「……まあな。旦那はいま、オレが作った空気の膜の中にいるからな」
「では、君がわたしを助けてくれたのか?」
「…いや、助けたわけじゃない。これから殺すんだ」
「どうして?」
「オレが生き返るためだよ!」
男が苦しげに、自分を叱咤するような声音で叫んだ。
そうか——と梨生は思った。わざわざ助けたうえで殺すというのは、面倒なことのように感じられたが、男には、そうしなければならない理由があるのだろう。
「わかったよ」
「…わかった?」
「うん。どちらにしても、君が助けてくれなければ、もう死んでいた身だからね。…できれば、あまり苦しくない方法をとってくれればありがたいが」
「それが、旦那の最後の望みか?」
「ん? 君は、わたしの望みをかなえてくれる気があるのかい? それならば、
この子猫を助けてくれないか?」
「…猫?」
男が、飛び出し気味の眼球をぎょろりと動かし、梨生が両手でつかんだ子猫に目を向けた。
子猫は、ふーっ、とするどく呼気を吐いて男を威嚇した。
男は、わずかに身を引き、眉をしかめて首をかしげた。
「なんで、猫を助けるんだ?」
「この子は、川の中の大きな石の上にいたんだ。…危ない状況だったから、もっと安全な場所に移してやりたかった。しかし、わたしのせいで、かえって危険な目に遭わせてしまっている」
「それは、…気の毒だったな」
男が歯切れ悪く同意し、ざんばらの髪を水に揺らしながら梨生に尋ねた。
「…あんたは助かりたくないのか?」
「それは、助かりたいよ。ようやく科挙に合格して、これから皇帝陛下と市井の人々のために働けると喜んでいたところだからね。わたしが死ねば、川原で待っている陽たちも悲しむだろうし。…けれど、君にも、わたしを殺さなければならない事情があるんだろう?」
「…ああ、そうだ」
「だったらしかたない。水に落ちたのは、わたしの不注意だ。巻き添えになったこの子猫を助けてもらえれば、充分だよ」
「…本当に、充分か?」
「うーん。もうひとつ、頼みを聞いてもらえるなら、やっぱりあまり苦しくない方法でやってくれるとうれしいな」
「…あんたは溺死するんだよ」
そして、と男が声を細める。
「オレの代わりに、ここで水鬼になるんだ」
「水鬼——」
なるほど、と梨生は合点した。
実際に会うのも、話をするのも初めてだが、水鬼のことは伝聞として知っている。水死した人間が転じるという鬼だ。
水鬼は、自分が死んだ場所にとどまる。
そして、自分の身代わりとなる『水死者』を待つ。ときには、水辺を通りかかっただけの者を、水中に引きこんで溺死させる。
次の水鬼となるべき犠牲者を、自らの手で作りだして、自身が人間に生まれ変わるために。
それが、水鬼の常道とされていた。
梨生は、ふふふ…と笑った。
水鬼が眉をひそめた。
「なにがおかしいんだ?」
「自分が死ぬ理由を知ったときでも、望みがひとつかなうと知ったときと同じくらい、晴れ晴れした気持ちになるんだ、と思ったら、なんだかおかしくてね」
「…おかしいか?」
「わたしは、ね。…それで、君は子猫を助けてくれるかい?」
「…いいだろう」
梨生は心から微笑んだ。
「…じゃあ、子猫を頼むよ」
梨生は、空気の膜から飛び出さないか、と心配しながら子猫を差し出した。
水鬼は子猫を受け取らなかった。
梨生は、自分が抱えたままでも子猫が助かる方法があるのか、と考え、子猫を胸に抱えて目を閉じた。
「なあ、旦那。なんで目を閉じるんだ?」
「そのほうが、やりやすいかと思ってね」
「…オレのためか?」
「うん。君は、わたしに最後の幸運を与えてくれた。恩義ある相手だからね」
さあ、と梨生は水鬼をうながした。
う…、と水鬼が唸る声が聞こえた。
しかし、一向に変化が起こらない。
梨生はたたみかけた。
「さあ」
水鬼はやはり動かない。
梨生は、なおも言った。
「さあ、さあ」
とつぜん水鬼が怒鳴った。
「うるせぇよ!」
次の瞬間、梨生の全身に、大きな手に掴まれたような圧が生じた。
すぐさま息が詰まり、たちまち視界が暗くなる。
——ああ…、死ぬのか…。
梨生は気を失った。
ぼんやりと視界が明るくなった。
梨生は瞬き、目を凝らした。
白くほのかな光に満たされていた視界に、にじむような影が現れ、その影がはっきりと形を帯びていく。
影は、やがて陽の顔になった。陽は泣き笑いの表情を浮かべ、周囲をしわに彩られたつぶらな瞳で、梨生を見つめていた。
「…陽」
梨生が呼びかけると、陽の顔に喜びの色が広がった。
「旦那さま…!! お気がつかれて、本当によかった…!」
うん、と梨生は微笑んだ。一方で、おかしいな、と思った。
自分の記憶にまちがいがなければ、次なる水鬼になるために溺死したはずだ。
それなのに、目の前には陽がいる。
しかも、呼吸が楽になっている。
陽の顔の向こうには、青く抜けるような夏の空が広がっている。
「…ここは、どこかな?」
微笑んだまま、梨生は尋ねた。
とたんに、陽が不安そうな顔になる。
そんな陽を押しのけて、泉氏の顔が現れた。
「旦那さま、ここは川原です。養老県に向かう途中にある、大きな川のほとりですよ。旦那さまは水汲みに行かれ、足を滑らせて川に落ち、こちらにいる青年に助けられたのです」
泉氏が右手を指した。
梨生は小さく首を動かした。
そこには、十七、八歳と思しき年ごろの、色白で華奢な青年の顔があった。青年の髪は、わずかに褐色がかっており、目の色も明るかった。
——西方の血が混じっているのかな…。
梨生は再度、瞬き、ゆっくりと身を起こした。さすがに、もう自分が川原に横たわっていることは知覚できていた。
体を動かすと、ぎしぎしと関節が痛んだが、死んでいるような気はしなかった。
ならば、水鬼との出会いは、溺れた苦しさが見せた幻覚か、意識を失っているときに見た夢なのだろう。
半身を起こし、陽光のためにほのかに熱を帯びた砂利の上に座った梨生は、あらためて青年の顔を見た。そして、深々と頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
「……いや」
困惑した様子で応じた青年の声は、水鬼の声にそっくりだった。
首をかしげつつ、青年の手元を見れば、膝に乗せる形で、絶妙の配色の三毛の子猫をつかんでいる。
——この子猫は…。
梨生が助けた猫だ。あれが夢でなければ。
「君は——」
「オレは、蕭心怡。…以前は博徒だった。けど、これからは旦那の従者だ」
「仕事を探しているそうですよ」
泉氏が、にこにこと笑いながら言い添えた。
「旦那さまの命を救ってくれた恩人ですから、私や夫に異存はありません。お雇いになってはいかがですか?」
梨生が断るはずはない、と信じ切っている顔だった。夫の陽も同様だ。
そうだな、と梨生は苦笑しつつ応じた。陽と泉氏の後押しを受けた相手を断ることは、実際に不可能だった。
それに、心怡というこの青年が、水鬼の夢とかかわりがあるのかどうかを確かめたかった。おそらく夢だろう、とは思うが、どこかすっきりしない。とはいえ、陽たちの前で、『君は水鬼か?』と問うことはできなかった。
「そうだよ。オレは水鬼だよ」
夜——宿の中庭で、心怡はあっさりと答えた。
都と養老県を結ぶ街道は、あちこちに大きな宿がある。養老県は、都でも名の知れた豪商や学者など、多くの著名人が別邸をかまえる風光明媚な土地なのだ。
もっとも、梨生たちが選んだ宿は、かなり建物が古くて客が少なかった。絶好の夕涼みの場所なのに、中庭にはだれもいない。
心怡の答えを聞いた梨生は、奇妙な安堵を味わうと同時に、新たな疑問を抱いた。
「では、君はいま、…人間に変化している、というわけか?」
この問いに、心怡が首をかしげた。
「どうなんだろうなぁ…。…オレはさ、あのとき、もうあきらめていたんだ。…旦那を殺すのは、オレには無理だと思った。だから、この先も水鬼でいなければならないと覚悟を決めて、旦那を岸まで運んだんだ」
「…どうして、そんなことを?」
梨生は首をかしげた。はーっ、と心怡が深いため息をついた。
「オレはさ、博打が大好きだったんだ。飯よりも、女よりも、なによりも博打がな。けど、弱くて、あちこちに借金ができた。家族に見捨てられて、友達をなくして、毎日毎日、取り立て屋に追い回されるようになった。だから、全部がいやになって、ある日、川に飛び込んだんだ。死んだら楽になれると思った。生まれ変わって、今度はマシな人間になろうと考えたんだ。ところが、生まれ変わるなんてできなかった。死んだときの姿のまま、水底に縛りつけられて、今度は毎日毎日、身代わりになってくれる人間が流れてくるのを待つばかりの生活になった。…毎日毎日、会ったことも話したこともない、恨みもない人間の死を望んですごすんだ。オレは、正真正銘のろくでなしだが、そういうのもつらくてよ」
それに、と心怡がまたため息をついた。
「あの川は流れがゆるやかで、なかなか人が流れてこないんだ。オレが水鬼になって十五年くらいたったけれど、流れてきた人間は二人だけだった。…一人は、子供だ。よく働く牛飼いの子供でさ。川べりで牛に水を飲ませている姿を、オレもよく見ていたよ」
「…もう一人は?」
「婆さんだった。見たことのない顔だったけど、薬草の入った籠を背負っていたから、薬草採りの最中に川に落ちたんだろうな」
「その二人は、どうなったんだい?」
「…オレが助けて、岸に戻してやったよ」
だってよ、と心怡は言い訳がましく語気を荒らげた。
「働き者の子供なんか殺せるかよ!? 悪さをしたわけでも、ふざけたわけでもない。ただ足を滑らせて川に落ちただけの子供をよ。それに、婆さんだ。もう先も短いのに、余生は水鬼で水の中なんて、あんまりだろう?」
「そうだな…」
「だろ、だろ? どうせなら、五、六人殺している殺人鬼とか、盗賊とか、詐欺師とか、そういうやつが流れてくりゃいいんだよ。悪徳官吏とか、強欲な商人でもいい。…それなのに、実際は働き者の子供と婆さんだ」
「だが、わたしは、子供でも婆さんでもないよ。だから、…助ける必要はなかったんじゃないかな?」
「…あー、…まあな。…でも、…旦那は、いいやつだったからさ。…オレなんかより、ずっと世間の役に立ちそうだし…。いつかは、オレの心が痛まない悪党が流れてくるかもしれないしな」
けど、と心怡は首をかしげつつ続けた。
「旦那と一緒に岸まで行ったとき、変な光の塊が現われて、オレに言ったんだ」
「なんて?」
「三度の善行には、米一粒ほどの価値がある。その価値に免じて、三年の猶予を与える。三年間、人の世に暮らし、一度として悪事を働かなければ、ふたたび輪廻の輪に戻ることを許す。だが、一度でも悪事を働けば、即座に水鬼の身に戻ることになるだろう。白梨生は、その見届け役だ。白梨生とともに行くがいい——ってさ」
「…わたしと?」
梨生は、自分の顎先を指した。
心怡は真顔でうなずいた。
「旦那は、科挙に合格した官吏だし、たしかに立派な人に見える。オレも、旦那が許してくれるなら、旦那の従者として働きたいと思ってさ。…どうかな? 人間の姿をした水鬼だけど、このまま同行させてくれるかい?」
次第に不安そうな顔になりながら、心怡が尋ねた。
梨生は考えを巡らせた。
心怡が言うところの『変な光の塊』が、心怡の善行を一粒の米にたとえたのは、その善行がささいなものだ、という意味ではなく、米粒の質と環境がととのえば、芽を出して葉を伸ばし、いずれ稲穂になる、という意味だろう。稲穂は、さらに多くの米を実らせる可能性をはらむ。
一方で、米粒が腐っている場合、とうぜん芽は出ない。米粒が植え付けられた田の水が冷たすぎたり、土が痩せている場合にも、やはり芽は出ない。この場合の水や土は、梨生ということになるのだろう。
——つまり、わたしも当事者というわけだな…。
うーん、と梨生はうなった。
もう心は決まっていたが、責任は重大だ。
そんな梨生を見て、心怡がそろりと尋ねる。
「オレを雇うのはいやかい、旦那?」
「いや…」
「え…っ!?」
「ああ、ちがう。いやではないが、責任重大だ、と思ってね」
照れたように笑う梨生に、心怡はきょとんとした目を向けた。
「旦那は、普通にしていればいいだろう?」
「そうだなぁ」
梨生は笑みを深めた。