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2012-02-24 09:37:13

自然という大きなものさし

テーマ:ブログ
下記、『物語の余白』— エンデが最後に話したこと —より抜粋。(つづき)


絵というのは、概念を越えて、そのもの自身の矛盾を含んだなにかを表現する手段です。

奇妙なことに、話は、それ自体のなかに意思があるのです。どこかに行こうとする。

言葉も、ただ一人のためにある言語は、言語じゃありません。

わたしたちが、もっぱら行うのは、なにかが正しいかどうかを、計測し、計量して示すことである。そして、心の中のものは量ることができない。


「はてしない物語」

この物語では、夢とは実は内なる世界全体の隠喩なんです。生きることはそのものにおいて意味を与えてくれるもの。
というのも、わたしたちがこの世界に意味として見ること、意味として読み取ることは、この世界から出てくるわけではないですから。それはわたしたちのなかから出てくる。わたしたちがある行為を高貴とし、ある行為を高貴でないとするんです。金に値打ちがあるとするのもわたしたち。みんなわたしたち自身から出てくることです。それがわたしたちのなかにある像にふさわしいからです。この像は人間のなかに深くに横たわっている。これが実は、生に価値を与えてくれる夢なんです。わたしたちがいうのは、望みとしての夢だけではなく、怖い夢もそこに入る。夢とは、人間の生に価値を取り戻してくれるもの、そのものなんです。

現代は、つまるところ、いつも身体的な能力だけを重要視している。
知的な能力さえも、結局はフィットネス能力なんですね。われわれの社会全体がそうです。


新しい樹木を植えるとき、庭がある人たちならだれでも知っていると思いますが、できるだけ晩秋に植える。力が木の根に入り、大地へと向かうからです。春に植えると、その木は弱るんですね。

死へと向かうプロセスは、おそらくどれも精神化するプロセスじゃないでしょうか。純粋に生物学的な意味でもそう思うのですが…力を解き放ち、もっと精神的な現実のなかへ至らせるプロセス。


実をいえば、生とはすべて息を吐き、吸うことの終りのないくりかえしでしょう。外的な姿のなかへと出てゆき、そしてまた精神的なものへと、姿かたちを脱する。つまり、秋とはもっとも精神的な季節だと言えます。この季節には、外的な姿かたちは消え失せ、自然の精神性が活溌になるときです。ただ、それは見えない。それは外的には見ることができません。

世界の二元性は、実はこの現れまた隠れることが永久に交錯する、そのことにあるのです。

「はじめに神は天と地をつくられた」を、こう翻訳してもいいのではないでしょうか。
「はじめに神は内と外をつくられた」ここで天とは男性的なもの、隠れたもの、内を示し、
地は現れたもの、外を指します。

真実をめぐるわたしたちの努力とは、すべて、わたしたちが外的に感知するものを、私たちが内的に体験することと合致させる試みの連続でしょう。思考の根拠とはこれにほかならない。


人間の死とは、生涯においてわたしがわたしの身体に対しておこなう破壊行為の総和なんです。

しかし、この破壊行為は、そもそもわたしが人間として生きられる、その前提条件なのです。

意識を発展させてゆくためには、同時にわたしたちの意識のベース、つまり物的身体、物的な脳をだんだんと破壊せざるをえない。ここで思い出すのは、いうまでもなく転生の理念ですね。

言葉は人間のだれものなかに宿っているが、同時にだれのものでもない。


Michael Ende



下記、「原っぱと遊園地」青木淳/著より抜粋。


原っぱの楽しみは、その場所での遊び方を発明する楽しみであり、そこで今日何が起きることになるのかが、あらかじめわからないことの楽しみだった。

目的なり目的地が先に決まっていてそこを目指して歩いて行くのではなく、まず動き回っているうちに気に入った場所が見つかり、それが後で振り返ってみれば、目的地だったのかなと思う。比喩的な意味でも具体的な意味でも、実のところ、普段の生活とはそういうものではないだろうか。目的を目指すよりまず動き回ること。「つなげられるもの」よりも「つないでいるもの」。そうして、いったんは建築を「つないでいるもの」そのものに還元すること。


根拠がないことを根拠とする決定ルール。


額縁が見えなくなったことは、額縁機能がなくなったことを意味しない。その逆に大仰に飾り立てなくとも、十分その機能が果たせるまでに制度が洗練された、というべきである。


行為が起きることではじめて出現する「場」


ぼくたちの行為に先取りして存在している空間を引きずり戻して、行為が起きることではじめて出現する「場」につくり変えたいと思ったのである。そのためにぼくがまず必要だと考えたのは、空間から目的を剥ぎ取ることであった。


「つないでいるもの」が生んだ均質化、平準化。


記憶は実在ではなく、回路作動の様相なのである。


「つくる」というのは、そもそも先入観や既成観念を越えて、根源的なところに降りていって、そこからいろんなものを組み立てなおすという行為のことなのではなかっただろうか。


分割はしない。だから、それらをつなぐ必要はない。


生活はあらかじめ意図を持って行われる不連続な行動の集合ではないだろう。


現実の一方にたまたま選ばれなかったいくつもの連続がある。
それが普通フィクションと呼ばれるものだろう。
現実とフィクションとは便宜的な区分である。


いま、ぼくにとって、なにかをつくることは、ぼくの中にある「こうしたい」の実現ではない。
また、つくることを頼んでくれた人の中にある「こうしたい」の実現でもない。


形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。


イメージとは人間の心が世界に対して期待する「意味」ですよ。人間はこれを求め過ぎる。
勢い余って、その「意味」にあわせて現実の世界をつくろうとさえする。
そうしてできた空間は、ベタベタしていて暑苦しい。


私たちが知りたいのは正論に回収される無害な結論ではなく、そこに至ることを可能にする視点であり基準である。


根拠があっても、それが見えなくなっていることが大切なのです。


意味を流動化させる、相対化させる、脱臼させる。眼の前の情景のずっと奥に本質が控えているのではない。

新規を加えながら、既存の質を変えること。
意味作用を使って、逆に全体の意味作用を消していくこと。


等価の関係というのは、こちら側にいるときには、こちら側にプライオリティがあり、あちら側にいるときはあちら側にプライオリティがある、と感じられる事態のこと。


意味作用の強化と意味作用の消去。


内面の不在に向き合うこと。

ぼくたちは、ついつい確固たる自己を求める。しかし、自己はいつも脆弱なものだ。ぼくたちは、今日の自分の感じ方が、実は、昨日読んだ本に書いてあったこと、あるいは、昨夜一緒に呑んだ友達の言葉から来ていることを知っている。自己は、その程度にしかない。
自己は、どこでどう難破してしまうとも知れぬ極めて脆弱なものであって、それはどれもが偶然の、その連鎖にすぎない。視界はいつも開けない。いつだって、間違った方向に舵がとられているのではないかという不安。しかし、それでも、まさに今この瞬間も、心の舵をとらなくてはならない。無視界のなかの、そんな漠然とした重い不安がある。その不安定に耐えられなくなって、人はときに外に確固たる内面を求める。心の奥底から発するものを、その人しかできない方法でかたちにすることのできる個性を、ついつい外に求める。自分にはそれがない。しかし、この世でどこかに、そういう圧倒的な個性があってほしいと思う。しかし、それは神話であり、幻想にすぎない。(中略)

意識されるのは、他の人との違いだけだ。その意味で、内面は自律的なものではなく、他律的なものだ。にもかかわらず、自分だけは自律的な個性を持っていると信じるときがある。客観的に言えば、それは、実は確固たる内面を持っていない。しかし持ちたいという、多くの人が共有している願望が招く自己暗示にすぎない。人と違うことこそ確固たる個性の証拠だと思い込む。そして、もっと奇抜なことをしなくては、と自己を駆り立てる。それによって、ますます、まわりの期待が盛り上がる。無意識のうちに。そうした神話を自ら演じてしまうこともまた、確固たる内面の不在に耐えられなくなったときの、もうひとつの安直な逃げ道だ。

しかし、僕たちにとって切実なのは、外に向かっても、内に向かっても、こうした幻想としての確固たる内面を求めることに逃避することなく、ぼくたちの本来的な、確固たる内面の不在に向き合うことなのだ。

ユーモアとは「広大な無限遠点からささやかな笑い=微笑」であり、たしかに、その微笑を自らの心の奥底から実感できた得難い一瞬において、ぼくたちは「ふっと軽くなる」のだ。

不可能なものの提示と、それが唐突にそこに可能になってしまっていることの共存。

私たちの美意識の外側に、私たちと隔絶した別の美意識を認識すること。


青木淳


先日、搬出作業に東京に行った時、渋谷でみたOlafur Eliasson:Space is Processより


現実は主観次第だ。

世界の姿を疑え。

世界は見方一つで変わると思う。

一人一人がグループという組織をつくれる。

Studio : なぜを歓迎すべき場。

形式より内容。

体感 : 環境に対する感度をあげること。


Olafur Eliasson




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2012-02-07 18:15:40

ものがたることをものがたる。

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"わからない"ことは、あたりまえにわからない。その両義性について考える。

ある人の作品を見て「わかりにくい」とか「わからない」という観点に関して

ーーその背景には、同調したいという意志や意欲、あるいは、自分の経験則に見合ったものとして獲得、対象化させたいという意図が無意識下に前提化され、結果として「わからない」のか...それとも、もっと根源的な他者像として、且つ明瞭なものとして「わからない」のか、その区別って、けっこう曖昧ですよね。

一般的に云うと、無意識が作用するのか、浅いものに深読みし、深いものを敬遠する傾向が顕著な気がします。評価を質(quality)と結びつけるのは、この「情報化された社会」では、ますます難しくなるのでしょう。

下記『ものがたりの余白』— エンデが最後に話したこと —より抜粋。


誠実さとユーモアは「遊び」の要素。

本を書くというのは、言葉がひとつの現実をつくることです。

ユーモアは傷つけようとしない。ユーモアはおおらかな態度なのである。

ユーモアは狂信的になることはありません。ユーモアはいつも、ある善意のおおらかさと結びついているからです。
なぜなら、ユーモアは、人間に弱みがあってはならないとは絶対思わないからです。その逆で、実はユーモアは、どちらかといえば、人間には間違いがあるからこそ愛すべき存在なのだとの意見なのです。

遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれるのだと(思いました)。

挫折の哲学

それは作家にとって一番大事なことだと、わたしはそう思っています。それも、苦い顔をして受け入れるのではなく、明るい顔で挫折を受け入れること。それが芸術家にとって一番大事なことでしょう。
なぜなら、芸術とは、ほとんど挫折だけで、できあがっているのですから。

わたしはこの歳になって、人生において大事なことは無償のことだと。そう信じるようになりました。それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。善行は、それが無償で行われるときだけ善いことなのです。

遊びも無償です。タダであり。徒労です。

言い換えれば、それはなんの役にも立たないし、なんの作用もない。

子どもたちはどのようなゲームの規則をも受け入れますが、その規則のなかでは首尾一貫していなくてはならない。

気づくことができるのは、あくまでも相対的に見て、であって、その大きさ自体ではわからない。
つまり、大きさ自体というものはないということです。それは幻想にすぎない。

言語とは、それがいかなる様式であれ、人間を互いにつなげているものです。

芸術から基準をつくりだすことはできません。

(神話なしでは)人は世界のなかに、いかなる秩序をも見いだすことはできません。

神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。人はそれを指針にできる。

Michael Ende


昨日、HereafterをDVDで...
"目には見えない"流れを詠むこと。"世界が置き換わる"ことについて考えさせられる。


小動物とエクリ


一昨日、大寒波の影響により四年ぶりと云われる御神渡りを見るため、諏訪に行ってきました。
ついでに諏訪湖から思いの外、近い...神長官守矢資料館に。

小動物とエクリ
小動物とエクリ


藤森照信氏の建築はロンシャン礼拝堂と同様、外観のフォルムが、まるで生物のような曲線で構成されいて、その存在感に興味を持ちました。

2012-01-25 15:01:44

talk...?というかdiscussion!のお知らせ

テーマ:ブログ
美術批評の粟田大輔さんと作品+展示に関して話します。


$小動物とエクリ


◎ギャラリー・トーク

2012年1月28日(土)

18:00-19:30

NADiff a/p/a/r/t 店内 にて
入場無料(予約不要) 
※30名様以降は立見となりますのでご了承ください。


NADiff Gallery


「書き換える」あるいは「置き換える」
そして「置き換わる」ことについて



空間のつくりかたは複合化されたコンテンツなり、コンテキストによるもの。
決して単一の概念では成立しない。

層状化したヒエラルキーをつくるのではなく、帯状の流れをつくる。

フレームを対象化することは、フレーム外で語ること。
フレームで考えない。自分たちでフレームをつくろうとする動きに興味がある。

時代を遡って、モノを写し取る技術や技巧に対し真摯に向き合うこと。
そして"つくること"に大きく関わる、あるいは参加することで気づくことが、もっと、あるはず…
その地点に身をおいて認識の裾野自体を拡げることが重要なのではないか。

風景との対峙、あるいは会話ひとつにしても、その捉え方ひとつにより、物事は変成され、
風景は移り変わり、何らか置き換われていくのだということの認識が必要なのかも…

空間自体をつくりあげようという意識や意図に自覚的になることで、自分たちがその背景自体をつくっている、あるいは参加しているという認識を持つことが大切であると思う。



松井冬子展、会場テキストより抜粋。


緊張が狂気に変わる直前におこる崩壊の予兆。

情念と重力には共通の関係を見いだせる。「落ち込む」という言葉通り、心理的な外傷にさらされた場合、心は重力に引っ張られるように落ち、這い上がれない。

恐怖によってつくられた従順と無垢は異形と畸形へ変化する。
執拗に意識しすぎることは湾曲を生む。
同じ物の連続や反復は狂気を受け入れる人を連想させる。

自尊心と服従の鏡像機能ーアイデンティティ生成の妄想。

休息=死


"死"を休息として受け入れること、その捉え方が、彼女の作品世界に“静寂”を招き入れている。



ヴァレリオ・オルジャティ展



“魅力的な建築とは原型的かつ唯一無二のものである、と信じるならば本当に魅力的な建築は、一人一人の頭のなかにだけ、その姿を現すのである” Valerio Olgiati


軸点をずらすことで、パースを強調、あるいは無限遠に拡張させる空間性を描く、こと。




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