2012-02-07 18:15:40
ものがたることをものがたる。
テーマ:ブログ
"わからない"ことは、あたりまえにわからない。その両義性について考える。
ある人の作品を見て「わかりにくい」とか「わからない」という観点に関して
ーーその背景には、同調したいという意志や意欲、あるいは、自分の経験則に見合ったものとして獲得、対象化させたいという意図が無意識下に前提化され、結果として「わからない」のか...それとも、もっと根源的な他者像として、且つ明瞭なものとして「わからない」のか、その区別って、けっこう曖昧ですよね。
一般的に云うと、無意識が作用するのか、浅いものに深読みし、深いものを敬遠する傾向が顕著な気がします。評価を質(quality)と結びつけるのは、この「情報化された社会」では、ますます難しくなるのでしょう。
下記『ものがたりの余白』— エンデが最後に話したこと —より抜粋。
誠実さとユーモアは「遊び」の要素。
本を書くというのは、言葉がひとつの現実をつくることです。
ユーモアは傷つけようとしない。ユーモアはおおらかな態度なのである。
ユーモアは狂信的になることはありません。ユーモアはいつも、ある善意のおおらかさと結びついているからです。
なぜなら、ユーモアは、人間に弱みがあってはならないとは絶対思わないからです。その逆で、実はユーモアは、どちらかといえば、人間には間違いがあるからこそ愛すべき存在なのだとの意見なのです。
遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれるのだと(思いました)。
挫折の哲学
それは作家にとって一番大事なことだと、わたしはそう思っています。それも、苦い顔をして受け入れるのではなく、明るい顔で挫折を受け入れること。それが芸術家にとって一番大事なことでしょう。
なぜなら、芸術とは、ほとんど挫折だけで、できあがっているのですから。
わたしはこの歳になって、人生において大事なことは無償のことだと。そう信じるようになりました。それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。善行は、それが無償で行われるときだけ善いことなのです。
遊びも無償です。タダであり。徒労です。
言い換えれば、それはなんの役にも立たないし、なんの作用もない。
子どもたちはどのようなゲームの規則をも受け入れますが、その規則のなかでは首尾一貫していなくてはならない。
気づくことができるのは、あくまでも相対的に見て、であって、その大きさ自体ではわからない。
つまり、大きさ自体というものはないということです。それは幻想にすぎない。
言語とは、それがいかなる様式であれ、人間を互いにつなげているものです。
芸術から基準をつくりだすことはできません。
(神話なしでは)人は世界のなかに、いかなる秩序をも見いだすことはできません。
神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。人はそれを指針にできる。
Michael Ende
昨日、HereafterをDVDで...
"目には見えない"流れを詠むこと。"世界が置き換わる"ことについて考えさせられる。
一昨日、大寒波の影響により四年ぶりと云われる御神渡りを見るため、諏訪に行ってきました。
ついでに諏訪湖から思いの外、近い...神長官守矢資料館に。

藤森照信氏の建築はロンシャン礼拝堂と同様、外観のフォルムが、まるで生物のような曲線で構成されいて、その存在感に興味を持ちました。
ある人の作品を見て「わかりにくい」とか「わからない」という観点に関して
ーーその背景には、同調したいという意志や意欲、あるいは、自分の経験則に見合ったものとして獲得、対象化させたいという意図が無意識下に前提化され、結果として「わからない」のか...それとも、もっと根源的な他者像として、且つ明瞭なものとして「わからない」のか、その区別って、けっこう曖昧ですよね。
一般的に云うと、無意識が作用するのか、浅いものに深読みし、深いものを敬遠する傾向が顕著な気がします。評価を質(quality)と結びつけるのは、この「情報化された社会」では、ますます難しくなるのでしょう。
下記『ものがたりの余白』— エンデが最後に話したこと —より抜粋。
誠実さとユーモアは「遊び」の要素。
本を書くというのは、言葉がひとつの現実をつくることです。
ユーモアは傷つけようとしない。ユーモアはおおらかな態度なのである。
ユーモアは狂信的になることはありません。ユーモアはいつも、ある善意のおおらかさと結びついているからです。
なぜなら、ユーモアは、人間に弱みがあってはならないとは絶対思わないからです。その逆で、実はユーモアは、どちらかといえば、人間には間違いがあるからこそ愛すべき存在なのだとの意見なのです。
遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれるのだと(思いました)。
挫折の哲学
それは作家にとって一番大事なことだと、わたしはそう思っています。それも、苦い顔をして受け入れるのではなく、明るい顔で挫折を受け入れること。それが芸術家にとって一番大事なことでしょう。
なぜなら、芸術とは、ほとんど挫折だけで、できあがっているのですから。
わたしはこの歳になって、人生において大事なことは無償のことだと。そう信じるようになりました。それだけが本質的なことなのです。それ以外のものはビジネスにすぎない。善行は、それが無償で行われるときだけ善いことなのです。
遊びも無償です。タダであり。徒労です。
言い換えれば、それはなんの役にも立たないし、なんの作用もない。
子どもたちはどのようなゲームの規則をも受け入れますが、その規則のなかでは首尾一貫していなくてはならない。
気づくことができるのは、あくまでも相対的に見て、であって、その大きさ自体ではわからない。
つまり、大きさ自体というものはないということです。それは幻想にすぎない。
言語とは、それがいかなる様式であれ、人間を互いにつなげているものです。
芸術から基準をつくりだすことはできません。
(神話なしでは)人は世界のなかに、いかなる秩序をも見いだすことはできません。
神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。人はそれを指針にできる。
Michael Ende
昨日、HereafterをDVDで...
"目には見えない"流れを詠むこと。"世界が置き換わる"ことについて考えさせられる。
一昨日、大寒波の影響により四年ぶりと云われる御神渡りを見るため、諏訪に行ってきました。
ついでに諏訪湖から思いの外、近い...神長官守矢資料館に。

藤森照信氏の建築はロンシャン礼拝堂と同様、外観のフォルムが、まるで生物のような曲線で構成されいて、その存在感に興味を持ちました。








