複雑な気持ち

ウッディー&ウィンディーな日々-A LifeLongCatcher


 私がまだ若かった頃、お江戸は下目黒で当時徒党を組んで活動していた仲間と一緒によく酒を飲んだものだった。その頃の行きつけの焼鳥屋に「すずめのお宿」という名の店があった。

 あ、別にスズメを焼き鳥にしていたわけじゃありません。ごく普通の焼鳥屋です。

 で、ある時談たまたまそこのおかみさんとみんなで野球の話をしていたら、おかみさんは言った:


 「私あの野村って解説者、大嫌い。だって、誰に対しても悪口ばかりで一言も褒めないんだもの。」


 これを聞いて私は複雑な気持ちになった。なぜなら私は小学生の頃から熱烈な南海ホークスのファンであり、特にホークスの主砲にして希代の名キャッチャー野村選手は私にとって神に等しい存在だったのだが、引退して解説者(当時)になった野村克也氏に対しては、おかみさん同様の感想を抱いていたからだ。それでも「大嫌い」にはなれなかったけれども(ヤクルト・スワローズの監督になる以前の話。その後もいろいろあって、監督としても大成した今の彼に対してはまた印象が別である)。


 野村氏当時の口癖「王、長嶋が大輪のバラならば、わたしゃ日陰の月見草」というのにも、複雑な反発を感じた。なぜなら私の知る現役時代の野村選手は、とてもとても「月見草」なんぞという代物ではなかったからだ。大捕手にして初の三冠王。本塁打数歴代二位。その彼が「月見草」に過ぎないのだったら、そんなところまではとてもいけないその他大勢有象無象の野球人の立場はいったいどうなるのだろうか。

 もちろん彼がこういう言葉で自分のコンプレックスや不遇感を故意に誇張し、自分の根性を養う糧としてきた、というふうな説明は私にもわかる。そしてハングリーで不遇な苦闘あってこそ、不屈の精神力で成功できるというのもうなずける。そういう根性にぜひあやかりたいものだと思う。

 しかしそれだけではどこか不完全なのではないか?という思いが私にはあった。そういう根性を養う過程というのは、己の成功に資するもの以外の一切に対する断念から成り立っているからだ。切り捨ててよいものとそうでないものとの区別は「成功」の二字のみで劃されてしまっているはずだ。


 私のような者を指して「甘ちゃん」と言う。しかしそれは同時に、野球こそあんまり知らないが焼鳥屋としては酸いも甘いも噛み分けた名人おかみの素直な感想にこだましてもいたのだった。

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 ひょんなことから、その昔の私の恩師の一人が晩学フルーティストでもあったのだということを発見してしまった。

 これは私としては衝撃。

 嗚呼!わが党の士よ。おーい、S先生、お互いぜんぜん知りませんでしたなあ。

 それも、日本のフルート界を代表するミスR.H.先生(故人)に師事したことがあったなんて。そういえば、R.H.先生は確かにあのガッコにゆかりの人だったけど、まさかS先生とは結びつかなかった。


 S先生はバイクに乗ったりゴルフをやったりダンスを踊ったりと、「身体を張って」ものを学ぶのがお好きなことは知っていたけどね。そして実を言うと、私がフルートを始めたのもその辺のことと無関係ではないので、一種の「フィールドワーク」的な意味も(少なくとも当初は)あったのだ。私の方がフルートに取り憑かれて、見事に本末転倒しちゃったけどね。


 一別以来ずいぶん経つが、私は頭の中で、いまだにS先生の独特の声、関西なまりの独特の口調を「再生」することができる。折に触れて、私は「S先生なら何というだろうな」と、意見を徴することができるのだ。


 私が「良寛和尚の書を見てフルートをやることを思いついた」と言っても、音楽仲間はみんな嗤うだけだけれど(そして私もジョークにしているわけだからそれでいいのだけれど)、S先生なら真意をわかってくれるかもしれない。実はこれ、本当にあった、切実な事件だったのだ。

 うむ。こうなったらこちらも負けてはいられない。私は学問をやめて久しい(といっても頭の中で実験を組み立てる癖はやめていない)が、いつかどこかでご一緒することだってあるかもしれん。不動産屋なんかに憤ってないでがんばろうっと。


 ・・・てか、S先生私が日本にいるとはご存じないだろうなあ。

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 いやあ、昨日は関東地方もたくさん雪が降った。 東京都心は9cmぐらいだったらしいが、神奈川県の私の住んでいる方では今朝になってもまだ10cmを超えているように見える。

 寒い上、歩きにくいので外に出ずに過ごした。


 ここ一週間ほどの間、求職活動の方はだいぶ進展した。少し希望が出てきた。

 身体の方も少し回復したようだ。昨日は朝154-92 夕138-85。計り始めてから初めて130台が出た。内科の医者の方は、前回の血液検査の結果を示して、総蛋白が低すぎると。栄養失調に近いそうだ。これも肝臓の悪化を物語っている。しかしとりあえず今の投薬と食餌療法をもう一月継続して様子を見ることになった。

 頭痛はやっぱり血圧のせいのようだ。下がってくると治まる。

 歯医者はもう一本臼歯を抜かねばならないのだが、その前にスケーリング。


 ところで雪といえば、私はこれまで、十四年間を雪国で暮らしてきた。札幌に七年間、ミシガンに三年間、マサチューセッツに四年間。これまでの人生の三分の一近い。

 雪国の冬というのは、いうに言われず厳しいものである。今の私の住みかなどは寒いといっても知れたもの。雪国のしばれる寒さとは比較にならない。3箇所のうち、雪がいちばん多かったのは札幌である。マサチューセッツの都会はそれほどでないし、ミシガンとなると内陸だから乾燥していて、雪は少ない。寒さは強烈だけれども。

 雪と寒気と、北国の二つの苦患のうち私にとってどちらが余計つらいかというと、それは雪の方である。雪は人の移動の自由を奪ってしまう。だから札幌がいちばん辛かった。もっと雪のひどい、たとえば新潟のような土地に住んだら、さぞかしたまらないだろうと思う。にもかかわらず私は雪山に登るのを好むのだが、これは景色がよいのと生鮮食料が腐らないことによるので、まったく別な話である。

 私の経験知によると、寒くて雪の多い地方はなぜか笛の音楽を発達させる。


 札幌にいたのはフルートを習い始める前の時代だ。ミシガンでは大学の寮(ドミトリー)に住んでいて、その音楽室で勉強の合間に一人で練習するのがせいぜいで、人前で演奏することなどほとんどなかった。しかしマサチューセッツでは、仕事の終わった週末、ケンブリッジにあるロンジー音楽院という学校に通い、そこのフルートオーケストラに参加した。


Longy School of Music


 この学校は、いわゆる音楽大学というのとちょっと違う。音楽大学というのは、日本と同じようにプロフェッショナルを目指す人のためのカリキュラムの単科大学(いわゆるコンサーヴァトリー)と、総合大学の中の音楽大学がある。ロンジーもそういうカリキュラムを提供してはいるのだが、それよりはむしろ、音楽大学に入学する前の段階で通うプレップ・スクールとしての色彩が強い。多くの学生はここを出るとニューイングランド音楽院(NEC)をはじめとした全米の音大に進む。先生もNECと掛け持ちが多い。また、リトミックのコースも有名である。

 ロンジーのもう一つの特色は社会教育で、これはハイスクーラーからおじいさんおばあさんまで、色々な年齢の色々なレベルの人たち向けのコースが用意されている。

 私の参加していたフルート・アンサンブルもそうした社会教育プログラムの一つで、トリックス・コートという中年の女の先生が指導していた。メンバーの中には作曲家がいて、新曲を提供してくれる場合があった。またナガハラという、そのころボストンで活躍し始めたフルートメーカーの職人さん兼社長もいた。よい図書室があって、楽譜なんかはぜんぜん買わないで活動できるのがありがたかった。

 このコート先生はどちらかというとアメリカ東部よりも西海岸で名をなした人で、それもフルートよりリコーダー吹きとして有名な人だ。ユーモラスな人だったが、練習はたいへんに厳しい先生だった。私はたいていアルト・フルートやバス・フルートといった低音パートを受け持たされたが、ずいぶんしごかれた。


 しばらくして私は勤め先がかわり、ロンジーに通うことは難しくなってしまったが、今から思うとずいぶんめぐまれていたものだ。こういう、市民が簡単に参加できるような社会教育に熱心な学校がたくさんあれば、われわれの音楽的生活はずいぶん豊かになるはずなのだが・・・。

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 さて前回は、私nobuの非音楽的小中学生時代をご紹介したわけだが、高校に入ると、というか、正確に言うと高校入学直前に異変が起こった。その原因は、下にご紹介する音楽のせいである。


MyFavoriteThings

My Favorite Things

John Coltrane

AMCY-1004


 中学校をもうじき卒業、進学先は決定、というつかの間の暇な日々を過ごしていたとある週末、私は友人二人と三浦海岸に日帰り旅行に出かけた。そのとき私は当時まだ珍しかったカセットテープレコーダーを持っていって、友人どもと行き帰りの車中や海岸で音楽やらDJの録音やらを楽しんだのだが、そのとき友人の一人が持ってきたテープの一本にこの My Favorite Things が入っていたのだ。

 ひとつの同じメロディーを発展させて、うねるように生きる喜びを歌い上げていく不思議な音楽(ずっとあとになってから数えてみたのだが、たしか第九変奏ぐらいまである)。私はその頃まで、ジャズなんてものはただ「ワケノワカラナイ音の流れ」であり、自分には生涯縁もゆかりもないものと思っていた。しかしこの曲を聴くと、いっぺんで気に入ってしまっただけでなく、もっともっと聴きたいという気持ちにさせられた。そんなことはほとんど生まれてはじめてであったから我ながらものすごく驚いたのを憶えている。

 この友人はそのとき、ほとんど何も言わなかったと思う。ただ「これ、ピアノがいいだろう?」と言ったのを憶えている(ピアノはマッコイ・タイナー)。これがますます私にとっては良かった。子供の頃よく、作りかけの美味しい料理をちょっと一口「つまみ食い」して親に叱られたり、料理を作っていて「味見」をしたら美味しくて結局全部食べちゃったりというような経験があるでしょう?

 あの状態である。

 ジャズってワケノワカラナイものじゃなかったんだ!


 しばらくして、私は自分の小遣いでジャズのレコードを買っては聴くようになった。なぜ「しばらくして」だったのかというと、私の家にはまともなレコードプレーヤーがなく、自分で部品を集めてステレオを作ったため、時間がかかったのであった。

 このジョン・コルトレーンのレコードはもちろん真っ先に入手した。それからチャーリー・ミンガス、MJQ、スィングル・シンガーズ、オスカー・ピーターソン、そしてもちろんマイルズ・デイヴィズ・・・と、私の高校時代はジャズまみれになってしまったのだった。

 いい時代だった。ロックでいえばビートルズは解散してレッド・ツェッペリン、エリック・クラプトン、ピンク・フロイドらが最高傑作を次々発表していた頃。モダン・ジャズはすでにフリー・ジャズやフュージョンの時代に突入していて、私はそれらの動きに遅ればせながら追いついていったことになる。いくらでも名演奏があり、しかも毎日のように新しいアイデアの曲が発表されていた。


 ここで私はすっかり音楽嫌いを脱却したわけだ。

 ネットサーフィンしていて、こんな楽しいサイトを見つけました。いいなあ。農作業は大変だろうけど、田舎暮らしにあこがれる私としてはうらやましい気持ちがおさえられない。

 考えてみると私は子どもの頃から動植物が大好きだった。生き物が成長したり、数を増やしたりすることに心底驚く子どもであった。

 だから、東京のど真ん中の高校に通うようになっても生物の時間というのがいちばんの楽しみだった。特にその頃はまだ分子生物学の草創期であり、一年の授業のはじめに「これはまだわかっていない」と教わったことが年の後半には「あれはわかった」ということになったり、「これこれだと考えられている」と教わったことがくつがえって「実はかくかくだということが証明された」となったりする。こんなに興奮することはなかった。ちなみに私は高校では音楽はとらなかった。それもそのはず、前にも言ったように小中学校での私の音楽の成績は惨憺たるものであった。まるで興味がなかったのである。

 それだったら、部活動も生物部に入れば良さそうなものだが、学校に入りたての時点での私はアマチュア無線というものに夢中だったので、そちらにはいってしまった。しかしアマチュア無線のほうは予算不足であまり大したことができなかったので、ひまがあると生物部の方にも顔を出して混ぜてもらった。

 その学校は何しろ都会のど真ん中だから、生物部の連中が植物を栽培したくとも校庭なんかは狭すぎて運動部の連中の邪魔になる。しかたなく屋上の、天文部のドームの隣に菜園があって、カボチャだのトマトだのキュウリだのコメだのを栽培していたのだ。この他に微生物実験班というのがあって、これはとれたコメを発酵させてドブロクを作るのだ。

 そのころ、私は生物学の本で、カボチャとキュウリはウリ科のごく近縁であり、染色体の数は同じで、そのかたちも駄洒落になるがウリ二つであることを知った。交配も可能だと書いてある。それで、私はこの二つは掛け合わせればアイノコができるんじゃないだろうかと夢想した。ただし、これには難点がある。カボチャの雌花には当然子房があって、そこから柱頭と呼ばれる器官が伸びていて、この先端に花粉がつくと、花粉管が柱頭の組織を押し分けていって子房に達し、そこで受精が行われるわけだが、この柱頭には種族保存のため、カボチャ以外の花粉がついて花粉管を伸ばしても、途中で化学作用により妨害する働きがあるのだ。

 ある夏の日、私は屋上の菜園に忍び込んだ。カボチャもキュウリも花盛り。花もじつによく似ている。人に見られていないのを確かめたうえで、私は安全剃刀をとりだし「手術」にかかった。まず、カボチャの雄花はすべて切り取ってしまう。次に、キュウリの雄花を一つ切り取って持ってくる。そして今度はカボチャの雌花の柱頭を子房につながっている根元のところから切り取って、そこにキュウリの雄花から、直接花粉をつけてやるのだ!

 この手術を、すべてのカボチャ雌花に施した。夏休みだから生物部員どもにはなかなかバレない。


 結果は惨憺たるもので、一つの例外を除いてほとんどすべてのカボチャの雌花は実を結ばなかった(私が「手術」を施す前に、すでに受精していたと考えられる雌花はもちろん普通のカボチャの実を結んだが、それらはわずかだった)。

 生物部員たちは異様に少ない収穫に直面して当然騒いだので、私は責任を感じて「手術」を白状し、大目玉を喰らった。しかしそこはさすがに、一つだけ生きている雌花を部員たちは興味を持って世話をしたのだが・・・

 それは、秋になってとんでもない化け物になった。実のヘタの方はまさしくカボチャ。差し渡し25cmぐらいある。しかし、実の差し渡しと長さの比はキュウリの遺伝子が発現したと見えて、1mぐらいある。しかもこれが先の方に行くにつれてキュウリのような深い緑色を呈し、キュウリよろしくブツブツがあるのだ。ヘタな絵で恐縮であるが、だいたい下の図のようなのが菜園のど真ん中に鎮座ましましてござる!

Pumpcumber

 ここにおいて生物部員たちはすてきなこいつを収穫し、私の「実験」は大いに面目を施した。


 11月3日の文化の日、私らの高校は文化祭をやる。そして文化祭の終わりの夕べ、生物部員たちは山岳部員と共同で、屋上で宴会をやる。山岳部は登山用のラジウスというコンロと鍋その他食器および燃料、生物部は菜園の収穫物と微生物班がつくったドブロクを提供する。最大の収穫物をもたらした私が宴に招待されたのは言うまでもない。

 ・・・ところが事態は二転し、宴会は惨憺たるものになった。というのは、この化け物カボチャキュウリ、片っ方の端はまさしくカボチャの味で鍋で煮て食べられたし、反対側の端はまさしくキュウリで塩をつけてどぶろくの肴に出来たのだが、その中間の大部分のところは、「味と香りはキュウリだが歯ざわりはカボチャ」という、とてもブキミな、喰えたもんじゃないしろものだったのである!ああ。


 またしても私は非難ごうごうの嵐をあびてしまった・・・。


 ハッピー・ハロウィン!


この記事を採点する

 そもそも、なぜ「晩学フルーティスト」などという変な生物が発生したのかを書いていくことにする。この生き物は私以外にもかなりたくさんいて、それぞれ発生のメカニズムはいろいろのようである。目下のところおそらくもっとも多いのは、会社を退職後の男性か、子育ての終わった女性、つまりこれまで忙しかったリタイヤードの方々が、老後の楽しみとして若いときは忙しくて余裕がなくてできなかったあの憧れの楽器をやってみたい、というパターンであろう。

 私はそれとはちがうし、このブログをお読みのかたがた(がいるとして)もそれはお察しのことと思う。

 そもそも私は、学校で音楽を習った経験というのは小中学校だけであり、それも大変にキライで、成績も悪かった。親が成金趣味の見栄っ張りで、ピアノなどというものが家にあり、少年期に習わされたこともあったのだが、そのころの私の関心はミミズやトンボや植物などに向かっていたので、音楽ごときに付き合っているヒマはなかったのである。音楽なんてものは人間が勝手に決めた無意味な決まりごとのグロテスクな寄せ集めに過ぎないのであり、そんなものは大自然の理法にくらぶべくもない、と当時の私は考えていた。

 要するに少年期の私は音楽に意味があることなど想像もできなかったのだ。

 また当時の私にとって男らしくなければならん、ということは至上命令のひとつであった。だから音楽のような、どこかなよなよとした、オンナッポイものに触れるのは虫唾がはしったのだ。


 また、小学校、中学校とも音楽の先生は嫌いだった。小学校の音楽は担任に教わるわけだが、専門の先生も一人いてこの先生はすぐ生徒にビンタを食わせるのでみんなに嫌われていた。この先生にはもうひとつ特徴があって、みんなでそろって校歌や文部省唱歌を唄うときなど、ちゃんとタクトを持ってきて、私らがテレビでしか見たことのないような、本格的なプロっぽい動作で指揮をするのである。後に大学生になって教授学という講義を受け、レポートを書かされるので図書館に行って本をあさっていたら、斎藤秀夫というひとが書いた指揮法の本があって、それを眺めていたら頭の中にこの小学校時代の音楽教師の動作が鮮やかによみがえった。そうだったのだ。あの先生はおそらく斎藤センセの忠実な信奉者でありフルトヴェングラーのなりそこないであったので、そのウラミを抱えて生きていたんじゃないだろうか。彼には彼の悲哀があったろうことは今の私には察せられるが、だからって、先生、小学生をむやみにひっぱたくんじゃないよ!

 これに対して、中学校の音楽の先生はおそらくマリア・カラスのなりそこないであった。この先生は一年生の最初の授業の時に一同に「コール・ユーブンゲン」という本を配った。そして授業といってはこの本を三年間忠実に歌ってばかりだったと思う。あとは左側に


バッハ

ハイドン

シューベルト

ベートーベン

ショパン


とかいう意味不明な名前が書いてあり、右側には


ピアノの詩人

楽聖

交響曲の父

歌曲の王

音楽の父


と、これまた意味不明な文句をならべて書いてある紙を渡されると、鉛筆で線をひいて「左の人名と右の語句を結」ぶことができるようになったぐらいだけどそんなもんボク関係ない、「ウルトラの父」ならそりゃあ大いにカンケーあるけどさ。

 多分、小中学校時代を通じて、バッハの音楽をそれと知って聞いたことなんか一度もなかったと思う。「管弦楽組曲」すら記憶にない。

 だいたい音楽に限らず私の受けた芸術方面の教育というのは悲惨であった。これはそれらの学科が進学とあまり関係がないということもあるだろうが、ひとつにはやはり授業そのものが物的にも人的にもあまりにも貧しかったせいだと思う。いまでも憶えているのだが、中学校の美術の教科書にカンディンスキー の絵が、3センチ×4センチぐらいのモノクロ写真で載っていた。それを見た私のクラスメートの一人が「こりゃあんまりだ。こんなの幼稚園児だってかけるじゃないか。バカじゃないのかこいつは」といっていた。

 まったくの偶然だが、私はその絵の実物がどんな代物だか知っていた。成金趣味の私の母親は下手な油絵をやっていたので、家にカラーの大きな画集があったからだ。それで私はクラスメートに、これは教科書が悪いんで実物は全然違うんだ、もっとすごいんだ、と力説したが、もちろん不成功に終わった。いったいカンディンスキーの白黒チビ写真にどんな意味があるのか、教科書を書いた野郎はわかっていたんだろうか。


 話は音楽に戻って、そんなこんなであったから、高校に進学してもう音楽とは手を切っていい、とわかったときは、心からほっとした。


 ところが・・・ところが、である!高校一年のときに事件があって状況は皮肉な展開を見せるのである。

(続く)