スポーツ大陸:山下泰裕
テーマ:テレビ録北京五輪の男子柔道は外国人の力に圧倒された。しかし体格差をもろともしないで攻めて連勝した柔道選手がいた。怪我に泣かされ、ボイコットに泣かされ、ライバルの台頭に脅かされながらロスアンゼルス五輪で金メダルを取った。
五輪では金メダルを宿命付けられている柔道。山下は外国人選手に一度も負けなかった。
一本背負いの古賀、内股の井上など、決め技を持った選手がいるが山下にはそれが無い。「あえていうなら隙の無い柔道・技を繋ぐ柔道」と本人。
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熊本県山都町に生まれた。小さい時から体格が大きく「悪ゴロのやっちゃん」と呼ばれていた。
実家は生鮮食料品の店を営んでおり、両親は忙しく、祖父が面倒を見た。道場に入っても強くて負けなかった。山下は祖父と熊本に出た。藤園学園中学で柔道部に入部。ここで恩師の白石さんと出会う。白石さんは大外刈りを伝授した。しかし大外刈りだけでは勝てないと悟り、白石さんは技を繋ぐことを教える。
大外狩りは諸刃の剣であり、それが決まらなければ大内刈りで仕留める。また大内刈りからケンケンで押し込む方法と、大内刈りから内またで仕留める方法も身につけた。
身長も高く体重も重い外国人選手には、一度の技だけでは決まらないので、こういった連携が大事だった。
また軸足を鍛えるため、、畳が磨り減るほどの練習量がそれを支えた。
五輪で優勝し日の丸を見たいという具体的なイメージを既に中学時代に持っていたことが作文でわかる。
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高校は恩師のいる九州学院に入学。しかし相手がいない。強い相手と稽古がしたいという思いがあり、東海大学の誘いがあって、恩師白石を裏切るのではという思いを断ち切って、東海大相模へと転校。ここで山下の柔道をよし進化させた当時の部長佐藤宣践とめぐり合う。佐藤は才能を惚れこみ、自宅に住まわせて食事の面倒から見た。佐藤も「指導者生命」を懸けていた。
当時は遠藤純男と上村春樹という油の乗った選手がいた。ふたりは世界チャンピオンである。この二人を倒さなければ日本代表にはなれない。初めての対戦では上村にも遠藤にも敗れた。しかし二人はいずれライバルになるだろうという予想はできたという。
山下は体力トレーニングを強化し、筋力の強化、ケンケンによる軸足の強化を図った。大学3年の時に大内刈りから内またの連続技で上村に勝利。しかし力とバネのある遠藤にはなかなか勝てない。佐藤は寝技を仕込んだ。立ち技で勝てない相手に対する対処方法だ。大学4年のときについに遠藤にケンケンから内また、そして寝技に持ち込み勝利した。
1979年世界選手権優勝。夢の五輪は1年後に迫っていた。
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1980年モスクワ五輪、23歳の山下は金メダル確実と言われながら、五輪ボイコットにより山下は観客席にいた。想像もできない挫折だった。自分の力ではどうしようもない現実に打ちひしがれた。「ああいう思いは2度と味わいたくない。」と本人。
その直後の、日本選手権で遠藤純男との戦いにおいて、遠藤の蟹バサミの技をかけられて骨折。「全部目標も失ったが、ゆっくり休めという声だと思った。」と本人。
その山下を追って斎藤仁がヒタヒタと迫っていた。卓越した運動能力と力強さで、ライバルとして名乗りを上げた。
1983年の世界選手権では、95kg級で山下が、無差別級で斎藤が優勝。山下も斎藤を最大のライバルと目していた。
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そしてロス五輪、山下は選手代表として乗り込んだ。2回戦で、内またをかけたときに軸足を怪我。寝技に持ち込んで勝った。右足ふくらはぎの肉離れだった。準決勝は当然相手は右足を攻めてきた。ベルコロンボに対し、大外刈りをしかけたのちに、大内刈りから寝技に持ち込み勝利。しかし怪我をさらに悪化させた。
五輪でなかったら棄権する状態だった。
決勝はエジプトのラシュワン。絶好調だった。ラシュワンは早く動けば山下はついて来れないと言われていたという。山下もどうしたら勝てるかを思い悩んでいた。「この程度の怪我で負けるもんか。」という気持ちだったという。
ラシュワンは右を狙い、次に左を狙ったがバランスを崩した。その一瞬の隙に本来の軸足ではない左足でしかけ倒した。そして寝技に持ち込んで勝利。この瞬間のやったことのない動きが咄嗟に出ることは、練習の賜物だという。「記憶にあるのは日本でいちばんシアワセだ。」と思ったことだという。
次に何をやるかを常に考えてきた山下が五輪の金メダルを掴んだ。
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山下はこの年に国民栄誉賞を受賞。数々の栄光をもとにこのまま引退するのではと思われていたが、山下は畳みに戻ってきた。翌年の日本選手権は斎藤仁との決勝になった。斎藤も山下を倒さない限りは日本一ではないという思いもあったという。
この試合、力は互角、互いに譲らずに、攻め手に勝った山下が判定勝ち。これが山下の最後の試合となった。
1895年9月、引退会見が行なわれ、203連勝、対外国人選手無敗、日本選手権9連覇など数々の記録を残した。
「大事なことは今までのことを、これからに生かすこと。前向きに。」








1 ■山下選手
本当に 強かった
ですね。
今の人の
強さとは
違いますね。