臨床美術ワーク 日々のタネ

臨床美術は、認知症の予防や発達が気になる子供へのケア、または社会人向けのメンタルヘルスとしての美術療法です。勉強会やボランティアなど、日々の記録を公開しています。

「臨床美術」および「臨床美術士」は、(株)芸術造形研究所の登録商標です。


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やっと一息ついてブログに向かっています。
保育園での造形時間を持つようになってから、
毎週何をやろうか考えているうちに
気がついたら今年もあと2ヶ月足らず・・・。わあ!

臨床美術のプログラムは1時間~2時間使いますが、
保育園での環境は制作時間30分。
3、5歳さん7~8名を保育士さんとふたりで担当します。

なかなか厳しいですね。
特に時間の制約が・・
描くことに気持ちがだんだん乗ってくるところで終了してしまうので
子供たちも「やだ~もっとやりたい~」
となってしまい後ろ髪が引かれる思い。

一方で、やはり小さい子は集中力が持たないので、
30分がちょうど良かったりもする。
興味のある子は短い30分だけど、
ツボにはまらない子は長い30分。

そして時々行事の工作が入って・・
今だったらハロウィンだったりクリスマスだったり
「多少の違いはあれど、だいたいみんなと同じもの」を作ることになると
なかなか「表現と向き合う」ことろまで落とし込めません。

まあ、いろいろな画材や材料に触れるだけでも
子供たちは充分におもしろがってくれるので
それでいいのかな、と考えているところです。

創作活動の醍醐味は
その子の言葉にならない何かが、おもてに現れること。
それが表現です。

例えばM君は絵の具でも、色紙の選択でも
「赤~青~紫」の組み合わせが多いな~とか
S君は「黄~緑」の色域の選択が多いなぁとか

絵の具が好きか、粘土が好きか、
この子は何が好きで、何に興味を持っているのかな~

ご家庭で、好きなことを、思いっきりさせてあげてほしいですね。
言葉で上手に説明できないうちは。

「なんだかよくわからないもの」
「偏ったり、中途半端に見えるもの」
が目の前にあるとモヤモヤしますが
ガマン。。
本人の中ではちゃんと理由やストーリーがあるのです。


子育てでも仕事でも、目の前の現象が
「作業」か?
「表現」か?
を分けて考えると面白いですよ。

小さい子は存在自体が表現のカタマリみたいなもん(笑)
上手に作業することはできないけれど、
成長するに従ってだんだんできることが増えてきます。

でも「作業」が上手になっても
「表現」がうまくできないと、
人間関係につまづきがでてきそうな・・?


子どもの現場でも高齢者の現場でも、
当人ができない「作業」は手伝ってもいい。
でも「表現」は他人が手を付けちゃダメです。

これ結構難しいんだよ~

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「育てにくい子にはわけがある」木村順著

(前回からの続きです)

触覚以外、「視覚」「聴覚」についても言及しています。

ものを見るということは、まず対象物に視線を向けて、眼球運動をコントロールし「焦点をあわせる」ことができて、はじめて対象物の「色」や「形」がわかります。

そしてこの眼の動きは身体の平衡感覚と密接に結びついている。
平衡感覚にトラブルがあると「よく見る」ことが難しかったり姿勢が悪くなったりする。

また、耳の聞こえが悪くなると大きな声でしゃべるようになったりするように、感覚情報が不足すると、それを補おうとして自己刺激行動を作り出しやすい。

多動の子供たちは、感覚の鈍さを補おうとして耳の奥の三半規管や耳石に強い刺激を取り入れるために、飛び跳ねたり走り回ったり高いところに登ったり。動きは「激しく」「パターン的」。
そうやって自分の中でバランスをとっているんですね。

平衡感覚が適切に整ってから、はじめて「ゆっくり」と「調節的に」動くことができるのだそうです。

不器用な子、落ち着きのない子には、ブランコやトランポリンなどの揺れや回転の情報を脳に取り入れると平衡感覚が鍛えられていいそうです。


また、発達につまずきがある子供たちは、普通の教育環境だけでは自分からチャレンジしていく力が弱く、経験や発達の積み上げが進まないという発達の「未学習」があります。

また、脳が正常だと体の動かし方や言葉の使い方、対人関係に至るまで自己修正能力があるのですが、ダメージがある脳では一度学んだ行動様式が固定化され、修正がききにくく「誤学習」が生じてしまう。

この「未学習」と「誤学習」を年齢とともに積み重ねて増大させてしまう、ここが「発達障害」と「健常児」の境目なのだそうです。


しかし、育てにくいと思う理由が「親(自分)のせい」なのか「子どもの発達」なのか
両方グレーゾーンだと、つらい。両方自分のせいだと思ってしまうともっとつらい。。

そういうのってどこで見分けるの?と友人の保育士に聞いたら
「どんなやんちゃな子でもイキイキしてれば問題ない。やっぱり目だよね。目があわせられない子は心配」と言っていました。


育てにくい子の作業療法は、まず子供の発達のメカニズムを知り、つまずいている子供たちの何が「未学習」で何が「誤学習」なのかを読み取ることからスタートするそうです。

大切なことは目の前の子供の状態像をしっかり把握する。
「はじめに評価ありき」の発想が重要であるそうです。

その子の状態像の「評価」があるからこそ、そこから「なぜこの状態になってしまうのか」についての原因や要因を仮説に基づいて推論していくことができる。

問題行動を意味づけし、仮説を立て、そこに対してアプローチできる療養的視点があってはじめて対処することができる。

目標ありきの発想では指導者の期待感が憶測や思い込みを作り出す可能性があることを知っておくべきだ、という指摘は本当に痛い。

著者は、各々の思い込みを避けるためには自分の実践を言葉に置き換えていく努力が必要で、臨床の業界全体が発展していくためにはひとりの経験の積み重ねをできるだけ多くの人と共有していく必要があると説いています。

「なんとなく伝わってきた」ではなく、はっきりと読み取った基準を自覚して「ことば」にしていく、その営みを通してその職種が「専門職」として発展していくのだと指摘しています。
これは作業療法の現場でなくとも重要なことでしょう。


臨床美術の現場でも、相談できる仲間がいると心強いです。
セッションは人数に応じてメインスタッフとサブスタッフで作り上げますが、一人で現場をこなしている人も多いと思います。

専門職の人って深く追求していくのは得意ですが、横のつながりは苦手だったりするんですよねしょぼん

せめて心はオープンにしておきたいものです。。

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「育てにくい子にはわけがある」木村順著


この本で興味深かったことは、育てにくい子供の理由を作業療法士の著者が感覚統合という観点から分析していることです。

この本と同時に自閉症である東田直樹さんの「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」という本を読み進めていたのですが、育てにくい子供の理由や認知症状の周辺理由が「感覚統合のつまずき」という視点から共通するものがあると考え、考察してみました。

まず、「触覚」には意識にのぼらない反射的・本能的な皮膚感覚の「原始系」と、理性的・知的な「識別系」という二つの系統があります。

おおまかにいうと、この識別感覚系統が原始系感覚を制御することができずに、混乱したり暴走したりすることがあるようです。

触覚というのは外界との関係を調整する感覚であり、自閉症の東田氏も「僕たちは原始の感覚を残したまま生まれた人間なのです」と言っている。

感情に制御がない赤ちゃんの感覚は原始系が強い。何でも口に入れて確認しようとするのは皮膚感覚でものを識別することがまだ難しいからかもしれません。舌が一番、脳に近くてよく動く。

三歳を過ぎると手探りで「素材」「形」「大きさ」の区別ができるようになり、成長につれて原始系と識別系が拮抗し合いながら触覚は発達していきます。


識別系が原始系をうまくコントロールできると、例えば肩をたたかれても「なあに?」と相手に注意が向きますが、原始系を抑制しきれないと恐怖が先に立ち「やめて!」と触られることを嫌がる本能的行動が優位になる。

このことを触覚防衛反応と言うのですが、散髪や歯磨き、爪切り、帽子をかぶることを嫌がるのも、この原始系の感覚優位によるものだと著者は指摘しています。
一方で東田氏は記憶のフラッシュバックもあることを指摘しています。

感覚の交通整理に不具合があると、脳を通して自分のボディイメージの発達が歪んだり未発達になり、自分の身体でありながら実感が上手くつかめない。脳と体がうまく連動しない状態ですね。

他人に身体を触られることは、自分でもコントロールできない体を他の人が扱う恐怖があり、自分が自分でなくなる恐怖があるようです。
さらに子どもによっては触ることで自分の心を見透かされてしまうかもしれないという不安も起こることがあり、行動の不適応が出てきます。

肌を触れ合わせることは、心を通わせることに重要な役割を果たしていますが、触覚防衛反応が裏目に出てしまうと、親が子供に触れようとしても拒絶されてしまう、子供の側からすると理屈抜きの不快さを親から強いられるという悪循環に陥ってしまう。

これは私自身にも覚えがあります。不快なものに対して子供たちに「慣れさせたい」「頑張らせたい」「がまんも必要」という態度。しかし触覚防衛反応がその子の気持ちレベルではなく生理的な症状と捉えると、これらは有効な手だてではない、という筆者。

ではどうしたら?

暴走する原始系の感覚を制御するためには、識別系の感覚を育ててあげるとコントロールができやすいそうです。

例えば袋の中に隠しているものを何だか当てる「手探りあそび」。これは外界を手探りしていく遊びです。

または自分の体を探索する遊び。背中などに指でカタチを描いて当ててもらう、目で見えない体の部分にシールを貼って探してもらうなど、自分の身体に注意関心を向けさせる。

自分の体で感じて、はじめて自分の体を認識できる。
触れているものにちゃんと注意・関心が向いて、素材やカタチを「識別」する。
この固有覚がきちんと整理されると原始系感覚の暴走に抑制がかかるそうです。

(後半へ)
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言葉だけでなく、自然とカラダを使う育児っていいですよね。

褒めるとき、なぐさめる時は頭をなでたり、やり遂げたらハイタッチをしたり。
送り出す時に背中をポン、とたたいたり。

湯船の中では背中にひらがなやカタカナを書いて、あててもらったり。

子供たちが小さい時、言うことを聞かないときは「くすぐりの刑」をやってました。(もちろん怒鳴ることもありつつ)

「笑い死んでしまえ~!!」
「や~め~て~」
とか言い合いながら脇の下をくすぐります。
息があがってゼーゼーしだしたら終了。


次女が「遊んで~」とやってくると、手押し相撲をやります。
二人で向き合って足を揃えて立ち、相手の手のひらを押してバランスを崩す。体の中心線が鍛えられる。

長女はイライラすると「相撲やろ~」とやってきます。10歳を超えるともう互角。
四股を踏んでから、取っ組み合います。台所で相撲・・。

ものの30秒のストレス解消、親子相撲。おすすめです。
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「なぜ、回想療法が認知症に効くのか」小山敬子著


回想療法の具体的な手法や実例が書かれているのかと思い手に取った本ですが、認知症周辺の基礎知識から主に著者の経験に基づく高齢者の居場所作りの葛藤が描かれていて、回想をキーワードに自宅で認知症高齢者を支えるためのヒントがちりばめられていました。

回想法はアメリカのロバート・バトラー氏が初めてライフレビュー(人生回顧)というものを提唱。彼の発言の中に、1950年代のアメリカ心理学会の統計マニュアルには回想する人のことを「(つまらないことを)しゃべり過ぎ」と見なし、回想自体が老年精神病の初期症状だという判断に驚いたという記述があります。

しかし高齢者の回想には自然で普遍的な意義があり、未解決の過去の葛藤が解決に至るプロセスではないかと考えたことが回想法の始まりです。

エリクソンが提唱した8つの心理社会的発達段階のうち、人生の最終段階の老年期の発達課題が「自我の統合」であることをベースに、回想する過程には人を癒す効果がある。
ただし未解決の葛藤を思い出すと言うことは苦痛や不快感を伴い、専門家の介入が必要になります。

これに対し、レクレーションとしておこなう回想法は痛みを伴わず過去の楽しかったこと、嬉しかったことを思い出すことで精神の安定が得られるものを取り上げます。

回想法の目的は昔を思い出して皆で語り合うことで楽しい気分、幸せな気分になるということ。大切なのは楽しむことのみに目的があるのではなく、認知症やうつ症状などの症状改善を目的としていること。

過去を回想するにあたっては五感を刺激することも大切で、何かを思い出すことによって別の感覚が呼び起こされ、脳に変化が現れます。子供の頃遊んだ野原、夕焼けの匂い、流行歌とその時の自分の立場、今まで一番美味しかったもの。

戦後から自分が生まれる前の間にどんな生活様式の変化、歴史的事件や歌の流行があったのか調べると高齢者との話の糸口がつかむきっかけになりそうです。

会話だけでなく、手に取れるモチーフがあったら、さらに思い出す風景は立体的になります。

回想法には道具や写真を使ったり、劇仕立てにしたりするものがあるようです。セッションの中で歌い、写真を見せ、モチーフもある臨床美術は五感を刺激しやすく、話のきっかけを作り出しやすい。会話から記憶が呼び起こされ、脳に映像として結べれば成功でしょう。

昔の映画を見たり、大正~昭和に使われていた道具などを見たりして、高齢者の年代の空気感を肌で感じることも、セッション導入のヒントになりそうです。

先日とあるテレビ番組で紹介されていた、介護士をしている若い女性からの投稿で興味深かったものがあります。
「今現在施設のお年寄りは唱歌や童謡を聴きながら場の共有ができているが、自分たちが今聴いている音楽はJ-POPからR&B、ヒップホップ、テクノ、様々な音楽ジャンルが多岐にわたりすぎ、果たして自分が歳をとった時、施設でどんな音楽が流れるのか想像がつかない」というものでした。

なるほど、確かに想像がつきません。
番組のMCが「きっとみんな個室でイヤホンつけてバラバラに好きな曲聴いているのよ」という言葉に深く頷いたくらいです。

本書でも実際、世代も生きてきた場所も違う様々な人間が集う施設の作り込みは難しいとあります。
回想法はその場のオリエンテーリングだけではなく、回想を促すようなきっかけ作り、環境自体を回想空間にすることも含まれます。

施設の取り組みとしては「こたつ」や「畳」を憩いのスペースに導入したり、いろりを作ってみたり。ただこの「和み」の空間だけでは生きていく力は湧いてこない。
家の中で役割を持たせようとすると女性は台所仕事など喜んでおこなうが、男性高齢者の役割が見つからない。体を動かすといっても、疲れやすいためせいぜい2~30分。
「職場」を作ると、培った大人の処世術からどろどろとしたものが生まれてしまう。

生活のリズム、興味関心のメリハリを作るために著者が最終的にいきついたところは「学校」という場の空間でした。
教室形式の並べ方の椅子と机。
黒板や始業ベル。
体操の時間、家庭科の時間、お楽しみ会などの時間割。

授業と休み時間というメリハリの効いた時間の過ごし方により、失禁率が激減したという報告もあるそう。介護者にもメリハリがつき、夕方からは部活もある。そして卒業というかたちを取って入居者の在宅復帰率を高める。

また、著者は家庭でしかできない回想法として、家族がその人との歴史を共有することの重要さを説いています。

自伝やエンディングノートを書いたりして人生のまとめをすることは、「まだ叶わない夢の実現や確執の終焉へ向かうことがあり、その意味がその人の中で再統合される。再統合が上手くいけば、それはその人にとって新しい人生の意味となる」とバトラーは語っています。

脳の多くの場所を使って人生を回顧すると、これまでの経験がより生き生きとしたものになって目の前に立ち現れてくるかもしれません。

子供の立場としても、私が生まれる前の両親の歴史全体を知ることができたら、私の子供に引き継いで渡すべき何かが見えてくるのかなと、ふとそんなことを考えました。
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「生きるとは自分の物語をつくること」
河合隼雄、小川洋子著

臨床心理学者と作家が対談を通して人生の物語にまつわる話を語っている本ですが、複数回にわたる対談の途中で河合氏が亡くなられているため、結果的に河合氏のほぼ最後の言葉を対談を通して受け取っていた小川氏。小川氏の「博士の愛した数式」も読んだことがあり、その美学に共感しつつ、小川氏が小説家として考えていることとそれに対応する河合氏の語りに興味を持って読み進めていました。

本の中で、「臨床心理のお仕事は、自分なりの物語を作れない人を作れるように手助けすることではないか」という小川氏の投げかけに対し、河合氏は人が話すのをただ聴き、その人自身が何か作るのを待っているだけです、と言う。

そして、その患者さんが治っていく時というのは、すごく上手くいくことの偶然が重なっていくという。そういう偶然が起こる「場」に気づくか、気づかないかが、病が治るか治らないかにかかっているそうです。

もちろん患者さんへ寄り添い、距離の取り方から言葉の掛け方まで、培った経験と技術があってこそ言えることだと思いますが、河合氏が一流の心理療法家と言われる所以は、自分が治したという感じはほとんどないというところなのでしょう。
そのような河合氏でもやはり最初は患者さんを治そうと思って張り切り、疲れ、結果がよくないことも多々、無駄と思えるような悩みの時期も必要であった、と思われるそうです。

問題なのはその悩みの時に、納得しているのは先生だけで、患者さんを置き去りにしてしまうことがあるということ。
相手を置き去りにして、自分が早く了解して納得したい。
そういう気持ちと対峙できるかということ。
これはかなり自分としては難しい。

中にはあれこれ指示や忠告をしてくれる指導者になびいてしまう患者さんもいる。
河合氏曰く、「僕のところに来たら、自分で自分の物語をつくらなきゃならないから大変よ」ということですが、乗り越えようとしている人に最後まで寄り添うためには、長年の経験と勘に裏打ちされたある程度の見通しが不可欠で、かなりの精神力が必要となってくるはずです。

「でも僕にはアースがあるから大丈夫」と、秘密を抱え込まずにすぐに忘れられること、でも記憶としてまた取り出せることなど、自然体というのはこういうことかと感心することしきりでした。

よく造形教室で「個性を大事にする」「感性を引き出す」という言い方をしますが、では個性や感性とは一体何なのだろう。
抽象的でとらえどころがないのですが、河合氏は、「生きるということは、矛盾や不条理や葛藤に満ちている。その矛盾を私はこう生きました、というところに個性が光るのではないか」と言っています。

結果的に光るのであって、光らそうと思って光るのではない。
そう考えると、障がい者や認知症の患者さんは、おのずとその存在だけでその人の個性が光るというものです。逆に会社という組織の中に埋没している健常者のほうが自分の個性を見つけることは難しい作業かもしれません。

自分の生きている「時代」にも、人生の物語は左右されます。
私の現場に、よく満州にいた時のことを話してくださる高齢者の方がいらっしゃるのですが、輝かしい時代であったようです。意識がはっきりしてくると、生き生きとその時の様子を伝えてくださいます。魂が輝いていた時代の記憶を呼び覚ます瞬間が制作の中でフッと呼び出されたのでしょう。

本の中では最後に「魂のあるところ」として対談が語られますが、心理学の世界では「魂」という言葉を持ち出したら「アウト」なのだそうです。非科学的だと批判されて、1965年代から15年くらいは学会で「魂」という言葉は言えなかった。

それが80年代に入って、まわりの雰囲気が少しずつ変わってきた。90年代に入りインターネットが普及しだすと他人の話が身近に語られるようになり、スピリチュアルという言葉が流行ったり、今ではNHKが深夜にUFOの番組を特集していたりする。
非科学的なものも受け容れられる土壌ができつつあるのかもしれません。

遺伝子工学では、サイエンスでもデイ・サイエンス(昼間の科学)とナイト・サイエンス(感性の世界)があり、さらに最近ではミッドナイト・サイエンスという、夜中にフッと頭に浮かび上がるようなことが大事だと考える風潮まであるそうです。

見えないものも意識上に感じ取る。
絵画が画家という特別な人たちのものではなく、一般の人に臨床美術が広がりを見せつつあるのも、何かを感じ取る人が増えてきたことと無関係ではないかもしれません。

絵画や造形作品の鑑賞には、なんとも言えない、言葉に置き換えられない良さというものがあります。言葉にしてしまったらなんと陳腐な、、と自分でもがっかりするくらい、本当に微妙な気持ちのゆらぎです。

ひとつひとつの作品ではよく見えなかったことでも、年間を通してその人の作品を見ていると、その人の色やカタチが作品の背景に浮かび上がってきます。
そうして紡ぎだされた作品は、故人が生きてきた証として、残された者に語りかけてくれる物語となってくれることでしょう。
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3級の課題では福祉や介護、造形関連の本50冊をピックアップし
その中から指定された10冊のうち、さらに5冊を選んで感想文を提出します。

自分が行き詰まった時に調べられる書籍をあらかじめ選んでおくのはイザという時助けになります。
誰か何かの役に立つかもしれないので5冊分、この場で紹介していきたいと思います。
興味があったら読んでみてください。
(感想文ですが内容説明に著作の流用もあります。ご容赦ください)

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「こころの処方箋」河合隼雄著


河合隼雄氏の「こころの処方箋」は、実際自分が心の持ちように困っていた時に出会い、折りに触れて本を開き、その時々で自分に当てはまるところを拾い読みしてきました。

理不尽なことやトラブルがあっても、何万もの人を見てきた心理療法家だからこそ言える、中庸的な心のありよう、ものの見かたの提案が具体的に書かれ、読むと気持ちが矯正されます。その中でも臨床美術に使えそうなトピックとして、「二つの目で見ると奥行きが分かる」というのをあげてみたいと思います。

人間にはなぜ二つの目があるのか。この事実を象徴的にとらえると、ものごとの奥行きを知るためには、少なくとも二つの異なる視点が必要だと言えそうだが、読者はどのような二つの目を考えるだろうかと、著者は投げかけてきます。

カウンセラーとしては目の前にいるクライエントに対して、いい面と悪い面を見極める、甘い目と厳しい目の両方が必要だと説いていますが、「男の視点と女の視点」、「天上からの視点と地底からの視点」、「主観的と客観的な視点」など、問題によっていろいろ考えることができそうです。

人は景色を見るとき、焦点をいろいろなところに合わせながら立体像を結びます。
しかし絵を描くときは、二つの目がせっかく捉えた奥行きのある立体像をまた平面にして指先から出力するという、まったく逆のことをおこなっています。

これは、かなり葛藤のあることなのでしょう、良くデッザンの際には片目をつむり、スケールでモチーフの距離を測ります。

そこには無意識のうちに、見たものをありのままに描きたいという願望があり、あまり主観的にゆがめたくないという気持ちがあります。自分が見たものと、描いたもの、その幅に落差があると、人は落胆して描くのをやめてしまったり嫌いになったりします。


臨床美術の魅力の一つに、画面を回転させたり遠くに離してみたり、意識しながらものの見方を増やしたり、変えていくところがあります。
客観的にものを捉える視点と、一方でのめり込んで自分の見たいようにものを見ても良い、というふたつの視点が制作の中でバランスがとれるといいのではないでしょうか。

一方でセッションでは、「高齢者の視点」「幼児の視点」「認知症患者さんの視点」「健常者の視点」という、立場の違う視点も交差してきます。

先日高齢者を疑似体験する機会を得て、白内障と視野狭窄が体験できるゴーグルをつけて新聞を読んだのですが、まったく文面に焦点があわすことができず、大きな文字以外は捉えるのが難しい、ぼんやりした世界。これを長く見続けていたら、やはり、意識もぼんやりしてくるでしょう。触覚や聴覚や味覚も、使わなければ鈍ります。

なぜ五感で感じることが重要なのか、視覚が充分に機能している健常者ではなかなかわかりませんが、想像を働かせると高齢者の感覚がみえてきます。


この本の中で肝に銘じたいトピックのふたつめは「善は微に入り細にわたっておこなわなければならない」ということ。善意でやっていることは、自分が好きでやっているだけで、実は押しつけ迷惑なだけということもあるかもしれません。

相手を喜ばせたいという思いが強いと、逆に子供や高齢者の自立を阻むことになるかもしれない。褒める、というのはよく考えてみれば傲慢と表裏の関係です。「させていただいている」という謙虚な気持ちがないと、傲慢さはすぐに伝わってしまいます。

その一方で「うそからまことが出てくる」ということも筆者は言っています。

うそでも何でも、「やれる」「できる」「素晴らしい」と褒め続けていると、なんとか努力して本当のことになってしまう。ただ、まことがでてくるまでうそをつき続けるのはなかなか難しく、だいぶ忍耐や勇気を必要とする。

うその中にも何らかの真実味がこもっていることが必要で、それをどうやって見つけていくか。
セッションの鑑賞会の思案のしどころです。手を変え品を変え、したたかに褒めどころを見つける。
そう思うと、なんとかして褒めなくては、というプレッシャーも薄まるような気がして楽になります。

どんなに認知症の症状が進行しても、常にその時の相手の可能性を信じていれば、それが希望につながるのかもしれません。

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久しぶりの更新ですあせる

先日、無事に臨床美術士3級の終了考査を合格して気持ちが一段落つきました。

去年の4月にスタートしてから、もう1年!気がついたら次の春ですよ。わぁ。
なぜこんなに月日の経つのは早いのかしら・・。

4級を取得してもずっと続いていた試行錯誤の悶々、セッションの不安、気持ちのブレ、
それが少しでも解消できたことは、とても大きいです。
金額が大きすぎて受けるまでに2年悩みましたけどね。
旦那、大きな出費を許してくれてありがとう。
子供たち協力してくれてありがとう。これから頑張って働きます。
でも私にとって一番の恩恵は、臨床美術の造形内容はもとより
「他者への寄り添い方」を学んだことなんだな。

頭ではわかっていても体はなかなか動かないものですが、
臨床美術のセッションの中でおこなう「高齢者との握手」
初めは恥ずかしかったし躊躇もありましたが、今は初対面の方でも抵抗がない。

子供たちの予測できない行動、言動。
作品がどう転んでも大丈夫、というまでにはまだ悟れていませんが(苦笑)

実習で失敗してわかるお年寄りや子供たちの感覚。共通点。違うところ。
幼少期と高齢者を1年の中で両方接することができるなんて、
会社勤めをしていたら絶対なかったなぁと、思うのです。

人生の初めと終わりを結びつけて考えたら、
幼少期の夢の中を幸せな気持ちで過ごした人は、
認知症になってもすごく幸せなんじゃないか?

なんてことをつらつら考えながら、
自分の子どもにも「やることやったら自由に遊べ」と。
学校のお友達がワラワラ家に遊びにきてくれるのが嬉しい。
以前の私だったらきっと内心鬱陶しいな~と思っていたはず。
今はよその子ではなく、社会の子として思える。
この間は一緒にドリッピングカレンダーをやりました。

どんどん自我が強くなっちゃうアラフォーでも
まだ変化できると思えば儲けモン。
お金では買えないものね。
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現代美術作家の宮島達男氏の連続ツイートが「誰もがアーティストになれる」という今回のアートジャングルのコンセプトにとても近いので、たくさんの人にご紹介したく、ここに掲載させていただきます。
http://togetter.com/li/64485

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この国でアーティストがどう生きるべきかリアルに考える。
はっきり言って、絵で飯は喰えない。
皆分かっているのに、その幻想の旗を降ろさない。なぜか。

幻想の原因は美大というよりも、美大の先生方がその幻想を信じているからでしょう。そして、その夢を若い連中に語る。まるで、それを捨ててしまったら、アーテイストではないと思い込んでいるからではないか。ここには、アーテイストという生き方の誤解があるように思う。

この幻想「プロのアーテイスト=絵で飯を喰う人」という図式は誤解ではないか。
アートは職業になじまない。
むしろ、アーテイストは生き方である。
自分の生活は別途、自分で支え、自らの想いを納得のゆくまでカタチにし、他者へ伝えようとする人間。生き方。それは素晴らしい生き方だと思う。

そうした生き方と思い定めれば、自由になれる。
うまいへた。評価されたされない。
売れた売れない。人と比べない。
楽しいから描いていた頃。
そして見てくれた人に喜んでもらえたことが幸せだったあの頃。
人の評価でなく、自分が良いと本当に思えるものができたときの喜び。
それが本当の自由。

そうした生き方をした人に、ゴーギャンがいる、ルソーがいる。
無数の絵描きがいる。
むしろ、ピカソのように絵で喰えた人はまれ。
全体の1%もいない。
宝くじを当てるより難しい。
そんなギャンブルのような賭けに自分のアートを翻弄されてはつまらない。

この生き方、絵描きに限らない。
評価されるされないに関わらず、自分が良いと思える事を人と比べず追求する。
そんな人はもうすでに本物のアーテイスト。
そう、実は、アートは絵描きだけの専売特許ではない。
誰もがアーテイストに成れる。

(中略)

そもそも職業とは誰かのニーズがあり、そのニーズに応えて成立するもの。
アートには、もともとニーズがない。
自発的に想いをカタチしているだけ。
だから職業となじまない。
しかし、ごくまれに職業として成立してしまう者が現れる。
ここが、幻想を生む原因だ。では、これを、どう考えれば良いか。

アートが職業として成立する。それは偶然としかいいようがない。
もちろん、作品には「美の基準線」が存在する。
作品として成立する最低限の質は昔から変わらずにある。
努力次第でそれは手に入れられる。
美大で教育するのはここ。
だが、それを満たした作品が売れるかというと、そうとは限らない。

偶然に作品が売れてしまうのは、時代や環境、流行など外的要因が大きい。
だから、時代によって評価も変動する。
たとえば、最近になって評価が高くなったフェルメール、逆にビュッフェのようなケースも。
現在たまたま喰えているアーテイストもどうなるか。喰えることと質とは別次元である。

この「質」と向き合うことは、自分と向き合うこと。
外的要因ではなく自分の努力で報われる世界。
ここは裏切らない。
「喰えることは偶然」と腹を決められれば、何も怖いものはなくなる。
悲しいのは喰えないことではなく、アーテイストとしての目的を失うこと。

目的を失うと、すべてまわりの責任にする。
「環境が悪い」「日本の文化度が低い」「社会が悪い」「マーケットが悪い」・・
そして、戦略を巡らし、外堀から埋めようとする。
これではいつまでたっても自分の「質」と向き合えず、一流のアーテイストとして生きられない。

もちろん、社会構造の問題もあるので、私自身、「文化芸術基本法」の制定や、「文化防衛戦略」への答申、税制の改革など。日本の構造改革にも関わってきた。しかし、それでもアーテイストの生き方の問題は依然として解決しない。

むしろ、ア-テイストな生き方をする人が増えてくれば日本の構造も変わる。
なぜなら、アートには人を思いやる想像力と、出口の見えない問題を突破する創造力の2つが獲得できるから。
自分と向き合う感性を持った人がたくさん出れば、日本のカタチはすぐに変わるのは当然。

だから、すべての人にアーテイストな生き方が必要。
「アーテイスト=絵で飯を喰う」という幻想が、すべての人のアート教育の機会を奪う。
音楽、踊り、建築、書、どんな分野でも、人間を人間たらしめる根本の教育。
それがアート教育。
矮小な幻想を常識と勘違いしてはならない。

Art in You.
こうしてアーテイストは、たかだか150年の小さな「名詞」の殻から解放され、悠久の大きな「形容詞」に変容する。
そして、アーテイストは幻想でなく、リアルな「生きざま」として刻印される。
連ツイを読んで下さってありがとう! 了。

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アーティストって、
単に音楽やったり絵を描いたりする人のことじゃないんですね。。
むしろ日常の姿勢そのものです。

や、でもフツーに生活していると
アーティストのまわりにいる人間は
「好きにやってくれ」という
あきらめのモードを醸し出したり・・
してたりして(笑)

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来年1月11日に浦和駅前のコルソホールを借り切って、臨床美術・彩球主催のアートイベントを開催する運びとなりました。

感じたことを思いきり表現する場所、名付けて『アートジャングル』!親子向けのイベントですが、興味のある方はぜひ遊びに来てください。

会場では臨床美術ならではの五感を使ったプログラム紹介の他、立体かぼちゃの作品展も開催予定。この会場に自分の作品を飾ることができるプレイベントも実施しています。こちらもぜひご参加ください。

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みんなおいでよ!『アートジャングル』
~わたしこそ オンリーワンのアーティスト~
日時 2015年1月11日(日)
1部10:30~13:00/2部13:00~15:30
場所 浦和コルソ 7Fコルソホール (JR浦和駅西口正面徒歩1分)
対象 子ども(2歳半~)とその保護者(一般の方も体験いただけます)
   入場無料 アート体験は材料費がかかります

体験こそが宝物!とことん、思いっきり楽しめる色んな制作体験を用意しているよ。音楽と子どもたちが大好きなアーティストもやってくる!さあ、みんなで年明けから描いて、踊って、演奏して、楽しんじゃおう!

イベントに先駆け、年内にはプレイベントを用意しました。会場には、和紙で作ったかぼちゃでお出迎え。いっぱい、い~っぱい飾って演出します。さあ、みんなも自分だけの「マイかぼちゃ」を作ってみよう!

「和紙でマイかぼちゃをつくろう!」
日時:11月20日(木)/14時半~16時
   12月2日(火)、16日(火)/15時半~17時
   12月13日(土)/16時~17時半
場所:アトリエ 彩球
対象:子ども(2才半~)とその保護者~大人まで
参加費:500円
申込み&問合せ:info@rinbisaitama.sakura.ne.jp
※お名前とご希望日をご記入の上、お申込み下さい。

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ちなみに私は12月13日にアトリエに入っています。
プレイベントだけでもOK、何か造りたいという人は気軽に遊びに来てくださいね。
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久しぶりの更新です。
コメントを寄せていただいた方、ありがとうございます。生きてます。
気がついたらすっかり秋の気配でした。

現在臨床美術士の3級を取得中なのですが、実習に現場に追われています。
今まで自分のセッションがいいのか悪いのかとモヤモヤしていたものが、霧が晴れるように問題点が解消されていく一方で、現場経験を重ねると悩むことも多々あり・・。

普段は子供たちや健常の方にセッションをすることのほうが多いのですが、授業の実習では認知症症状の強い参加者さん。

先日はスルメを描いたのですが、言いたいことが伝わらない。
まずはスルメの匂いを嗅いでみましょう、というところで参加者さんがポカ~ン・・。
高齢者は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感の中でも、最初は匂い(嗅覚)から鈍くなる傾向があるそうです。スルメの匂いがわからない人もいたでしょう。

匂いがよくわからない、目もよく見えない方に対して「匂いをかいでみましょう、よく見てみましょう」と言ってる私ってなんて残酷で間抜けなんだろう。

発する言葉の端から忘れられてしまうから何度も説明を繰り返す。
不安そうな人には「大丈夫ですよ」と、目も耳も丈夫な私が言っている。
参加者さんの言う「よくわからない」という言葉が私の中の「説明がヘタで申し訳ない」という気持ちにつながって、楽しい!を伝えるはずのモチベーションがセッション中に急降下してしまう。

それでも作品は出来あがったけれど、私の不安や戸惑いが参加者さんに見事に伝わってしまう、自分では最悪のセッションだった。

目の焦点があわない人に対して、
いろんな自分の感覚が抜け落ちていると自覚している人に対して、なんと言葉をかけてあげたらいいのだろう。

ちなみに私も視力は0.01。ほとんど測定不可能のド近眼。
慢性中耳炎持ち。時々水の中にいるような塞がれた感覚に陥ります。感覚が鈍感になると気持ちも沈んでいく、やる気もなくなっていくことは経験しているけれど。。

それでもやっぱり「そのままで大丈夫」と言ってあげたい。
人間には想像力という、失った感覚を補う力があるんですよ。

まずは他の感覚で補う。目と、耳と、鼻と、舌と、肌触りを総動員したら、絶対何かが脳に浮かび上がるはずなんです。そこは、ぼんやりとでもいい。

そこから先は想像力で補う。
「こういう色なんじゃないかな」
「こういう匂いなんじゃないかな」
「こうであったら楽しいな」
それを色やカタチに置き換えて自分が楽しむ方向に膨らませていく。

そうすると表現が無限に広がっていくのです。
想像力は創造力につながります。

私は歳を重ねるほど、他者との比較から開放され、考えが自由になって味わい深い作品が創りやすくなるはずだと、密かに期待しているのです。















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