韓氏意拳との出会いにより、プロセスワークを通してわかりかけていた自然とは何かという問いについに答えを得ることができました。
これを機にほんの少しの変更ですが、こブログを臨床自然学研究室として開設したいと思います。
時をみて、具体的な空間を持つことになると思います。
僕である一つの夢はいよいよ具体的な形を持ち始めたのだということをこのブログのタイトルを変えることによってみなさんにお伝えしたかったのです。
自然それ自体は、私たちは永久に認識することはできません。私たちが認識することができるものは常に結果でしかありません。
自然というのは、ある方向へのまとまりをもった可能性であり、無限の可能性であります。
この世界、私たちが体験するものは、すべて必然の糸が偶然にからまりあった結果であり、それぞれの現象は必然でありながら偶然です。
それがいかにありのままの可能性により近いものであるかはいかに活き活きとしているか、ストレスがないか、のびやかであるかによって認識することができるのはないかと考えています。
あらゆる結果自体は悪いとか良いというものではないのですが、それは偶然の絡みの中でいわゆる社会的、環境的に自己・他者破壊的になることがあります。そのときは結果からもう一度自然の流れに戻り、新しい結果を作り出すことが大事だと思います。
それゆえにプロセスワークでは「問題・紛争」からワークをはじめることにならざるを得ない、ということになるのでしょう。
自然のまま、というのには、自然農法の福岡正則さんが「ありのまま」と「放任」という言葉を使って誤解を説明されておられました。
「放任」というのは今起こっている結果をそのままにすることであり、「ありのまま」というのはその可能性の流れの強い方向に沿うことです。ある状態がストレスを持っているとき、それを放任してしまうのは自己・他社破壊的悪循環への道へとはいっていくことです。
他人と自分とは別であり同じであるのですから、他人をストレスの中に放っておくことは、自分を破壊していくこととなんら変わりはありません。
それはより大きな流れの一つでもあります。人というのは個人であるという錯覚の中で暮らしていますが、それは「意識」と呼ばれるあまりに矮小なものを信じ過ぎているからです。「意識」はとても有用ですが、しかし「意識」で認識できるものはいわゆる現実からあまりにも小さいとわかっておく必要があるのではないかと思います。
人間は呼吸をすることすら意識によってはコントロールできないのですから。
自分がどのように息をしているか観察してみてください。意識がそこに向いた瞬間、その瞬間に呼吸の仕方は変化するはずです。
「意識」というのは諸刃の剣のようなものです。そのこと自体はどうすることもできませんが、そうであると知ってほしいと思います。
これから少しずつ、実践のなかでいかに効率よく自然となれるかを研究していきたいと思っています。
後、自然について絵本を書こうと思っています。
おひさしぶりです。先日、京都で、意拳のもっとも原型に近いといわれる韓氏意拳を習い、感銘を受けました。
プロセスワークの他に、これほど「自然」という力動を体験できるものはないのではないかと思うほど、衝撃的な体験でした。この体験が僕のプロセスワークへ及ぼす影響はとても大きいものと思います。
武術もここに極まれり、という感じです。
単純な動きの中に、自ずと生起する動き、それを求める武術といえるのではないかと思います。
か弱くあまりに繊細でありながら、それがありのままに起こったとき発生する驚くほどの力を感じることができる武術です。(韓氏意拳では武学と呼んでいるようです。)
武術をやっていてよかったな、と思う体験でした。古武術研究家の甲野氏が自分の今までやってきたことを見つめなおさなければならなかったほど衝撃を受けたのもよくわかりました。
また時間ができたら続きを書きます。
改めて自分がやっているプロセスワークって何なのか、と考える。
時々何をやっているか自分でわからなくなる。
自分はなにもしていないようでもあるが、それでも、だんだんと「できる」ようになっていっているのだから、何かを扱っていて、その扱いが上達していっているには違いないのだ。つまり扱っている何がそこにあり、何かを勉強している。
じゃあ、一体僕は何を勉強しているのだろう?
プロセスワークは、その名前が変わったことからわかるように、すでに心理学ではない。プロセス指向心理学 (Process-Oriented Psychology)という名前は、ある意味で主流派に合わせる為の仮面である。
ある人がプロセス学というのが正しいのではないか、とウェブ上に書いていたけれど、僕もその意見に賛成だ。
より正確にいうならば、「人間に関わるプロセス学」というのがよいのではないだろうか。
プロセスワークは、別に人間の心理を対象に扱っているわけではない。プロセスワークが扱ってる物は、プロセスだ。夢見るプロセス(Dreaming Process)だとも言える。
プロセスワークは、主にセラピー環境においては、人間の心理のプロセスを扱う。でも注目しているのはプロセスなのだ。心理自体ではない。
プロセスワークでは行き着くところ、実は心理を扱っているわけでは無いから、時々やりすぎて「人間味がない(impersonal)」と批判されるのだと思う。(★)
では、プロセスとは一体何か?
プロセスとは「ある一連のことが起っていること及びその過程」と言えるだろう。
最近、プロセスワークではベクターワーク(Vector Work 日本語ではベクトルワークが正しいのかな?)というのをやるが、あまりはっきりと分かっている人が少ないように感じているが、ベクトルというのはプロセスのメタファーであるのは間違いない。
プロセスというのは、ある方向性をもった力及び情報とその過程を含んだ「→」以外の何物でもない。
そしてプロセスワークではそのプロセスを昇華させるとなにが大事な意味を得ると考えている。意味を得ること自体は決して目的ではないけれど。
その起っているプロセス自体が持っているありのままの創造性。プロセスに気づくことによって、それが花開くのではないかと考えている。
僕がちょっと昨日考えていたのは、「一般プロセス理論」というものを作れないだろうか?ということ。
一般的に物事はどのように流れるのか、ということに関する学問。
しかしこのようなことになってくると本当に自然(科学)との垣根がなくなってしまい、一体何をしているのやらわからなくなってしまうので、残念ながら今は諦めた。
僕が個人の理論として少しプロセスワークから離れつつあるかな、と思うのは、僕がプロセスというのは対立する2極の移り変わりのダイナミズムなのではないかと思っている点。
プロセスワークでも「対立する極(polarization)」というコンセプトはあるが、積極的にプロセスの構造がそうなっているとは見ていないと思う。
僕は、プロセスするというのは、この2極の「今」のバランスに気づくことではないかと思い始めている。
こうなるとだんだん僕はタオイズムに近づいていくわけで、自然を見ている限りしょうがないかなあと思っている。
とにかく、プロセスワークというのは、要するに物理学であって、それをもっと一般的な現象に適用したものに他ならないのだろう。
こうなってくると、プロセスワークが元物理学者のアーニー(Arnold Mindell プロセスワークのいわゆる創始者)によって最もリードされてきたのが何故なのかなんとなく腑に落ちる。
僕は以前から、学問には大きく分けて構造学と力学があると思っているのだが、トランスパーソナル心理学が構造学的研究を重視する傾向にあるのに対し、プロセスワークはあまり構造を意識しない「実践的な」力学的な発展をしており、トランスパーソナル心理学からプロセスワーク側からは距離を置いている理由がわかる。
以前に書いたかもしれないが、精神的伝統には二つの流れがあって、構造学的研究と力学的研究に区別でき、主流派のキリスト教やチベット仏教などは構造学的であるのに対し、タオイズムや禅、他にも武術や錬金術は力学的である。プロセスワークが後者から様々な影響を受けているのも、うなずける話だ。
逆に、プロセスワークがユング派からの流れで(偶然にも)切り捨ててきたものは「構造」であったし、我ながらこの理解は的を得ていると思うのだ。
僕は、こんな流れが、将来はプロセスファシリテーターという非常に抽象的な職業になろうとしている。
人間が関わるどんなものでも、触媒としてそのプロセスのオリジナルの創造力を開かせるという仕事。
まさにこれが僕の目指している臨床自然学に極めて近い立位置に違いない。
★ この点こそが、本当のプロセスワークの要だと思う。
この点が、非常によく似ているといわれるゲシュタルト心理学との間を隔てるものだ。
プロセスワークにおいては、おそらく人によってそれぞれ理解は違うとは思うが、あるプロセスというのは僕の一部であり、と同時にそれを越えるものだ。ここにプロセスワークがユング派の流れだということを証明する一つの鍵がある。ユング派では集合的無意識や元型と呼ばれるもの。個人を越えた個人を通して現れてくる何かの流れ、プロセス。
ゲシュタルト心理学では、僕の理解では、それは個人の心理と考える。ユング派の言葉を使えば個人的無意識で留まっているように思う。または原因起源的な無意識。そこには偉大なるもの、神秘なるものからの呼び声はない。
これはあきからに個人の好みであると思うが、日本でユング派が受ける理由は、河合隼雄がいっているように、日本人はどこか個人の境界が薄く、集合的な何か、神秘的な何かに繋がっていると感じているからではないだろうか。
僕の望んでいる世界は、みんなが、または僕が、いつも正直でいられる世界だ。
この正直という言葉はきっと僕のいう、自然である、ということと人間の心理においては、ほぼ同義であると思う。
ダイレクトに(率直に)、感じていることや思っていることを言える世界。
ありのままでいられる世界。
正直とは、ウソをつく事や、不正直でいることも含めて正直でいるということ。
なにかを隠すためにウソをついてしまうのではなく、隠したいからウソをつくということは正直だと思う。
大事なのは、自分でちゃんとわかってやっているかどうかだ。
自分はウソをつきたいのか?そうだ。と分かっているかどうか。
僕はいつも、オープンになりたい、完全に正直になりたいと思っている。でも、やっぱりオープンになって、傷ついたり、勝手な誤解で傷つかれたりしたくないから、結局閉ざしている。
僕がオープンでいられることが出来る人は殆どいない。
「君とのことはもう殆ど覚えていない。」とか「君にはもうあんまり関心がない。」とか「君にはすごく怒っている。」とか、そんなことでも正直に伝えることができる今は別れてしまった前の彼女は、やっぱり今でも僕にとってとてもとても大事な人なのだ。
僕は自分で分からずにウソをついている人が嫌いだ。それを僕は「嘘」と呼ぶのだ。
正直であることとは、何か受け入れられると同時にそれに対する好き嫌いも正直に感じて言えることだと思う。
議論も、考えていることの違いも、正直になって初めて話あうことができるし、そこから初めて本当に何かが生まれると信じている。
好きも嫌いも、信じていることも、考えていることも、オープンになって初めて本当にあらゆる意味で意味のあることになってくると信じている。
もうちょっと勇気をだして、感じていることをもっとそのまま言葉にだしてみようと思う。
正直は正直を招く。
相手に対して正直に接することは、相手に信頼を与える。最初は、言われた方はドキっとするが、結局良い。相手も自分が相手に正直になった分だけかそれより少し少ない分だけ正直になってくれる。
ただ、決してやりすぎないように。自分が傷つかないように、自分が本当にどれだけ正直になることを恐れ入ているかには、絶対気をつけて。
時には正直になることが人を傷つけることがある。その人との間で十分な信頼が築けていない場合は、相手が傷ついたことや気になったことを避けるようにして、一方的になり、コミュニケーションすら保てなくなることもある。僕は、個人的な人間関係も含め、こんな世界を望んで努力しているのだ。
これが僕の住みたいと思う世界なのだ。これが僕の生きたいと思う世界だ。
★★★
ちなみに僕はこのブログを一人でも多くの人が読んでくれることを望んでいます。もっと大きなメディアで発言できるようになることを望んでいます。このブログを気にいってくれて読んでくれている皆様、知り合いの方などにこのブログを紹介してください。リンクなど自由に張ってください。宜しくお願いします。
あと、僕の考えていることに共感してくれる人達ともっと仲良くなったり意見交換できたらと思っています。いつでもご意見やメールなどください。
そういえばメールアドレスとか書いていなのに気づいていなかったので、プロフィールの欄に足しておきました。
今回は高岡英夫氏の業績を褒めたいと思って書いている。
なにかと誤解の多い氏の仕事。それをもう少し知って欲しいなと思って書いている。
自分の身体が出来てくれば来るほど、高岡氏の研究がいかにすごいか分かってくる。それでも本に書かれているのは氏の研究の公開している部分でしかないというのだから底がしれない。
オススメ本は、「究極の身体」だが、絶版だし、初心者にはすごさがわからないかも。。。そこで説明されている「運動進化論」は素晴らしい。
最初に「ゆる」であるが、「すべてはゆるむこと」というタイトルの書籍を書いたことと、インタヴューなどでもつねに全部を言い切らずに秘密を保っていることから誤解がたくさん生じていると思う。
最近流行っている古武術研究家の甲野善紀氏はたぶん高岡氏の本をちゃんと読んだことがない為だろうが、高岡氏の名前を言わないながらも、明らかに批判的である。NHKの番組でも自分のブログでも名前を出さずに批判している。
「すべてはゆるむこと」というのは、「すべてはゆるむことから」または「すべてはなるべくゆるむこと」であったら良かったかもしれない。ただタイトルにインパクトはなくなるので、しょうがない。
ガチガチに固まってしまって現代の人が身体をよりうまく使うにはまずゆるむことから始めないと、いくら稽古や修行を続けても進歩のしようがない。上半身を一つの塊として感じて動いていたら、どうにもならない。
深くまでゆるんでいればいるほど深い筋肉まで使えるようになるし、一つ一つの骨まで別々に動かせるようになる。これはあらゆる運動において必須だ。
甲野氏は「本当にゆるみきってしまったら立っていられないでしょ」という説明で批判しておられるが、それは高岡氏の主張とは異なる。
高岡氏は「ゆるむこと」とは「脱力統一体」をつくることで、脱力しかつ一つの運動に対して必要な筋肉や骨を統一して動かすことを言っているのだ、と何度も書いている。
しかしまずは脱力から。現代人の身体はゴチゴチの固まっている。なるべく「ゆるみ」ながら運動をしようと思えば、自然に身体はその運動に対してベストの構造をつくる。だから「ゆるもう」と意識しながら動くことが、「何かをしよう」と思って運動をすることより大事なのだ。
「~しようとする意識」と「ゴチゴチの構造」が繋がってプログラムされてしまっているからだ。
高岡氏は言語学には精通しているらしく著書やエクササイズの中でも、力の抜けるくだらない冗談や、正確ではないが意識していると機能的である言葉などを随所に散りばめている。
それを文字通りに理解してしまうのは、残念ながらあまりに浅薄というものだろう。
次に、これは本当に歴史的な発見だと思うが、「身体意識」または「ディレクト・システム」の発見。
これはいわゆる「意識」と「身体」の間に、媒介する「何か」のことを言っている。これはアレクサンダー・テクニークの「ボディマッピング」とかなり近いものであるが、もう少し物理的な身体の構造と離れている点で違う。これはアレクサンダー・テクニークがいわゆる「普通」の身体から始まったためだろう。何百年も何代もかけて培かわれた武術とは積み上げられたきた身体の研究の厚みが違う。
とはいえ、もちろんレクサンダー・テクニークもよく身体を研究していると思う。
「身体意識」は簡単にいうと「自分」が感じている身体の感覚イメージであり、意識を物理的な身体の運動に繋げる「媒介体」だ。プロセスワークでの「ドリームボディ」のカテゴリーに入る。
目をつぶって自分の手のひらの絵を描いてみてもらえばわかるが、人間は自分の身体の大きさや
形を全く正確には把握していない。「意識の濃い」部分(=敏感であったり、器用に動かせる部分)は大きく、そうでない部分は小さく感じる。だから絵を描くと実は2次元上には描き表せない。(おそらく線が交差してしまっていたりするはずだ。)
これが「身体意識」であり、達人はそれらがある決まった独特の構造を持っている(とはいっても何種類もある。)というのが高岡氏の主張。
これらは中心軸や丹田などは昔から知られていたから何の発見でもない、といって高岡氏を批判する人がいるが、無意識的におこなわれていたことを意識化し言語化することによって初めて利用できるようになる。ようするに「気づき」である。
引力だって、りんごが落ちることは誰しも知っていたはず。しかしそれは何なのか考えもしなかったので、ニュートンが発見するまで利用されることはなかった。
あと高岡氏が「トンデモ」だという話だが、身体の研究をすると必ず簡単に変性意識状態に入るし、「普通」の人が思ってもいなかった現象に気づくし、利用できるようになる。
昔から身体の研究者や達人は少し変人/神秘家/宗教家扱いされてしまうものだ。偉大であればあるほどだ。
ただ氏は意識・心理研究をあまりされているようには僕の視点からは思えないので、少し厳密ではなかったり、あまりに体験をそのまま信じ込みすぎているのが問題であると思う。
ぜひ、いつかお話をしたい人である。
ちなみに甲野善紀氏は、なぜかはっきりわからないが「心」や「意識」の部分に一切触れないでいるために、どうしても研究が物質的・物理的になってしまい限界を感じる。たぶん武道武術の神秘的な印象を排除したいためにわざとそういうスタンスをとっているのだろうが、修行を続ける限り、いずれ「トンデモ」にならざるを得ない日が来るだろう。
ちなみに最近、甲野氏は物理的なスタンスから離れようとしているが、そのせいでブログではあまりに漠然すぎて何をいっているのかよくわからなくなっている。それを話せる「言語」を研究していなかった為だろう。
あまり細かいことをいってもついてこれるひともいないだろうから、これでお終い。
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