2005年06月22日(水) 03時23分10秒

自分のやりたいことを選ぶことはなぜ大事なのだろうか?

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
何か選ばなければならないとき、自分がやりたいこと(=心がウキウキすること)を選ぶべきだ。
なぜなら問題というのはどんな選択肢を選んでも、同じ量だけ発生する。
反応、といった方がいいかもしれない。一部の変えたとき、周りの全ては同じ量だけ反応する。
しかし、それが他人本位のために選んだことから起った反応だと、問題はどんどん自分から離れていき、なんのためにそれを解決しなければならないのかが分からなくなる。そしてやる気を失い、疲れるのだ。

何か物事を選ぶ際に、他人本位、つまり他人のために物事を選ぶと、それに連れて起ってくることはその他人に繋がったこととなっていくが、それに反してその口火を切ったのは自分であるために、自分にとってなんの幸せにもならない責任を処理することになる。これは負のスパイラルへの道だ。
自分本位で物事を選んだ場合、それにつれて起ってくるトラブル等は、自分の選んだ道の責任として感じられるから、しんどいながらもそれをこなすことでだんだん自分は自分の道へと歩んでいける。それは正のスパイラル、創造的な道だ。

自分本位で何かをやろうと、他人本位で何かをやろうと、結局同じだけの迷惑をかける。どうせ同じ迷惑をかけるのなら、自分の幸せのために他人に迷惑をかけ、「ごめんね、ありがとう。」となんとか感謝するほうに努力したほうがいい。他人本位で起った迷惑は、それを解決しても大して感謝もされず、ただ疲れきるだけだ。

迷ったらこう想像してみよう。
もしあなたが今、完全に自由になったら、何をするだろうと。
そしてそのお話をもっと語ってみてください。次はどうなる?次はどうなる?そしてどうなった?と。

ただ勘違いをしてはいけない。自分本位とは、自分の好きなことをやるとは、貪欲になることではない。
貪欲とは、別にそれができたとしてもウキウキもしないし、創造的にもならないことをやたらと求めることだ。
それは他人を無意味に傷つけることでもあるし、自分自身を破壊する道だ。
人は前にやったときにウキウキしたから、もう一度やったらそうなるに違いないと妄信的なファンタジーを描き、実際やってもみてもそうなることがないのに、「そんなはずはない。きっと足りないだけだ。」と思ってそのファンタジーに執着しやすい。
これは間違えてはいけない。自分の幸せだと感じることが基準である。


他人を幸せにすることなどそもそもできない。結局、自分で自分を幸せにするしかないのだから。
だけど、自分で自分を幸せにすることで、他人に幸せを分けてあげることはできる。
だから、他人に迷惑をかけないこと、他人を喜ばせることを考えるよりは、自分が幸せになること、創造的になること、自分らしくなっていくこと選択肢を選ぶべきなのだ。
問題は起る。何をしても起る。早いか遅いかの違いでもある。
だから人それぞれが自分の自然の道を歩んだときに起る問題の方が良い。問題が起っても幸せならそれを受け入れ、解決に向かうことができる。疲れていたら何もできず、問題はただ悪化し、誰にも責任の取られることのない問題がそこら中に散乱することになる。


自分が幸せになる道を、正直になって選べば良い。自分にウソをつくことは最終的に他人を破壊的に傷つける。
そして感謝すること。何かをしてもらったら「ありがとう」とキチンと伝えること
最後に幸せになったらその分だけ共有すること。
それが大事である。
2005年05月20日(金) 17時05分55秒

人生というのは本当にこういうものなんじゃないかとちょっと確信がある。これはちょっとすごい気づきだ

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
人生というのは、自分の道を、夢を、神話を発見し、それを完成させるためにあるのじゃないかと思う。

私達は、どんなに自分が本当にしたいことを放棄しても、それはいつもどこかでくすぶり続けていて、私達をもとの道に引き寄せる。
それを意地でもやらなかったものに与えられるものを「後悔」。

もちろん、「後悔」することが悪いわけではない。
自分の道を捨てて、他人のために、世界のために働いている人もいる。そういう人生も素敵だと思う。

とはいえ、自分の「道・夢・神話」は冷徹にも死ぬまでずっと私達を呼び続けるのだ。
歩け、歩け、この道を歩け、と言わんばかりに。。。

それは逆からみれば、私達はいつでも自分の道を歩けると信頼することができるということだ。
社会的な理由、経済的な理由、ありとあらゆる理由で、今はすることができなかったとしても、それは私達から逃げていくことはない。
勇気を振り絞りさえすれば、その道は常に私たちと共にあり、歩むことができるのだ。
疲れたら休めばいい。無理なら今はあきらめればよい。
人生は私達をいつでも温かく迎えてくれている。
時機が良くなったら、立ち上がることができるようになったら、またいらっしゃい、と。

2005年05月18日(水) 03時28分41秒

未来への期待と不安

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
人は誰しも未来に期待と不安を抱くもの。
しかしそれは全て「今」起っているのだということを忘れてはならない。

不安になったら最も最悪のケースを考えてみよう。
期待をもったら最もうまくいったケースを考えてみよう。

そうすると自ずと自分が何を失うことを怖れているか、何を求めているかが見えてくる。

未来は必ず来るもの。
未知の状態は必ずくるもの。
来るべき未知に対して準備をしないのは、手ぶらで冒険に出かけるようなもの。
未知に対して恐れて準備ばかりしているのは、杞憂というもの。

自分の「今」をよく観察すると、おのずから自分のなかの優先順位は見えてくる。
優先順位が見えてくると自ずと何を準備すればいいかが決まる。
荷物は持ちすぎれば重くなる。軽すぎれば不便になったり危険にさらされたりする。
それは人によって違う。だまされないように。

前にも書いている通り、私達は未来であろうと過去であろうと、「今」を基準にしてしか考えられない。
何があなたの「今の基準」を作り出しているのか。
あなたが不安になるなら、あなたは今もっている貴重な「何」を失いたくないのか。
あなたが期待しているなら、あなたは今もっていない、またはあなたが求めるものだと分からせてくれた「何」を探しているのか。


未知との遭遇も、期待や不安も、今の幸せや不幸も、
すべて気づきさえすれば、濁流となることなく清流の如く自ずから滑らかに流れて行く。。。

2005年05月10日(火) 08時02分30秒

自分とエンターテイメントとお金

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ

これは僕の周りのアーティストや、自分のやりたいことで食べていこうと考えている人たちに対して書いている。もちろんいろいろビジネスにだっていえる事だ。


自分がやりたいことでお金を得ようとする場合、必ず必要なのがエンターテイメントだ。

エンターテイメントとは、「人を喜ばすこと」である。


よく自分がやりたいことに集中している人は、他人に何かをしてあげる、ということを忘れる。

それは非常に一方的であり、その場合、通常評価やお金は得られない。

エンターテイメントをすることを自分を曲げることと勘違いしている人も多い。

エンターテイン(人を悦ばせる)する方法は山ほどある。
あなたが特別な存在であればあるほど、それは必要になってくる。



自分のしたいこと、自分の「核」とは何なのか?自分の持っている「価値」とは何なのか?それをどうやってエンターテイメントの中で伝えられるのか?

それを考えることを妥協ととるか挑戦ととるかはその人次第だ。


お金は人を悦ばせたときに代わりに入ってくる。または必要としているものを満たしたときだ。

通常、人はある意味で事足りている。ましてや芸術の入り込む余地な滅多にない。

わけの分からない物を見せられて、それでお金を払え、なんていうのはもっての他だ。持っているお金にだって、時間にだって限りがある。わけの分からないものを見せられている暇があったら、楽しいことをしたいと思うのは自然なことだ。

昔の芸事は「おひねり」が多かった。後で判断して自分で価値を決めてください、というのだ。それなら自分勝手でも良い。


エンターテイメントとして、人を悦ばしておきながら、かつそこに自分ならではの妙味を加える。それが他人と繋がりながらかつ自分らしくある方法だ。

もちろん、本当に自分の考えている事、感じていることが分かる人だけに見てもらいたい、というなら話は別だ。しかしそれは、僕は、もともと閉じられた世界だと思っている。「他人」を招くことがない表現。

それはそれでとても心地の良い世界である。そういうのが必要な時もある。


ある独特の味を強調しすぎた料理はよほどそれが好きである場合を除いて美味くない。一般的に美味しい味に微妙に独特の風味が加味してあるものが嬉しい。

独特の味が好きでもいつでもそればかりこってりとした味の料理を食べるのもまた飽きるものだ。

一般的においしければ、それを食べに来て、その中に自分が好みの味や新しい味を発見する人もいるだろう。

それが「開いている」ということであり、人間関係を築いていく方法だ。

あとはどれくらい自分が開いていたいかに気づいておいて、少しずついつも調整すれば良い。

2005年05月04日(水) 14時25分56秒

意識と無意識

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
異論の多いテーマだと思います。
でも、はっきりいいますが、「意識」といわれているものは「思考」と同じものです。広義の「思考」ですが。

身体は、勝手に動きます。そのときは無意識ですが、ずっと観察してそのままにしておくと、だんだん動いているのか動かしているのかわからなくなってきます。
それは自分の身体がこう動いていると「分かる」からです。

考えない、ということは、武術の世界でも、意識しない、ということと限りなく近い意味で使われている。おそらく一緒です。
考えず、意識せず、意図せず、動けるようになったら達人です。

ところで、よく「無意識」というのがある、という人がいますが、「無意識」というのは「意識ではない」ということで、「無意識」という限られたものがあるわけではありません。
ここを勘違いしてしまうと人間というのは「意識」と「無意識」というものでできた独立したものであるように錯覚してしまいます。
人間の「意識」でない部分は開いているのです。人間は閉鎖系ではなく、開放系なのです。
いろんなものや情報がいろんなところから、人間のその開いたところを通して流れ込んできています。
「意識」というのは、その流れ込んできたものを、かろうじて思考という網でキャッチし、まとめあげたものなのです。
だから意識化というのは、思考できるようになるということです。
また「気づき」というのは意識化であり、思考できるようにする、ということです。

なんとなく何をいいたかったのか忘れてしまいましたが、それなりにお役に立つのではないでしょうか?


2005年05月03日(火) 16時21分07秒

CMを見る

テーマ:僕の一人の友人から同じ境遇にいる皆様へ
テレビのCMを見ていると、いかに(多かれ少なかれ混じっているとはいえ)単一文化というのが、集合的な文化的コンテクストを持っているかというのが分かる。

アメリカ(合衆国)のCMというのは、僕からみると非常につまらない。
ヒネリがなく、非常にシンプルだからだ。

それは、ここが移民の国であり、みんなが共通のコンテクストを持っていない為に、そういったコンテクストを含んだCMは意味が通らないからだ。

日本のCMはある意味でよく意味が分からない。
日本のCMは、昔から使われてきたCMや、「日本人」はある行動にはこうする、というような共有されているコンテクストを暗に含んでいるから、そのコンテクストを共有していない人にはわからない。
こういったCMは見飽きたから、こういうテクノロジーは見飽きたから、こういった文句は見飽きたから、という歴史や、流行している言葉、流行したスタイルなどが重層的に織り込まれている。

たぶん、イギリスのCMなどはアメリカのものより遥かに分かりにくいのだと思う。そしてたぶん日本ほどではないだろう。

そういった「共有した」何かを一次的に持っていない文化圏では、コミュニケーションのスタイルも、それを持っている文化圏では全く違う。
推測してはいけない。必ず確認しなければいけない。そんないろいろな違いがある。
ある意味では、勝手な思い込みによる間違いがないのはいいところではある。

一長一短で、おもしろい。


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