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2005年09月02日(金) 21時43分02秒

言葉というのは

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
言葉というのは、いうなれば生きているんです。
どういうことかっていうと、ずっとそのままでは使えないってこと。

言葉はある人とある人が話しているある場においてのみ、本当には有効なのです。
どんなことでも言葉にはできる、でもそれはその場においてのみ意味がある。
その場で起っていること、感じていること、伝わっていること、全て飲み込んで、意味は言葉を通して伝わっていくのです。

書かれた言葉は、内容が分かっている人にのみはじめて意味が伝わるもの。
でも、知っているけどわかってないこと、というのはいっぱいあるものなのです。だから書かれた言葉というのは、お互いに分かる人にとっては、とても大事なのです。それは時代を超えます。

殆どの人は、本を自分の読みたいように読んでいくんじゃないかな。
でも、本を本当に読み解こうとするならば、こうだ、と思ったコアに対して雑音を響かせない言葉がないかどうかを批判的に読んでいくのが良いと思っている。
もし、「あれ?これちょっと意味わからないな。。。」なんて文が出てきた時、それはあなたの感じていることは著者が感じていたこととは違うということです。
本当に伝わることなんてないのかもしれない。でも、それは誰も証明したことがないし、証明できないから、どうなのかは僕にはわかりません。
でも、その解釈のズレっていうことにもまた、様々な新しいものを生み出していく面白さがある。

言葉もまた「鏡」であり、読む人が今自分で必要としていて実は自分で知っていることを、改めて意識的に拾っていく道具にも成り得る。
だから語ることに意味があるのかと思うけれど、それがきっと素晴らしいことだと思うので、書いています。


言葉については、もちろん山ほどいろいろな理解があるだろうし、僕としてもいっぱい言いたいことがあるのだけれど、今はとりあえずふと言いたくなったことだけ。

2005年06月26日(日) 04時02分58秒

正しいストレッチと正しくないストレッチ体操

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
筋肉というのはある一定のプロセスを持っている。
それを無視してストレッチをすると本当は筋肉を傷める。
ヨガでも、本当はポーズというのは起るものだ、とされている。そして実際にヨガのポーズというのは起ることがおおい。

筋肉というのは何千何万もの繊維の束であり、身体の一部をとってもたくさんの筋肉が折り重なっているから、一つの方向に無理やり曲げるのは筋肉にとって悪いというのは分かるだろう。
また筋肉というのは、というか身体というのは、アメーバのように収縮・拡張を繰りかせしており、このプロセスの途中で反対側の動きに切り替えることはできない。一つのプロセスを終了してからでないと、次の運動には移行できない。
身体がそのとき曲がる方向というのは決まっていて、それは身体の微妙な動きに従うことによって得られる。


ここで有効なのは、武術でのタントウコウつまり立ち練習を利用することだ。中腰で何か樽のようなものを抱えている姿勢だ。ある程度正しい姿勢が必要なので、それは勉強するなり、教えてもらうなりしてください。

この姿勢で立っていると、一部の筋肉が微妙に(最初は大きく)緊張していくのがわかる。そしてそれをしっかり意識的にさせていくと、そのうち筋肉は収縮・伸張するプロセスを止め、弛緩へと移行していく。
最初はバランスをとるのが難しいので、一部が収縮・伸張し始めたらそのプロセスをなくしてしまわないように気をつけながらしゃがんでも寝ころがってもよい。
練習をすすめていく(人によってはかなりの年月がかかります)と、運動している筋肉が深いところのものに変わっていき、身体全体の筋肉が一つの小さな筋肉とも連動しているのがわかり、お互いに相互作用しているのがわかるようになる。そのときは立ちながら、全体の筋肉を身体の流れに沿って身体全体を動かしていくと良い。

立つというのは、身体にとってある意味ではもっとも無理な姿勢であり、また全ての動きの基本となるものであるから、立ちながら筋肉の運動に沿っていくというのは、もっとも自然な立ち方、つまり筋肉のあり方を知る方法となる。
もちろん呼吸というのも筋肉活動の一つなので、注意する。

最初は、無理に筋肉を収縮・伸張させようとして、ストレッチの逆をしてしまう可能性があるので、なるべく動かないつもりでどうしもて動いてしまう方向にだけ動いていくのがよい。

これをやっていくと、動物のストレッチの姿勢になったり、ヨガのポーズになったりして楽しい。
時にはヨガのポーズなどを勉強するのもよい。一部の筋肉が収縮しているのに気づいており収縮・伸張させるが、ただ従うだけではどうしてもプロセスを完結できないときがある。そんなときはヨガでどのようにしているか見ると、大体探している姿勢が見つかる。このときこそ、このヨガの姿勢をするべき時なのだ。

身体というのは、この運動の終わりを知っていて、大体30~40分くらいで終わる。ただ、一枚皮をむくと次の皮が出てくるので、1タームが終わったときにうまく抜けないと、次の運動がはじまってしまう。
そんなときは、大きく身体を10秒くらい振るわせると抜けることが多い。


あえてこれをプロセス指向ストレッチ体操と呼ぼう。


2005年06月16日(木) 17時41分40秒

愛されるために振舞うことの矛盾と、ありのままのあなたでいること。

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
多くの人が、誰かに愛されたい為に何かの振りをしている。
カッコつけたり、無理にオシャレをしてみたり、化粧で顔を随分変えてみたりしながら、自分を愛される「誰か」にしようとしている。

でも、それで愛されたとしても、それは自分が愛されたわけじゃないよね?

カッコわるい、弱弱しい、しょぼい、気持ち悪い、子供っぽい、頭がおかしい、、、、
どんなに思われたって、自分のありのままで愛されなかったら、一体なんのために努力しているのかわからない。
愛されようとする努力が、愛されない自分をほったらかしにすることになる。

ありのままのあなたを愛していくれる人は必ずいる。時間はかかるけれど。
そうでなければ、無理して、背伸びして愛されても、結局何にもならないし、深い所にある寂しさは決して満たされない。



2005年06月09日(木) 15時43分39秒

日本の外交

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ

日本国外での学習記を読むといつも出てくるフレーズがある。

「日本人はディスカッションに参加しない。それでは他の国に遅れをとってしまうので、もっとディベートを訓練するべきである。」
というフレーズ。
もちろん国際政治の上でもあいかわらずよく言われていること。
でも、本当だろうか?


日本文化ではディスカッションをしない。
欧米の人からみれば「苦手」なのだが、それが日本人のコミュニケーションの方法である。
国際政治では、うまいように利用され、相手の土俵に乗せられてるわけだ。
いかに達人の剣術家でも、相撲力士に土俵で相撲での戦いを求められて、相手の手加減なしてろくな勝負などできるわけがない。
しかしそれをやろうとしているのが国際社会における日本の姿だ。そしていいように利用されている。
それは別に他の国の政府がズルい、ということでは全く無い
なるべく有利な状況をつくり、強い立場にたち、何かを手に入れるよう努力する。それが外交だ。
それを非難する人たちは、結局愚痴を言っているだけで何もしない人と変わりがない。

日本政府は日本文化らしい方法で交渉すればいい。
もちろん日本以外の国は、ディベートをしろ、日本のやり方は不透明だ、日本の動きは遅い、結局先延ばしにする、、、などなどいろいろな非難をするだろう。
しかし、それは当たり前のことで、逆にそう非難されるということは、外交で日本政府が相手を翻弄している証拠だとはあんまりわかっていないのではないか?
日本政府自体は、非難されるほど、むしろ陰ではこっそりほくそ笑むべきなのだ。


日本以外の国は日本になにかをさせたいから日本と外交をするわけで、有利に立ちたいから、不利だと感じたらなんとか有利な立場になろうと思って努力する。
言うまでもないが、「グローバルスタンダード」など彼らが有利になるためのでっち上げでしかない。
日本はまんまとその策略にのって、必死に他人が作ったルールにのっとって努力している。

これは「お人好し」という問題ではない。外交自体が何かすら明らかにわかっていない。自分でも何をしているかわからないことをやって、勝てる人なんていない。
日本文化でいい歳になるまで育ったものが英語をネイティブスピーカーのように話せることがほぼ不可能なように、最初から負けることは決まっている。

交渉・勝負では、自分の得意なスタイルを明らかにし、相手を、交渉を自分のスタイルに持ち込まなければ負ける。
相手が相手のやり方で交渉を始めようとしたなら、きっぱりと「それは我々の文化的なスタイルではない。」と言い切り、せめて中間点へと持ち込まない限りは、負けるために戦っているようなものだ。

日本政府は自国のコミュニケーションのスタイルをもっと知るべきだ。そしてはっきりと利用すべきだ。それこそが日本が持つ武器なのだから。
相手のコミュニケーションスタイルを研究し、その弱点を見付けて、そこを利用すべきだ。
日本政府はなんでこんな単純なことすら分からないのかな、と思う。

やれ、といわれたら、「文化が違いすぎてできません、ごめんなさい。」とでもウソ言って逃れればいい。
「日本はディベートが苦手だからもっと練習しなきゃ、、、。」なんて言ってる暇があれば、独自のコミュニケーションスタイルをもっと洗練して欲しい。異文化のコミュニケーションをもっと研究してほしい。
それは個人的なことでも同じこと。


自分の弱い点と思っているところをなくそうと努力する前に、自分の良い点に気づきたい。
自分の弱い点は、「何」に対して「弱い」のか?それを見つめ、自分の強い点をどうやったら有効に生かせるか考えたい。
日本では、弱点・「悪い」部分を失くす事に主眼が置かれる。何かの「権力」に対して、自分を合わせることが強調される。
自分のもともとの創造的な面は、頻繁に抑圧され、利用されず、社会においてその存在価値を認められようと努力されることはない。
それこそが本当の意味でのデモクラシーであるにも関わらず。

個人も、国際政治も同じこと。
日本で育った人がやっている行動が、そのまま国際政治の舞台でも顕れている。
当然ながら、私たち一人一人が変われば、政府も変わるのだ。

2005年06月06日(月) 03時53分16秒

真面目さと信仰

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
真面目であるとは一体どういうことであろうか?

僕は一部の人には非常に真面目だといわれる。
それ以外の人には非常に不真面目だといわれる。

真面目であることを考えるとき、必ず考えなければいけないことは、何に対して真面目であるか?ということであろう。
多くの人は、何かのルール、言いかえれば信仰に対して真面目である。
人は~であらねばならない。
人は~あるべきだ。
~をするなら、~でなければならない。
等々。

僕は他の人に比べると本当に何も信じていないと思う。
なぜなら僕の中には常に何物でも一度疑う心があるからだ。
この世界の全てのものは、疑うに値する。そして疑うとそこには必ず「穴」が見えるものだ。なぜならこの世の中に例外のないものなどないのだから。
それが「間違っている」というわけではない。しかし、ただそれは、この大きな世界のたった一つの視点にしかすぎないのだ。

僕は社会的な、倫理的な、伝統的なルール自体をほとんど気にしたことがない。僕は、おそらく多くの人からは、倫理的を無視した、失礼で、いい加減なやつと見られていると思う。
もちろん、納得はできないけど、理解できる、という人も意外とたくさんいる。
だが、やはり多くの人は否定的な視線を投げかけてくる。

僕は自分の人生が幸せであること、この人生で何ができるかということだけを見ている。それ以外は別に僕の人生には必要ないものだ。
もちろんいつも良く考える。一つの行動の先が、自分の人生で必要なものと繋がっているなら、それを無視するのは有効なことではない。
僕のこの人生での一つの目標は、全ての人を幸せにすることだ。

小さい頃から、僕は多くの人が本当に人生に対して不真面目だな、と感じてきた。
今考えれば、彼/女らは「何か」に対する妄信的な信者であり、ある信仰体系の中に囚われてしまっている人たちで、それなりに自分の中で真面目に一生懸命やっているつもりなのだとわかり、共感もできる。
しかし、殆どの人は、自分の人生を、自分自身を、きちんと見つめることをせず、ただただ何かのルールのために「真面目」に生き続けるのだ。
僕にはそれがどうしても自分自身にとって真面目であることとは思えない。
自分達に与えられた命の、人生の貴重さに、どうしても真面目であるとは思えないのだ。

もしあなたが本当に一生懸命やっているつもりなのに、なにも良いことが起らない、何も人生が良い方向に変わっていかないとすれば、あなたがやっていることはあなたが望むものを運んでくるものではないし、あなたをより良い人生に運んでいく乗り物ではないと気づくべきだ。
もしそれを考えたくないとしたら、それこそあなたは自分の人生に対して不真面目なのだ。
恐怖はいつもある。自分の自己一致していた行動、アイデンティティを否定することは常に「死ね」ことだ。
方向転換はいつも始めからやり直しを要求する。自分が長年かけて培ってきた自信も、技術も、能力も、地位も、仲間も、知識も、安定も、全て無に帰するように感じる。時には本当になくなるときもある。
でも、だからこそ、それに常に立ち向かえる人は幸せになれるし、人生に後悔をすることもないだろう。

自分が好きなことをやってる人は、本当に自由で、楽しく、生き生きとしている。
しかし、同時に、常に彼/女らは古い自分や、社会的な批判、将来への不安と戦い続けている。
こういう人を真面目と呼ばず、何を真面目と呼べるだろう。

僕がいっているのは、自分の好きなことに人生をかけろ!ということではない。
自分の快適で幸せな、心の、人生のバランスを常に注意を払うことを忘れてはいけない。人間には休息も安全も安定も必要なのだから。
ただ、一度きりの人生、一時間後には死ぬかもしれない、だれにも先に見えない人生なのだ。
それをないがしろにして、あなたはなにを生きているというだろうか?
成功しないとしても、せめて後悔しないように生きたい。
やるだけのことはやったと、誇りをもって死を受け入れられるように生きよう。






2005年06月01日(水) 05時29分42秒

Priority

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
人間関係でとても大事なのは、相手がどれだけ自分を優先してくれるか、ということだろうと思う。
実際にできない、ということはさておき、優先しようという気持ちが大事なのだろう。

なにかしなければいけないことがあるにも関わらず、自分が困っている時、時間をとってくれること。
ちょっとしたことでも、手間を惜しまずにお祝いしてくれたりすること。
自分の気持ちを置いてでも、私のことを気遣ってくれる気持ち。
自分のしたい気持ちをちょっとだけ抑えて、私に先を譲ってくれること。
自分の将来がかかっているにも関わらず、それを投げ打って私のちょっとした約束を果たしてくれようとする想い。
とても大事な物にもかかわらず、それを私のために手放してくれた時。

実際にできるかどうかは問題ではない。
結果は大した問題ではない。
ときにはそのときどうしてもできないことだってある。
その人の人生だってある。
ただ、
気持ちが大事なのだ。もちろんそれが本物のとき、行為は伴う。行為というのは無限にあるのだから。一つのことができなくても、本当に気持ちさえあれば、別のできることはいっぱいある。別の機会にすることもできる。
気持ちとは頭で考えることではない。気持ちとは何か一つのことだけが伝えるものではない。
気持ちというのは伝わる。
たとえ結果として相手を優先することができなかったとしても。
時には相手に誤解されることはある。
でも周りの誰かは分かってくれる。

したかったけどできなかったといっても、本当に気持ちがあるかどうかなどということは、相手からみれば簡単にわかるものだ。
もし「あなた」が意識的に優先されなかったことに気づかなかったとしても、あなたは本当はよく分かっている。いくら信じようと思っても、いつか相手に対する不信感はにゅうと顔をもたげるのだ。

人間はバカではない。
あなたがしていることはみんな伝わっている。
あなたがしたことはいつか自分に返ってくる。いつか結果を生む。
それが無意識的や、間接的であったとしても。
2005年05月14日(土) 06時24分25秒

バランス

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ

僕は、よくいわれる「バランス」という概念は非常にあやしいものだと思っている。


よく自然を語る人、人間の心を語る人が「バランスが大事だ。」という。

では、一体「正しい」バランスはどこでわかるのだろうか?
バランスというまさに相対的なものを、絶対的な視点/中心点を語らずして語る人が多すぎはしないか?


バランスといえば思い出すのが、天秤。

一見、一定の場所に止まって水平になって均衡して「停止」していることがバランスが取れているように見える。しかしそれは非常に限定された、人間の意識の作用において均衡していると信じられる瞬間に過ぎない。

地球の重力の中心というのは実は動いている。地球だって動いている。宇宙だって動いている。人間の一生からしたらほとんど動いていないように感じるが、動いている。

天秤が停止していることなど、ない。
「停止」しているのは、私達の微視的な思い込みだ。



僕はバランスというのは、対立するエッセンスの入れ替わりのダイナミズムが重要であると思っている。

バランスは常に変わる。砂時計をクルクル回した時のように、一方(砂)は「下」へ、一方(空気)は「上」へ動き、傍目に砂と空気の比率が変わっていくのと同じようなものだ。あの、砂と空気の境界面こそがバランスが取れている面なのだといえるだろう。
ケースの外からの見た目は重要ではない。残念ながら私達は、ケースを、重力のもとで、数秒(☆)、眺める、という限られた狭い視点からしか、その現象を観察できていないにも関わらず、よく勘違いをする。
砂の量が空気に対してほんの僅かになって、まるで砂が空気に対して少ないように見えても、その瞬間がバランスを保っている状態なのだ。

バランスを保つというのは、そのバランスの変化に気づいて、固定された「バランス感/観」を捨て、『今、「砂/空気」はこの少ない/多い状態でいい。』と、いつも流動的に変わっていけるということであると思う。


陰陽のシンボルが、ただ半分を白に、半分を黒に塗ってあるだけではない理由はそれかな、とも思う。
ただもちろん歴史的な資料からわかる限りでは部分的にはそうではないが、ただ結果としてあきらかに見る視点において陰と陽の比率が5:5に限られるわけではないというのは明らかだ。
陰陽のバランスは常に移り変わって、移り変わっていることを全体としてみてはじめてバランスがとれていると分かる。


私達にとっては、「今」のバランスはどうやって知ったらいいか?という問題がある。やはりそれは「タオ」、または自然に自分のなかから湧いてくる衝動に気づくしかないと思う。
歴史的に固定してしまった「均衡」から脱け出し、自然に従えるかどうか。

経験上、新しいバランスに気づいて状況が悪くなった、という人は見たことが無いし、自分でも経験したことがない。

☆ あるものを、一つの繋がったもののまとまりであると感じるには、人間は判断基準とできる意識の時間が短すぎる。それは例えば、あまりいい例とは言えないが、駅に止まっている電車だけ(つまり動いている状態を見ていない)を見て、電車というのはたくさんの人が座ったり立ったりしておしゃべりしていたり休憩していたりする変な部屋、と考えるのと一緒だ。
そういえば、目の見えない人が象を触って、象を電柱(脚)と、ヘビ(鼻)と、コンクリートの塊(胴体)と別々に考えたという話もあった。
ちなみにこういうことはみんな当たり前のようにやっているし、そうしないと生きていけないというのもまた事実でもある。ただいつも、自分の視点は決して全体を捉えているわけではないのだ、と意識しておくのは大事なことだ。
2005年05月09日(月) 14時42分51秒

身体

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
身体というのは本当に面白い。
自分の身体の微かな動きに気づけるようになると、身体はいつもアメーバみたいに伸びたり縮んだりしていて、勝手にストレッチや、歪みを直そうとしているのが分かる。

身体(自分)っていうのは本当は自分のことが分かっているんだなあ、と思う。
自然の力学というのは本当に浸透しているんだなあ、と思う。


今日、自動車についてのテレビをみた。
実はもう燃料電池と電気のハイブリッドカーというのは完成していて、燃料を補給するステーションさえできれば売り出せるのだといっていた。
もうそこまで出来ていたとは驚きだった。
人がマフラーに鼻を当てて、「いい匂いだね。」と言っている映像はなかなか微妙に衝撃的だった。
資本主義/競争社会の良い面が出たとこだと思う。
方向さえ、使い方さえ間違えなければ、どんなことでも良い事はできる。
とはいえ、自動車という存在は様々な点で、まだまだ人間や自動車にとって脅威ではあるが、あんな車だったらまだ持ってもいいかな、と思える。あくまで止むを得ないときだけ。。。
とはいえ、水素を電気からつくっている間は結局なんの解決にもなっていないが。


僕は自分の身体に魅了されている。自分自身の奥深さに魅了されている。
人間は物に頼らなくてももっといろいろなことができる。
特殊に作られた空間や器具など使わなくても、誰かにマッサージをしてもらわなくたって日々気持ち良くいられる。
なぜなら身体は知っているから。自然としてある方法を。私達が生まれたありのままでいる方法を。私達が時間をつくって耳を傾けさえすれば。
これは詩的に書いているわけでも、誇張して書いているわけでも、何かを信じて書いているわけでもない。
ただあまりにリアルだ。
身体に、つまり自分自身を見つめることに人間にとっての一つの答えがある。


2005年05月06日(金) 13時52分28秒

死ぬ自由

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ
僕は生きることに昔からとりわけ興味がない。
もちろん死ぬことへも興味はない。

ただ、生きることがむしろ強いられることであるのに対して、
死ぬ自由というのは与えられていない。
それが何かおかしいような気がする。
今の社会に於いて、僕は生きることが足枷のように感じる。


死を語るのは多くの場合、どの文化でも、タブーである。たとえ本人が死ぬことを望んでいても、それを援助することはほぼ許されない。いろいろなニュースでよくご存知だろう。
われわれは死ぬことを否定される。
友達、家族、恋人、大事な人、みんなが「死なないで。」という。
なぜ?
僕は貴方達のために生きているわけではない。

自殺をする人の多くは「死」に「解放」や「楽になる」ことを投影する。そして死を選ぶ。それは問題だと思う。
精神世界や、最近のある特殊な技術を使った調査を調べていると、死後の世界はあるという。
死んでも解放はされない。
同じことの繰り返しだ。
例え死後の世界がなかったとしても、その場合「死」は無である。無とは何か考えたこともないに違いない。
あらゆるもの/ことが無い。それが無だ。「無い」ということも無いのだ。


今まで知り合った人の前世が見えるという人や未来が分かるという人達が、すごく小さな喫茶店や食堂、いわゆる「ほそぼそとした」暮らしをしている理由がわかったような気がする。もちろんお金持ちをいるだろうが、彼らは「お金」や「成功」に執着してはいないに違いない。
生きると言うことは、ある意味で「待つ」ということだ。
起きていることをだた受容し、しっかり踏みしめていくということだ。
閃光のように顕在しているこの瞬間の経験を、ただしっかりと味わっていくということだ。
死は選ぶまでもない。いずれ来るのだから。それは生がいつも来ているのと同じことだ。


人生に大きな期待をする人がいる。しかし前にも書いたように、幸せというのは成功だなんだということにはあまり寄らない。
ほとんどの人は未来に生きている。どこかに「幸せ」があるのではないか、と思って一生懸命努力して生きている。
僕は「成功」とは何か、「幸せ」とは何かも研究しているが、一生懸命努力して幸せを得た人はいない。残念ながら一生懸命というのは、それ自体が幸せであるという状況を除いて(それに気づく人も残念ながら非常に少ないのだが)、幸せということと反する。
投影すること自体や、夢を見ること自体は自然でリアルなことだ。それはどこかから湧き上がってくる力を持っているから。だが投影されたものや夢自体は空洞なのだ。「成功」や「お金」は貴方を映し出す鏡だ。
本当の幸せというのは、受け入れることから始まるに違いない。


死への自由が得られたとき、人は生きるとはどういうことなのかをもっと考えるようになるのではないか。
死がさし迫ったときに、やっと多くの人はそれを考える。それでは何の為に生きているのかわからないではないか。あなたや僕は生きているのに。

死ぬ自由が得られた時、じきに死への崇拝や憧れも消えるだろう。
今の文化に於いては、死を迎え入れるというのはより生きることを映し出す鏡に違いない。







2005年05月05日(木) 08時59分08秒

今日のあの人は、明日の私

テーマ:気づいて欲しいんだけど。と思っている人へ

幸せではない人は、自分の苦しみや哀しみや怒りを何かに投影する。

自分が得られないものを持っている人に、投影し怨む。

自分が苦しんでいるものをもっと持っている人に、投影し、拒絶し、迫害する。


一人の人が他人から何かを奪って幸せになると、奪われた人はその苦しみをまた誰かに投影する。

その人はまた失った何かを誰かから奪い、奪われた人は不幸せになり、同じことを繰り返す。


いつかは順番が自分に回ってくる。

可哀相なやつだ、と思っているとそのうち自分のところにまわってくる。


私達が幸せになるためには、全体として幸せにならないといけない。

そうしないと永久に幸せになれない。

僕らはつねに奪われることに怯えてなければいけない。僕らはつねにそうはならないように必死だ。強者になろう。奪われないだけの力を手に入れよう。

奪われることに怯えているとさらに誰かを傷つけることになる。怨みを買う。

しかし、復讐はいつか果たされる。

非常に知られている真実を使えば、世の中は盛者必衰、所業無常だ。


他人はいつかの自分でもある。

他人を助けることは自分を助けることでもある。

他人に与えることは自分に与えることでもある。





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