真面目であるとは一体どういうことであろうか?
僕は一部の人には非常に真面目だといわれる。
それ以外の人には非常に不真面目だといわれる。
真面目であることを考えるとき、必ず考えなければいけないことは、何に対して真面目であるか?ということであろう。
多くの人は、何かのルール、言いかえれば信仰に対して真面目である。
人は~であらねばならない。
人は~あるべきだ。
~をするなら、~でなければならない。
等々。
僕は他の人に比べると本当に何も信じていないと思う。
なぜなら僕の中には常に何物でも一度疑う心があるからだ。
この世界の全てのものは、疑うに値する。そして疑うとそこには必ず「穴」が見えるものだ。なぜならこの世の中に例外のないものなどないのだから。
それが「間違っている」というわけではない。しかし、ただそれは、この大きな世界のたった一つの視点にしかすぎないのだ。
僕は社会的な、倫理的な、伝統的なルール自体をほとんど気にしたことがない。僕は、おそらく多くの人からは、倫理的を無視した、失礼で、いい加減なやつと見られていると思う。
もちろん、納得はできないけど、理解できる、という人も意外とたくさんいる。
だが、やはり多くの人は否定的な視線を投げかけてくる。
僕は自分の人生が幸せであること、この人生で何ができるかということだけを見ている。それ以外は別に僕の人生には必要ないものだ。
もちろんいつも良く考える。一つの行動の先が、自分の人生で必要なものと繋がっているなら、それを無視するのは有効なことではない。
僕のこの人生での一つの目標は、全ての人を幸せにすることだ。
小さい頃から、僕は多くの人が本当に人生に対して不真面目だな、と感じてきた。
今考えれば、彼/女らは「何か」に対する妄信的な信者であり、ある信仰体系の中に囚われてしまっている人たちで、それなりに自分の中で真面目に一生懸命やっているつもりなのだとわかり、共感もできる。
しかし、殆どの人は、自分の人生を、自分自身を、きちんと見つめることをせず、ただただ何かのルールのために「真面目」に生き続けるのだ。
僕にはそれがどうしても自分自身にとって真面目であることとは思えない。
自分達に与えられた命の、人生の貴重さに、どうしても真面目であるとは思えないのだ。
もしあなたが本当に一生懸命やっているつもりなのに、なにも良いことが起らない、何も人生が良い方向に変わっていかないとすれば、あなたがやっていることはあなたが望むものを運んでくるものではないし、あなたをより良い人生に運んでいく乗り物ではないと気づくべきだ。
もしそれを考えたくないとしたら、それこそあなたは自分の人生に対して不真面目なのだ。
恐怖はいつもある。自分の自己一致していた行動、アイデンティティを否定することは常に「死ね」ことだ。
方向転換はいつも始めからやり直しを要求する。自分が長年かけて培ってきた自信も、技術も、能力も、地位も、仲間も、知識も、安定も、全て無に帰するように感じる。時には本当になくなるときもある。
でも、だからこそ、それに常に立ち向かえる人は幸せになれるし、人生に後悔をすることもないだろう。
自分が好きなことをやってる人は、本当に自由で、楽しく、生き生きとしている。
しかし、同時に、常に彼/女らは古い自分や、社会的な批判、将来への不安と戦い続けている。
こういう人を真面目と呼ばず、何を真面目と呼べるだろう。
僕がいっているのは、自分の好きなことに人生をかけろ!ということではない。
自分の快適で幸せな、心の、人生のバランスを常に注意を払うことを忘れてはいけない。人間には休息も安全も安定も必要なのだから。
ただ、一度きりの人生、一時間後には死ぬかもしれない、だれにも先に見えない人生なのだ。
それをないがしろにして、あなたはなにを生きているというだろうか?
成功しないとしても、せめて後悔しないように生きたい。
やるだけのことはやったと、誇りをもって死を受け入れられるように生きよう。