2005年08月31日(水) 05時23分01秒

宇宙の夢のお話

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ

僕のいう宇宙の夢、または単に夢、という言葉についてここで説明しておきたい。僕はこの言葉をよく使うから。

同じ内容を何度も繰り返し書く。それでなんとなく感じを掴んで頂けると嬉しい。


とても不思議なものだと思うのである。

ある他人の書庫を眺めると、僕がああこいつは大したことをいってないよ、と思ってる作家・思想家の本がずらりと並んでいるのである。

それだけならんでいると分かることは一つ。

ああ、彼らを好きになる一つの流れがある、と。


僕が、実はあまり大したことをいってないなあ、と思う人たちは、一見深層にふれているような話題に触れていながら頭で考えすぎで、そのために深みに足を踏み込むことがなかったであろう人たちだ。

彼らの理由はわからない。

深みが見えないのか、先にいくことを怖れているのか(そういう深みは大概にしてオカルトっぽくなるからだ。)、見えるけれど先に行く能力がないのか。

でも、それにしても、その先にまだまだ先がある可能性を考慮してかせずなのかはわからないが、わかっているような感じで書く態度がどうにも理解できないのだった。

しかし、そういう人ばかりに限ってある人は好きだ、凄いという。


こういうことってどんな物事にもある。

そういうとき、僕はあらかじめ存在しているその人たちの流れをみる。

他の言い方でいえば世界観、尺度、視点、タイプ。


僕はかれらは同じ宇宙の夢の一部なのだと思っている。

ある何かを成し遂げようと同じ方向に向かっている人々。たとえ肉体として誰かがいなくなったとしても、変わったとしても、その先を、同じ夢をみていた人がそれを継いでいくものだ。

歴史というのはそうやってできていく側面がどうしてもある。そのために、それは一時期「ミーム」と呼ばれたものであろうと思う。

あらかじめ存在しているようにしか考えられないある方向性。そこから何が発生してくるかはまだ見えない。でも繋がっているもの。創造されるものは、まだ無いが、見える人には見えている。すでにあるもの。


武術のお話。武術では良い師匠と出会うことも重要なことだといわれている。

では、どうやって何も知らない人が良い師匠を見つけることができるだろう?

だから、かなり多くの人は、ただやみくもに情報誌や他人の言葉から「良い」といわれている人のもとにゆき、ただ闇雲にその先生を信じ、練習するのであるが、

そういうとき、私たちはどこかで「強さ」「達人」などのイメージと会話をしている。

そして、微細ではあるのだが、常に確実に、あらゆる決断を迫られる瞬間瞬間にそのイメージは本人の判断に影響を与えている。

もちろんそのイメージは思い込みであることもある。しかし、ふと、鼻先をかすめる香りのように、ふわりと脳裏をよぎるなにか神話的なイメージがある。

それは消えるものではない。人は人生の中でつねにその像を追い求める。見失うと、というか拒否すると、その人はずっと心のどこかでそれを追い続けることとなる。

この像に正対して向き合い一歩でも近づこうとするとき、人は力を得る。


それは子供の時にみた夢である場合も多い。もちろん象徴的な像を借りているだろうが。

それは遠くに見える何か。

すごく身近でありながら、すごく遠いもの。


自分が、自分である夢に成りえた人は、幸せである。



では、それを何故僕は「宇宙の夢」と呼ぶのか。

それは、起る構造が、いわゆる普通の夢と非常にそっくりである(そしておそらく同じ)からだ。

ただ「宇宙の」というのには、根拠は無い。別に「地球の~」でも「神の~」でも構わないのだが、僕が「宇宙の~」と呼ぶのが好きなだけであることは断っておく。

この「夢」というのはイメージそのものではない。イメージはそれを生み出している「力」のその瞬間の写し身にしか過ぎない。人もまた然りである。ただ期間の長さに違いはある。

人や、また物自体というのは、ある瞬間における「夢」または「力」の像でしかない。そのときに可能であった結果でしかない。人やものというのは型であり、夢はそれに姿を映し、そして通り過ぎていく。

夢のなかの像は、その夢を作り出す力そのものではない。力には姿がない。

人やものというのは、ある独特のスペクトルをもった鏡のようなものでもあり、そこにその独自性がある。それぞれの反射可能なスペクトルによって、鏡は様々な姿かたちを映し出す。しかし、鏡の中の像は結局光でしかないように、その像自体なわけではない。


この「力」または「力動」こそが自然であり、「像」は結果である。

力に名前をつけてしまうことによって、それは名前という像を帯びてしまいそれ自体ではなくなってしまう。だから本当はなんと呼ぶこともできない。

だが、人間は結果しか感知できないから、それを、その「力」自体(こう書いている自体で矛盾しているが、便宜的に。)を知ることは出来ない。


僕らが見ている夢は、宇宙の夢であり、それはどこに向かおうとしているのか。

僕はそれにとても魅了されるのである。

2005年05月22日(日) 06時35分32秒

言論弾圧と言論の自由と力の関係  難しい問題

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
副島隆彦氏にメールを書く。
著書に不注意なところがあったためだ。
ところが言論弾圧という風に呼ばれる。
最初は理解できなかったが、数回やりとりをすることによって理解できた。

私達は「力」、つまり言論においては影響力を持たない間はなんでも言える。
私達は自分と比較的同じ意見を持った人を応援する。彼らがもっと影響力をもって世界を変えてくれたらな、なんて思って応援する。
応援するにつれて。彼らは影響力を持つ。影響力というのは一人歩きするものだ。また言論というのも一人歩きをする。
ささいな不注意が、社会に対して大きなうねりを巻き起こすことになる。些細な無神経さが、大きな力を生み出す。
そうなると私達はこんなことは言わないほうがいいんじゃないか、これをあらかじめ注意書きとして書いておいてくれたら、と思うようになる。それを伝えると「言論弾圧」と呼ばれる。
人というのは全てを書ききれるわけではないし、全てのことを詳細に書いていくと、なぜか矛盾に陥っていく。
ここでいう矛盾というのは、反対の2つの意見が同時に主張されるということだ。

言論の自由があるのは、影響力を持たない場合だけだ。それは相手にされないからだ。
一人の人間は必ず全てのことに気づけるわけではないから、なにかをすると必ず何かが落ちる。そしてその落ちた部分には、それに対応する落とされた人々がいる。
その一人の人の影響力が強ければ強いほど、落とされる人々は強く落とされる。時には殺される人だって現れる。
ただ、落とされる人を生まないようにしようと思えば、何もできなくなってしまう。私達にできることは口をつぐむしかない。たしかにこれはもっとも安全な方法で、多くの人が実際にしていることだ。
何もしない。何もいわない。
でも、これでは抑圧を行っている力を容認しているのと同じになってしまう。
「氷の心」を持って口を開き、自分が批判しているものへの道を歩むか
「敏感な魂」となって口を閉ざし、自分が批判しているものへの道を歩むか。
どちらを選択しても、自分が力を持つほどに矛盾が生じる。

「力」というのは全く諸刃の剣であり、創造をすればかならず破壊があるし、破壊をやめれば創造はできない。
私達はヒンドゥー教の最高神の一人シヴァ神のように、「破壊の神」とも呼ばれながら、創造を繰り返していくしかないのだろうか?




2005年05月17日(火) 13時35分14秒

進むということは深化または広化していくことだ、きっと。

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
バランス。
この前かいたこの言葉だが、本当に僕が感じていることはなかなか伝わらないので、また話を変えてみよう。

ぼくは「しぜん」と「人工」というのは、①対立していないと見ている。
と、同時に、②対立している、と思っている。

①は②を一歩遠くから見た結果だが、僕はいずれ自分がその反対の考えと出会い、いつの日にかまたもう一歩遠くへ歩いていくのを知っている。

「しぜん」と「人工」というこの対立する2極は、どちらのエッセンスであっても、一歩深いところ、または広いところから眺めることができる。
やっぱりそれ自体が「しぜん」かな?あ、やっぱり「人工」でもあるか、と繰り返し(この順番は僕の個人的なもの)、螺旋を描くように少しずつ前にあったものを含むかたちですこしづつ深化していく。
バランスはこのプロセスの一点を眺めるときに、在る。

自分の身体を眺めていたりして思うのだが、「しぜん」というのは大地と、「人工」というのは天とつながっているように思う。
随分前にかいたが、ドリーミングは下から湧き上がってきて、考えというのは上から降ってくるのだ。
大地は文字通り「地(じ)」であり、空は「理想」だ。
僕らはこの間をいつも行き来しながら生きている。
きっと宇宙自体も、二つに分かれた時から、この間を行き来して広がっているに違いない。

様々な思想が、つねに前のものを含むかたちで、様々な二つの極を行ったり来たりしている。
行ったり来たりでありながら、進んでいる。
そういえばフラクタル図形というのは、なんかそんな形だ。
大きくなって、小さいものを含んでいくけれど、結局見た目はあまり変わらない。
見た目はあまり変わらないけれど、やはりどんどん大きく、いつしか無限に広がりかつ収束していくのだ。


あなたが「ゴール」に辿り着いたとき、あなたが来たところの向こう側に、今を越える魅力的な何かが、常に手招きしてあなたを待ち構えているのだと忘れず、飽きるまで一休みしたら、またあなたが来たところに向かって歩き出して欲しいと思う。

2005年05月17日(火) 12時12分19秒

地球で動く

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
今日もマニアックな動きのお話。
とはいえ、後半はいい感じになります。

今日は重心の移動と、脱力による動きの練習をなんとなくしてみた。

人間の筋肉にいつもかかっている力がある。それが重力だ。
人間が立っている限り、人間は常に重力に対して「-」(目的方向の逆側)の方向に筋肉を働かせているということになる。
60kgの体重の人には常に60kg重の力に対して、筋肉を働かせて「0(ゼロ)化」しているということだ。
我々は立つことをやめれば、60kg重の力が下方に生まれる。これを利用して動く。

甲野善紀氏が、身体を卵が水のなかで浮かず沈まずというような状態にしておかないとすぐに動けない、といっておられた。(その例で、高岡氏を批判していたのだが。。。)
しかし重力と脱力をつかった動きの場合、全くそうではない。

甲野氏の「0」という状態は、すでに働いている筋肉を無視して、立っている状態を「0」とし、そこから「+」に動くことために必要な状態だ。
しかし、もし立っていない完全に脱力した状態を「0」と考えれば、立っている状態というの「-」の状態、つまり引き絞っている弓の状態と考えることができるだろう。
身体は力を抜いた瞬間に、矢が弓から飛んでいくように動き出していく。。。

筋肉を動かすことは、どうしても緊張であるので、「動こう!」という意識と実際の動きには若干のズレが生じる。それをなるべくその「時差」を取り去ろうと努力した状態が「浮かず沈まずの卵」の状態だろう。それは緊張の一瞬手前の状態だと思う。
ところが移動にはどうしても初速度、という問題があって、どうしても「0」からの動き始めには大きな力がいる。だからそこでどうしても遅れが生じるし、無駄な力がいるのだ。
ところが、脱力するには力が要らないのだ。この差というのは微妙であるが、大きいものだろう。
ただ、映像で見ていると、いつ動き出そうと思ったのか、が確認できないので、組み手(?)で本当に本気で相手がかかってくるわけではないので、実際にはいつ「動こう」と思ってそして実際に動きが始まったのかのかが外からみている人にはわからないので、なんともいえないのが残念なところだ。。。

こういった動きの作り方の違いというは発想は、もちろん人間と環境との関係への感覚や思想へと影響してくる。
あくまで自分が中心として自分を(空間的な意味で)動かす人と、地球の力によって自分を動かす人では、その意識が変わってくるのは当たり前だ。
 ただ同じ「動く」ということを、
一人の人間の小さな力で頑張ってやることと、
地球や環境という力と関わり、一体になり、ときには自分を捨てながら、自分の思うことをやることには、
様々な意味で、人間という存在のあり方が浮かび上がるといえるだろう。



2005年05月16日(月) 14時25分00秒

人間はとても不思議でどうにもコントロールできない。

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ

よく自転車に乗っていると、素敵なアイデアやとても深い考えが頭に浮かぶ。

後はシャワーを浴びているときや、トイレに入るとき。まさに眠ろうとしているときに。

このブログに書いているのは大体そんなときに浮かんだことだ。


そして、一生懸命なにかをやろうとしているときというのは本当に何もかも忘れてしまって、自分がやりたいことと反対の結果がでる。

思いついたことについてメールを書こうとしたり、ブログに書こうとしたり。

だから、このブログに書いて入るときは、思いついたことをだんだん忘れながら書いていて、思いついた時点のアイデアや気づきよりいつも何か欠けてしまっていたり、深みに欠けてしまったりする。

欠けているのはわかるけれど、思い出せない。

その考えにアクセスすることができない。

だから時々書くのをやめて一度送信してしまって後で編集する。

だから前に一度読んだことがある記事でも、時々微妙にアップデートされているので、よかったらもう一度読んで見てください。(笑)



右脳の研究で、リラックスしているほど頭が働くという結果が出ている。

無心になればなるほど、頭から良いアイデアが浮かぶ。

こういうのはアインシュタインやエジソンやダリといった数々の奇才も報告している。殆どの人に経験があるはずだ。

僕はよく何もしていないけれど、いっぱいアイデアが浮かんだり、いろいろと考えているのはそのためだ。見た目にはすごく何もしていない人に見えるらしい。でも、それは何もしない方が、より何かができるように思うからだ。

ただ、時には情報などをいっぱい仕入れるときもある。自分のアイデアが現実と合ってないかどうかというのは、意固地にならなければすぐに分かるから、そういう時は改めて考えるソースを仕入れるようにしている。


この逆説的な脳の働きというのは、本当に不思議だ。意図すれば意図するほど、できなくなる。

無心になろう、なんて思ったら、できない。

考えるのはやめよう、と思えば思うほどやめられないという変な現象。

これは前に話した瞑想の話と一緒。

これも起ることであって、やろうとしてできることではない。


ちなみに、きっかけとなる考えと、あらかじめ情報をいっぱい適当に仕入れておくことは必要だ。

きっかけなしでは、考えは浮かんでこない。情報なしでは一人よがりの考えになってしまう。

あとは、本当にただただ考えるのをあきらめること。


あ、そういえば速読というのも同じメソッドだな。


しかしあきらめるというのは、本当に難しいことだ。

あと、アイデアが浮かんだら、それを掴み取って、形にする=自分の外に何らかの方法で出す(僕はこれを「外在化」と呼んでいる。)こと。

ただ、これがあまりにも難しい。そのときに考えていた言葉を必死に覚えても、中身が何を意味していたのかわからなくなることはほとんどだ。

こういうことを多く経験すると、言葉というのがいかにスカスカのものなのか分かる。だから僕は言葉というのを信頼していないのだが。

言葉だけで、人がお互いに分かり合えるわけがないのだ。とはいえ、近づくことはできると思うけど。


こういうことって、人間(の意識)が、いかに現実に起っている事実とうまく適合できていないかを現しているように思う。



新しいアイデアを考えなきゃいけなかったり、何かに悩んでいる人は、本当に一度そこから逃げてみてください。

大事なのは本当にあきらめることですよ。

どうせ考えてもダメだったんだから、素直に一度あきらめてみてはいかがでしょうか?


2005年05月06日(金) 19時56分52秒

意識と私

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
先日も書いたが「意識」とは広義の「思考」である。
この頭でもやもやしているもの。
これが広義の「思考」であり、「意識」だ。

しかし、私というものはもっと大きい。
どこまで私といえるか、というのは難しい問題だ。調べれば調べるほど「世界」から果たして区別できるのかわからなくなってくる。
だが少なくとも、相関性の密度の問題でいくと、次のようにいえるだろう。

私とは、感覚や動きや反応も含んだ全体だ。
無意識に起っている動きや、身体症状なども私である。それは「私の中」で起っているのではなく、「私の身体」で起ってるのではなく、それが私なのだ。変な表現だが、私が起っているのだ。
私の「意識」でない部分も、「意志」と呼べるようなものをもっている。
 

「意識」が「私」であるように感じるのは、実は現代が視覚文化であるために、目が中心になってしまっているからだ。(☆)
「私」が「意識」だと感じ、しかもそれが「頭」にあるように感じるのは、そこに目があるからだ。それはなんとなくわかるだろう。目をつぶっても、あなたは「真っ暗」だと感じていると思う。それはその状態でも視覚が中心になっているからだ。
目を開けていても、「思考」が働いていないときは視覚は対象を捉えていない。目は開いていて何かは映ってはいるけど見ていないボーっとした瞬間は誰にでもあるはずだ。このとき、視覚は「無意識」となっている。(★)


私達は自分が「意識」であると考えるために、よく自分に対して間違いや矛盾を起こす。
あなたの「意識」はあなたのほんの一部にしか過ぎない。
しかしあなたという全体は、「意識」とは別のことを、全体としてしている。

例えるなら、あなたはグループなのだ。「意識」、つまりあなたが思っている「あなた」はそのグループの一員に過ぎない。
「あなた」だけの独断行動はグループを時として大きくかき乱すものだ。だからそのとき、あなたは問題を抱える。「あなた」はそれを「病気」などといったりするだろう。
でもそれは、あなたの一部が「あなた」と同じ行動をとっていないからだ。


「意識」が自分の中心だと思っていることは、自分を知らないことと一緒。自分がやっていることを知らないのだ。
そんな状態で、一体あなたは何ができるというのだろう?



☆ 昔の日本人などは、人間の中心は「ハラ」だったと感じていたようだ。
これは「お腹」ではなく、丹田を中心とした周辺部位を指すと思われる。
それは身体の動きや情報というのは、丹田辺りから背骨を通して起こるからだ。昔の人はそれをいつも感じていたに違いない。

★ ちなみにこの状態を武術では「観」と呼ぶ。ただし、この状態から動きを喚起していくのは相当に難しい。ハッ、となった瞬間から「観」の状態は途切れて「見」ている状態に変わり、「意識」が起ってしまうからだ。
そうするとその過程に一瞬ではあるが時間がかかるから、相手に読まれるし、遅くなる。
「意識」は身体の動きを止めてしまう。「意識」は身体の動きを制御しようとして、身体の自発的な動きを止めてしまう。(しかし身体が自発的な動きをするようになるには相当な修行が必要だ。。。)
これは、全体としての私が、まさに「揉める」瞬間である。

2005年05月05日(木) 16時25分08秒

閃光

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
私が信じているものが一つだけある。

それは、ほんのごく一瞬の閃光のようなものがあること。
私の経験、私という経験、私が経験しているもの、世界と呼ばれるものを含んだ、この閃きにも似た、何かがあるということ。

今このごく一瞬には何かが起っている。それだけは確実だ。
それは私という体験なのかもしれないし、
それは「私」という存在を含み、宇宙をも含む何かかもしれない。


たとえ意識がなくなっても、体験は消えることはない。それを存在というなら、存在は消えない。
そのごく一瞬一瞬が繋がっているのか、実はほんのほんの僅かなささやかな一点の小さな閃きなのか、それはわからない。

前に意識とは思考だと言ったときに言いたかったことはそれだった。
意識というのはその閃きのほんの一部に過ぎない。
存在という経験の中のほんの一部。
私という存在の一片にしか過ぎないのだ。
それをあんまり信じすぎてはいけない。
それを信じすぎると、私達は「私」と呼んでいる「全て」に繋がる宇宙を失ってしまう。



2005年02月24日(木) 04時48分32秒

自然の法則 「変化すること」

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
自然にはいくつか法則がある。
一つ目は、「世界・人間を含む全てのものは常に変わっている」ということだ。
日本人には言葉としては馴染みが深いが、実感でわかっている人がすくないし、ましてやそれにあわせて行動している人など極稀である。

法則自体に対しては、上の一言以上に説明することはできない。だれの目からしても明らかなはずだ。人間は唯一この「変化」に対抗しようとしている生物であるが。

人間は、変化が怖い。そして変化などないとよく信じ込もうとする。変化がないように努力しようとする。一見、変化をとめられたように思っても、それは結局、あまりに鈍感なため(というよりはおそらく見たくないため)見えていないに過ぎない。
人間は安定志向である。これに関して文句があるわけではない。自然に人間のなかに起こる安定志向は、もちろん非常にいい面があるが、忘れてはならないのは、それでも結局安定はほんの一瞬のものに過ぎない、ということだ。
同時にわかっている必要がある。

人間は身の回りにものをつくる。それは自然環境からすると非常に「固い」ものだ。固いものとは変化しにくいものを指すのであるが、人間の一生と言う尺度からみて変化しきるまでに時間がかかるというだけで、もちろん一刻一刻変わっている。コンクリート製の家だって、車だって、いつかはボロッとして、崩れかけてくるし、かたちも微妙に歪んでくる。ついには崩れて土に空気に、戻る。
人間は、実感として感じるには、変化に対して非常に短い感覚の尺度しかもっていないので、何十年もして何かの機会にふと、ああ私もこの家もずいぶん歳をとったものだ、、、などと気づくのである。
開花の超スピード映像をみて驚いたことなどないだろうか?開花はたいてい数時間で起こるにもかかわらず、花があんなに動きまわっているとは誰も感じないだろう。

変化は悪いわけではなく、劣化する、という意味では決してない。ここにもまた本質的な間違いがある。
変化は本来、ただ変化するだけであり、価値自体も一刻一刻変化する。
若いときには若いなりの良さがあり、悩みもあり、老人には老人なりの良さがあり、悩みがある。
若いときはよかった、という人がいる。(最近は20代でも言う。)でも良く考えてもらいたいが、それは本当に「若いとき」が理由だっただろうか?今と同じような程度で、将来や仕事や恋愛や健康に関して悩み、頭のなかはいっぱいではなかったか?
一面ではなく、全体として考えて欲しい。今、若いときより悩んでいる部分が多いが、若いときより悩んでいない部分のことは忘れていないか?若いころなら(将来があるから、若いから、自分に適当な言い訳をしてといって)拒絶できたが、今の自分は、自分で自分を放棄できることに縛り付けていないか?

変化の感覚を忘れないで欲しい。これは特に環境問題や医療の問題、社会の問題と結びついている。人はあるものがいつまでも使えると思い込み、目の前から消えるとなくなったと思い込む。
人間は今を解決するために、自分の未来を犠牲にする。
以前にも書いたが、未来のことは未来の視点を想像して考えなければならない。
変化は常に起こっているものだ、と理解しなければならない。

後に書くが、あなたの一挙手一投足は、人生に、世界に反映する。次の行動から、すごく余裕をもってできることだけでいいから、ほんの些細なことでも変化について感じる行動に変えて欲しいと思う。
2005年02月21日(月) 20時16分41秒

心体論 2

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
ちなみに思考と心(と呼ばれているもの)は別のものである。
思考と心の関係は「思考⇔心」であり、「思考<心」である。
要するに、
思考は心と相互作用をしてはいるが基本的には思考は心(体)の影響下にある。

現代の人々は、以上の関係があるにも関わらず、思考を中心として生き(ようとし)ているし、計画や生活を組み立て(ようとし)ている。
だからおかしくなる。
だからうまくいかない。
だから苦しくなる。
2005年02月21日(月) 19時19分33秒

心体論

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ
最近、心と体は繋がっているという意見もずいぶんと理解されてきたように思うが、実はそれはまだまだ間違っていて、心と体とは同じものの違う知覚による表象つまり顕れであって、心と体が「つながっている」のではない。僕はここでは仮にその同じものを「心体」と呼ぶ。

ちなみにそれはある程度は他人からも、見えるし感じられる。微細な感覚なのであまり意識的に明確に気づいている人はいないようですが。
下を向いている人が陰鬱に見える、とか、心の美しい人は美しく見える(「美しい」は相対的だとしても。)とかは実はそういうこと。
ただ、心体はその人の主観的なものから表現されるので、他人が他人の視点から明確に分析するのは無理(傾向はあるにしても)であることはくれぐれも忘れてはいけない。

体や心についてかなりの研究を重ねた人でも、体が心に影響を与え、心が体に影響を与えるのだとまだまだ思っている。「心=体」といってはいるが、本当の意味で僕のいう心体を考えている人は明らかにまだまだ少ない。「心⇔体」と考えている人がほとんど。

たとえば、脳内の分泌物がでると精神状態が変わるから、「体」つまり物質が「心」に影響をあたえているのか?
ポジティブに物事を考えると脳のある物質が分泌されるから「心」が先なのか?
それとも両方の相互作用があり得るのか?
姿勢がスッとなると、気持ちもすうっとするから「体」が先なのか?
気持ちがシャンとすると背筋も伸びるから「心」がやはり「体」にも現れるのか?

どれも間違っている。
「体の変化→心の変化」でもなく「心の変化→体の変化」でもなく「体の変化⇔心の変化」でもない。
心と体は別の物、と信じ込んでいる考えを少し脇に置いて眺めて見れば「体の変化=心の変化」であり、「体=心」であり、要するに「体」と呼ばれているものと「心」と呼ばれているものはもともとは切り離せない同一体であるのは明らかだとわかると思う。

だから、夢は身体を通して現れるし、身体の障害は精神を変化させる。
人間は現象可能な限りばらばらに分解して理解しようとすることによって、時には一見当たり前の何かを見失ってしまう。

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