今、「ハーバード・ケネディスクールでは何をどう教えているか」を読んでいる。
この本を読んでいて気づいたことは、
結局良い学生というのは、よい教師がつくるということだ。
いくら脳みそのパフォーマンスが高くても、良い教育を与えられなければ、それは実を為さない、ということ。
全く分野が異なっていても、良い教師というのは非常に魅力的であり、その学問は私たちを魅了する。
出会う教師と与えられる教育は、その学生の未来を決定すると言っても良い。
もちろん親も、周りの環境も同然だ。
良い「教師」に出会うこと、そしてその指南を受けることは、きっとその学生の人生において大きな違いを為すのだ。
武術の世界でも、良い師を見つけることがもっとも重要だと言われる。
こういうことは昔から良く理解されていたことなのだなと思う。
話は全く変わるが、
最近、米国(「アメリカ」という呼び名は明らかに適切ではないので、米国と呼ぶ。)で勉強をする者を米国に洗脳された者と呼ぶ人が増えつつあるように思うが、この本を読む限り、そういうことをいっているから何も変えることができないのだと感じる。
ケネディースクールで教えられていることは、決して偏っているようには思えない。様々な文化的な視点がとても公平に扱われているように感じる。
もちろん、ハーバード自体が情報処理及び思索における脳のパフォーマンス「エリート」の世界に留まっているという問題はあるにしても、それは決して米国が思想的な主導権を握っていることを意味しない。
最近、以前に比べれば偏りが増しているにせよ、思想的にオープンで、才能さえあれば認められるという文化はやはり米国の強みである。
最近流行っている米国陰謀論のもっともくだらない点は、たとえ過去に実際に米国に責任があったにしろ、責任を私たち自らには求めず、ならば
今なにをすべきかを語らない点にある。(★)
第2次世界大戦が終わってもう60年経つ。私たち日本人は本当に米国の洗脳のもとに60年も暮らしてきたのだろうか?
そんなことは不可能なのである。
私たちは努力しなかった。問題があるにも関わらず自分を見つめなかった。動こうとしなかった。それが全ての問題なのだ。
「ソフトパワー」という言葉の重要性は、実は何かをするためには市民の心理や意見がどうしても重要であることを(逆説的に?)意味している。
世界は、私たちが本当望んで動けば変わるのだ。わずか少数の権力者の力によってのみ操作され得るものではもうないのだ。
権力者は私たちの曖昧でいい加減な態度を狙う。つまり、それは私たちが無意識的に望んだものでもあり、世界である。それは決して権力者のみの責任ではない。
世界は実は私たち自身の姿の反映だ。
それは決して一握りの人間に帰される問題ではない。
★ 日本文化の特性(日本独自のものとは思わないが、少なくとも欧米とは違う。)として非常に面白いことに、日本では責任をとることと、責任を押し付けることを非常に避ける。
その特性はなぜユング派が日本では主流派になり得たのかと非常に関係していると思う。
下の記事でも書いたように、日本文化圏で育った人は心のどこかで自分のやっていることは自分がやっていることではないと感じているのではないだろうか。自分がやっていることは、自分がやっていることであると同時に、何かが自分にさせていることでもあるのだ。
個人的に、ゲシュタルト心理学のセラピーを受けた時に妙な負担を感じた。なぜなら自分の行動に関する責任を全部自分に押し付けられるように感じるからだ。プロセスワークのセッションではすでに90回以上受けているが、一度も感じたことがない感覚だ。
実際、日本では責任の所在は非常に頻繁に曖昧になる。
もちろんこれはなぜ日本ではデモクラシーが根付かないかという原因でもあると思う。
この特性はどこから来るのか分からないが、とにかく文化的違いというのは面白いものである。