2005年08月31日(水) 10時47分57秒

欲望と感謝

テーマ:自分への覚え書き

求めればどれだけ持っていてもキリがないということに気づく。


逆に手元を見れば、いくらでももっているということに気づくのである。

2005年08月28日(日) 16時36分26秒

死の淵に立って

テーマ:自分への覚え書き
生と死の境界。
極限の、ギリギリの状態。
一つ間違えれば命を失う。
そんな瞬間に人はもっともエネルギーを発する。
その状態を美しいと思う。

僕はそんなところで仕事がしたい。
ギリギリのところ。

そしてそんな仕事が好きだ。
針の上のような限界点で、針の先のように繊細な研ぎ澄まされた感覚で作られたもの、行われる仕事。

僕が武術をやっているのはきっとそんなところに理由がある。
ギリギリの感覚。
本当はそれを望んでいるのだ。実戦の中での、一瞬が永遠にも感じる時間のなかで、極微細な決定が全てを決めるようなそんな瞬間。
興奮。

人はそういった自分という夢を生きるのだ。その夢を生きるときもっともエネルギーが生まれる。

その夢を僕は宇宙の夢と呼ぶ。それは「僕」という何かを通して顕在してこようとする夢。

人は生まれながらにして尺度を持っている。何かを評価する基準。人生を決める基準。
人はなぜか生まれながらにして判断基準をしっている。それはつまり、あらかじめ「知っている」ということに他ならない。
僕はそれをその人の夢、と呼ぶ。なぜなら、その基準の頂点とは、その人が成るべき所だからだ。
その尺度を持っている人は、自分以外にはどこにもいない。正確な意味では。
ただその頂点に行ける、またはその尺度が分かるのは、ただ自分をおいて他にいない。
なぜ、どこからその尺度は現れたのだろう?

それは「美」または「真実」、「夢」、「成功」、「善」と様々な言葉で呼ばれるだろう。
そしてそれはその人に最も力を与えているものであるはずだ。


僕は、生と死の境界にいて、そこで全力で命を燃やしているそんな人たちと会い、そんな人たちのために仕事をしたいと思う。
そしてそんな仕事をするだろう。

2005年06月28日(火) 17時39分03秒

将来のことを考える

テーマ:自分への覚え書き
歳をとったなあ、と思う。
純粋に肉体的と数字的な話だ。
精神的にはますます自由になっている。
これからどうなっていくのだろう。

プロセスワークセンターを卒業したらどうしようかな、と考える。
その頃には31か32くらいかな。どこかの大学で博士課程をとろうか。
自由でいたい。学位などで武装するために、数年も棒に振りたくない。
僕が探しているものは実践的な技術と経験、それ以外の何物でもない。博士号など何でもない。
このままプロセスワーク関係者としてやっていくもよいだろう。いずれもっと有名になるのだから。
お金はどうやって稼ごう。一度お金持ちになってみたい。でも、時間に束縛されたくないから、なんとか今のペースでやりながらお金をもっと稼ぐ方法を考えなければならない。

本を出版したい。でもそれには本当の技術と体験が必要だ。誰かの為ではない、お金の為でもない、名声のためでもない、自分のために出版するのだ。そして十分なお金とある程度評価してもらいたい。そんな欲望を押さえ込むつもりもない。僕が通るべき道だ。

そんなことができるのか?
不安になる。
でもいつも未来は今ここにある。
未来はいつも決まっている。僕らはただ歩み出すだけだ。未来には平行した未来がいっぱいあるけれど、それはもう決まっているのだ。今ここで。
ただ今をしっかり生きよう。過去と今と未来はいつもここにある。
これは他人から借用した言葉でも、頭で言っているだけの言葉でもない。しっかりと感じる。

世界や私というはの結局、この閃きでしかないのだ。それは本当は「今ここ」でもない。それは便宜上の言葉に過ぎない。
この経験という瞬間。それだけが本当に在るものなのだ。この瞬間がいかなる深みを持っていたとしても、そうなのだ。
今ここに繋がっているように感じるもの。それはこの瞬間の沿革に過ぎない。よく観察するとそれは端っこの方に向けてだんだん薄れていくのがわかる。そう、それっきりなのだ。

この感覚をこれからの一時帰国の際に忘れないようにできるだろうか?
これは小さな挑戦だ。
でも、きっと大丈夫に違いないのだ。

2005年06月27日(月) 18時09分56秒

「身体障害者」の人と話して

テーマ:自分への覚え書き
コンタクトインプロビゼーションをやっていると、「身体障害者」(Different Ability と言いたいのだが、日本語でなんと訳されているのかわからないので、この言葉を使います。)の人と会う機会も多く。そこからいろいろなことを学ぶ。

ある人と話していたら、どこかで声の小ささ(声が出せないので)や咳をしなければならないのでその聞き取りにくさにイライラ、またはわかるまで何度も繰り返し言ってもらうことに申し訳なく思っている自分に気づく。

でも、それは自分の問題なのであって、彼らの問題ではないし、ましてや彼らが「障害者」ではないということに気づく。
僕はその人とコミュニケーションをとっているのであって、なぜその人のコミュニケーションに合わせることができないのだろう?(もちろん「障害者」と呼ばれる相手は何倍も僕のコミュニケーションスタイルに合わせる努力をしている。)
問題は僕自身だった。

イライラするのは、僕がある話のテンポを勝手に想像しているからだし、何か焦っているからだ。
繰り返してもらうことへの悪気は、自分が繰り返して言うことを何度も要求されるとき、恥ずかしさを感じるからだ。(声が小さいのがまるで悪いことのように感じているから。)
僕はそんな自分の世界のなかで相手とコミュニケーションした気になっていたのだろう。でも、そこに本当の相手はいない。

コミュニケーションとは、ある意味できっと、今その瞬間に二人または多数の人の間で起っていることを大事にすることに違いない。それはただの情報のやりとりではないし、ただ話しをするためでもない。
コミュニケーション自体が大事なのだと思う。
僕は人とコミュニケーションすることはあまり得意ではないので、こういうことは気づかなかった。案外分かっている人というのは多いに違いない。
大事なのは、相手ともっとコミュニケートしたいという気持ち。なんとしてでも相手をもっと知りたいという気持ち。

今まで、「相手をもっと知りたい」という言葉に対して、否定的な反応をしていた。他人のことなど分かるはずがない、と。でも、それはいいのだ。そういうことこそが問題ではないのだ。コミュニケーションとは、場であり、気持ちなのだ。「相手をもっと知る」とは、相手の存在にもっと触れるということなのであって、情報を知ることではない。

個人的には大きな問題のとっかかりが出来たように思う。
出会いに感謝。

2005年06月27日(月) 18時07分11秒

コミュニケーションへの意志

テーマ:自分への覚え書き
アメリカに来て、英語や文化差で随分苦労しているのだが、結局人と人を繋ぐきっかけになるものは、技術そのものより「コミュニケーションしたい。」という意志なのだろうと思った。

意志がなければ歩み寄りもできぬ。


2005年06月25日(土) 20時52分15秒

やりのこしたこと

テーマ:自分への覚え書き
あと数ヶ月で死ぬとしたら?

僕は、あつことたまと一緒に時間を過ごしたいと思う。- 一緒にいてもっとも幸せに感じる存在。
いっせいと福井さんと人生について笑って話していたいと思う。- 歩む道は違うがそれぞれ人生を笑い飛ばせる力を持った人たち。
あと、じろさんとも話してたいかな。- 僕の会ったなかでもっとも好奇心が強い人の一人。

プロセスワークは続ける。
武術も続ける。
コンタクトインプロビゼーションも踊っていたいと思う。
あとは起っていることをもっとじっくり感じていたいと思う。
日向でぬくぬくとしながら、風の音をききながら、一瞬一瞬を満喫したいと思う。

こんなもんだ。そうやって考えるといい人生を送っている。
とくにやりのこしたことなんてない。
まだやってないけど、いつかやりたいなんて思っていることなんてない。
もし長く生きたとしても、すべては今やっていることの延長線上にしかない。


死ぬことをいつも考えていたい。
死というのは、本質的に生という視点からしか存在しないのだから。死とは生を映し出す鏡としての言葉に過ぎないのだから。
死ぬことを考えると、自分の生が浮き立つ。自分の持っている変なわだかまりが消える。いったい何を僕はそんなにこだわっていたのだろう。
自分の思っていることが、何が足りないのか、何ができるのか、何が楽しいのか、何が無駄なのか、はっきりする。
そう、僕は自分にとって大事なもの以外を求めてもいない。でも、そのようにはっきりと行動もしていないし、時間もとっていないし、何にもならない余計なこともしている。

今起ろうとしている新しい人間関係のなかでも、僕はなんて時間を無駄にしているのだろう。
明日がある、次こそは、そのうち、なんて思いながら、時機を期待している。
もちろんいつかはそういう時がくるにしても、なにも起ることをわざわざ先延ばしにしなくてもいいのだ。
結局、一期一会なのだろう。

明日死んでもいいように、決して死ぬときに「~しておけばよかった。」などということのないように、いつも生きていたい。
自分がしたこと、自分に起ったことを、いっぱいに感じていたい。
与えられていたものを見過ごすことのないよう、十分に感じていたい。
2005年06月24日(金) 16時50分17秒

正と負のフィードバック

テーマ:自分への覚え書き
武術の練習から考えたが、物事には正と負のフィードバックがあるのかもしれない。

身体というのは、本来全てのパーツが連動している。
しかし、部分をバラバラに無理に動かしていくと、身体がだんだん固まって、ますます全体として動かなくなり、より多くの力でより小さい仕事しかできなくなっていく。
逆に、全体的に動かそうと練習を積んでいけば、それによって緊張して筋肉はだんだんほぐれ、より多くの筋肉が一つの動作のときに連動できるようになる。

物事は全てつながっているから、ある一つの物事の自然の流れ、ありのままの流れを妨げるとそれによって他のものが連鎖的に妨害され、最終的に負のフィードバックが起ってくる。
「正」でも「負」でもないのかもしれないが、物事はある方向に向かうと修正するのが難しく、連鎖反応的に加速していくのかもしれない。
心理的なプロセスでも同じで、一つのプロセスに対して無理をすると、それによってどんどんある方向へと煮詰まっていく。そして最終的にはもつれて一つの定位体と見られる状態、つまりコンプレックスへ変わっていくのだろうか。

静かな水面に雫一滴、波紋を生み出される映像が浮かんだ。


2005年06月17日(金) 17時05分50秒

未来を見据えて

テーマ:自分への覚え書き
今日はテレビで、人口問題の話をみました。
日本の高齢化の問題も取り上げられていて、随分考えさせられた。
このままの生活ではいられないのだな、と思った。


人口問題自体について書こうと思っていたが、なんとなくつけたタイトルに触発されて少し一般的な話題に変えようと思う。

僕らはいつも社会の、そして世界の問題と繋がっていて、本当は「今」すぐになにかをしなきゃならない。
でも、イヤだなあ、とか、逃げたいなあ、とか、めんどくさいなあ、とかまあ自分のことじゃないからいいか、とか、まだ先だから、、、、とかいって問題に直面しようとしない。
これは一体どういうことだろうか?

人間は根本的に馬鹿なのかもしれない。
自分の未来など、もともと大して考えることなんてできない生き物なのかもしれない。
西洋社会は、未来のために、「理性」という理想を掲げて何百年とがんばってきたはずだった。しかしまだ問題は片付いていないから、「理性」の時代は決して終わりではないのだ。
最近は、僕も一部そうだが、再び「感覚」の時代へと帰ろうとしている。なぜなら「理性」が人生を人から切り離してしまっているからだ。

私たちには「理性」と「感覚」の両方が与えられた。なのにちっとも有効に活用できていない。
私たちは自分の今をしっかりと見据えることも、
未来をしっかりと見据えることもできていない。
どちらも中途半端だ。
今を見るべき時には未来のことを語り、未来のことを語るべき時には今のことを語る。
それで生活や世界はますます悪くなる以外起りえようがないのに、なぜ私たちはその道を選ぶのか?

今だけに焦点を絞ることは良いことだろう。そこから幸せとは何かが分かる。
未来に焦点を絞ることは良いことだ。そこから幸せをつくることができる。
でも、みんななぜ焦点をどこにも当てないのだろう?
私たちは、明日のために行動できないほど生活の危機に直面しているのだろうか?
それとも私たちは明日の苦しみというのが想像もできないほど豊かすぎるのだろうか?


僕の考えたこと、言いたいことはこれだけだ。
僕も僕なりの答えを見つけ、行動に移さなければならない。一人一人が自分の答えを見付けるべきだろう。
ただ「気づき」さえあれば物事は良くなるというのは、案外あまりにも僕らの行動が霧中にあるのが理由なのかもしれない。



2005年06月16日(木) 16時24分10秒

人間関係の核とは?

テーマ:自分への覚え書き
人間関係のことをいろいろワークしていると、相手に見るものはほとんど自分のものだと思う。

相手に求めることは実は自分がしたいこと。
理想の相手は実は自分自身。
相手を非難することは実は嫌っている自分自身の部分。

じゃあ、人間関係って必要なのだろうか?
なぜ我々は人間関係を誰かとつくり、育てていくのか?
人はなぜ出会い、ある特定の人に特別惹かれるのだろう?

そこに理由はない。
理屈ではない、というほうが正しいかもしれない。
人間関係は、上に書いた様々なことが絡んでいるとはいえ、その相手との間で起るスパークのようなものによって起こされる。
原因を越えたなにかの繋がり。

あなたは時々、全く頭で考えれば理由はわからないのにつきあっている人がいると、好きになってしまった人がいるのに気づくだろう。
その原因というのは本当にわからない。
だからこそ、起り得た繋がりを大事にしたい。

2005年06月07日(火) 14時17分48秒

良い教師 良い学生

テーマ:自分への覚え書き
今、「ハーバード・ケネディスクールでは何をどう教えているか」を読んでいる。

この本を読んでいて気づいたことは、
結局良い学生というのは、よい教師がつくるということだ。

いくら脳みそのパフォーマンスが高くても、良い教育を与えられなければ、それは実を為さない、ということ。

全く分野が異なっていても、良い教師というのは非常に魅力的であり、その学問は私たちを魅了する。
出会う教師と与えられる教育は、その学生の未来を決定すると言っても良い。
もちろん親も、周りの環境も同然だ。
良い「教師」に出会うこと、そしてその指南を受けることは、きっとその学生の人生において大きな違いを為すのだ。

武術の世界でも、良い師を見つけることがもっとも重要だと言われる。
こういうことは昔から良く理解されていたことなのだなと思う。

話は全く変わるが、
最近、米国(「アメリカ」という呼び名は明らかに適切ではないので、米国と呼ぶ。)で勉強をする者を米国に洗脳された者と呼ぶ人が増えつつあるように思うが、この本を読む限り、そういうことをいっているから何も変えることができないのだと感じる。
ケネディースクールで教えられていることは、決して偏っているようには思えない。様々な文化的な視点がとても公平に扱われているように感じる。
もちろん、ハーバード自体が情報処理及び思索における脳のパフォーマンス「エリート」の世界に留まっているという問題はあるにしても、それは決して米国が思想的な主導権を握っていることを意味しない。
最近、以前に比べれば偏りが増しているにせよ、思想的にオープンで、才能さえあれば認められるという文化はやはり米国の強みである。

最近流行っている米国陰謀論のもっともくだらない点は、たとえ過去に実際に米国に責任があったにしろ、責任を私たち自らには求めず、ならば今なにをすべきかを語らない点にある。(★)
第2次世界大戦が終わってもう60年経つ。私たち日本人は本当に米国の洗脳のもとに60年も暮らしてきたのだろうか?
そんなことは不可能なのである。
私たちは努力しなかった。問題があるにも関わらず自分を見つめなかった。動こうとしなかった。それが全ての問題なのだ。
「ソフトパワー」という言葉の重要性は、実は何かをするためには市民の心理や意見がどうしても重要であることを(逆説的に?)意味している。
世界は、私たちが本当望んで動けば変わるのだ。わずか少数の権力者の力によってのみ操作され得るものではもうないのだ。
権力者は私たちの曖昧でいい加減な態度を狙う。つまり、それは私たちが無意識的に望んだものでもあり、世界である。それは決して権力者のみの責任ではない。
世界は実は私たち自身の姿の反映だ。
それは決して一握りの人間に帰される問題ではない。


★ 日本文化の特性(日本独自のものとは思わないが、少なくとも欧米とは違う。)として非常に面白いことに、日本では責任をとることと、責任を押し付けることを非常に避ける。
その特性はなぜユング派が日本では主流派になり得たのかと非常に関係していると思う。
下の記事でも書いたように、日本文化圏で育った人は心のどこかで自分のやっていることは自分がやっていることではないと感じているのではないだろうか。自分がやっていることは、自分がやっていることであると同時に、何かが自分にさせていることでもあるのだ。
個人的に、ゲシュタルト心理学のセラピーを受けた時に妙な負担を感じた。なぜなら自分の行動に関する責任を全部自分に押し付けられるように感じるからだ。プロセスワークのセッションではすでに90回以上受けているが、一度も感じたことがない感覚だ。
実際、日本では責任の所在は非常に頻繁に曖昧になる。
もちろんこれはなぜ日本ではデモクラシーが根付かないかという原因でもあると思う。
この特性はどこから来るのか分からないが、とにかく文化的違いというのは面白いものである。

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