2005年08月31日(水) 10時47分57秒

欲望と感謝

テーマ:自分への覚え書き

求めればどれだけ持っていてもキリがないということに気づく。


逆に手元を見れば、いくらでももっているということに気づくのである。

2005年08月31日(水) 05時23分01秒

宇宙の夢のお話

テーマ:自然論-世界や人をもっと知りたい人へ

僕のいう宇宙の夢、または単に夢、という言葉についてここで説明しておきたい。僕はこの言葉をよく使うから。

同じ内容を何度も繰り返し書く。それでなんとなく感じを掴んで頂けると嬉しい。


とても不思議なものだと思うのである。

ある他人の書庫を眺めると、僕がああこいつは大したことをいってないよ、と思ってる作家・思想家の本がずらりと並んでいるのである。

それだけならんでいると分かることは一つ。

ああ、彼らを好きになる一つの流れがある、と。


僕が、実はあまり大したことをいってないなあ、と思う人たちは、一見深層にふれているような話題に触れていながら頭で考えすぎで、そのために深みに足を踏み込むことがなかったであろう人たちだ。

彼らの理由はわからない。

深みが見えないのか、先にいくことを怖れているのか(そういう深みは大概にしてオカルトっぽくなるからだ。)、見えるけれど先に行く能力がないのか。

でも、それにしても、その先にまだまだ先がある可能性を考慮してかせずなのかはわからないが、わかっているような感じで書く態度がどうにも理解できないのだった。

しかし、そういう人ばかりに限ってある人は好きだ、凄いという。


こういうことってどんな物事にもある。

そういうとき、僕はあらかじめ存在しているその人たちの流れをみる。

他の言い方でいえば世界観、尺度、視点、タイプ。


僕はかれらは同じ宇宙の夢の一部なのだと思っている。

ある何かを成し遂げようと同じ方向に向かっている人々。たとえ肉体として誰かがいなくなったとしても、変わったとしても、その先を、同じ夢をみていた人がそれを継いでいくものだ。

歴史というのはそうやってできていく側面がどうしてもある。そのために、それは一時期「ミーム」と呼ばれたものであろうと思う。

あらかじめ存在しているようにしか考えられないある方向性。そこから何が発生してくるかはまだ見えない。でも繋がっているもの。創造されるものは、まだ無いが、見える人には見えている。すでにあるもの。


武術のお話。武術では良い師匠と出会うことも重要なことだといわれている。

では、どうやって何も知らない人が良い師匠を見つけることができるだろう?

だから、かなり多くの人は、ただやみくもに情報誌や他人の言葉から「良い」といわれている人のもとにゆき、ただ闇雲にその先生を信じ、練習するのであるが、

そういうとき、私たちはどこかで「強さ」「達人」などのイメージと会話をしている。

そして、微細ではあるのだが、常に確実に、あらゆる決断を迫られる瞬間瞬間にそのイメージは本人の判断に影響を与えている。

もちろんそのイメージは思い込みであることもある。しかし、ふと、鼻先をかすめる香りのように、ふわりと脳裏をよぎるなにか神話的なイメージがある。

それは消えるものではない。人は人生の中でつねにその像を追い求める。見失うと、というか拒否すると、その人はずっと心のどこかでそれを追い続けることとなる。

この像に正対して向き合い一歩でも近づこうとするとき、人は力を得る。


それは子供の時にみた夢である場合も多い。もちろん象徴的な像を借りているだろうが。

それは遠くに見える何か。

すごく身近でありながら、すごく遠いもの。


自分が、自分である夢に成りえた人は、幸せである。



では、それを何故僕は「宇宙の夢」と呼ぶのか。

それは、起る構造が、いわゆる普通の夢と非常にそっくりである(そしておそらく同じ)からだ。

ただ「宇宙の」というのには、根拠は無い。別に「地球の~」でも「神の~」でも構わないのだが、僕が「宇宙の~」と呼ぶのが好きなだけであることは断っておく。

この「夢」というのはイメージそのものではない。イメージはそれを生み出している「力」のその瞬間の写し身にしか過ぎない。人もまた然りである。ただ期間の長さに違いはある。

人や、また物自体というのは、ある瞬間における「夢」または「力」の像でしかない。そのときに可能であった結果でしかない。人やものというのは型であり、夢はそれに姿を映し、そして通り過ぎていく。

夢のなかの像は、その夢を作り出す力そのものではない。力には姿がない。

人やものというのは、ある独特のスペクトルをもった鏡のようなものでもあり、そこにその独自性がある。それぞれの反射可能なスペクトルによって、鏡は様々な姿かたちを映し出す。しかし、鏡の中の像は結局光でしかないように、その像自体なわけではない。


この「力」または「力動」こそが自然であり、「像」は結果である。

力に名前をつけてしまうことによって、それは名前という像を帯びてしまいそれ自体ではなくなってしまう。だから本当はなんと呼ぶこともできない。

だが、人間は結果しか感知できないから、それを、その「力」自体(こう書いている自体で矛盾しているが、便宜的に。)を知ることは出来ない。


僕らが見ている夢は、宇宙の夢であり、それはどこに向かおうとしているのか。

僕はそれにとても魅了されるのである。

2005年08月28日(日) 16時36分26秒

死の淵に立って

テーマ:自分への覚え書き
生と死の境界。
極限の、ギリギリの状態。
一つ間違えれば命を失う。
そんな瞬間に人はもっともエネルギーを発する。
その状態を美しいと思う。

僕はそんなところで仕事がしたい。
ギリギリのところ。

そしてそんな仕事が好きだ。
針の上のような限界点で、針の先のように繊細な研ぎ澄まされた感覚で作られたもの、行われる仕事。

僕が武術をやっているのはきっとそんなところに理由がある。
ギリギリの感覚。
本当はそれを望んでいるのだ。実戦の中での、一瞬が永遠にも感じる時間のなかで、極微細な決定が全てを決めるようなそんな瞬間。
興奮。

人はそういった自分という夢を生きるのだ。その夢を生きるときもっともエネルギーが生まれる。

その夢を僕は宇宙の夢と呼ぶ。それは「僕」という何かを通して顕在してこようとする夢。

人は生まれながらにして尺度を持っている。何かを評価する基準。人生を決める基準。
人はなぜか生まれながらにして判断基準をしっている。それはつまり、あらかじめ「知っている」ということに他ならない。
僕はそれをその人の夢、と呼ぶ。なぜなら、その基準の頂点とは、その人が成るべき所だからだ。
その尺度を持っている人は、自分以外にはどこにもいない。正確な意味では。
ただその頂点に行ける、またはその尺度が分かるのは、ただ自分をおいて他にいない。
なぜ、どこからその尺度は現れたのだろう?

それは「美」または「真実」、「夢」、「成功」、「善」と様々な言葉で呼ばれるだろう。
そしてそれはその人に最も力を与えているものであるはずだ。


僕は、生と死の境界にいて、そこで全力で命を燃やしているそんな人たちと会い、そんな人たちのために仕事をしたいと思う。
そしてそんな仕事をするだろう。

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